ヘアヌード

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ヘア解禁から転送)

ヘアヌード和製英語hair nude)は、陰毛修正されずに写っているヌード写真・映像。日本ではかつて修正が義務付けられるなどの規制があったが、1990年代初めに事実上の解禁状態となり、一大ブームを巻き起こした。

諸外国では陰毛の露出の有無が猥褻の判断基準ではなかったため、日本でのみ意味を持つ概念である[1]

ヘアヌード

概要:用語の由来[編集]

スタジオ撮影のヘアヌード
モノクロ写真のヘアヌード

講談社の編集者元木昌彦が仕掛け人となり『週刊現代』上で、「ヌード」に陰毛を意味する和製英語「アンダーヘア」(鳥の羽毛などの意)を組み合わせ「ヘア・ヌード」と表記したことに始まる(本来英語で陰毛は「pubic hair」)[2]。元木はこの功績から「ヘアヌードの父」と呼ばれることもある。

わいせつ物の定義や関連法規が異なる欧米等の諸外国では、そもそも陰毛の有無がことさら着目・問題視されることがあまりないため同義語は存在しないが、英語の俗語としては「full frontal」などが近い。

歴史[編集]

前史[編集]

猥褻罪が制定された明治時代から、大正、昭和の戦前、戦後にいたるまで、保守的な日本の警察当局は、写真表現に関しては局部が写っているかどうかを基準にわいせつ物頒布等の罪に該当するかどうかを判断してきた。そして取締りの際には、陰毛についても局部の一部と解釈して規制の対象としてきた。そのため、表現の自由を求める写真家は、麻田奈美のヌードを撮影した青柳陽一のように、りんごなどの小道具を使って巧みに陰毛を隠したり、雑誌編集者が出稿前の段階で修正を行うなどして陰毛を隠していたが、すでに明治時代から芸術と表現の自由の大義名分から、その様な規制は批判の的となっていた[3]

1960年代、70年代 「規制の中で」[編集]

戦後になって、ストリップは解禁されたが、1940年代、50年代までは、雑誌、映画媒体においてもヌード表現自体が極めて少なかった。ところが、1960年代になると、写真雑誌やピンク映画などを中心に、ヌード表現が徐々に増えてきた。特に60年代後半には、日本テレビの11PMや若松孝二のピンク映画、寺山修司のアングラ演劇などが、積極的にヌードを扱うようになった。1970年代、警察による厳しい規制の中で表現者は格闘を始める。1973年、東映ポルノ『恐怖女子校・アニマル同級生』主演の織部ゆう子の白の下着で陰毛を透かしたスチル写真が雑誌に掲載。また、同年は漫画表現においても女性の性毛を刈り取る主人公が出てくる劇画『下苅り半次郎』(小池一夫作、神江里見画)が登場した、この時期、規制の無い洋物の映画を日本で上映する際は映倫の指導監督によりボカシが入れられていたが、中には青い体験の最終場面で消し忘れがあるなど陰毛の露出もあった。この規制のない洋画を日本でそのまま上映できないことが後のヘア表現解除への大きな理由となる。

そのような環境下でも、山本晋也など、敢えて際どく、カツラを陰毛と錯覚させるような表現で挑戦的表現をするものはいた。若松孝二プロデュース、大島渚監督の「愛のコリーダ」(松田英子主演、1976年)では実際の性行為を描き、権力に対して正面から戦いを挑んだ。

成人向け雑誌(いわゆるビニ本エロ本等)では、生地の薄い肌着を湿らすなどした透けパンがブームとなり、ポルノ雑誌自動販売機が各地に設置されたこともあって、1978年から数年の間最盛期を迎えるが、発行元の出版社が摘発されたり、行政から注意を受けるなどして陰毛が透ける写真表現は一旦流通から姿を消す[4]。逆に、一般流通を通さない、いわゆる「裏本」などでの掲載は続き、その市場を賑わわせた[5][注 1]

1980年代 「せめぎあい」[編集]

1980年代に入ると状況は転じ始め、表現者の側のヘア表現が優勢になっていく。

1981年3月19日、『週刊新潮 3月26日号』において、ストリーキング女性の無修正ヘアヌード写真が掲載された。それまでのビニ本など小規模流通の雑誌と異なる大手週刊誌による掲載は初で、ワイドショーでも取り上げられたこの号は即完売となるも、警察の対応は厳重注意にとどまった[6]

