深代惇郎
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深代 惇郎(ふかしろ じゅんろう、1929年4月19日 - 1975年12月17日)は、日本の新聞記者。
経歴[編集]
東京出身。海軍兵学校(78期)を経て、第一高等学校、東京大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社。同期には後の朝日放送社長・会長を務める柴田俊治がいた。社会部時代には、読売新聞社の本田靖春と、同じ警察担当記者として接点があった[1]。
ロンドン、ニューヨーク各特派員。東京本社社会部次長、1968年論説委員(教育問題担当)を経て、1971年ヨーロッパ総局長(ロンドン)、1973年論説委員、同年2月15日から1975年11月1日[2]に入院するまで「天声人語」の執筆を担当。日本のマスコミ史上、最高の知性派の一人と言われたが、46歳で急性骨髄性白血病で死去。
著書[編集]
- 『深代惇郎の天声人語』(朝日新聞社 1976年)のち文庫[3]
- 『続 深代惇郎の天声人語』(朝日新聞社 1977年)
- 『深代惇郎 エッセイ集』(朝日新聞社 1977年)
- 『深代惇郎の青春日記』(朝日新聞社 1978年)
- 『天声人語8』(朝日新聞社 1981年) - 深代惇郎分集成
- 『記者ふたり 世界の街角から』(朝日新聞社 1985年) - 柴田俊治と共著