アフガニスタンの歴史
アフガニスタンの歴史(アフガニスタンのれきし)では、中央アジアに位置するアフガニスタンの歴史を概説する。
概要
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アフガニスタンは、文明の十字路と称され、様々な宗教や民族が渡来した。紀元前4世紀のアレクサンドロス3世による遠征を皮切りに、諸外国の王朝の支配を受け、アフガニスタン人(パシュトゥーン人)自身による王朝は1747年になって初めて成立する。その後、アフガニスタンは、ロシアとイギリス(イギリス領インド帝国)の二大国によるグレート・ゲームの舞台となり、翻弄されることになる。1907年の英露協商成立によってグレート・ゲームは落ち着き、第二次世界大戦終戦まで中立を維持する。だが、アフガニスタンは、近隣の超大国ソ連に傾斜したことから、ソ連の支配を受け、アフガニスタン紛争が勃発する。アフガニスタン紛争を戦い抜いたムジャーヒディーンであったが、派閥抗争に明け暮れ、1994年頃より厳格なイスラム主義のターリバーンが台頭し、ターリバーンがアフガニスタンを支配する。だが、2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが勃発し、アメリカが中心となり、ターリバーン政権を崩壊させる。その後は、親米政権が樹立されたが、ターリバーンが再び勢力を回復し、政権を奪回した。
アフガニスタン人について
[編集]アフガニスタンは、多民族国家であり、その民族の数は20以上存在するとされる[1]。アフガニスタンの大多数を占めるのはパシュトゥーン人で、一般にアフガニスタン人と言えば、パシュトゥーン人の事を指すが、そもそもアフガニスタン人とパシュトゥーン人の区別は曖昧である[2][3]。そして、そのパシュトゥーン人にしても、350とも400とも言われる部族に分かれている[4]。2021年4月時点の推計では、アフガニスタンの人口は約3290万人である[5]。パシュトゥーン人が人口の40%、その他にタジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などが主にアフガニスタンに居住している[5]。
先史時代
[編集]アフガニスタンの先史時代にはわかっていないことが多く、前期旧石器時代の遺跡は発掘されていないが、石器は発見されている[6]。アフガニスタンと隣接しているタジキスタン、イラン、パキスタンでは人類が活動していた形跡があったため、アフガニスタンにも同時期に人類がいたと見られている[6]。
旧石器時代も中期から後期になると、遺跡が発掘され、土器も見つかっている[6]。1万年前には農業と牧畜が行われていた[7]。紀元前8千年から紀元前4千年になると、野外の居住跡は見つかっていない[6]。紀元前6千年紀には、ラピスラズリが採掘され、現在のインドへ交易品として使われていた[6][7]。
その後、アフガニスタンでは新石器文化があったと見られている[8]。そして、カンダハールでは、紀元前4000年頃から紀元前2000年頃には人が住んでいた[9]。紀元前4千年頃になると、アフガニスタンでも金属器が使われるようになる[6]。紀元前3千年頃になると、青銅器が使われる[6]。紀元前2500年頃になると、都市に相当する遺跡が見つかっており、これはヘルマンド文明と呼ばれている[6]。ヘルマンド文明は紀元前3千年紀の後半には終焉を迎えた[10]。
紀元前2千年紀になると、インド=イラン語族話者がアフガニスタンに土着あるいは通過する[11]。紀元前2千年紀の前半又は中期には、インド・アーリア人、イラン人が到来する[11]。
アフガニスタンでは、ヒンドゥークシュ山脈や北部のバダフシャン地方に、数は少ないが、インダス文明に属する遺跡が見られる[12][13]。
アフガニスタンの北部ではインダス文明とメソポタミア文明の影響を受けた遺跡が見られる[6]。これをバクトリア・マルギアナ複合と呼び、オクソス文明とも言われる[6]。
諸外国による支配
[編集]アケメネス朝ペルシアの支配とアレクサンドロス大王の遠征
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紀元前6世紀になると、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が領土を拡大し、この頃にアフガニスタンの歴史が他国の歴史にも表れる[7]。アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、アフガニスタンに様々な州を設置して支配した[8]。ダレイオス1世の時代については、アフガニスタン北部(バクトリア)、現在のカンダハールを中心とした南部、現在のヘラートを中心とした西部、現在のカーブル(南東部)からパキスタン北西部(いわゆるガンダーラ)が、ダレイオス1世が支配していたという内容がベヒストゥン碑文や粘土板に記されている[6]。このアケメネス朝時代に、アフガニスタンの主要都市では防壁が備えられ、農業も盛んになり、人口が増える[8]。アケメネス朝はゾロアスター教を信仰しており、ゾロアスターは伝説では紀元前522年ごろにバルフにおいて、死去したとされる[7]。

