池辺三山
池辺 吉太郎 | |
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肖像写真 | |
| 生誕 |
1864年3月12日(文久4年2月5日) 肥後国 |
| 死没 | 1912年(明治45年)2月28日(47歳) |
| 出身校 | 慶應義塾 |
| 職業 | ジャーナリスト |
池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年2月5日)[1]- 1912年(明治45年)2月28日)は、明治期の日本のジャーナリスト。本名は吉太郎[1]、字は任道、諱は重遠、別号に鉄崑崙、無字庵主人、木生など。日本のジャーナリストの先駆けと言われ、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された[2]。
人物・生涯
[編集]肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ[1]。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる[3]。池辺家は禄二百石の熊本藩士で代々学者の家系だった。1872年(明治5年) 父池辺吉十郎と共に玉名市横島に一家転居。吉十郎は藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、1877年(明治10年)に処刑されるという非運に見舞われた[1]。吉太郎が14歳の時であり、それからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。
少年時代から文墨に親しみ、十四、五歳の時から詩文も巧みで、父の友人である朱子学の碩学・国友古照軒の門で漢学を修め、父の親友である鎌田景弼の援助で十八歳の時に上京して中村敬宇の同人社で学ぶ[4]。同人社では、のちの刑事検察の大御所である小林芳郎と出会う。小林の方が7歳ほど年上であった[5]。のち慶應義塾に学んだが、鎌田が佐賀県令に任命されると中退して佐藤潤象、高橋長秋と共に佐賀県の役人となる[6][7]。
1888年(明治21年)鎌田が病没すると官吏を辞して、東海散士芝四朗と共に大阪で『経世評論』を創刊して主筆を務め、条約改正反対を唱え、論陣を張った。1892年(明治25年)師・国友古照軒の息子である国友重章の推薦で、陸羯南が主宰していた日本新聞の客員となる。ここで同郷の鳥居素川と知り合う。当時保守主義の日本新聞と、同郷熊本出身の徳富蘇峰が率いる進歩主義の国民新聞が相対立して論戦を張っていた。
1892年(明治25年)旧藩主・細川家の細川護成がフランスへ留学することとなり、旧藩士の子弟からご学友が選ばれることとなり、衆望一致して三山が選ばれ随伴して留学する[1]。ヨーロッパ5カ国を訪問、。鉄崑崙の筆名で新聞「日本」に特別通信した「巴里通信」が評判を呼んだ[1]。特に当時の日本外交の最重要課題だった条約改正問題について、独自の主張をするのではなく、当時のイギリスやフランスなどでの外交界で、日本が清と同盟を組んで、アジアに一大勢力圏を作るのではないかと話題になっているなど[8]、真実の報道、解説、批判に重きを置く文章が光彩を放った[9]。
1896年(明治29年)に帰国すると、大阪朝日新聞の主筆だった高橋健三が、陸羯南の推挙によって第2次松方内閣の内閣書記官長に任じられることになり、高橋の推挙で大阪朝日新聞に後任の主筆として入社[1]、1898年(明治29年)東京朝日新聞の主筆となり、大阪朝日新聞主筆の後任に同郷の弟分である鳥居素川を推薦する[1]。池辺三山と鳥居素川の関係は、西郷隆盛と桐野利秋を連想させる関係だと言われた[10]。 1904年(明治37年)の日露戦争開戦においては政府の弱腰を叩き、1905年(明治38年)の日露終戦後は 日露講和条約(ポーツマス条約)に飽き足らずと第1次桂内閣を攻撃し、東京朝日(15日)、大阪朝日ともに発行停止を命じられた[11]。 平明、達意、重厚な論調で日本外交の大事件でも公明正大で高い識見の言論を展開して、政治や思想、文芸など多方面に影響を与え、朝日新聞隆盛の礎を築いた一人となった。