しかし、同年は一方でたこ八郎が出演していた、陰毛丸出しの『写GIRL』『歌磨呂』が通信販売で出回るものの摘発、1983年2月には国会で少女雑誌での露骨な性交記事が問題視されたあおりで、『ギャルズライフ』が廃刊になるなど厳しい規制は続いた[4]。その様な中で、末井昭編集の雑誌『写真時代』(白夜書房、1981年-1988年)では荒木経惟らによるヌードを掲載していたが、これには時々陰毛が写っている事があり、またロバート・メイプルソープの写真集「Lady リサ・ライオン」(宝島社、1984年)や「ブルータス」誌(マガジンハウス)の特集「裸の絶対温度」(1985年 - )にも陰毛の写った写真が掲載され、写真家や出版社は芸術としての写真表現を主張し、何を持って「わいせつ」と判断するかは論争となっていた。

そうした芸術表現としてのヘア容認を求める声が高まる中、1985年、東京国際映画祭において、芸術表現としての特例で『1984』などで無修正のヘア映像が上映される。この年、堰を切ったように『福娘』『ニューヌード』『ペントハウス』『ブルータス』『エンマ』などで相次いでヘアヌードが掲載されるも、その内ペントハウスは摘発され、全面解禁とは至らなかった。同年6月、篠山紀信はその状況に抗議するかのように『四谷シモン写真集』で人形に陰毛を生やした表現を行うなど挑戦的姿勢を取っている。また、少年漫画においても『少年チャンピオン』連載の『ぼくはウィリー!』(立原あゆみ作)で陰毛が描写されるなど、ヘア表現はなし崩し的にその陣地を拡大していった。

[5][7]

1990年代前半 「ヘア解禁」[編集]

1990年代は、ついにヘア解禁の時代となる。1990年5月、NHK教育テレビが篠山紀信撮影の『TOKYO NUDE』のヘアー写真を放映。同年には温泉紹介ビデオ『美女紀・女の秘湯』でヘアーが出るなど、本格的なヘア解禁時代の幕開けとなる。

1991年1月、篠山紀信撮影の樋口可南子写真集『water fruit 不測の事態』では数枚の写真に明白に陰毛が写っていたが、警察は摘発を行わず、口頭での警告にとどめた。これが事実上の日本の出版・映像業界における「ヘア解禁」となり、以後続々と出版されるヘアヌードブームの先鞭をつけることとなる[4][8]

4月に『ANAN』で男性モデルとしてヘア露出していた本木雅弘が7月にヘアヌード写真集『ホワイト・ルーム』を発売、さらに11月、当時トップアイドルであった宮沢りえの『Santa Fe』が発表され社会的関心事となる[注 2]。宮沢のヘア・ヌードは決定的で、これ以前とこれ以後でヌード表現が分かれるほどの衝撃を与え、社会のヌードに対する見方も大きく変わった[9][10]。宮沢の影響で、フェミニズム(女性解放・女性主体)の姿勢からのヌードが増え、人気のある芸能人がヘアヌード(全裸)まで見せる敷居も低くなり[12]角松かのり三浦綺音麻生ひろみEN DOLL等、アイドル性を保持したままヌードまで見せるヌードアイドル(ヌードル)と呼ばれるアイドルも活動した[13][14]。一方、その様なブームの中で、高須基仁二見暁等、「脱がし屋」と呼ばれるヘアヌードの仕掛け人が暗躍するようにもなる[15]

7月10日には、東京国際映画祭で『美しき諍い女』が無修正のまま、芸術性を競う目的のもとで上映される。これは各国映画祭では無修正で上映されるものが日本だけではできないのはおかしいという税関と映倫の判断によるもので、芸術性の高いものに関してはヘア表現が許される流れを生んだ。

そして1992年4月27日、映倫は猥褻基準の見直しを公表、10月から「原則として日常生活を描写したところでの陰毛表現は問題なし」との見解を出し、これにより流れは決定的に変わる。同年6月には東郷健が輸入ポルノ税関料収事件に勝訴、個人が楽しむ分にはお咎め無し、ということにもなった。