その後、アケメネス朝の力が衰えると、マケドニア王国のアレクサンドロス3世が大遠征を行い、紀元前331年には、ダレイオス3世を破り、翌年紀元前330年には、アフガニスタンへと領土を広げる[7]。アレクサンドロス3世は、アフガニスタン内に、自身の名前を冠した町を多数作った[8][7]。
アレクサンドロス3世が紀元前323年に死去すると、彼の部下であったセレウコス1世がアフガニスタンを支配する(セレウコス朝)[14][15][16]。だが、間もなくインドのマウリヤ朝のチャンドラグプタに敗北し、カーブルとカンダハール地域はマウリヤ朝が支配するようになる[17][14]。一方、バクトリア[注 1]については、セレウコス朝の支配がしばらく続いたが、紀元前3世紀中頃になると、グレコ・バクトリア王国として独立する[14][17]。
マウリヤ朝からクシャーナ朝による支配
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マウリヤ朝のアショーカ王(在位紀元前268-紀元前232年)時代、仏教がアフガンで布教され、カンダハールには仏塔や仏寺が残っている[14][9][18]。紀元前232年にアショーカ王が死去すると、マウリヤ朝の力は衰え、紀元前184年にグレコ・バクトリア王国は、マウリヤ朝の主要都市パトナにまで到達し、メナンドロス1世が紀元前155年から紀元前130年まで統治を行った[18]。だが、それ以降のグレコ・バクトリア王国とインドの王朝(インド・グリーク朝)による支配の状況はわかっていない[19]。

紀元前2世紀中頃から、中央アジア南部に月氏が中国から移民してくる[20]。紀元前130年頃に月氏がバクトリアを征服し、大月氏下の五翕候の一人からクジュラ・カドフィセス(丘就卻)が台頭し、 クシャーナ朝が成立する[21]。クシャーナ朝時代、東には後漢、西にはローマが連なり、シルクロードを通じて交易も行われた[15][21]。クシャーナ朝の支配領域は、アフガニスタン北部とカーブル川流域を支配していたことは間違いないが、アフガニスタンの南部と西部が支配下にあったかはわかっていない[22]。クシャーナ朝時代には、仏教が広く受容され、ヘレニズム文化と融合したガンダーラ美術が繁栄した[23][22][24]。
サーサーン朝時代からウマイヤ朝時代
[編集]紀元後3世紀中頃になると、クシャーナ朝は分裂し、クシャーナ朝の西方のサーサーン朝によって攻撃され、クシャーナ朝はサーサーン朝の小国となる[25]。だが、サーサーン朝によるアフガニスタンの支配の実態はよくわかっていない[25]。その後4世紀半ば以降の中央アジアでは、匈奴のフン族に起源をもつとされる遊牧民が力を持つようになる[26]。

5世紀には、同じくフン族に起源をもつとされるエフタルが台頭し、サーサーン朝を脅かし、5世紀後半にはヒンドゥークシュ山脈の南北にエフタル朝を建国する[27][25]。エフタル朝は、一時はサーサーン朝の王位継承にも干渉するなど力を持ったが、サーサーン朝のホスロー1世がエフタルを破る[25][27]。この辺りの動向については、中国の北史によると、エフタルとサーサーン朝が共闘して、突厥と戦い、その後突厥はエフタルと同盟して、サーサーン朝と戦ったが敗北したとしている[27]。
630年頃、中国の訳経僧・玄奘が現在のアフガニスタン北部を訪れ、当時の様子を大唐西域記を通じて伝えている[28]。大唐西域記によると、当時のアフガニスタン北部は、いくつもの小国に分かれ、突厥に従属し、仏教が栄えていたとされている[28][24]。
イスラム王朝による支配
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636年頃からアラブ勢力が、サーサーン朝を攻撃し、650年前後にはバルフやヘラートを支配する[18][29]。サーサーン朝は、ヤズデギルド3世が651年に暗殺され滅亡する[30]。その後、661年になるとウマイヤ朝がアフガニスタンの多くの都市を支配するようになる[29]。イスラム教最初の王朝であるウマイヤ朝がアフガニスタンを支配するようになったことから、イスラム教がアフガニスタンにも伝えられたが、ガズニーやカーブルにイスラム教が伝わるのは、それから200年ほど経過してからである[18]。
アフガニスタンではこのように、ヘレニズム文化、ゾロアスター教、仏教、イスラム教の伝来したことから文明の十字路と称される[31]。
