タイの歴史

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タイの地勢図

タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国歴史を時代ごとに述べる。

先史時代[編集]

東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡る[1]タイ北部ラムパーン県からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている[2]。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである[3]。タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた[4]中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この石器時代の生活形態は長く続いた[5]。1万1000年前から7500年前の年代とされるホアビニアン英語版の中石器文化(ホビアン文化)は東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる[6][7]

東北部[編集]

新石器時代には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する[8]。北部イーサーン地方のバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には[注 1]、タイに初期の青銅器文化をもつ集落があったといわれる[9][10]。この発展に伴って、水稲の耕作が認められ[注 2][11]、同時に社会的な組織構成が進んだ[12]。これらの文化は、中国も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。

紀元前1000年頃には、イーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテム英語版 (Pha Taem、タイ語: ผาแต้ม) に岩絵が描かれた[13]。また、ウドーンターニー県プープラバート英語版 (Phu Phra Bat、タイ語: ภูพระบาท) の岩絵は約6000年前のものともいわれる[14]。このほかノーンブワラムプー県の岩絵などは、中国南部の岩絵(花山の岩絵など[注 3])との類似性が指摘される[15]。岩絵はタイ東北部のほか、北部、中部南部にも認められる[15]

民族[編集]

東南アジアのネグリトであるマニ族英語版 (Maniq) はタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はモン・クメール語派ケンシウ語英語版(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている[16]。次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる[17]。現在のタイに居住するタイ族は、中国の揚子江以南起源の民族であるとされ、6-7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい[18]。タイ族はその1千年紀中期から13世紀中頃、メコン川北部上流(瀾滄江)に定住していた[19]

古代国家[編集]

西暦900年頃の領域図
1000-1100年頃の領域図
  クメール
  ハリプンチャイ
  シュリーヴィジャヤ

ドヴァーラヴァティー王国[編集]

6-7世紀から[20][21]11世紀頃まで、モン族のナコーンパトムを中心とした広範囲な連合国家ドヴァーラヴァティー[注 4][22]が東南アジアで繁栄した[23]

紀元前3世紀頃、アショーカ王の遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にあるインド古語サンスクリット)のスヴァルナブーミ(タイ語: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による[24]。また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古のワット・プラパトムチェーディーがあるが[25]、考古学の証拠などによると、4世紀から6世紀の建設とされる[26]

ラヴォ王国[編集]

モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より[27]ラヴォロッブリーにあったが[28]9世紀頃、クメール王朝の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された[29]。その後、クメールの王スーリヤヴァルマン1世英語版(在位1002-1050年)により領有された[30]スーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが[30]、クメールの支配は13世紀まで続いた。

13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により[31]、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した[29]。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、1289年より1299年までに使節を送るなど、独立に動いた。その後、14世紀アユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であったスパンブリーとともに重要な位置を占めた[27]

ハリプンチャイ王国[編集]

伝説によれば、7世紀にドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォの王が、王女チャマデヴィ英語版(チャーマテーウィー)をハリプンチャイ(ラムプーン)に送ったことによって成立した[28]。ただし11世紀以前の史料はなく[32]、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀とされる[28]12世紀にはクメール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が進出している[30]1292年、タイ族のラーンナーの侵入により壊滅した[33]

真臘(クメール)[編集]

クメール族の真臘は、同じくクメール族の扶南国の属国であったが、5世紀中頃にはシーテープフランス語版などを支配下に置き[34]、7世紀初頭、王マヘンドラヴァルマン英語版(チトラセナ)[35]もしくは次のイシャーナヴァルマン1世英語版の時代には扶南を占領した[36]706年頃、陸真臘と水真臘に分裂したと中国の記録にある[37][38]。陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し[39]、沿海部はラージェンドラヴァルマン1世フランス語版が支配したともいわれる[40]8世紀中頃から水真臘はジャワのシャイレーンドラ朝に侵攻されていたが[41]、9世紀初頭、クメール王朝として独立した[42]。クメール王朝はその後、タイ東北部(イーサーン)より中部へと支配を拡大していった[43]

8世紀頃のシュリーヴィジャヤの領域図

シュリーヴィジャヤ王国[編集]