しかし一方で警察は「陰毛よりさらに過激化した性器の露出表現」に対して取り締まりを進めた。結果、1991年5月『週刊テーミス』のAV現場撮影で男優の陰毛のみならず性器が未修正で掲載された件で編集長は始末書を提出し、同誌は廃刊、同7月に狙って性器を掲載した『スパイ』誌もほどなく摘発され廃刊となっている。1994年には、加納典明の『ザ・テンメイ』への警告に続き、翌1995年2月、『きくぜ2!』を摘発、加納と竹書房社長を逮捕し、『ザ・テンメイ』を休刊に追い込んでいる[4][16]

また、依然として陰毛表現に対しても、1992年4月にヘアヌードを載せた荒木経惟の『写狂人日記』を摘発、『週刊ポスト』へ警告を発するなどしており、1993年1月の『週刊新潮 1/14両号』のヘアヌードでは「発行部数の多さ」、「芸術性は認められるものの、一部でヘアー解禁を受けとめられるおそれがある」(警視庁)との理由で事情聴取を行っている。だが、宮沢りえ以降の勢いはとどまることなく、ヘアを理由とした規制は行われなくなり、大量のヘアヌード写真集が1990年代を通じて出版された[17]

1990年代後半・「一般化」[編集]

1995年以降インターネットが一般化していくと、直接無修正の海外表現を閲覧できるようになって、陰毛が写っているかどうかを猥褻の基準とすることは、まったく無意味なものとなってきた[18]。そのため雑誌(週刊誌月刊誌等)のグラビアや写真集、アダルトビデオイメージビデオ等様々な媒体でヘアが写っていることは特別なことでは無く、むしろ雑誌にヘアヌードが無ければおかしいぐらいに毎週、毎月ヘアヌードを載せるようになり、中にはグラビア全てがアダルトモデルによるヘアヌードという一般誌もあった。こうして、ヌードは性器さえ見せなければ「ヌード=ヘアヌード」ということになり、多くのアダルトモデルがヘアヌードを見せるのはそのモデルを(AV女優に)売り出すための手段となってきていた。しかし、話題性としてのヘアヌードは残り、大物芸能人によるヘアヌード写真集が断続的に出版され続ける[19][注 3]

1990年代も終盤になると、過熱化したヘアヌードの流行も沈静化の方向に向かっていくが[21][22][23][24]、1997年には宮沢同様に当時トップアイドルであった菅野美穂の『NUDITY』が話題をさらう[25][26]。さらに2000年代に入るとインターネットの利用も国民化し、出版不況と言われる状況になってきていたが、そのよう中でも2002年に松坂慶子の『さくら伝説』が大きな売上を上げるなどした[27][28]

2000年以降 「新たな規制」[編集]

こうしてヘアヌード全体への弾圧はなくなったが、官憲の規制は、青少年保護を理由に行われるようになっていく[4]

2004年(平成16年)2月に日本フランチャイズチェーン協会(JFA)が出版倫理協議会に対し、「すべての不健全図書に対し、未成年が閲覧できないように包装、帯封などを完全実施する」などの自主規制強化方針を提示し、それを受けて大手週刊誌『週刊ポスト』『週刊現代』がヘアヌードグラビアの掲載を取りやめ、後に袋とじなどでの掲載に切り替えた。そうしてヘアヌードは主に写真週刊誌「フライデー」「フォーカス」、そして「実話誌」と呼ばれる雑誌に掲載されるようになっていたが、東京都庁の青少年・治安対策本部が07年12月下旬、週刊誌3誌の編集長を呼び、「青少年健全育成条例に反するグラビアの掲載を取りやめない場合は有害図書指定を行う」とほのめかして規制を図った[29]

また、ヘアこそ猥褻基準から外れたものの、性器表現は江戸時代の春画であっても「わいせつ」と判定されることがあり、2015年には春画とヌードを同時掲載した雑誌が警視庁に口頭で指導を受けている[30]

インターネットの一般化によって、こうしたヘアを含めてのポルノ規制は、国境を軽々と超え、年齢制限の議論も空洞化し、日本におけるヘア解禁は、ようやくこの流れに間に合ったともいえる。

女性目線のヌード[編集]

写真家の更井真理は女子目線のヌード写真集を発表し、話題となった[31]。「子どもたちにとって不健全なヌードを隠れて見るよりも、健全なヌードをもっと目に触れさせる機会をどんどん増やすべきだ。性に対して正しい目が持てる(保守派の木元教子)」という理由から、学校の図書館に宮沢りえ『Santa Fe』(篠山紀信撮影)を入れようという運動すら起きている[32]

