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オルドリッチ・エイムズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オルドリッチ・エイムズ
1994年2月21日の逮捕時に撮影されたエイムズ
所属 中央情報局(CIA)
所属期間 1962年 - 1994年
他の業績 KGBおよびSVRへの諜報活動

名前 Aldrich Hazen Ames
誕生 1941年5月26日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ウィスコンシン州リバーフォールズ
死 2026年1月5日(84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 メリーランド州カンバーランド連邦矯正施設
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 ナンシー・セゲバース(1969年 - 1985年、離婚)
マリア・デル・ロサリオ・カサス・デュプイ(1985年 - )
子 1人
職業 CIA工作官、防諜担当官
母校 ジョージ・ワシントン大学(歴史学士)

オルドリッチ・ヘイゼン・エイムズ(英語: Aldrich Hazen Ames、1941年5月26日 - 2026年1月5日)は、アメリカ合衆国の元中央情報局(CIA)工作官・防諜担当官で、ソビエト連邦の国家保安委員会(KGB)およびその後のロシア対外情報庁(SVR)のために諜報活動を行った二重スパイである[1][2]。

CIAでソ連・東欧関係の作戦や防諜を担当し、多数の機密情報に接する立場にあった。1985年4月に自らワシントンD.C.のソ連大使館へ接触し、以後1994年2月に逮捕されるまで約9年間にわたって情報を提供した[3]。米司法省監察総監によれば、エイムズがKGBに提供した情報によって少なくとも10人のCIA・連邦捜査局(FBI)の情報源が特定され、処刑された[2]。FBIは、100件を超えるアメリカの情報活動が危殆化し、10人の情報源が死亡したとしている[1]。

ソ連およびロシア側から受け取った報酬は約250万ドルに上ったとされる[4]。1994年4月にスパイ活動および脱税に関する罪を認め、仮釈放のない終身刑を言い渡された[1]。2026年1月5日、メリーランド州の連邦刑務所で服役中に84歳で死去した[5][4]。

生い立ちと教育

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1958年の高校卒業アルバムに掲載されたエイムズ

1941年5月26日、ウィスコンシン州リバーフォールズで、カールトン・セシル・エイムズ(Carleton Cecil Ames)とレイチェル・エイムズ(旧姓オルドリッチ)の長男として生まれた[6]。父は大学で教員を務めたのち、1952年にCIAの工作部門に入り、1953年から約3年間ビルマに赴任した。その後一家はバージニア州北部に居住した[6]。

エイムズはバージニア州のマクリーン高校(McLean High School)に通った。高校在学中の1957年から1959年までの夏季には、CIA職員の子弟を臨時雇用する制度を通じ、低位の文書整理担当者としてCIAで働いた[6]。

1959年にシカゴ大学へ進学し、歴史や外国文化を学ぼうとしたが、演劇活動に熱中して成績が悪化し、学位を取得することなく大学を離れた[6]。その後ワシントン地域へ戻り、1962年2月からCIAで常勤の事務職員として勤務する一方、ジョージ・ワシントン大学に通い、1967年9月に歴史学の学士号を取得した[6]。

CIAでの経歴

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初期の勤務

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CIAでの勤務成績が評価されたエイムズは工作官養成課程に入り、1969年には同じ課程に参加していたCIA職員ナンシー・セゲバース(Nancy Segebarth)と結婚した[7]。

同年10月、最初の海外任地としてトルコのアンカラに派遣され、ソ連情報機関関係者をCIAの情報源として獲得する任務などに従事した。1972年にCIA本部へ戻り、工作本部のソ連・東欧部門に配属された。1973年にはロシア語の訓練を受けた[7]。

1976年から1981年にかけてニューヨークで勤務し、国連代表部などに所属するソ連関係者を担当した。この時期には高い勤務評価を受け昇進した一方、機密資料を入れた鞄をニューヨーク市地下鉄に置き忘れるなど、保安上の問題も起こしていた[7]。

メキシコシティと本部勤務

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1981年9月にメキシコシティへ赴任した。この時期の勤務評価は以前より低下し、過度の飲酒についても上司から問題視されていた[7]。1982年末には、コロンビア大使館の文化担当官でCIAの情報提供者でもあったマリア・デル・ロサリオ・カサス・デュプイ(María del Rosario Casas Dupuy)と知り合った。エイムズは1983年に妻ナンシーと別居し、1985年8月に離婚が成立すると、その直後にロサリオと結婚した[3]。

1983年9月にCIA本部へ戻ると、ソ連・東欧部門の防諜部門で勤務した。この職務によって、世界各地におけるCIAの対KGB・GRU作戦や、ソ連側情報源の身元など、極めて機微な情報に接することができた[7]。