タイ南部はシュリーヴィジャヤ王国の影響下にあった[44]。シュリーヴィジャヤは7世紀より、交易の要衝であるマラッカ海峡周辺の多くの港市国家を支配していた[45]。タイ南部のチャイヤーは、その海上交易を支配するシュリーヴィジャヤの都の1つであったとされる[44]。また、ナコーンシータンマラート(リゴール)の775年の碑文により、8世紀後半にはジャワに興ったシャイレーンドラ朝に属するようになったことが知られる[46]

ラーンナー王国[編集]

メコン支流のコック川流域のタイ北部には、タイ・ユアン族英語版 (Tai Yuan、タイ語: ไทยวน) を中心に[47]、ヨーノック (Yonok) と呼ばれるグンヤーン英語版チエンセーン)を中心とした国家的形態の1つが認められ、その成立は11世紀から[48]12世紀頃であったとも考えられる[49]

グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 (Tai Lue) の君主マンラーイ[47]1259年に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、1262年に首都をグンヤーンからチエンラーイに、1269年にはファーンに移した。1281年には、7年間進入を企てていたマンラーイは、モン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた[50]1296年、新しく建設したチエンマイに遷都し[51]、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した[48]

15世紀のラーンナーの王ティローカラート時代の領域図

1338年、ラーンナーの王カムフー(在位1334-1336年〈1338-1345年〉[52])は、タイ族のパヤオ王国を併合[47]1443年には、王ティローカラート(在位1441〈1442〉-1487年〉[52])がプレーに侵攻し、プレー王国を併合した[53]。また、1448年頃にナーン(カーオ王国)を併合している[54]アユタヤ・ラーンナー戦争英語版では、1450年から1462年に王ティローカラートが数度にわたって南進し、アユタヤ王朝と衝突した[55]

1523年、ラーンナー王国の王ケーオ(在位1495-1525年)はチェントゥンに出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。さらに1524年には水害もあり、その人材と人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナー王国衰退の一因となった。1546年には、ラーンサーン王朝からセーターティラートを招いてラーンナーの国王に据えた。しかし2年後、セーターティラートは王位を継ぐためにラーンサーンに戻ると、その後さらに混乱は増した。1551年、ナーンのメクティドイツ語版(メーク、在位1951-1964年)が招かれ王位につくが、1558年ビルマの侵攻によりタウングー王朝の属国となった[56]

スコータイ王朝[編集]

1300年頃の領域図
  クメール

クメールの王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218/1220年)が死去した後、1240年頃に[57][58]、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)がパームアンとともに、クメールの支配するラヴォ王国からの独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる[注 5][59]

スコータイ王朝の3代目の王ラームカムヘーン(在位1279-1298年頃)の時代に、統治する領域は大きく広がっていった[60][61]。また、スコータイ王国はラーンナー王国と同盟を結んでいた[62]

ラームカムヘーンは、1292年のタイ語最古のラームカムヘーン大王碑文「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる。また、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進した[63]。しかし、ラームカムヘーンが死去すると、各地で離反が相次ぎスコータイ王朝は衰退していった[64]。その後、リタイ(在位1347-1368年頃)が即位し周辺を治めたが、この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増すと、1378年、王サイルータイ(マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった[65]

アユタヤ王朝[編集]

1400年頃の領域図
  スコータイ
  クメール
  ラーンナー
  ペグー
1540年頃の領域図
  アユタヤ
  クメール
  ラーンナー
  ラーンサーン

前期[編集]

スコータイ王朝の衰退の後、1351年[66]、ウートーン(ラーマーティボーディー1世)がチャオプラヤー川沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる[67]。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや[注 6][68][69]ロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年[70])として即位すると双方を連携させ、スパンブリーを義兄(王妃の兄)パグワに、ロッブリーを王子ラーメースワンに統治させた[67][71][72]

1438年、スコータイ王朝の王マハータンマラーチャー4世が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、実質的にアユタヤ王朝がスコータイ王朝を吸収した[64]

1540年、ビルマのタウングー王朝の王タビンシュエーティー(在位1531-1551年)がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた[73]第一次緬泰戦争(1548-1549年)では、タウングー王朝のバインナウンがアユタヤに侵攻し、1549年にアユタヤ王朝の王チャクラパット(在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃シースリヨータイが身を挺して命を助けたといわれる[74]。この戦いでは、アユタヤの王チャクラパットも防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる[75]