ヌードもいとわぬ女優の三浦綺音は、「いかにも男の目線を意識している」中途半端なポーズを嫌い、「そんなことするくらいなら全部脱いだ方が気持ちいい」と発言した[33]。1999年の江角マキコ『ESUMI』は男性だけでなく女性からも好感をもたれた[34]

2009年、hitomiの『LOVE LIFE2』は、妊娠中に撮影された「マタニティーヌード」で、同世代女性からの反響が大きく、一部の妊婦のあいだでヌード撮影を行う現象が起きた[35][36]

主な写真集[編集]

モデル タイトル 撮影 出版年月 出版社・備考
樋口可南子 water fruit 篠山紀信 1991年2月 朝日出版社。ヘアヌード解禁の記念碑的写真集。
松尾嘉代 黄金郷 大森雄作 1991年7月 大陸書房。当時48歳で、「熟女ヘアヌード」の嚆矢となった。
本木雅弘 white room 篠山紀信 1991年8月 朝日出版社
宮沢りえ Santa Fe 篠山紀信 1991年11月 朝日出版社。当時のトップアイドルによるヘアヌード写真集。新聞の全面広告も話題になる。
(複数モデル) 愛のかたち Love is Love 金沢靖 1992年6月 竹書房
島田陽子 KirRoyal 遠藤正 1992年9月 竹書房
石田えり 罪-immorale- ヘルムート・ニュートン 1993年3月 講談社。世界的に著名な写真家による写真集。
辺見マリ INFINITO 谷口征 1993年5月 竹書房
山本リンダ WANJINA 遠藤正 1993年5月 竹書房
麻生真宮子 FAKE 渡辺達生 1993年6月 スコラ
西川峰子 PRIVATE 佐藤健 1993年7月 風雅書房
川島なお美 WOMAN 渡辺達生 1993年8月 ワニブックス
デヴィ・スカルノ Madame D 秀雅 藤井秀樹 1993年11月 スコラ
にしきのあきら REVOLUTION45 清水清太郎 1993年12月 リイド社
宮崎ますみ XX Holy Body 長濱治 1993年12月 勁文社
YELLOWS 五味彬 1993年 日本初のCD-ROM写真集。1991年に発売中止になった写真集をCD-ROM化。
大竹一重 ひとえ 沢渡朔 1994年5月 竹書房。ミス日本グランプリ大会の部門賞「ミスフラワー」。
竹井みどり 小樽ホテル 沢渡朔 1994年11月 リイド社
高岡早紀 one、two、three 篠山紀信 1995年1月 ぶんか社
大沢樹生 Trip 川口裕久 1995年6月 ぶんか社
荻野目慶子 Breezy day 篠山紀信 1995年11月 朝日出版社
藤田朋子 遠野小説 荒木経惟 1996年 発売直後に急遽発売中止。
ビビアン・スー VENUS 陳文彬 1996年7月 ぶんか社
天地真理 東京モガ 沢渡朔 1997年7月 モッツ・コーポレーション/リイド社
菅野美穂 Nudity 宮澤正明 1997年8月 インディペンデンス。20歳の誕生日に発売。発売記者会見で菅野が泣き話題に。
首藤康之 POSSESSION 操上和美 1997年10月 光琳社出版
原千晶 BORABORA 篠山紀信 1997年11月 小学館。1995年度の「クラリオンガール」。
林葉直子 SCANDAL 野村誠一 1998年 テイアイエス
葉月里緒菜 RIONA 篠山紀信 1998年 ぶんか社
杉田かおる 女優ごっこ 篠山紀信 1998年 小学館。写真集発売後にバラエティー番組等への出演が増え再ブレイク。
レオナ レオナの杜
碧きレオナ
大友正悦 1998年 エムエスピー
小島聖 West by South 篠山紀信 1999年1月 朝日出版社
井上晴美 LIVE 篠山紀信 1999年9月 幻冬舎
小柳ルミ子 EL VENENO 小沢忠恭 1999年10月 バウハウス
鮎川あみ Accidents TOKYO AMI 篠山紀信 2000年12月 朝日出版社
川上麻衣子 MAIKO KAWAKAMI 篠山紀信 2001年 小学館。ヘア解禁前の1983年に撮影された17歳時の未公開ヘアヌード写真を収録。
松坂慶子 さくら伝説 毛利充裕 2002年 フォーブリック。50歳での初ヘアヌード写真集。
かでなれおん はだかのれおん 篠山紀信 2004年 朝日出版社
叶美香 Sweet Goddess 叶恭子 2006年 バウハウス
小島可奈子 Moon&Sun 橋本雅司
毛利充裕
2006年 バウハウス
神楽坂恵 はだいろ 松田忠雄 2008年 講談社
hitomi LOVE LIFE2 高橋ヨーコ
舞山秀一
2009年 幻冬舎
細川ふみえ fumming 篠山紀信 2009年12月 講談社
嘉門洋子 写真集 嘉門洋子 橋本雅司 2011年2月 講談社
田畑智子 月刊NEO田畑智子 松井康一郎 2011年8月 イーネットフロンティア。朝ドラヒロイン経験者の突然のヘアヌードとして驚きを与えた。
後藤理沙 lisa goto at nude 佐藤学 2012年4月 講談社
西本はるか Shape 西田幸樹 2012年5月 講談社

