こどもの国 (横浜市)
こどもの国 | |
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施設情報 | |
前身 | 旧日本軍弾薬庫 |
事業主体 | 社会福祉法人こどもの国協会 |
開園 | 1965年5月5日 |
所在地 |
〒227-0036 神奈川県横浜市青葉区奈良町700 |
位置 | 北緯35度33分35秒 東経139度29分33秒 / 北緯35.55972度 東経139.49250度座標: 北緯35度33分35秒 東経139度29分33秒 / 北緯35.55972度 東経139.49250度 |
公式サイト | こどもの国 |
こどもの国(こどものくに)は、神奈川県横浜市青葉区奈良町と東京都町田市三輪町に跨って所在する、社会福祉法人こどもの国協会が運営する総合的な児童厚生施設。
概要[編集]
戦時中、当地は旧・日本軍最大規模の弾薬組み立て・格納などを目的とした弾薬製造貯蔵施設(陸軍東京兵器補給廠・田奈部隊填薬所)であり、終戦後は田奈弾薬庫として米軍に接収されていた。後に返還を受けると、1959年の皇太子明仁親王の御成婚及び1960年の浩宮徳仁親王のご生誕を記念して、主に国費と雪印乳業(現:雪印メグミルク)など民間からの寄贈や日本船舶振興会(現:日本財団)からの支援などにより施設跡地を整備し、1965年5月5日(こどもの日)に開園した[1]。初代園長は、朝日新聞社常務取締役を務めた矢島八洲夫。
開園時は国営の施設で横浜市が維持管理を行っていた。1966年(昭和41年)にこどもの国協会法に拠るこどもの国協会が発足。1981年(昭和56年)、「こどもの国協会の解散及び事業の承継に関する法律」により、「社会福祉法人こどもの国協会」に継承された。公園の用地は国有地である。
開園当初の主な交通手段は国鉄横浜線長津田駅や小田急小田原線鶴川駅からのバス輸送や自家用車であった。1967年(昭和42年)4月28日に弾薬庫への引込線跡を利用し、来園客の輸送を目的として、長津田駅とこどもの国駅を結ぶこどもの国線が開業。鉄道施設はこどもの国協会が保有し、東京急行電鉄が借り受けて運送していた。当時は田園都市線[注釈 1]との直通列車も運行されていた。
通勤線化されるこどもの国線を保有し続けることが社会福祉法人としての目的から逸脱するおそれがあり、1997年(平成9年)8月1日に横浜高速鉄道へ譲渡している。
シンボルマークは、建設工事中の1962年(昭和37年)に朝日新聞紙上で日本全国の子供を対象とした公募が行われ、当時中学2年生の女子による作品が採用された。5色の風車のような形をしており、五輪旗[注釈 2]にヒントを得て、おとぎの国の小人の三角帽子を組み合わせ、小人たちが仲良く歌い踊る様子を図案化したものである[2]。
児童福祉と情操教育を目的とする施設として、自然の中での冒険や動物との触れ合い、物を作る体験など、素朴な遊び体験を重視している。そのため園内には多数の施設があるが、遊園地のような観覧車やジェットコースターのような大型の電動遊具はない。例外として、太陽光発電で動くミニSLや足漕ぎコースター等が敷設されている。
遠足やマラソン大会、デイキャンプなど周辺の学校行事にも活用されている。園名や開園日に因み、5月5日のこどもの日には中学生以下の入園料が無料となる。園内への酒類の持ち込みは禁止されている。
沿革[編集]
- 1960年(昭和35年):着工。
- 1961年(昭和36年)5月5日:旧日本軍田奈弾薬庫(米陸軍第八軍司令部火薬廠)が返還され、横浜市が維持管理を委託される。
- 1962年(昭和37年)9月:建設資金の募集と建設協力のため「財団法人こどもの国建設協会」が設立される。
- 1962年(昭和37年):起工式。
- 1965年(昭和40年)5月5日:田奈弾薬庫跡地に「こどもの国」が開園、開園式に皇太子明仁親王・同妃美智子が行啓。
- 1966年(昭和41年)7月20日:「こどもの国協会法」(昭和41年法律第131号)が施行される[3]。
- 1966年(昭和41年)11月1日:協会法に基づき特殊法人「こどもの国協会」が発足。
- 1967年(昭和42年)4月28日:来園客の輸送手段として、鉄道「こどもの国線」が開業。
- 1968年(昭和43年)6月:浩宮徳仁親王が学習院初等科2年の遠足でこどもの国に来園。付き添いで皇太子妃美智子も礼宮文仁親王を伴い行啓。
- 1972年(昭和47年):皇太子明仁親王の記念施設「皇太子記念館」が完成。
- 1981年(昭和56年)4月1日:民営化により社会福祉法人「こどもの国協会」が事業を承継[4][5]。