1551年、タウングー王朝の王となったバインナウン(在位1551-1581年)は、現在のシャン州となっている東部のシャン族を制圧すると、1558年にラーンナーに侵攻して征服した[76][77]第二次緬泰戦争英語版(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した後、1568年、再びアユタヤに侵攻し[78]、翌年、ビルマに占領された[79]

後期[編集]

1581年にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、1584年ナレースワン(在位1590-1605年)は機が熟したと見て、アユタヤ王朝の独立を宣言する[80][81]1590年に王位を継いだナレースワンは[82]1594年にタウングー王朝へ侵攻した[83]緬泰戦争〈1594-1605年〉英語版)。1595年ペグーの戦いに勝利し、要衝のマルタバンを奪い返した[84]1598年にラーンナーを属国とすると、1599年には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した[85]

1605年にナレースワンが死去し[86]、弟のエーカートッサロット(在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた[87]イギリスイギリス東インド会社)は1605年パタニ1612年にはアユタヤでの商業活動を許可された[88]

ソンタム(在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた[88]1612年頃アユタヤに渡来した山田長政が、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン[89]、Krom Asa Yipun[90])に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇されたが、ソンタム死去による王位継承争いの後プラーサートトーン(在位1629-1656年)が王位に就くと、1630年頃、王の命令で山田長政が暗殺され[91]、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた[90]

1661年に王ナーラーイ(在位1656-1688年)がラーンナーに攻め込み、1662年にはビルマのペグーまで侵攻した[92][93]

1663年11月から翌年2月にかけて、オランダ(オランダ東インド会社)が武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の船を捕獲するなどして一定の独占貿易を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した[94]。このことより王ナーラーイは、1665年、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーに副都を建設した[29]1685年12月にはチャオプラヤー・コーサーパーンフランスにアユタヤ大使として派遣英語版され、1686年9月、ルイ14世に謁見し、翌年9月に帰国している[95]1688年シャム革命英語版が勃発。最高顧問であったコンスタンティン・フォールコンが6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去するとペートラーチャー(在位1688-1703年)が即位し、フランス勢力を一掃した[96]

アユタヤ王朝は、16世紀1516年にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが[97][98]中国との関係が最も重要であった[99]。1709年に王位に就いたプーミンタラーチャー(ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心にタイ米の輸出が開始され[100][101]、オランダ領ジャワ(オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された[102]。また、ベトナムと手を結んだカンボジア内の勢力に対して1720年に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王ボーロマコート(在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、1749年、再びカンボジアに派兵し属国とした[103]

アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興ったコンバウン王朝との泰緬戦争(1759-1760年)で、テナセリム(タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、タヴォイ(ダウェイ)を失った[104]1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)で、ついにコンバウン王朝の侵入により、1767年4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した[105][106]

トンブリー王朝[編集]

1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり[107][108]華僑の父とタイ人の母をもつタークシンは、華僑の支援のもとに要衝トンブリー(現在のバンコクトンブリー区)を拠点として再統合することに成功し、1768年末にタークシン(在位1768-1782年)は王となった[109]。新首都トンブリーを拠点にトンブリー王朝はアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った[110]。また、カンボジアで始まった王座を巡る争いに介入し[111]1771年からカンボジアに2度侵攻した[112][113]

チャクリー王朝[編集]

1809年のラッタナーコーシン王国の領域図

その後、精神的な偏重を示したとされる王タークシンは[114]1782年初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された[109]。チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった[115]。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった[116]

ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になって、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国英語版によりケダ・スルタン国英語版を征服し[117][118]、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した[119]。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争英語版によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど[120]、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる[121]ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約英語版)を締結し[122][123]1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした[124]

この時代、ベトナムで1802年に成立した阮朝が強勢になると、タイとベトナムがカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした泰越戦争(1831-1834年)英語版において、1832年にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、1834年にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした泰越戦争(1841-1845年)英語版の結果、1845年にタイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された[125]。この結果、1847年アン・ドゥオンがカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、シンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった[126]

近代化[編集]