『草枕』を読んで感心した鳥居素川の推薦を受けて夏目漱石や、二葉亭四迷を入社させ[1]、1906年(明治39年)10月二葉亭四迷が小説『其面影』を連載、夏目漱石が 1907年(明治40年)6月から小説『虞美人草』を連載、朝日新聞の権威を高めるとともに、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した。
1907年(明治40年)日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、現地ルポを寄稿したことで弓削田精一が推薦した渋川玄耳を東京朝日新聞へスカウトする。清浦奎吾が推薦した牧野輝智(のち朝日新聞編集主幹、経済学博士)を東京朝日新聞社へ入社させるなど、のちの大記者たちに多大な影響を与えた[12]。 1911年(明治44年)の夏、熊本から上京した早稲田大学学生で新聞記者を志望した 伊豆富人(のち熊本日日新聞初代社長)に、「新聞記者は名利の外に超越して、利益で釣っても動かず、力で制圧しようとしても屈せぬ信念を持って正義を貫き、国家社会を指導するものだ。もし少しでも名利栄達を願う心があるならば、新聞記者になるのをやめたほうがいい。」と諭して亡くなるまで指導した[13]。東京朝日の主筆として絶大な権限を持っていた三山だが、新聞の通俗化や経営効率を重視し始めた村山龍平ら大阪本社の経営陣との間に深い溝が生じたことで、自分の部下である記者たちが不当な扱いを受けることに抗議、心血を注いでいた「文藝欄」の廃止決定を機に1911年(明治44年)の秋に東京朝日新聞を退職する。
1912年(明治45年)に母・世喜が亡くなると、三山も同年2月28日に後を追うように心臓発作で亡くなった[1]。享年49。親交があった天田愚庵が「三慈堂」と書いた額を贈ったほど孝心深かった三山は、母の喪に服すために肉食を断ったことで、持病の脚気を悪化させたことが原因と言われる[14]。
鳥居素川は、「池辺三山兄逝く。われ慟哭せざらんと欲するも得んや。」ではじまる『三山師兄を哭す』という題の追悼文を東京朝日新聞に掲載する。 欧州から帰国したばかりの素川は、20年以上にわたり公私ともに指導を受けた三山を「兄」「師」「神」と呼び、その死に対して抑えきれない悲嘆を表明、三山から「1ヶ月後に再会しよう」と約束され、三山自身の書簡から健康を信じていたが、その矢先に届いた訃報に、大きな衝撃を記した。そして、三山を、世間の評判に左右されない「超人間の境界」にいる人物とし、宮本武蔵などの偉人に例えてその非凡さを称え、読者に大きな反響を呼んだ[15][16]。
1928年(昭和3年)に同県人の古城貞吉、狩野直喜(京都帝国大学教授)、鳥居素川、中島為喜の四人が中心となって、三山の詩、画、文章を編集して、『三山遺芳』を刊行した[17]。
鳥居素川の追悼文
[編集]池辺三山兄逝く、われ慟哭せざらんと欲するも得んや。われ兄に師事する二十有余年、公に私に負ふ所多く、私かに兄とし、師とし、神とし、以て今日に至る。而して今永別す、われ慟哭せざらんと欲するも得んや。
一月前、われ欧土より帰るや、横浜に於て先づ兄の太欄人(母)の訃に接す。奔りて哀を処ち、一年相別の情を叙し、悲しみ且つ慰む。蓋し我れ亦母の喪に服し、二年後の今日、心神未だ旧に復せず、互に相憐み相察し、雙涙の滂沱たるものあればなり。われ国に帰るや、先づ墓を展せんと欲し、長く京に留まる能はず、匆々にして去る。兄残り惜しきもの、如く、われを駐めて何日再び上京するやと問はる。われ欧土にありて常に楽しまず、帰りて墓を展するや、山中若くは海浜に少時心身を養はんことを期す。然れども成るべく速かに上京すべしといへば、兄曰く先づ一箇月後かと。
余は九州の某地に潜み、人間を避け松風を聴き、唯兄と書簡の往復を為す。二月十九日附、兄の手愉に曰く「其後一家無事共段は御安心下されたく候、小生も運動を力め、健康よろしくなり候」と。その段は安心もせん、他の段はと今更に怪まる。余は兄の健康よろしきとあるを空頼みにし、独り優悠心神を養ひ、大阪に帰らば再び上京すべきを心痛かに期せり。