ウマイヤ朝はホラーサーンを支配し、広大な領土を支配した[32]。ウマイヤ朝はその広大な領土故、非アラブ系の諸民族を抱え込み、ウマイヤ朝は彼らに人頭税を課し、8世紀半ばになると、彼らはウマイヤ朝に反乱を起こすようになり、750年滅亡し、アッバース朝が成立する[32]。

アッバース朝の第7代目カリフのマアムーン時代、反乱鎮圧の功績によって、将軍のターヒルがホラーサーンの統治を委ねられ、821年にはターヒル朝が創始され、アフガニスタンもターヒル朝の支配をうける[30]。だが、ターヒル朝は50年ほどで滅び、ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールが興したイラン系のサッファール朝が、ターヒル朝に取って代わって支配する[30]。だが、そのサッファール朝は、ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール死去後すぐに力が衰え、874年に成立したサーマーン朝がホラーサーンを支配する[33]。サーマーン朝は、900年頃になると、ヒンドゥークシュ山脈南部も支配するようになり、その支配はアフガニスタンの大部分に及んだ[33][34]。サーマーン朝は、イスラムに基づく統治を行った[33][34]。

サーマーン朝は、トルコ人奴隷を軍事力として利用していた[33]。だが、その中で、奴隷出身でありながら軍の高官に上り詰めたアルプテギーンは、962年、現在のガズニーに王朝を樹立した(ガズナ朝)[33]。ガズナ朝は、その後領土を拡張し、977年から1000年までに、カーブル、ボスト、バルフ、ヘラートを占領した[33]。ガズナ朝の第7代目君主のマフムードは、サーマーン朝を滅亡させ、インドにも侵攻する[32]。ガズナ朝の遺跡については、僅かにミナレット(尖塔)が残されているだけである[33]。

ガズナ朝はバフラーム・シャー(在位1117年-1152年)の時代になると、セルジューク朝の攻撃を幾度も受け、力が衰える[35][36]。ガズナ朝は、1186年、アフガニスタン中央の山岳よりやってきたゴール朝によって滅亡させられる[35][36][37]。ゴール朝は、ギヤースッディーン・ムハンマド(在位1163年-1202年)、シハーブッディーン・ムハンマド(在位1203年-1206年)の時代に繁栄するが、晩年になると勢力が衰え、1215年、サマルカンドを首都とするホラズム・シャー朝によって滅ぼされる[37][32]。
モンゴルの到来
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ホラズム・シャー朝は、イラン西部からアフガニスタン東部に渡って支配していた[37]。だが、そのホラズム・シャー朝の支配も長くは続かなかった。ホラズム・シャー朝は、1218年より、モンゴルのチンギス・カンによる攻撃を受けて、事実上滅亡する[38]。1221年になると、アフガニスタンにモンゴル軍が到達する[39]。チンギス・カンは、1227年に死去するが、彼が掌握した領土はその息子に継承され、アフガニスタン北部は、チャガタイが支配する[39][38]。カーブル、ガズニー、ヘラートはモンゴルが支配するが、ヘラートは1244年から、地元の有力者でタジク人のマリク・シャムス・ウッディーン1世が支配するようになり、クルト朝を創始する[39][32][38]。クルト朝は、14世紀後半に至るまでヘラートと現在のアフガニスタンの大部分を支配したが、モンゴル(イルハン朝)の従属下にあった[39]。

1364年になるとティムールが、チャガタイ・ハン国の西部分を支配するようになり、1380年代になると、ヘラートを掌握し、アフガニスタンを支配するようになる(ティムール朝)[40][41]。1405年にティムールが死去すると、ティムール朝は内紛がおこるが、ティムールの第4子シャー・ルフ(在位1409年-1447年)が王位に就く[42]。ヘラートは繁栄し、中近東の文化の中心地となった[42]。シャー・ルフが1447年に死去すると、わずか10年間でヘラートの統治者は12年間で10人も変わるという動乱の時代を迎えた[40]。1469年に、ティムール朝の君主アブー・サイードが殺害されると、スルタン・アフマドが君主となるが、彼の支配はサマルカンドとその周辺に限定されており、フサイン・バイカラ(在位1469年-1506年)がヘラートを支配すると、情勢は落ち着くようになるが、ティムール朝は、サマルカンド政権とヘラート政権に分裂する[43][40][42]。

ティムール朝のサマルカンド政権は、1500年にシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニーによって滅ぼされる[41]。そして、ムハンマド・シャイバーニーは、1507年にはティムール朝のヘラート政権を滅ぼした[41]。これによって、シャイバーニーは、アフガニスタンの西方を支配する[41]。
