ラーマ1世

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ラーマ1世
รัชกาลที่ ๑
シャム国王
ラーマ1世像(チャクリーマハープラーサート宮殿蔵)
在位 1782年4月6日 - 1809年9月7日
戴冠 1782年6月21日、於大宮殿
全名 พระบาทสมเด็จพระรามาธิบดีศรีสินทรมหาจักรีบรมนาถ พระพุทธยอดฟ้าจุฬาโลก
別名 พระบาทสมเด็จพระพุทธยอดฟ้าจุฬาโลกมหาราช
プッタヨートファーチュラーローク
トーン・ドゥワン(幼名)
王朝 チャクリー王朝
副王 スラシンハナート英語版
イッサラスントーン
副王代理 アヌラックテーウェート英語版
出生 (1737-03-20) 1737年3月20日
アユタヤアユタヤ市
死亡 (1809-09-07) 1809年9月7日(72歳没)
シャムバンコク
埋葬  
タイ王国の旗 タイバンコク大宮殿
トンディー
配偶者 アマリン
居所 大宮殿
宗教 上座部仏教

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称号:国王
敬称 陛下
His Majesty the King
พระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัว

ラーマ1世タイ語: รัชกาลที่ ๑)は、チャクリー王朝の初代のサヤーム国王プッタヨートファーチュラーロークタイ語: พุทธยอดฟ้าจุฬาโลก, ラテン文字転写: Buddha Yodfa Chulaloke)とも呼ばれる。『清史稿』は鄭華、『大南寔録』は質知ベトナム語: Chất tri)と呼ばれる。

生涯[編集]

印章

幼名はトーン・ドゥアン (ทองด้วง)。アユッタヤ王家の血を引いており、アユタヤ時代の士官、コーサー侯パーンの子孫と言われる。父親はモン族[1]、母親は中国系タイ人である[2][3]。アユタヤ王朝末期にすでに官吏として仕官しておりルワンヨック・クラバットの爵位も持っていた。ラーマ1世の称号ラーマ6世によって制定されたものである。

彼の仕えたアユッタヤ王朝がのちに、1767年(タイ仏歴2310年)にビルマ(現ミャンマー)に占領されると、翌年に華人勢力のタークシンがビルマ兵を駆逐し、トンブリー王朝を起こして王位に就くが、このときルアンヨック・クラバットことラーマ1世はタークシン国王に仕えた。ルアン・ヨッククラバットは、タークシンがラヨーンで挙兵したときにタークシンの母を保護するためラヨーンに送り届けた手柄でプラ・ラーチャワリンに昇進したのをはじめ、多くの戦果を上げ アパイ・ロナンリット伯爵、ヨマラート伯爵、チャックリー侯爵、マハー・カサットスック公爵、へと次々に昇進していったため、猛将としても知られている。

トンブリー王朝のタークシン国王が晩年に精神錯乱状態をきたした時、マハー・カサットスック公爵は国内の混乱をおそれて、カンボジア遠征を中断し、トンブリーに戻り、タークシン国王を処刑した。この後、公爵は王位に就くが、タイの正史では公爵は民衆に推挙され国王になったとされる。国王になったため名前をプラバートソムデットプラ・プッタヨートファーチュラーローク(世界最上の天上の御仏の意)とし、トンブリーからチャオプラヤー川を挟んで対岸である東岸にバンコク(クルンテープ)を建設し遷都した後、チャクリー王朝を興した。アユタヤ王朝の神権政治を継承した。

チュラーロークことラーマ1世は、即位後も猛将ぶりを発揮し、数回に及び進軍してきたビルマを駆逐し、国内を安定させた。国内が安定してくると、『三印法』を整備し官制度を整備した。またアユタヤ王朝の末裔であることを見せるため、多数の学者を導入してビルマ占領時代に散逸した文学ラーマキエンイナオを再編集した。今でもラーマ1世版のラーマキエンは数あるラーマキエンの中でも秀逸な作品として知られる。観光地と知られるワット・プラケーオ(エメラルド仏寺院)も彼の建設によるものである。ここにチュラーロークはヴィエンチャンから奪ったエメラルド仏を設置した。彼はこの他数多くの寺院を建てたとされる。

彼の名を冠した有名なものとしてチャオプラヤー川に架かった最初の大橋、「サパーン・プラプッタヨートファータイ語版」などがある。

爵位[編集]

  • 1767年、 ラーチャワリン子爵(พระราชวรินทร์)
  • 1768年、 アパイ・ロナンリット伯爵(พระยาอภัยรณฤทธิ์)
  • 1770年、 ヨマラート伯爵(พระยายมราช)
  • 1774年、 チャックリー侯爵(เจ้าพระยาจักรี)
  • 1781年、 マハー・カサットスック公爵(สมเด็จเจ้าพระยามหากษัตริย์ศึก)
  • 1782年、 ラーマ仏王陛下 (พระบาทสมเด็จพระบรมราชาธิราชรามาธิบดี บรมบพิตรพระพุทธเจ้าอยู่หัว)
  • 死後、 大王プッタヨートファーチュラーローク (พระบาทสมเด็จพระพุทธยอดฟ้าจุฬาโลกมหาราช)

脚注[編集]

  1. ^ Reid, Anthony『A History of Southeast Asia: Critical Crossroads』Wiley-Blackwell、2015年3月、215頁。ISBN 978-0-631-17961-0https://books.google.co.jp/books?id=cETJBgAAQBAJ&pg=PA215#v=onepage&q&f=false 
  2. ^ “Rama I”. ブリタニカ百科事典. オリジナルの2021年12月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211201031117/https://www.britannica.com/biography/Rama-I 
  3. ^ “Down Sampeng Lane: The Story of Bangkok's China Town”. CPAMedia. オリジナルの2007年7月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070708211128/http://www.cpamedia.com/articles/20060622_04/