映画におけるヘアヌード[編集]

概説[編集]

日本における映画興行では、『映倫管理委員会』という、自主規制組織による審査を通る必要があり、かつては陰毛についてはぼかし処理をかけるという規則があった。『愛のコリーダ』は諸外国では無修正で放映されたが、日本では大幅な修正が施されて上映されている[注 4]。また、同題名の書籍が発行されたが、その一部がわいせつ文書図画に当たるとして、わいせつ物頒布罪で監督と出版社社長が検挙起訴された[37]

『情熱の画家ゴヤ』(1971年、ソ連/東ドイツ映画)が公開されたときゴヤが「裸のマハ」を描く場面でモデルのヘアがスクリーン上に映し出されたが、芸術性の高い作品ゆえ当局も黙認した。 その後、1985年6月、第1回東京国際映画祭においてマイケル・ラドフォード監督のイギリス映画1984年』(1984年製作)がぼかし無しの状態で上映された。この作品では女優のスザンナ・ハミルトンらが陰毛を露出するシーンがあるが、東京における初めての大規模映画祭開催とあって製作者側への配慮から例外措置が取られ、その後も同映画祭内に限って陰毛描写を認める流れができあがった。

1992年5月、フランス映画美しき諍い女』が一般公開では初めて、ぼかしのないヘアヌードシーンを含んだ状態で上映された。映倫がこの上映を認めた背景としては、ヌードモデルをテーマにした作品でありヘアヌードシーンが映画の大半に及ぶため修正を入れると内容への影響が大きいこと、写真において前年に「ヘア解禁」が行われていたこと、さらにはこの作品は、前年の第4回東京国際映画祭において、既にぼかし無しの状態で上映されていたことなど、複合的な環境があげられる。映倫はこの作品の審査から陰毛修正を「原則」レベルに緩め、性行為と直接関わりのないヘアヌードシーンについては実質的に無修正が恒常化することになった。

日本映画史上初のヘアヌードとされるのが、1994年の『愛の新世界』における鈴木砂羽片岡礼子のヌードシーンである。

その後徐々に製作サイドにも浸透し、ヘア解禁以前に公開された作品についても2000年代、「ヘア無修正版」などと称してDVD等のメディアで再リリースされる例が増加している。近年ではヘアヌードを披露することを「役者魂を見せる」「体当たり」とメディアで報じられる傾向にある。これに反対する見方も日本にはあるが、海外では有名女優や大女優が映画で裸体を披露している。

しかし近年の日本では、CM契約において、イメージを重視する企業側が女優に対してヌードにならないよう要請するケースも多く[注 5]、著名な若手女優が裸になることは、それほど多くない。

主な映画[編集]