ティムール朝サマルカンド政権はバーブルが支配していたが、1500年にムハンマド・シャイバーニーによって、サマルカンドが占領される[44][41]。だが、シャイバーニーは、イランの王朝サファヴィー朝のイスマーイール1世によって敗死させられる[44][45]。サマルカンドを明け渡したバーブルは、その後インドへと遠征を行い、1526年にムガル帝国を建国した[44]。アフガニスタンはムガル帝国の属州となる[44]
一方ヘラートとカンダハールについては、サファヴィー朝が1558年に一旦確保するが、カンダハールについては、100年ほどの間、サファヴィー朝とムガル帝国との間で領土を巡り争いが繰り広げられる[46]。
その後、1709年にギルゾイ族の族長のミールワイス・ホータクが、サファヴィー朝からカンダハールを奪還することに成功し、ホータキー朝が成立する[47]。
ホータキー朝の時代からアフシャール朝時代
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ミールワイス・ホータクは、サファヴィー朝と争い、領土をファラーにまで拡大する[47]。ミールワイス・ホータクは1715年に死去し、後継者となったマフムード・ホータキーは、軍事作戦を決行し、サファヴィー朝の首都・エスファハーンの占領に成功する[48]。だが、マフムード・ホータキーは暴虐の限りを尽くしたため、1725年に甥のアシュラフ・ギルザイによって暗殺されてしまう[48][49]。ホータキー朝の首長となったアシュラフであったが、ホータキー朝は、1738年にイランのアフシャール族の王ナーディル・シャーによって滅ぼされる[47][50][51]。ホータキー朝が支配していたカンダハールを占領したナーディル・シャーは、これによってアフシャール朝を樹立する[49]。
ナーディル・シャーはインドにも進軍し、デリーを一時陥落させたが、残忍な振る舞いが目立つようになり、1747年に暗殺され、アフガニスタンでは独立に向けた気運が高まることになる[47][45]。
ドゥッラーニー朝
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1747年にイラン系遊牧民パシュトゥーン人がアフシャール朝から独立してドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)が建国される[52][53][3]。この時代はインドへの侵攻も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した[54]。一般にはドゥッラーニー朝が、アフガニスタン人による初めての王朝と見なされている[5]。
アブダリー族のアフマド・ハーンは、アブダリー族の9つの亜族が集まったローヤ・ジルガ[注 2]によってシャーに選ばれた[56]。その後、アブダリー族はドゥッラーニーと名乗るようになり、アフマド・ハーンは、アフマド・シャー・ドゥッラーニーとなった[4]。1748年にガズニーとカーブルを攻撃し、続いてペシャーワルを襲った[56][57]。その後デリーへ兵を進め領土を拡げた[56][57]。1750年ヘラートに進撃する[56]。さらにアフガニスタン中央部のバーミヤンを抑える[56]。
アフマド・シャーは1772年に死去し、ティムール・シャー・ドゥッラーニーが後継者となる[4][56]。だが、ティムールの政権基盤は脆弱であったことと、ドゥッラーニー族からは国王に就任したことを良く思われていなかったことから、首都をカンダハールからカーブルへと移した[4][50][58]。ティムールは、1年間のうち、8か月はカーブルで執務し、4か月はペシャワールで執務した[50]。ティムールは、その後幾度か暗殺未遂に遭うが、1793年に47歳で病死する[50]。ティムールには男女合わせて36人もの子女がいたため、後継者争いがおこる[50][59]。
王位に就いたのは第5子のザマーン・シャー・ドゥッラーニーであったが、兄弟による争いはなおも続き、この争いを好機として、パンジャーブ、カシミール、シンドで反乱が起こる[60][59]。ザマーンは、兄弟との戦争に終始したため、内政が疎かになる[60]。そのため、ザマーンの暗殺が計画されるが、ザマーンは暗殺計画を察知し、暗殺計画に関与した族長をことごとく殺害する[60][59]。だが、そのザマーンも、1799年に、とうとう兄弟のマフムード・シャー・ドゥッラーニーによって、両目を潰され、国王の座を失陥する[60][59]。権力闘争に勝利したマフムードであったが、そのマフムードも、1803年に異母弟のシュジャー・シャーによって王の座を簒奪される[60][59]。