19世紀末-20世紀初頭のタイ領域の割譲
  1867年フランス[127]
  1888年フランス[128]
  1893年フランスに
  1893年イギリス[129]
  1904年フランスに
  1907年フランスに
  1909年イギリスに

タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のラーマ4世(モンクット、在位1851-1868年)と息子のラーマ5世(チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中のことであった。1840年からのアヘン戦争における大国のの敗北はタイにとっても大きな衝撃であり[130]、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革(チャクリー改革)と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の緩衝国となったことも独立の維持に役立った[131]1852年第二次英緬戦争英語版の結果、イギリスは下ビルマを獲得していた[132][133]。ラーマ4世は、1855年にイギリスと通商貿易に関する条約(バウリング条約英語版)を締結した[131][134]

一方、1779年よりタイの属国となっていたルアンパバーン王国では[135]太平天国の乱の末裔の中国人匪賊として各地に侵攻したホーにより1872年以来襲撃された。タイが軍を派遣したことでいったん沈静化していたが、1885年、再度襲撃が活発になると[136]、タイは討伐の軍を送り、フランスもまたシップソーンチュタイ英語版に軍を派遣した。これによりホーの襲撃はおさまりを見せたが[137]、ルアンパバーンにはフランス副領事館が置かれることとなった[138]。その後、1887年にルアンパバーンは再びホーにより襲撃された[137]。すでに軍は撤退しており、当時国王であったウンカム英語版とその家族はこの襲撃により危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィ英語版により救出され、逃亡に成功している[139]。このホー軍の襲撃は、ルアンパバーンに国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった[138]。また、清仏戦争で1885年に清からベトナムに対する宗主権をフランスが奪取したことも[140]、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる道を選択することを後押しした。ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも、1893年仏泰戦争英語版パークナム事件)に敗戦した結果、ラオスがフランス保護下に置かれることが確定すると[141]1899年、ラオスはフランス領インドシナに編入された[142][143]

イギリスは1885年の第三次英緬戦争英語版の結果[144]1886年にはビルマ全域を獲得していた[145]1890年代にイギリスとフランスが、ビルマとラオスの接するメコン川に向い合うようになると[146]1896年、イギリス・フランス両国は、タイのチャオプラヤー川流域に関する英仏宣言を発表して紛争を回避し、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた[131]1904年にはフランスとの協定でチャンタブリーがタイに返還される代わりに、ルアンパバーンのメコン川西岸(ラーンチャーン〈ラーンサーン〉)とチャンパーサックおよびマノープライ (Mano Phrai)、それにトラートダーンサーイ英語版を割譲し、1907年の条約では、トラートとダーンサーイが返還されたが、タイはカンボジアのバタンバンシェムリアップシソポンを割譲した[147][148]。また、1909年のイギリスとの条約(英泰条約英語版)では、現在のマレー半島の4州(クランタントレンガヌケダプルリス)を割譲した[149]。タイはこれらの条約の締結により多くの領土を手放したが、一方で東北部およびマレー半島などのタイ領を維持した[150]

1914年第一次世界大戦が発生すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、1917年4月のアメリカ参戦で連合国が有利と見極めたタイは、7月22日に連合国側として宣戦した。これに伴い、9月28日、タイの国旗を現在の3色旗に変更した[151]

立憲君主制時代[編集]

立憲革命[編集]

1910年にワチラーウットがラーマ6世(在位1910-1925年)として王位を継承すると、1912年には絶対君主制に反対する軍部の青年によるクーデター (Palace Revolt of 1912) が起こったが[152]失敗に終わった[153]

1925年ラーマ7世(プラチャーティポック、在位1925-1935年)が王位を継承すると、1929年に始まった世界恐慌をきっかけにタイの財政が悪化し、再び絶対君主制に反対する運動が高まった[154]1927年に結成された人民党による1932年クーデター立憲革命)は、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行させた[155]。ラーマ7世はこの改革を認めたが、その後1935年、当時9歳の甥ラーマ8世(アーナンタマヒドン、在位1935-1946年)に王位を譲った[156]

第二次世界大戦[編集]