然るに先月二十八日の夜に至り、至急電は余の夢を驚かし、二電、三電、四電、兄の許を齋らす。夢か夢にあらず、真か真にあらず、否真に相違なし。余は胸痛み気塞がる。母の死に由りて一大打撃を被りたる余の心神は、再び兄の死に由りて一大打撃を被り、観転寝ぬる能はず、翌朝を以て発程京に上る。車中児女の体を為し、幾たびか袖を満ほす。嗚呼世は淋しく心細くなれり。
頼るに余の操風の業に従ふ、全く兄の後を追ひ、掲南陸射に手引せられたるなり。少小遠遊の志あり、而して果さず。兄に延かれて朝日新聞に入り、遂に遠遊を果すを得、全く兄と社との賜なり。昨年再び余の欧土に遊ぶや、兄太だ悦ばざるも、余の心神の平かならざるを見、強ひて之を賛成し、且つ余を成むるものありき。余彼の地に於て、突然兄の朝日新聞を去りしを聞き、余は太だ驚かざるも陰に兄の健康を気遣ひ、独り彼地に優悠たるべきにあらずとし、予定を早め帰国するに決し、態と兄に告げずして彼の地を発せり。兄何くよりか余の急帰を聞き、行違ひに一書を裁し、寧ろ余に予定通り滞欧せんことを勧め給へり。余其の書を帰りて後接手せり。
今にして思ふ、若し余此の書を彼の地にて披見せば、或は尚滞欧し、遂に兄に逢ふ能はざりしよと。兄に逢ふて相語れば、油然として兄の如く、厳乎として師の如く、幽渺として神の如し。兄世の毀誉に関せず、真に超人間の境界たり。余益々兄の高きを知り、潔きを知り、大なるを知り、其の世に容れられざる何ぞ憂へん、其の朝日を去るも兄に於て何かあらん。
天地間一箇の怪物あり、池辺吉太郎と言ふ。其の出処行蔵に於て一厘の増減なく、黙するも猶雷声し、隠る、も猶大に顕はる。昔時我が郷に宮本武蔵あり、状貌魁偉終世浴せず、梳けづらず、衣長うして脚を過ぎ、萬づ依怙の心なく、身に楽をたくまず、一生の間慾心なく、物に数奇好みなく、常に身を捨て義を取り、而かも諸芸に堪能にして、武技は勿論、文字絵画彫刻刀工、一として神に入らざるはなく、人仰いで以て神人と為す。後、林藤次先生なるものあり、ぜ願垂れて鰐の如く、神備仏の三学に達し、傍ら蘭学をも漁り、婦女を近づけず、火食を絶ち、神と語り、名利を忘れ世を捨て、後之く所を知らず、人之を老時の亜(老子を次ぐもの。習うもの)と為す。先生実に神風連の祖たり。池辺三山兄、豊聊か此の二神人に似たらずや。
余私情を以て阿り称するにあらず、其の諸芸に堪能にして、名利を忘れ、遂に世を捨て世に捨てられ、而して遂に余を捨て神去りぬるを奈何。われ慟哭せざらんと欲するも得んや。
兄に約するの後一箇月にして、兄の堂に上れば、其の物存して其の人なし。唯棺に兄が着古したる五ツ紋の羽織懸れるのみ。真良の未亡人、高橋長秋君と余と二人の顔を見「あなた方お二人の別してお懇意の方に対しては、心弱くも涙を偃きあへぬ」と潜め潜め泣き給ひぬ。
(明治四十五年三月四日「東京朝日新聞」)[18]。
思想・主義
[編集]三山は温かい人柄で知られ、漱石をはじめ多くの人に慕われた。また、明治政府首脳とたびたび面会し、ロシアとの開戦を唱える主戦論派でもあった。日露戦争開戦後は挙国一致を紙面で訴えて政府に惜しみなく協力した。しかし、ポーツマス条約の講和内容に憤慨し、一転して明治政府を非難する記事を掲載したために、政府によって新聞の長期発刊停止処分を受ける。
- 「新聞は商品であり、記者はその商品を作る職人」
- 「文章は平明で達意であるべし」
このような彼の持論は朝日新聞の編集方針となり、同社の近代化に大きな貢献を果たした。
窪田空穂と面会した際、「この頃の学校出の役人の文章を見ると、悪い風があっていけない。何ていうのかな、まあ、新聞の文章の真似をしたという風がある。ああいう人たちこそ、文章を改良して行くべきだのに、かえって新聞なんて、文章にも成っていない物の真似をするなんて、困ったものだ。文章には文字の働きってものがなくちゃね」と語ったという[19]。
父が殉じた西郷を思わせる巨漢で、東京朝日新聞時代の部下だった石川啄木に「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」(『一握の砂』)と歌に詠まれた。夏目漱石は「池辺三山に会って西郷南洲を連想した。」と書き残している[20]。