- 1985年(昭和60年)5月6日:開園20周年記念式典に皇太子明仁親王・同妃美智子が紀宮清子内親王を伴い行啓。
- 1997年(平成 9年)8月1日:協会がこどもの国線施設を横浜高速鉄道へ譲渡。
- 2005年(平成17年):開園40周年記念イベントを開催。また、6月9日には天皇・皇后がこどもの国を行幸啓。
- 2009年(平成21年):天皇・皇后が行幸啓[6]、天皇・皇后の結婚50年のため東宮家、秋篠宮家、黒田慶樹・清子夫妻が同伴[7]。
- 2019年(平成31年)4月12日 :天皇・皇后が結婚60年を記念して訪問[8]。
施設[編集]
約100ヘクタールの広大な敷地に、多摩丘陵の自然を生かした施設などがある。
園内の牧場で飼育している乳牛から搾った牛乳を使用したソフトクリームと特別牛乳「サングリーン」がこどもの国の名物である。牧場の運営はこどもの国協会が雪印メグミルク(委託開始当初は雪印乳業)に業務委託しており、同社の関連会社である「株式会社雪印こどもの国牧場」が行っている。
主要施設[編集]
- 自然研修センター
団体での宿泊利用可。 - バーベキュー場
ここで購入したビールをバーベキュー場内で飲むことは許されている(酒類の園内持ち込みおよびバーベキュー場外での飲酒は禁止)。 - 白鳥湖
貸しボート・貸しいかだがある。 - つばきの森
資生堂が安達潮花のコレクションを買い取り寄贈。 - 平成記念館(旧称・皇太子記念館)
1972年(昭和47年)築の建物で、開館当時の正式名称は皇太子殿下御結婚記念館(通称:皇太子記念館)であった。大規模改修を経て、2021年(令和3年)5月からは正式名称を皇太子明仁親王殿下御結婚記念館(通称:平成記念館)と改めた。皇太子記念館時代は大屋根下に客席数420席のホールがあり、音楽発表会や式典に使用されていた。改修に伴い1階のホールを撤去し、全体を広大なフリースペース(一部貸切利用可)とした。[9] - 遊具広場
ここを含む園内の遊具類は主に日本宝くじ協会が寄贈。 - 屋外プール・アイススケート場
二つの深いプールと四つの浅いプール、スライダー二種、水泳用25mプールを備え、冬には大屋根下の休憩スペースがスケート場として使用されている。 - ミルクプラント
牧場やミルクプラントは雪印乳業が寄贈。 - 園内バス赤ぽっぽ号
運行経路:ミニSL前~プール・スケート場前~せせらぎ広場(白鳥湖)~牧場口~ミニSL前 トレーラータイプの機関車形3両バス、定員56名。一周25分程度。 - ミニSL「太陽号」
SL型の乗り物(定員30名)が中央広場近くのミニSL乗り場から出発。時速約6キロで5分程度かけて、平成記念館そばの「ふんすい池」を経由してミニSL乗り場に戻ってくる。駅舎そばに設置された太陽光発電システムによる電力を主に使用している(不足分は一般の電源を使用、運休時の余剰電力は園内の他施設で使用)
その他の施設[編集]
- ポニー牧場
- テニスコート
- 野外ステージ
- こども遊牧場
- こども動物園
- 牛舎・緬羊舎
- 児童センター
- 総合グラウンド
- 少年サッカー場
- ディスクゴルフ
- キャンプ場・野外炊事場
- 自転車乗り場(サイクリングコース)
弾薬庫遺構[編集]
遺構の概要[編集]
1938年に国家総動員法によりこの地を強制的に買収し工事を開始、1941年に旧陸軍の弾薬庫として本格的な使用が始まった。敗戦後は米軍に接収され米軍弾薬庫として引き続き利用された後、1961年に返還された。敷地内に弾薬庫は33か所あったといわれるが、終戦後「こどもの国」開園までにほとんどが埋められたりしており、現在確認できるのは10基のみである。これら遺構は、電気設備等の園内施設に転用されている。現在、旧弾薬庫の内部には原則として立ち入り禁止となっているが、開園記念行事などで一般公開されることもある[10][11][12]。
1944年からは学徒動員により、神奈川県立横浜第二中学(現:県立横浜翠嵐高校)の男子学生250人(15歳)、神奈川高等女学校(現:神奈川学園)の女子学生200人(14~15歳)が動員され、薬莢に火薬を詰める「填薬(てんやく)」作業に従事していた[13][12]。
1944年には学徒動員による移動の際にトラックごと川へ転落する事故が起き、横浜二中の男子学生6名が亡くなった。翌1945年にはゲート近くの広場で弾薬運搬中の爆発事故が起きた。この爆発事故では軍属6名が亡くなり、付近にいた神奈川高女の女学生1名も片足切断の重傷を負った[12][13]。
こどもの国付近にある住吉神社のそばには横浜二中・横浜翠嵐高校の同窓会より慰霊碑が、入口ゲート付近には神奈川高女の女学生らによって「平和の碑」が立てられている[11][12][13]。