人民党のプレーク・ピブーンソンクラーム(在任1938-1944年〈後1948-1957年〉)が実権を握り首相に就くと、1939年6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した[注 7]。タイは、1939年9月にヨーロッパ第二次世界大戦が勃発した直後に中立宣言を出していたが、1940年に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームは同年9月10日にフランス領インドシナと国境紛争を起こした[157]。タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、タイ・フランス領インドシナ紛争の開戦となった。翌1941年の日本の仲介により、5月9日に東京条約を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領に併合した[158][159]

その後、1941年12月8日にイギリスやアメリカなどの連合国との間に開戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい、イギリス領マラヤコタバルと同じく、タイ南部のソンクラー(シンゴラ)やパッターニー(パタニ)に上陸すると、タイ軍らは戦闘を開始したが[160]、同日、タイは日本軍の通過を認めた。こうした日本の圧力や、日本軍の緒戦の勝利を背景として、12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった[161]。その翌年の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国として参戦することになった[162]

1942年3月、駐米大使であり[163]後に首相になるセーニー・プラーモートは、日泰攻守同盟条約をもとに祖国が日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、「自由タイ」 (Free Thai、タイ語: เสรีไทย) という抗日運動をアメリカのタイ人外交官や留学生らと始めた。これはイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスは自由タイの志願者をイギリス兵として受け入れ、特殊訓練を施して情報機関員を養成した[164]。また、タイ国内にいたピブーンソンクラーム内閣の閣僚のプリーディー・パノムヨン摂政で後の首相)までも参加していた。1944年7月にはピブーンソンクラームの総辞職によりクアン・アパイウォンの新内閣が成立したが、日本に対しては自由タイ運動の支援などないように振る舞っていた。しかし、自由タイの指導者3名が入閣するなど急速に連合国との関係を強めた[165]

戦後[編集]

タイが1941年より併合し、戦後1946年に返還した3県
  ナコーン・チャンパーサック県
  ピブーンソンクラーム県
  プレアタボン県

1945年8月に日本が連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し[148]、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた[166]

戦後処理内閣が1946年1月に退陣して再び就任したクアン・アパイウォンが3か月で首相を辞任し、自由タイのプリーディー・パノムヨン(在任1946年3–8月)が次の首相となった[167]。5月にフランス軍がタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ[168]ナコーン・チャンパーサック県英語版(チャンパーサック州)、ピブーンソンクラーム県英語版(シェムリアップ州)、プレアタボン県英語版(バタンバン州)の3県がフランスに返還された。

1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した[169]。ラーマ8世に続いて18歳で即位した弟のラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート、在位1946-2016年)は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。プリーディーは8月の総選挙後に辞任し、自由タイのタワン・タムロンナーワーサワット英語版(在任1946-1947年)が次の首相になった[167]

軍事政権[編集]

1947年11月、陸軍によるタイ・クーデター英語版でプリーディーが亡命し、自由タイは終焉を迎えた。民主党のクアン・アパイウォンが首相に擁立されたが、翌1948年には陸軍の圧力により辞任を余儀なくされ、「ピブーンの返り咲き」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権(1948-1957年)が開始された[170]

1957年9月のサリット・タナラットのクーデターにより、ポット・サーラシン英語版暫定政権が誕生し、12月にタノーム・キッティカチョーン英語版政権が成立した[171]。その後、1958年10月20日のクーデターを経てサリット・タナラット自身による軍事政権(1959-1963年)が誕生した。サリットはインフラストラクチャーの整備や高い経済成長を実現した[172]。この時期、1961年フォードの工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した[173]1963年にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、長期軍事政権(1963-1973年)となった[174]

東南アジアの冷戦期には、ビルマ(ビルマ式社会主義)、カンボジア(クメール・ルージュ)、ベトナム(北ベトナム)およびラオス(パテート・ラーオ)のような近隣諸国の共産主義革命に脅かされた。タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、東南アジア条約機構 (SEATO) の一翼を担った。ベトナム戦争ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵を行い、北ベトナム爆撃(北爆)のための空軍基地の開設も許可した。また、タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地でもあったため、タイは経済的に発展し[175]パッタヤーなどのリゾート開発も進んだ[176]。ベトナム戦争が激化するなか、1967年8月8日に東南アジア諸国連合 (ASEAN) の設立がタイのバンコクにおいて宣言された[177]

