チャイントン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
チャイントン
ကျိုင်းတုံ
ケントゥン、チェントゥン
—    —
1991年11月9日に取り壊されたソーボワ宮殿
チャイントンの位置(ミャンマー内)
チャイントン
チャイントン
チャイントンの位置
座標: 北緯21度17分30秒 東経99度36分30秒 / 北緯21.29167度 東経99.60833度 / 21.29167; 99.60833
ミャンマーの旗 ミャンマー
シャン州の旗 シャン州
チャイントン県
チャイントン
等時帯 MST (UTC+6.30)

チャイントンビルマ語: ကျိုင်းတုံ; Kyaingtong) は、ミャンマーシャン州東部の都市である。ケントゥン(Kengtung)、チェントゥン(タイ語: เชิยงตุง; Chiang tung)とも表記される。

地理[編集]

チャイントンはシャン高原の山に囲まれた盆地にあり、タイ国境タチレクから約160km、中国国境のモンラーから約80kmに位置する。町の中心のノントゥン湖とその畔の丘に建つ寺院、商店、民家などが密集して構成されている。

歴史[編集]

かつてはワ族の居住地であったが、13世紀にランナー王国マンラーイ王がこの地を征服し、城塞都市を築くと、北タイからの移民によりタイ系クン族タイ語版が主な住民となった。 マンラーイ王は王子と僧侶を派遣してチャイントンを支配させた[1]。 以降ランナー、ビルマ、中国に朝貢しながら、1962年までマンラーイ王の直系子孫による統治が存続した。

ソーボワ治世[編集]

マンラーイ王の子孫らはソーボワ英語版(藩王)として代々チャイントン藩を世襲統治してきた。 19世紀のビルマがイギリス領インド帝国編入後も、シャン州英国人弁務長官のもと、引き続きソーボワによる自治が認められた。 1905年、当時のソーボワ・サオ・コン・キャオ・インタレンによって、ノントゥン湖畔に西洋風の宮殿が築かれた。 1942年に日本軍のビルマ侵攻を受けた後、チャイントン藩はタイ王国に割譲された。 戦後、パンロン協定でシャン州各藩とともに、ソーボワ制存続と自由離脱権限を条件にビルマ連邦へ加入するが、後のアウンサン暗殺と1962年の軍事クーデターにより、その取り決めは反故にされ、ソーボワ制は終焉した。 チャイントン藩最後のソーボワ・サオ・サイ・ロンタイ語版は軍事政権によって投獄された後に釈放されたが、故郷チャイントンに帰らぬまま首都ヤンゴンで死去した。 1991年、ミャンマー政府によりノントゥン湖畔の宮殿も爆破・解体された。

山田長政残党伝説[編集]

元ビルマ大使・鈴木孝は在任中、かつて山田長政の残党とみられる日本武士団がチャイントンに亡命してきたとの伝承を、彼らの子孫を称する人物らから聞いている[2]。 鈴木が聞き取った内容は以下である。

  • アユタヤ王朝の時代、日本の武士62人がシャムで嫌われたため、チャイントン領に逃げ込んだ。
  • 彼らは一人のリーダーに率いられ、太平洋の島からシャムに渡って来た[3]
  • チャイントン住民は彼らを受け容れ、地元有力者の娘と結婚させた。
  • 住民は彼らを尊敬し、その習慣(頭髪、衣服、礼儀所作、作法など)を真似るようになった。

交通[編集]

周囲を山々に囲まれており、外の都市へは山中を抜けるか航空機を利用しなければならない。 とはいえ、古くから交易の要衝であり、現在でも、ミャンマー中部メイッティーラと泰緬国境タチレクを結ぶ国道4号線(アジアハイウェイ2号線でもある)と、中緬国境(打洛モンラー)へ通じるアジアハイウェイ3号線の合流地点となっている。

2015年現在、外国人はタイ国境タチレクとの間をバスやタクシーで往来可能だが、その他の都市とチャイントン間の陸路移動は認められておらず、検問所で取締りを受ける。一方、空路であれば外国人でも、ヤンゴンマンダレーなど国内都市との移動が可能である。

脚注[編集]

  1. ^ 伊藤利勝編「ミャンマー概説」(めこん、2011年) 第5章第2節 サイカムモン著(原田正美訳) p.411
  2. ^ 鈴木(1977) p.189-193
  3. ^ この人物を山田長政としたのは、鈴木の推定と見られる。なお、長政は台湾経由でシャムに渡航したと考えられている。

参考文献[編集]

  • ネル・アダムズ 『消え去った世界―あるシャン藩王女の個人史』 文芸社、2002年ISBN 9784835541389
  • 鈴木孝 『ビルマという国—その歴史と回想』 PHP研究所、1977年ISBN 9784569202150