1808年、イギリスからシュジャー・シャーに対して接触があり、翌年イギリスとの防衛条約の交渉が行われる[60][61][62]。 シュジャー・シャーは大英帝国と同盟の締結に前向きな姿勢を見せる[60][61][62]。ナポレオンのフランスとロシア帝国が共同してインド侵攻した場合、対抗する意味合いがあった(グレート・ゲーム)[61]。だが、シュジャー・シャーが、異母兄のマフムードに敗北したことから、条約締結の交渉は決裂してしまう[61][62]。シュジャー・シャーはイギリスによって匿われることになる[62]。
バーラクザイ朝
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1826年、ドゥッラーニー部族連合バーラグザイ部族の長ムハンマド・アズィーム・ハーンの弟、ドースト・ムハンマド・ハーンがドゥッラーニー朝から独立してバーラクザイ朝を建国する[63][64]。
アフガニスタン首長国
[編集]ドースト・ムハンマドは、1835年に君主の称号をアミールに変え、国名はアフガニスタン首長国となった[65]。1830年代、当時のアフガニスタンは、中央アジアへの南下政策を推進するロシアと植民地インドの防衛を至上とするイギリスの対立(グレート・ゲーム)に巻き込まれていた[66]。一方ドースト・ムハンマドは、イギリスに対して、かつてアフガニスタンの領土であったペシャーワルを、シク教徒からアフガニスタンに引き渡すよう要望する[67][68]。だが、イギリス側はこの要望には応じなかった[68]。イギリスの対応に不満を持ったドースト・ムハンマドは、ロシアに接近する[68][67]。ロシアに接近したことを知ったイギリスは、ロシアの南下の気配があると考え、ドースト・ムハンマドを国王の座から引きずり下ろすことを画策し、1838年、インド総督ジョージ・イーデンがアフガニスタン派兵を決断した[67][68]。

これが第一次アフガン戦争(1838年 – 1842年)の始まりである[69][70]。イギリス軍は、これと言った抵抗も受けずにカンダハールを占領した[69]。1839年7月イギリス軍は一気にカーブルに攻め込み、イギリスが匿っていたシャー・シュジャーは復位を果たす[69]。1840年、ドースト・ムハンマドはイギリスに対して、抵抗を試みたが成功せず、カーブル城下でイギリス軍に降伏し、カルカッタに追放された[69]。王に復位したシャー・シュジャーであったが、イギリスの傀儡政権でしかなかった[69][70]。
1841年秋よりイギリス軍は度重なる襲撃を受け、総督府の代表であったウィリアム・マクノーテンと補佐役のバーンズらも殺害され、カーブルからの撤退を決める[71][69]。翌年ジャララバードの駐屯地に向けて退却を開始するが、到着するまでに2万人近いイギリス軍側の兵士と非戦闘員はほぼ全滅した[71][69][注 3]。敗走したイギリスは、アフガニスタンに対し報復攻撃を開始し、1842年7月にはカーブルに突入し捕虜となっていた兵士を救出、バザールを焼き払うなどしカーブルを破壊した[72][71]。1842年9月、イギリス軍はカーブルを引き揚げて第一次アフガン戦争は終わった[72]。
1843年にドースト・ムハンマドは帰国し、シャー・シュジャーは暗殺され、ドースト・ムハンマドが再び実権を握った[73][69][72]。この頃、イランのガージャール朝もアフガニスタンへの影響力強化を図っていた[74]。こうした中で、アフガニスタンは1855年にイギリスとペシャーワル条約を結び、両国の相互防衛を定めた[75]。そのため、翌1856年にガージャール朝のナーセロッディーン・シャーがヘラートへ遠征すると、イギリスはヘラートを奪回しつつイランを攻撃し、1857年にパリ条約を認めさせてガージャール朝のアフガン進出を挫いた[75][76]。これにより、アフガニスタン国家の領域が明確になっていった。
イギリス保護国期
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1863年にドースト・ムハンマドが死去すると、息子のシェール・アリが王位を継いだ[77][72][78]。この頃、ロシアは南下政策を推し進め、1868年にサマルカンドを、1873年にはヒヴァを、1875年にはコーカンドを占領する[78][79]。1878年、ロシアはイギリスの影響力を排除することを目的にカーブルに外交使節団を送り込み、軍も駐留させた[77][80]。それを知ったイギリス政府とインド総督リットンはカーブルにイギリスの大使館の設置を要求したが、回答がなかったことからアフガニスタンに対し軍隊の進駐を決める( 第二次アフガン戦争)[81][70][77]。