引き込み線[編集]
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弾薬庫時代には、旧:日本国有鉄道(国鉄)横浜線長津田駅より引き込み線が引かれていた。園内のトンネルは鉄道に使われたとの説があるが、当時学徒動員で弾薬庫に動員されていた旧制高等女学校の卒業生の話では、園内のトンネルは鉄道ではなくトラック用の道路に利用されていたという。引き込み線の一部経路は東急こどもの国線として現在も利用されている。こどもの国線にはかつての軍用線の痕跡はほとんど残っていないが、線路脇にある道路敷地の境界石は旧帝国陸軍の物が多数残されている。また、引き込み線は現在の入口ゲート近くまで伸び、弾薬の積み下ろしのための駅があったといわれるが特に遺構はない。
交通アクセス[編集]
自家用車や貸切バスでの来園者のために正門前駐車場と牧場付近の臨時駐車場があるが、休日(とくにゴールデンウィーク期間中など)は駐車場が混雑し周辺の道路も渋滞するため、公共交通機関(鉄道・路線バス)の利用が推奨されている[14]。
鉄道[編集]
路線バス[編集]
周辺にバス停留所は複数あるが、小田急バス「こどもの国」停留所が正面入口に近い。公式サイト上では「土休日は駐車場や周辺道路が混雑する」としてこどもの国線での来園を勧めており、バス路線は鶴川駅からの小田急バス [鶴07] 系統 奈良北団地行きのみが案内されている。
こどもの国・停留所(小田急バス)[編集]
こどもの国正門(職員通用口)前の小田急バス折返し場内にある。
こどもの国入口・停留所(横浜市営バス)/こどもの国・停留所(東急バス)[編集]
下りバス停が駐車場側の歩道橋下に、上りバス停が正門側にある。 東急バスは横浜市営バスの停留所を共用している。
- 東急バス
- 東急田園都市線青葉台駅より、[青118] 奈良北団地折返場行、[青56] 緑山循環・青葉台駅行。
- 東急田園都市線市が尾駅より、[市43] 奈良北団地折返場行(平日日中のみ運行)。
こどもの国駅・停留所(神奈川中央交通)[編集]
こどもの国駅バスロータリーにある。
- 神奈川中央交通
- JR横浜線成瀬駅より、[成03]・[成04] こどもの国駅行。
関連項目[編集]
- こどもの国駅 (神奈川県) / 東急こどもの国線
- こどもの国 - 各地の「こどもの国」一覧
- ダットサン・ベビイ - 1973年までアトラクションに使用されていた子供用自動車。
- イサム・ノグチ - 児童センター周辺に「オクテトラ」などの作品群がある。
- 地球を七回半まわれ - NHK『みんなのうた』の楽曲の一つ。1965年版の映像にゴーカートの風景が収録されている。
- 浅田孝[15]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 福祉事業の推進 「こどもの国」の建設 日本財団三十年のあゆみ
- ^ こどもの国のシンボルマーク こどもの国公式サイト
- ^ こどもの国協会法(昭和41年7月20日法律第131号)、日本法令索引。
- ^ こどもの国協会の解散及び事業の承継に関する法律(昭和55年11月28日法律第91号)、日本法令索引。
- ^ こどもの国協会の解散及び事業の承継に関する法律、e-GOV 法令検索。
- ^ 平成21年12月24日官報第5221号 皇室事項 行幸啓
- ^ 「天皇ご一家がそろって初外出 横浜市「こどもの国」(09/12/19)」テレビ朝日ANN NEWS配信
- ^ 両陛下「こどもの国」ご訪問 ご結婚記念し開設 産経新聞、2019年4月12日、2020年1月22日閲覧。
- ^ “こどもの国 皇太子記念館を改修 新名称に変更も”. タウンニュース社. 2021年6月8日閲覧。
- ^ マニア向けガイド - 弾薬庫跡 こどもの国公式サイト
- ^ a b 横浜の戦争遺跡はどうなってるの? はまれぽ.com、2011年12月21日、2020年1月22日閲覧。
- ^ a b c d こどもの国線は、かつて弾薬を運んでいたって本当? はまれぽ.com、2018年7月27日、2020年1月22日閲覧。
- ^ a b c マニア向けガイド - 平和の碑 こどもの国公式サイト
- ^ 交通アクセス こどもの国公式サイト
- ^ 松下和輝, 木下光、「浅田孝の子供に対する環境開発の手法に関する研究 横浜こどもの国を中心にして」『日本建築学会計画系論文集』 2017年 82巻 736号 pp.1531-1541, doi:10.3130/aija.82.1531, 日本建築学会