三浦甲子二

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三浦甲子二(みうら きねじ、1924年大正13年)6月20日 - 1985年昭和60年)5月10日[1])は、日本のジャーナリストで、元テレビ朝日専務

来歴・人物[編集]

父親は長崎選出の代議士・今里準太郎の息子[2]

慶應義塾大学法学部在学中の1946年2月に、朝日新聞東京本社業務局発送部にアルバイトとして入る。同年3月、同学部卒業。発送部では労働組合運動に参加し、広岡知男が東京本社労組委員長のとき、組合を統括する4人の最高闘争委員の1人となる[3]。同年10月の新聞ゼネストの際、スト決行阻止に多大の貢献をし、広岡の同志となる[4][5]1951年まで労組幹部を務めた後、東京本社の広岡編集局長に記者に抜擢される。初任地は長野支局で、同支局時代、軽井沢に別荘を持つ村山社主家の村山長挙・藤子夫妻に可愛がられ、村山家に直にいつでも電話をかけて話の出来る平社員となる[6][7]。次の任地は横浜支局で、同支局時代に河野一郎と深く結ぶようになり、やがて河野の側近となる[8][9]。当時の朝日新聞政治部では、元朝日新聞社主筆緒方竹虎吉田茂政権の副総理であるため、吉田側の情報は集めることができたが、吉田と対立する鳩山一郎側の情報に乏しく、河野を通して鳩山サイドに取材できる唯一の朝日新聞記者であることから、ノンキャリアから朝日のエリートコースである政治部記者に異例の抜擢を受け、「河野番」となった[10]

1960年に村山長挙が社長に復帰して信夫韓一郎専務取締役が辞任、広岡取締役・東京本社編集局長が西部本社代表に左遷されると、朝日では販売畑の常務取締役・東京本社業務局長永井大三がナンバー・ツー、取締役・東京本社編集局長木村照彦がナンバー・スリーとなった。三浦は発送部時代から永井常務と付き合いがあり、大阪本社育ちの木村編集局長は東京の政財界に暗く、主要な人事は政治部次長の三浦に相談した。三浦はこれを利用して三浦派を形成し、ライバルを疎外する人事を進めて朝日新聞最強の実力者となり、“私設常務”と言われた[11][12]。一方、三浦は常務取締役・論説主幹笠信太郎とは不仲で、1962年に笠が辞任したときには「おれが笠を切れ、と根まわししたんだ」と言っていた[13]

しかし1963年に朝日新聞社で起きた社内紛争である村山事件で、永井常務が村山社主家に解任され、事件後に実権を握った広岡代表取締役は村山社主家と木村を朝日の経営から追放したため、三浦は社内の後ろ盾となっていた村山、永井、木村を一気に失った。三浦は広岡との関係は修復したが、論説主幹森恭三ら反木村派の攻撃は三浦に集中して広岡も三浦をかばいきれず、1965年3月に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)取締役となって朝日を退社した[14]

その後、三浦はテレビ朝日で専務となり、メディア界で「テレ朝の天皇」の異名をとる存在となった。また河野一郎の死後は、河野派の事実上の継承者となった中曽根康弘と密接な関係にあった。 1977年モスクワ五輪の独占放送権の獲得に成功。(ソ連アフガニスタン侵攻に抗議して、日本代表は同五輪をボイコットした。)

1965年、朝日新聞や日本経済新聞が出資する日本教育テレビ(NET、のちのテレビ朝日)の経営権を巡る内紛が生じた際、同社OBの橋本登美三郎自民党総務会長と共に奔走、田中角栄自民党幹事長と密接に連絡を取り合い、同社株の買い占めを進め、69年にNETを、当時経営難だった12チャンネルと共に一般局化して、テレビ朝日に支配権を委ねさせる裁定を田中に出させることに成功した。

投資ジャーナル事件1985年)を引き起こした中江滋樹と親交が厚く[15]、事件に巻き込まれた歌手・倉田まり子をスカウトした芸能事務所は、三浦が実質的経営者だったと言われている[16]

経営難に陥っていた向上高校の経営再建に尽力した。

KGBとの関係[編集]

1982年9月、ソ連共産党国際部副部長として対日情報工作活動を行っていたイワン・コワレンコが、三浦の仲介で、衆議院議員中川一郎を親ソ派に取り込むための工作活動として極秘裏に接触、その際、秘密接触においては三浦の非公式ルートを活用することが合意された[17]

1982年レフチェンコ事件では、レフチェンコ・メモに三浦の名があり(コードネームは「ムーヒン」)、ソ連のエージェントとしての活動が記録されていた。1983年1月9日に中川一郎が変死した時、その5日後に三浦はKGBに「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と報告していたことが判明している[18]

魚住昭は、池田勇人退陣(1964年10月)の頃に「三浦の威光は朝日の社内を圧倒していた」としているが[19]、前述のように、この頃、三浦は村山事件で社内の後ろ盾を失い、失脚の危機に立たされていた。魚住は、その理由について「後に社長になる広岡知男に引き立てられ、村山長挙社主の夫人・於藤にもかわいがられていたからだ」としているが[20]、村山事件後の朝日で最も深刻だったのが広岡と村山藤子の対立だった。また、発送部のアルバイトから労組幹部としての活動実績によって記者に抜擢された三浦について、筑紫哲也の言葉として「彼にはナベツネさんのような深刻な左翼体験もありません」と主張した[21]

脚注[編集]

  1. ^ 『「現代物故者事典」総索引(昭和元年~平成23年) 1 政治・経済・社会篇』(日外アソシエーツ) (収録事典は『ジャパンWHO was WHO - 物故事典 1983~1987』(日外アソシエーツ))
  2. ^ 実相・今里広記(6)
  3. ^ 志賀信夫「評伝 新テレビ時代を創る資質」(『友よ まず一献 三浦甲子二さん追悼』704プロジェクト、1986年)70頁。
  4. ^ 桃山栄太郎「続・現代虚人列伝 三浦甲子二/喧嘩師と見えて遊泳もうまい“六本木の法皇”」(『現代の眼』1977年9月号)173頁。
  5. ^ 佐々克明「“朝日の角サン”三浦甲子二の戦死」(『諸君!』1985年8月号)214頁。
  6. ^ 桃山「続・現代虚人列伝 三浦甲子二」173頁。
  7. ^ 佐々「“朝日の角サン”三浦甲子二の戦死」214-215頁。
  8. ^ 桃山「続・現代虚人列伝 三浦甲子二」173頁。
  9. ^ 渡邉恒雄「三浦君の想い出」(『友よ まず一献』)62頁。
  10. ^ 桃山「続・現代虚人列伝 三浦甲子二」173頁。
  11. ^ 桃山「続・現代虚人列伝 三浦甲子二」174-175頁。
  12. ^ 佐々「“朝日の角サン”三浦甲子二の戦死」216-217頁。
  13. ^ 佐々「“朝日の角サン”三浦甲子二の戦死」216頁。
  14. ^ 桃山「続・現代虚人列伝 三浦甲子二」176頁。
  15. ^ 私の経歴|中江滋樹の金と女と相場人生
  16. ^ 倉田まり子事件の真相 -その1
  17. ^ 『対日工作の回想』(イワン・コワレンコ著)
  18. ^ 権力と緊張関係を保ちつつ監視する
  19. ^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社、2000年)216頁。
  20. ^ 同前。
  21. ^ 同前、217頁。

関連[編集]