第一次アフガン戦争と同様に、当初はさしたる抵抗もなく、イギリス軍の駐留が行われるが、1879年にカーブルで反乱が起き、1880年にカンダハール郊外でおきたマイワンドの戦いではイギリス軍が大敗した[81][77]。その頃イギリスでは自由党のグラッドストン内閣が成立、アフガニスタンへの積極的な介入を推進していたリットン総督を更迭し、新しくリポン総督を任命し撤退を指示した[77]。
その際にイギリス側は亡命していたアブドゥル・ラーマン・ハーンを擁立することで反乱の沈静化を図り、アフガニスタン側はイギリス以外の国との政治的な関係を結ばないことを条件に、イギリスからの内政干渉を受けないことの約束を取り付け、事実上イギリスの保護国となった(ガンダマク条約)[77][70][82]。


1897年にアフガニスタン国王アブドゥル・ラーマンとイギリス領インド帝国外相モーティマー・デュアランドとの間で国境線が画定される(デュアランド・ライン)[83][77]。デュアランド・ラインは、イギリス側が有利なように国境を画定し、パシュトゥーン人の部族の居住地域を横断する形で国境線が確定されてしまう[84]。しかも、同条約は、英語で記載されていたため、英語を解さないアブドゥッラフマーン・ハーンにとっては、知らず知らずのうちに不利な条約を承諾させられてしまった[85]。アフガニスタン側は暫定的なものと解釈していたが改定されることはなく、パシュトゥーン人の歴史と分布を無視した人為的な分断として、現在のアフガニスタン・パキスタン国境線に繋がり多くの問題を引き起こす元となった[83][77][70]。
アブドゥッラフマーン・ハーン死去後は、息子のハビーブッラー・ハーンが国王に即位する[86]。ハビーブッラーは、イギリスとの関係維持に務めつつ、官営工場の設立や水力発電所の建設などで、アフガニスタンの近代化を行った[70][87]。
1907年には英露協商が成立し、グレート・ゲームは事実上終了する[77][87]。英露協商は、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗するために、イギリスとロシアにおいてペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットでの勢力範囲を定めたもので、アフガニスタンについてはロシアへの軍事的拠点としない条件でイギリスが支配することになった[77]。第一次世界大戦中は、アフガニスタンは中立を表明した[88]。だが、アフガニスタン国内では、反イギリスの意見も強かった[89][88]。だが、もしもイギリスに対して宣戦布告を行った場合、イギリスの同盟国であったロシアにも宣戦布告をすることになるため、ハビーブッラー・ハーンはあくまでも中立を維持したが、彼は1919年に、何者かによって暗殺されてしまう[89][70][88]。この暗殺が、中立の維持に対する抗議であったかどうかはわかっていない[90]。
イギリスからの独立
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ハビーブッラー・ハーンが暗殺された後、王位は息子のアマーヌッラー・ハーンが引き継いだ[91][70]。1919年5月、アマーヌッラーはイギリス軍に対してデュアランド・ラインで失われたパシュトゥーン人の土地を取り戻すという名目でジハードを仕掛けた(第三次アフガン戦争)[89][91][70]。第一次世界大戦やインドでの内乱でイギリス軍が疲弊していることを見越しての戦争であったが、軍事用の複葉機からの空爆を初めて受けるなどし戦意を挫かれ、早々に終戦となり、ラーワルピンディーで条約を交わすことになった[91][89][70]。
イギリスは戦争には勝利したものの疲弊していたのは事実であり、ライバルのロシアに革命が起きグレート・ゲームから脱落したこともあり、国境線はデュアランド・ラインで維持することを認めさせつつ、アフガニスタンの独立を認めた[91]。その後、アフガニスタンは急速に近代化を進めることとなる。
アフガニスタン王国の成立
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アマーヌッラー・ハーンは1921年にはソビエトと友好条約を締結し、1923年にはアフガニスタン史上初の憲法を制定、立憲君主制への移行へ踏み出した[92]。憲法では、王権の絶対制と世襲制、イスラム教の国教化を規定する一方で、評議会の設置や大長老会議の招集、各大臣からなる内閣の規定など、様々な権能の分散化も図られた[92][93]。1926年には歴代の君主の称号であるアミールをやめ、シャー(パーディシャー)に変えた(アフガニスタン王国)[92][55]。しかし急激な改革は保守的な層(ウラマーなど)からの反発を招き、1929年には首都カーブルで反乱が起きた[92][94][95]。混乱を回避するためにアマーヌッラーは退位してイタリアに亡命し、ハビーブッラー・ガーズィーがアミールを自称して一時政権を奪った(1929年1月17日-10月13日まで)[92][94][95]。