ソ連・ロシアへのスパイ活動

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KGBへの接触

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1985年当時、エイムズは前妻との離婚に伴う支出などから金銭的な負担を抱えていた。後年、本人は金銭問題がKGBへの接触を考える契機だったと説明している[3][4]。

1985年4月16日、エイムズはワシントンD.C.のソ連大使館を自ら訪れ、CIA内部者であることを証明するための情報を入れた封筒をKGB側に渡した[3][1]。当初、本人は一度限りの金銭獲得を想定していたと後に述べたが、KGBは情報の価値を認め、5月には5万ドルを支払った[3]。

同年6月13日には、CIAおよびFBIがソ連内部で運用していた10人以上の重要な人的情報源を特定できる資料をKGB側へ渡した。エイムズは大量の機密文書を袋に入れてCIA施設から持ち出しており、資料にはソ連軍や情報機関内部の情報源の身元も含まれていた[3]。

司法省監察総監は、1985年6月にエイムズが渡した情報によってCIAのソ連内情報源網が重大な損害を受けたとしている[2]。1985年から1986年にかけてCIAとFBIの重要なソ連側情報源が相次いで拘束され、一部は処刑された[2]。

ローマ勤務とスパイ活動の継続

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1986年7月、エイムズはローマへ赴任した。ローマでもKGB担当者との接触を続け、機密情報の提供と報酬の受領を継続した[1]。1989年に任期を終えてワシントンへ戻った時点で、KGBからの書簡には、それまでに約188万ドルが支払われた旨が記されていた[1]。

帰国後は、指定場所に資料を置いてKGB側が回収するデッド・ドロップなどを利用した。KGB側からの金銭や指示も別のデッド・ドロップを通じて受け取った[1]。

エイムズとソ連・ロシア側との連絡に用いられた郵便受けの代替品。郵便局のロゴ上に付ける横向きのチョーク印が、連絡を求める合図として使われた。
1993年10月13日にエイムズがチョークで合図を書き込んだ郵便受けを撮影したFBIの写真

1990年以降、担当者との直接の会合は主としてアメリカ国外で行われ、ウィーンやボゴタなどで接触した[8]。ソ連崩壊後も情報提供は終わらず、KGBの対外情報部門を継承したロシアのSVRに対して1994年まで活動を続けた[2]。

ソ連・ロシア側からエイムズに支払われた金額は総額約250万ドルとされる[4][5]。

情報漏洩による被害

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エイムズは、自身が把握していたCIAや他の西側情報機関のソ連側情報源の多くをKGBに明かした。1994年の有罪答弁の際には、「自分が知っていたCIAおよび他の米国・外国情報機関のソ連側情報源のほぼすべて」を危険にさらしたことを認めた[9]。

司法省監察総監は、エイムズの情報によって少なくとも10人のCIA・FBI情報源が危殆化して処刑されたと結論づけた[2]。FBIによれば、その活動は100件を超える米国の情報活動を危殆化させ、10人の情報源の死亡につながった[1]。『タイム』は1995年、エイムズの情報提供後にCIAがソ連内部に有していた多数の情報源を失い、処刑された者のほか長期刑を受けた者もいたと報じている[10]。

主な情報源

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エイムズによって危殆化した、またはその情報が危殆化に関与したとされる人物には以下が含まれる。

  • ドミトリー・ポリャコフ - GRUの将官で、長年にわたりCIAへソ連の軍事・戦略情報を提供した。エイムズによって身元を明かされ、1988年に処刑された[10]。
  • アドルフ・トルカチェフ - ソ連の軍事電子技術者で、レーダーや航空電子機器などに関する情報をCIAへ提供した。元CIA職員エドワード・リー・ハワードに加え、エイムズもKGBへ身元を伝えており、1985年に逮捕、1986年に処刑された[11]。
  • ヴァレリー・マルティノフ(Valeriy Martynov) - ワシントンのソ連大使館に勤務していたKGB将校で、1982年からFBI・CIAに協力した。1985年6月にエイムズによって、同年10月には後にロシアのスパイと判明するFBI職員ロバート・ハンセンによってもKGBへ漏洩され、帰国後に逮捕・処刑された[12]。
  • セルゲイ・モトリン(Sergey Motorin) - KGBの政治情報担当将校でFBIの情報源となった。マルティノフと同様、エイムズとハンセンの双方から身元を漏洩され、ソ連で逮捕・処刑された[12][10]。
  • オレグ・ゴルジエフスキー - KGBロンドン駐在部の幹部で、長年MI6に情報を提供していた。エイムズが1985年6月13日にKGBへ渡した情報にはゴルジエフスキーの身元も含まれていたとされる。一方、ゴルジエフスキーがモスクワへ呼び戻されたのはそれ以前であり、KGBが最初に彼へ疑いを向けた直接の契機がエイムズだったかについては確定していない[13][14]。ゴルジエフスキーはその後ソ連からの脱出に成功した。