映画でヘアヌードになった代表的な女優の一覧。ビデオ映画も含める。

女優 タイトル 監督 公開年月日
墨田ユキ
八神康子
墨東綺譚[38] 新藤兼人 1992年6月6日
鈴木砂羽
片岡礼子
愛の新世界 高橋伴明 1994年12月17日
富田靖子 南京の基督 トニー・オウ 1995年12月9日
嶋田博子 「物陰に足拍子」より MIDORI 廣木隆一 1996年6月29日
藤井かほり スワロウテイル 岩井俊二 1996年9月14日
椎名英姫 OPEN HOUSE 行定勲 1998年6月20日
金谷亜未子 歯科医 中原俊 2000年2月19日
宮前希依 弱虫(チンピラ) 望月六郎 2000年11月11日
荻野目慶子 三文役者 新藤兼人 2000年12月2日
中原翔子 ビジターQ 三池崇史 2001年3月17日
佐々木ユメカ トーキョー×エロティカ 瀬々敬久 2002年6月15日
伊藤歩 ふくろう 新藤兼人 2004年2月7日
杉本彩
卯月妙子
未向
花と蛇 石井隆 2004年3月13日
伊東美華 完全なる飼育 赤い殺意 若松孝二 2004年9月18日
秋吉久美子 透光の樹 根岸吉太郎 2004年10月30日
河井青葉 ガールフレンド 廣木隆一 2004年11月27日
黒沢あすか でらしね 中原俊 2004年11月27日
黒田エミ 花井さちこの華麗な生涯 女池充 2005年11月26日
早良めぐみ ゲルマニウムの夜 大森立嗣 2005年12月17日
杉本彩
荒井美恵子
不二子
花と蛇2 パリ/静子 石井隆 2005年5月14日
板谷由夏 欲望 篠原哲雄 2005年11月19日
宮崎ますみ Strange Circus 奇妙なサーカス 園子温 2005年12月24日
山下葉子
黒沢あすか
サンクチュアリ 瀬々敬久 2006年10月7日
川越美和 松ヶ根乱射事件 山下敦弘 2007年2月24日
綾瀬つむぎ せつな 高原秀和 2007年3月23日
喜多嶋舞 人が人を愛することのどうしようもなさ 石井隆 2007年9月8日
小島可奈子 泪壺 瀬々敬久 2008年3月1日
月船さらら 世界で一番美しい夜 天願大介 2008年5月24日
町田マリー 美代子阿佐ヶ谷気分 坪田義史 2009年7月4日
安井紀絵
佐久間麻由
名前のない女たち 佐藤寿保 2010年9月4日
佐藤寛子 ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う 石井隆 2010年10月2日
江澤翠 愛するとき、愛されるとき 瀬々敬久 2010年10月9日
嘉門洋子 不倫純愛 矢崎仁司 2011年1月22日
水野美紀
神楽坂恵
冨樫真
恋の罪 園子温 2011年11月12日
片山瞳 海燕ホテル・ブルー 若松孝二 2012年3月24日
壇蜜 私の奴隷になりなさい 亀井亨 2012年11月3日
江口のりこ
千葉美紅
牧野風子
戦争と一人の女 井上淳一 2013年4月27日
佐々木心音 フィギュアなあなた 石井隆 2013年6月15日
中島京子
谷村みなみ
羽月希
マーダーフィルム ストーカーに狙われたメイド 岡崎喜之 2013年9月13日
間宮夕貴
屋敷紘子
甘い鞭 石井隆 2013年9月21日
森野美咲 花鳥籠 ヨリコジュン 2013年11月23日
桜木梨奈 華魂 佐藤寿保 2014年1月19日
芳賀優里亜 赤×ピンク 坂本浩一 2014年2月22日
高橋美津子 東京無国籍少女 押井守 2015年7月25日
木嶋のりこ
間宮夕貴
屋根裏の散歩者 窪田将治 2016年7月23日
璃子 好きでもないくせに 吉田浩太 2016年9月3日
冨手麻妙
筒井真理子
下村愛
吉牟田眞奈
アンチポルノ 園子温 2017年1月28日
永夏子
松田リマ
STILL LIFE OF MEMORIES 矢崎仁司 2018年7月21日
西川可奈子 アンダー・ユア・ベッド 安里麻里 2019年7月19日
柄本佑
瀧内公美
火口のふたり 荒井晴彦 2019年8月23日
小倉由菜 いつか…(R-15版) 髙原秀和 2019年8月23日
根尾あかり たすけびと 小関裕次郎 2022年10月14日

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ インターネットが一般的になった2000年代半ばには「裏本」の写真集自体が紙媒体では見られなくなった
  2. ^ 宮沢はこの前年にもカレンダーでふんどし姿を掲載している
  3. ^ 2015年にはSTAP騒動の渦中にあった小保方晴子のヘアヌードまで取り沙汰されている[20]
  4. ^ ヘア解禁後の2000年に無修正版がリバイバル上映された
  5. ^ 前評判との落差で物議をかもした伊東美咲(『海猫』)の例がこれに該当すると報じられている