民主化[編集]

1973年10月の学生運動を契機にタノームらが退陣し、民主化が行われた[178][179]1974年に新憲法が制定されると、翌1975年セーニー・プラーモートククリット・プラーモートが首相を務めた[180]。セーニー・プラーモートが再登板した1976年には、学生・市民と右翼組織とが対峙して国家の危機の時期となった。僧となったタノーム・キッティカチョーンの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日にタンマサート大学虐殺事件が起こり、学生運動が弾圧された。そして反共主義をとるターニン・クライウィチエン英語版(在任1976-1977年)がしばらく首相を務めた後、再び軍事政権期に入ることになった[181][182]

調整型政治[編集]

1977年からクリエンサック・チョマナン英語版(在任1977-1980年)による政権が敷かれた。一方、隣国カンボジアに誕生したポル・ポト政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した[183]。その後、1978年末から[184]1979年初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた[185]。同じく1979年にはベトナムからのボートピープルも急増した[184]

プレーム・ティンスーラーノン(在任1980-1988年)政権時代は「半分の民主主義」などと呼ばれ、比較的平穏で経済成長への道筋をつけた[186][187]。ただしラオスとの国境においては、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、外交努力により解除へ動きつつあったタイの国境封鎖に対して、再び歯止めがかかることとなった[188]。加えて1984年5月には、ラオスのサイニャブーリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の3つの村をタイ国軍が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、1987年12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌1988年2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた[189]

チャートチャーイ・チュンハワン(在任1988-1991年)政権では、軍の権益を軽視したことが災いして[190]1991年2月23日にスチンダー・クラープラユーン軍事クーデタータイ語版を起こし[191]、チャートチャーイが失脚すると[192]アナン・パンヤーラチュン(在任1991-1992年)が推されて一時文民政権が誕生した[193]

暗黒の5月事件[編集]

1992年3月に行なわれた総選挙の結果、スチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に指名され、4月に就任したが、民主化を望んでいた国民は反発し、5月17日の抗議デモにより衝突した(暗黒の5月事件)。スチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった[194]。1992年の民主選挙以来、タイは政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった[191]

政治危機[編集]

2006年タクシン・チナワット首相の不正蓄財疑惑が発端となり、9月19日に軍事クーデターが起こった[195]。これ以降、タイではデモ、暴動が相次ぎ、政治混乱が続くことになる。2011年、タクシンの妹インラック・シナワトラ(在任2011-2014年)がタイ史上初の女性の首相となると混乱は一時終息したかに見られたが[196]2013年11月に反政府デモが発生した[197]。翌2014年5月、インラックの政府高官人事の違憲判決により失職し[198]、5月22日には国軍が再び軍事クーデターを起こした[199]

2016年10月、王ラーマ9世が死去し[200]ラーマ10世(ワチラーロンコーン)が新国王に即位した[201]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当初は紀元前4千年紀、最古のものは紀元前3600年とされた。
  2. ^ 東北部のウドーンターニー県バーンチエン遺跡下層、中東部のチョンブリー県コークパノムディー遺跡からイネが出土。
  3. ^ 花山岩絵を描いた集団は後に青銅器時代ドンソン文化を担った雒越英語版であるとされる。
  4. ^ ドヴァーラヴァティーの漢訳として、頭和・投和・堕和羅・独和羅・堕和羅鉢・堕羅鉢底・杜和鉢底・堕和羅鉢底などと記される。
  5. ^ 現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を、スコータイでクメール(かつてタイではラヴォを統治するクメールをコームと呼んでいる)の領主を倒し、小タイ族のスコータイ王国を設立した13世紀としている。
  6. ^ 出生は不詳であり、スパンブリーやロッブリーの王家に関係する説のほか、『シアム王統記』では中国の一王族であったとする。ペッブリー付近出身の華人のもとに生まれたと考える説もある。
  7. ^ 国名「タイ」(Prathet Thaiタイ語: ประเทศไทย)は、当初1939年から1945年に使用され、1949年5月11日に公式に宣言された。prathetタイ語: ประเทศ)は「国家」、thaiタイ語: ไทย)「タイ」の語源は「自由」に由来するとした。

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]