著作
[編集]- 滝田哲太郎 編『明治維新三大政治家 大久保・岩倉・伊藤論』新潮社、1912年4月。
- 木村毅 編『巴里通信』全国書房、1943年5月。NDLJP:1123327。
- 日本近代文学館 編『文学者の日記 1』博文館新社〈日本近代文学館資料叢書〉、2001年8月。ISBN 9784891779719。
- 日本近代文学館 編『文学者の日記 2』博文館新社〈日本近代文学館資料叢書〉、2002年5月。ISBN 9784891779726。
- 日本近代文学館 編『文学者の日記 3』博文館新社〈日本近代文学館資料叢書〉、2003年8月。ISBN 9784891779733。
関連書籍
[編集]- 三田商業研究会 編「東京朝日新聞主筆 池邊吉太郎氏」『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年6月、97-98頁。NDLJP:777715/60。
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』 全8巻、文藝春秋〈文春文庫〉、1978年1月 - 4月。
- 池辺一郎、富永健一『池辺三山──ジャーナリストの誕生』みすず書房、1989年10月。ISBN 9784622033325。
- 池辺一郎、富永健一『池辺三山──ジャーナリストの誕生』中央公論社〈中公文庫〉、1994年4月。ISBN 9784122020894。
- 池辺一郎は長男で画家。富永健一は孫で社会学者。
- 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』 上、慧文社、2016年10月。ISBN 9784863301702。
- 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』 下、慧文社、2016年12月。ISBN 9784863301719。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “コラム「日本の新聞人」”. ニュースパーク(日本新聞博物館). 2022年2月26日閲覧。
- ^ 早稲田大学図書館 編『幕末・明治のメディア展 : 新聞・錦絵・引札』、p38、早稲田大学出版部、1987年
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 88頁。
- ^ 伊豆富人『新聞に生きる』P.67、時事通信社、1970年
- ^ 『小林芳郎翁伝』 (望月茂、壷誠社、1940年)
- ^ 宮部敬治・編『巴里通信 他』朝日新聞社、1984年、164頁。
- ^ 桑野豊助『財界人ものがたり くまもと 明治・大正・昭和』,P15.16,熊本日日新聞社,1981年
- ^ 『回想笠信太郎』p.231、笠信太郎追悼集刊行会、1968年
- ^ 伊豆富人『新聞に生きる』P.67、時事通信社、1970年
- ^ 伊豆富人 著『吾が交友録 : 万日山荘雑記』p25、日本談義社、1952年
- ^ 『熊本の先覚者たち』p.179、熊本県教育委員会、1968年
- ^ 伊豆富人『新聞に生きる』p.109「経済学者としても一流の牧野」、時事通信社、1970年
- ^ 伊豆富人『新聞に生きる』P.17.18、時事通信社、1970年
- ^ 『熊本の先覚者たち』p.181、熊本県教育委員会、1968年
- ^ 鳥居素川 著『頬杖つきて』p148、朝日新聞社、1950年
- ^ 新妻莞 著『新聞人・鳥居素川 : ペン・剣に勝つ』p48、朝日新聞社、1969年
- ^ 『熊本の先覚者たち』p.182、熊本県教育委員会、1968年
- ^ 『三代言論人集』第7巻p196、時事通信社、1962年
- ^ 大岡信編『窪田空穂随筆集』岩波書店、1998年6月、164頁。
- ^ 伊豆富人 著『吾が交友録 : 万日山荘雑記』p21、日本談義社、1952年