出典[編集]

(18歳未満閲覧禁止のサイトを含みます)

  1. ^ 「ヘアー前線異常あり!?」 『Beppin 1993年5月号 No.106』
  2. ^ "篠山紀信に懇願されてボツにしたスクープの思い出…宮沢りえのグラビアと引き換えに". 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊ゲンダイ. 21 January 2024. 2024年1月21日閲覧
  3. ^ 「滑稽姑息極まる 裸体画の取締 局部に黒布を纏うて陳列」国民新聞 明治33年10月22日『新聞集成明治編年史 第十一卷』 p.140(国立国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧
  4. ^ a b c d e 日本雑誌協会 日本書籍出版協会50年史』 pp.139-151
  5. ^ a b 「年表(毛)20歳の歴史」『Beppin 1993年5月号 No.106』 p.125
  6. ^ 「芸術or猥褻!?境界上の(毛)記事」『Beppin 1993年5月号 No.106』 p.124
  7. ^ 「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.1 前編・後編」『お宝ガールズ スペシャル vol.1』 コアマガジン 1997年6月1日 pp.30-53
    「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.2」『お宝ガールズ vol.3』 コアマガジン 1997年3月4日 pp.34-42,52-59
    「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.3」『お宝ガールズ vol.4』 コアマガジン 1997年3月4日 pp.54-58
    「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.4」『お宝ガールズ 1997年7月号』 コアマガジン 1997年7月1日 pp.41-45
  8. ^ 「ザ・ヘアダス1996」 『デラべっぴん 1996年2月号 No.123』 英知出版 p.32
  9. ^ 宝泉薫 『アイドルが脱いだ理由(わけ)』 pp.8-13,146-150
  10. ^ 「宮沢りえ【ヘアヌード】以前アイドル全裸写真集Classic 70年代デビュー組」『お宝ガールズ vol.3』 コアマガジン 1997年3月4日 pp.34-42
    「宮沢りえ以後アイドルまる裸写真集解体新書」『お宝ガールズ 1998年7月号』 コアマガジン 1998年7月1日 pp.32-55
  11. ^ a b 1990年代 なぜ大物女優たちは次々に脱いだのか│NEWSポストセブン
  12. ^ 「当時18歳で人気絶頂のアイドルだった宮沢りえが、写真集『Santa Fe』で脱いだ影響で、若くて売れている時に脱ごうという雰囲気もできた。」「脱げば女優としてさらに売れるという多くの成功例ができ、口説きやすい状況が整った。また『あの人が脱いでブレイクしたなら……』と、女優同士での競争意識が働き次々と写真集が刊行されていきました」[11]
  13. ^ 「美味しいヌードル・パラダイス」『投稿写真 1994年6月号』 サン出版 1994年6月1日 pp.29-36
  14. ^ 「脱がされたアイドルたち」『Beppin No.127 1985年10月15日号』 pp.33-40
  15. ^ 宝泉薫 『アイドルが脱いだ理由(わけ)』 pp.160-170
  16. ^ 写真家レスリー・キー猥褻事件に、加納典明が反論 「ペニスだってアート!」|サイゾーpremium
  17. ^ 「1994年には250冊以上ものヘアヌード写真集が出版」[11]
  18. ^ 性表現での新展開に専門家「男のヘアヌード解禁でしょうね」│NEWSポストセブン
  19. ^ 「宮沢りえ以後アイドルまる裸写真集解体新書」『お宝ガールズ 1998年7月号』 コアマガジン 1998年7月1日 pp.32-55
  20. ^ 小保方晴子 STAP告白&ヘアヌード争奪戦が勃発した! - 週刊実話
  21. ^ 「ヘアヌード6年目でさすがに「見飽き」られてきた凋落の次は 」 『週刊新潮』 41巻49号 新潮社 1996年12月26日 pp.132-137
  22. ^ 「特集 ヘアヌードブームの終焉 」『創』 27巻1号 創出版 1997年1月号 pp.22-47
  23. ^ 「さらばヘアヌード 復権するチラリズムの美学 」 『サンデー毎日』 76巻8号 毎日新聞出版 1997年3月2日 pp.140-143
  24. ^ 元木昌彦「「ヘアヌード」ブーム終焉が向かう先は?」 『週刊朝日』 朝日新聞出版 2008年5月16日 113巻22号 p.118
  25. ^ 宝泉薫 『アイドルが脱いだ理由(わけ)』 pp.150-160
  26. ^ 「菅野美穂も出した「ヘアヌード写真集」 本人が明かす脱いだ理由とは - エキサイトニュース」
  27. ^ しまはるよし 「--写真集今昔物語--ヘアからソフトまで(1)松坂慶子「さくら伝説」の裏」 『夕刊フジ特捜班「追跡」』 2002年10月3日
  28. ^ しまはるよし 「--写真集今昔物語--ヘアからソフトまで(4)デフレ時代の写真集の現場」 『夕刊フジ特捜班「追跡」』
  29. ^ 都の申し入れで「自主規制」 週刊誌からヘアヌード消えるのか : J-CASTニュース
  30. ^ 「ヌードグラビア」を併せて掲載すると「わいせつ性増す」? 警視庁が春画掲載の4誌に口頭で「指導」 : J-CASTニュース
  31. ^ http://www.cinra.net/news/2010/11/24/171922
  32. ^ 宝泉薫 『アイドルが脱いだ理由(わけ)』 pp.10-11
  33. ^ 『デラべっぴん 1993年12月号 No.97』 英知出版 1993年12月号 pp.109-111
  34. ^ 宝泉薫 『アイドルが脱いだ理由(わけ)』 pp.196-201
  35. ^ MSN産経ニュース「【報告します!】そこまで脱いじゃうの!? 30代に「マタニティーヌード」大ブーム hitomiさんの成功も影響か」(2009年7月11日||
  36. ^ J-CASTニュース「hitomiに負けずに妊婦が挑戦 「臨月ヌード」がブーム」(2009年7月3日||
  37. ^ 松本昌悦, 「「愛のコリーダ」事件控訴審判決(憲法判例研究(3))」 中京大学法学部 『中亰法學』 17巻 2号 p.22-43,1983年, NAID 110006201087
  38. ^ https://movies.yahoo.co.jp/movie/151692/