CIA・FBIによる捜査

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情報源喪失の調査

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エイムズ事件の内部調査に携わったCIAのチーム。左からサンディ・グライムズ、ポール・レドモンド、ジャンヌ・ヴェルテフィーユ、ダイアナ・ワーゼン、ダン・ペイン

1985年から1986年にかけて、CIAとFBIがソ連内部に持っていた重要な情報源が相次いで失われた。CIAは当初、元CIA職員エドワード・リー・ハワードによる漏洩、モスクワの米大使館に対する盗聴、通信システムの突破など複数の可能性を検討したが、それだけでは説明できない情報源の喪失が続いた[2]。

CIAではジャンヌ・ヴェルテフィーユらを中心とする調査チームが原因究明にあたり、エイムズを含む内部者による情報漏洩の可能性を検討した[15]。

しかし、CIAとFBIは長期間にわたって情報を十分に統合せず、司法省監察総監は後に、両機関が1987年または1988年の時点で本格的な合同捜査を始めていれば、エイムズはより早く容疑者として浮上していた可能性があると指摘した[2]。

不審な資産とポリグラフ

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1989年11月には、CIAの同僚から、エイムズが政府職員の給与では説明しにくい生活を送っているとの情報がCIAの防諜担当者へ寄せられた。エイムズ夫妻は同年、バージニア州アーリントンの54万ドルの住宅を住宅ローンなしの現金で購入していたほか、高級車などにも多額の支出を行っていた[2][8]。

CIAの調査では、1985年から1989年に複数の大口現金取引があったことも把握されたが、捜査は断続的に進められた。エイムズは富の出所について、コロンビア人である妻の家族からの資金などと説明していた[2]。

また、エイムズはスパイ活動中の1986年と1991年にCIAのポリグラフ検査を受けた。回答の一部には疑わしい反応がみられたが、最終的には検査を通過した[16]。上院情報特別委員会は事件後、ポリグラフだけに依存して内部スパイを発見できると考えるべきではなく、財務調査や保安管理など他の手段を組み合わせる必要があると指摘した[16]。

合同調査とFBI捜査

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1991年半ば、CIAとFBIは1985年から1986年の情報源喪失を再検討する合同の特別調査部門(Special Investigations Unit、SIU)を設置した[2]。調査対象者のアクセス状況や財務情報を分析した結果、エイムズは重要な容疑者の一人となった。

1992年8月には、エイムズが1985年から1986年に特定のソ連外交官と会った直後、銀行口座へ多額の現金を入金していたという相関が判明した[2][15]。にもかかわらず、FBIによる本格的な犯罪捜査の開始はSIUが最終報告をまとめた1993年春まで遅れた。司法省監察総監は、この過程にCIA・FBI双方の管理、情報共有、責任分担上の問題があったと結論づけている[2]。

FBIは1993年5月からエイムズに対する集中的な捜査を開始し、電子監視、尾行、廃棄物の分析などを実施した[1]。同年10月13日には、ワシントンD.C.の37番街とR通りの郵便受けにエイムズがチョークで印を付ける様子を監視員が確認した。この印はロシア側との会合意思を示す信号であり、11月1日にボゴタで予定された接触に用いられた[1]。

逮捕と有罪答弁

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1994年初頭、エイムズには公務としてモスクワへ出張する予定があった。FBIは国外へ出る前に身柄を確保する必要があると判断し、同年2月21日、バージニア州アーリントンの自宅近くでエイムズを逮捕した。妻ロサリオも自宅で逮捕された[1][17]。

FBIによる家宅捜索では、ロシア側との連絡を示す文書や機密情報など、スパイ活動を裏付ける証拠が発見された[1]。

同年4月28日、エイムズは連邦裁判所でスパイ活動の共謀および脱税に関する罪を認め、仮釈放の可能性のない終身刑を言い渡された[1][18]。

ロサリオもスパイ活動の共謀および脱税に関する罪を認め、同年10月20日に禁錮63か月を言い渡された[1]。司法取引に基づき、エイムズの資産はアメリカ政府に没収され、そのうち54万7000ドルが司法省の犯罪被害者支援基金へ移された[1]。

CIA・FBIへの批判と制度上の影響

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エイムズ事件は、CIA職員が巨額の現金を受け取り、生活水準を急激に上昇させながら長期間発見されなかったことから、CIAの防諜・人事・保安制度に対する重大な批判を招いた。