1929年、ムハンマド・ナーディル・シャーがこの混乱を収めて王位に就き、1931年には、よりイスラーム色を強めた新憲法を発布した[92][96]。しかしナーディル・シャーは暗殺され、1933年11月に息子のザーヒル・シャーが19歳で王位を継いだ[97][98]。首相として実際の政権を担っていたのはナーディル・シャーの弟のムハンマド・ハーシム・ハーンであり、当時19歳であったため、1946年から1953年まではシャー・マフムード、その後はムハンマド・ダーウードが首相を継いだ[92][99]。
1939年9月、第二次世界大戦が勃発する[99]。アフガニスタンは、枢軸国から経済援助を受けていたこともあり、難しいかじ取りを迫られたが、終戦まで中立を維持することができた[99][100][101]。第二次世界大戦終戦後、イギリスはインド支配から撤退し、ソ連が超大国となり、アフガニスタンはソ連の影響を受けるようになる[102]。だが、アフガニスタンは1955年に開催されたアジア・アフリカ会議にも出席し、非同盟主義を表明した[101][103]。
ダーウード政権時代
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1953年9月にザーヒル・シャーの従兄弟で、親ソ連急進派のムハンマド・ダーウードが首相に就任[99][100]。ダーウードは、インドから独立を果たしたパキスタンの情勢を注視していた[104][105]。この頃ソ連とアメリカの東西冷戦が勃発し、1955年、ソ連のニキータ・フルシチョフとニコライ・ブルガーニンがアフガニスタンにやってくる[104][106]。彼らは、アメリカ寄りのパキスタンを、インドとアフガニスタンで挟み込み、孤立化させる計画を練る[104]。ダーウードは、デュアランド・ラインによる国境画定を認めず、一方ソ連もダーウードの方針を支持する(パシュトゥーニスタン)[104][100][105]。アフガニスタンに接近したソ連は、1955年に軍事同盟を締結し、アフガニスタンに顧問団の派遣を行い、武器・兵器の援助、1億ドルの借款を供与した[100][106]。一方、アメリカは、一応アフガニスタンへの援助は行っていたものの、その金額は微々たるものだった[107]。だが、ソ連の大規模な援助を受けて、1956年頃からアフガニスタンに対して支援の内容や金額を拡充させる[107]。
だが、ソ連とアフガニスタンの接近は、パキスタンを刺激してしまうことになる[100][105]。1960年代に入ると、アフガニスタンとパキスタンの両国は、お互いに国境侵犯を非難しあった[105]。1961年に、パキスタンはアフガニスタンとの国境を封鎖すると、アフガニスタンはたちまち交易路を失う[100][102]。ダーウードは、パキスタンとの国境問題解決に当たり、1961年6月には、両国との間で武力衝突が起きる[108][105]。アフガニスタンは貿易の大部分をパキスタンに依存していたため、国境封鎖によって経済的に大打撃を受け、ソ連依存を強めていくこととなる[104][105][101]。
パキスタンとの関係悪化により、ダーウードの支持は急落し、1963年3月にザーヒル・シャーはダーウード首相を退陣させた[109][110]。その後、1963年3月から、新憲法の起草が進められ、1964年10月1日、国王が新憲法に署名し、施行された[111][110]。新憲法では、男女平等の選挙権が認められ、1965年10月、新憲法に基づく議会が開催された[110]。
アフガニスタン人民民主党の台頭
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国王のザーヒル・シャーは、パキスタンとの関係改善と、ソ連偏重の外交政策を見直し、アメリカとの外交関係をバランスよくとることを心掛けようとした[104]。だが、開催された議会は、カーブルの大学生による大規模なデモが起こり、首相が辞任するという有様だった[100][104]。このデモを契機として、イスラム原理主義に走る者、社会主義を支持する者が現れるようになる[104][100]。そして、社会主義に傾倒する者が中心となり、アフガニスタン人民民主党が結成される[104][100]。
アフガニスタン人民民主党の党内は、ハルク(人民と言う意味)派と、パルチャム(旗と言う意味)派に分裂する[100]。ハルク派の指導者がヌール・ムハンマド・タラキーであり、ハフィーズッラー・アミーンもこのハルク派に所属し、急進的で民族主義傾向が強かった[100][112][113]。一方のパルチャム派は、穏健派であり、バブラク・カールマルが指導者を務めた[100][112]。カールマルは比較的裕福な家の出身であったが、タラキーは貧困層出身だったため、二人は同じ政党でありながら、気が合わず、対立を深めていた[112]。なお、ハルク派は、農地改革を主張したが、アフガニスタンは部族による結合が強く、現実的ではなかった[113]。ハルク派とパルチャム派の支持層について補足すると、ハルク派は労働者が支持し、パルチャム派は都市部の学生、知識人、軍人が支持した[113]。