参考文献[編集]

  • 「ヘアー前線異常あり!?」 『Beppin 1993年5月号 No.106』 英知出版 1993年5月1日 pp.121-128
  • 二見暁 『僕は「ヘア」ヌードの仕掛人』 洋泉社 1994
  • 「特集「ヘアヌード」シンドローム」『広告批評』第176号、マドラ出版、1994年10月1日、NDLJP:1853148 
  • 「脱がされたアイドルたち」 『Beppin 1995年10月15日号 No.127』 英知出版 1995年10月15日 pp.33-40
  • 「ザ・ヘアダス1996」 『デラべっぴん 1996年2月号 No.123』 英知出版 pp.31-36
  • 「宮沢りえ【ヘアヌード】以前アイドル全裸写真集Classic 70年代デビュー組」「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.2」『お宝ガールズ vol.3』 コアマガジン 1997年3月4日 pp.34-42,52-59
  • 「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.1 前編・後編」『お宝ガールズ スペシャル vol.1』 コアマガジン 1997年6月1日 pp.30-53
  • 「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.3」『お宝ガールズ vol.4』 コアマガジン 1997年3月4日 pp.54-58
  • 「ゲットバック!70▶80年代女優写真集レアグルーヴ PART.4」『お宝ガールズ 1997年7月号』 コアマガジン 1997年7月1日 pp.41-45
  • 「宮沢りえ以後アイドルまる裸写真集解体新書」『お宝ガールズ 1998年7月号』 コアマガジン 1998年7月1日 pp.32-55
  • 宝泉薫 『アイドルが脱いだ理由(わけ)―あの日、あの時、"彼女たち"はなぜ決心したのか!?』 <別冊宝島Real 021号> 宝島社2001年9月30日
  • 高須基仁 『毛の商人 : ヘアヌードの仕掛人が暴露する、女優・タレント(秘)話』 コアマガジン 2004
  • 『50年史』編集委員会 『日本雑誌協会 日本書籍出版協会 50年史』 日本雑誌協会 2007年11月
  • 元木昌彦 『「週刊現代」編集長戦記』 イースト・プレス 2015年

関連項目[編集]