1994年の上院情報特別委員会報告は、エイムズには勤務成績の低下、飲酒上の問題、保安規則違反、説明のつかない富など複数の警告兆候が存在したにもかかわらず、それらの情報が適切に統合・評価されなかったと指摘した[19]。

同報告は、機密情報へのアクセス管理、職員の財務状況の確認、防諜部門と保安部門の連携、問題行動の記録、ポリグラフ検査の運用などについて多数の改善を勧告した[19]。

1997年に公表された司法省監察総監の調査では、FBIについても厳しい批判がなされた。監察総監は、1985年から1986年にCIAとFBIが経験した「前例のない壊滅的な」情報源喪失について、FBI上層部が十分に把握しておらず、CIAとの合同調査も長く実現しなかったため、エイムズの発見が大幅に遅れたと結論づけた[2]。一方、1993年にエイムズを対象とする本格的捜査が開始された後のFBIの捜査については、「専門的かつ徹底的」に実施されたと評価している[2]。

事件はCIA史上でも特に深刻な内部情報漏洩事件の一つと評価されている[15][4]。2001年にはFBI職員ロバート・ハンセンによる長期の対ソ連・ロシア諜報活動も発覚し、米情報機関では内部脅威への監視や防諜制度がさらに強化された[5]。

収監と死去

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エイムズは連邦刑務所局の受刑者番号40087-083として収監され、ペンシルベニア州のアレンウッド連邦刑務所、インディアナ州のテレホート連邦矯正施設など複数の施設で終身刑に服した[20][21]。

晩年はメリーランド州カンバーランド近郊のカンバーランド連邦矯正施設(Federal Correctional Institution, Cumberland)に収監されていた。

2026年1月5日、同施設で拘禁中に死去した。84歳だった[4][5]。連邦刑務所局は死亡を確認したが死因を公表せず、死亡直後の報道ではメリーランド州の検視当局が死因を調べるとしていた[5]。

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 “Aldrich Ames” (英語). 連邦捜査局. 2026年9月6日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 “A Review of the FBI's Performance in Uncovering the Espionage Activities of Aldrich Hazen Ames: Unclassified Executive Summary” (英語). Office of the Inspector General, アメリカ合衆国司法省 (1997年4月21日). 2026年9月6日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  4. 1 2 3 4 5 6 “CIA turncoat Aldrich Ames, who sold US secrets to the Soviets, dies in prison at 84”. Associated Press (英語). 2026年1月6日. 2026年9月6日閲覧.
  5. 1 2 3 4 5 “米国史上有数の悪名高いスパイ、オルドリッチ・エイムズ受刑者が死亡 大勢の情報源を死に追いやる”. CNN (2026年1月7日). 2026年9月6日閲覧。
  6. 1 2 3 4 5 “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  7. 1 2 3 4 5 “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  8. 1 2 “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  9. ↑ “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  10. 1 2 3 “Victims of Aldrich Ames” (英語). Time. (1995-05-22) 2026年9月6日閲覧。.
  11. ↑ “Tolkachev, A Worthy Successor to Penkovsky: An Exceptional Intelligence Operation” (英語). 中央情報局. 2026年9月6日閲覧。
  12. 1 2 “Affidavit in Support of Criminal Complaint, Arrest Warrant and Search Warrants” (英語). 連邦捜査局. 2026年9月6日閲覧。
  13. ↑ “Review of The Spy and the Traitor” (英語). 中央情報局 Center for the Study of Intelligence. 2026年9月6日閲覧。
  14. ↑ “KGB Man Turned British Spy Can't Pinpoint His Betrayer”. ワシントン・ポスト (英語). 1994年6月16日. 2026年9月6日閲覧.
  15. 1 2 3 “Spy Catcher: Jeanne Vertefeuille” (英語). 中央情報局 (2016年8月25日). 2026年9月6日閲覧。
  16. 1 2 “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  17. ↑ “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  18. ↑ “Spy Couple Allowed to Retain Some Property”. ワシントン・ポスト (英語). 1994年4月30日. 2026年9月6日閲覧.
  19. 1 2 “An Assessment of the Aldrich H. Ames Espionage Case and Its Implications for U.S. Intelligence” (英語). アメリカ合衆国上院情報特別委員会 (1994年11月1日). 2026年9月6日閲覧。
  20. ↑ “CIA spy Ames sent to Pa. prison” (英語). UPI通信. 1994年8月19日. 2026年9月6日閲覧.
  21. ↑ “Can A Computer Catch A Spy?” (英語). ナショナル・パブリック・ラジオ (2019年12月8日). 2026年9月6日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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