一方、1960年代に、社会主義にではなく、イスラム主義に傾倒した代表的な人物として、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー、グルブッディーン・ヘクマティヤールらがいる[114]。
この頃のアフガニスタンには、外国人観光客も訪れるようになるが、裕福な外国人観光客を見たアフガニスタンの市民は、政府に対する不満が鬱積する[104]。政府の政策も失策続きであり、国家の貴重な収入源であった家畜税を1967年に廃止し、国家財政は著しく悪化する[115]。1969年から1972年は、旱魃被害に見舞われ、飢餓が発生する[115][104][113]。アフガニスタンは、外国からの援助によって、インフラ整備を行っていたが、農村地帯の生活状況は改善せず、農民は不満を抱くようになり、下野していたダーウードが政権奪取のため水面下で活動を行なう[113]。
アフガニスタン共和国の成立と政権崩壊へ
[編集]1973年7月、国王のザーヒル・シャーは目の治療のためイタリアへと出発した隙に、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した[116][115][114]。ザーヒル・シャーはそのまま亡命してしまう[114][注 4]。アフガニスタン共和国大統領に就任し、権力の座に返り咲いたダーウードは、パルチャム派を閣僚として起用し、反急進派勢力の中心となっているイスラーム主義勢力指導者の弾圧を行った[116]。そして、イスラーム主義の有力者であったブルハーヌッディーン・ラッバーニー、グルブッディーン・ヘクマティヤール、アフマド・シャー・マスードらはダーウード政権による逮捕を逃れて、パキスタンへと亡命し、彼らはムジャーヒディーン[注 5]を結成する[100][114]。ダーウードの弾圧は親ソ連のアフガニスタン人民民主党のパルチャム派へも向けられるようになる[100][118]。1975年には、ダーウードは国民革命党と言う政党を設立し、同政党のみを合法政党にし、独裁を強める[119]。アフガニスタンの経済はソ連に大きく依存していたが、1975年にダーウードがサウジアラビアの国王ファイサルの葬儀に出席した際、同じく葬儀に出席していた中東各国からは、ソ連への傾斜は危険であると諭され、ダーウードはソ連偏重の外交・経済政策を改めるようになった[116][114]。ダーウードは独裁による恐怖政治を行ったため、アフガニスタンに対して外国からの援助が目減りし、経済的に困窮するようになる[119]。
独裁者となったダーウードに対しては、いつクーデターが起こってもおかしくは無く、アフガニスタン人民民主党のパルチャム派の指導者であったミール・ムハンマド・アクバル・ハイバルが、カーブルで暗殺されたことから、ダーウードに対する大規模なデモが起こり、1978年4月27日のクーデターでダーウードは殺害され、政権は転覆された(四月革命)[116][120]。この時、反乱を起こした軍と民間人に2千名近くの犠牲者が発生した[120]。
アフガニスタン民主共和国
[編集]人民民主党政権内部の対立
[編集]社会主義政権のアフガニスタン民主共和国が誕生すると、ハルク派のヌール・ムハンマド・タラキーが大統領に就任する[116][121]。パルチャム派のバブラク・カールマルとハルク派のアミーンも閣僚として起用された[121]。1978年12月5日に、タラキーは、ソ連・アフガニスタン友好善隣協力条約を締結する[116][122]。だが、アフガニスタンの状況は落ち着くことはなく、1978年10月には、パキスタン国境で、政府軍と反政府軍が武力衝突し、1979年2月には、アメリカ大使が殺害され、3月にはヘラートで、反乱が起こり、不安定な状況が続いた[123][116][124]。一方、ダーウード政権打倒時は協力した人民民主党のハルク派とパルチャム派であったが、政権樹立後まもなく、対立が深まり、カールマルは1978年7月にチェコスロバキアの大使に赴任させられ、政府中枢から遠ざけられた[注 6][126][127]。大統領のハルク派のタラキーは、パルチャム派を次々に粛清し、パルチャム派は壊滅状態に陥る[128]。パルチャム派の主張では3千名が処刑されたと主張している[127]。一方、ハルク派も内部で対立が生じ、タラキーとアミーンとの間で対立が生じる[124]。
ソ連の事情
[編集]この頃、ソ連はアフガニスタンの不安定な情勢に対して、逐一兵力を投入していた[124]。また、ハルク派のタラキーによる粛清は、アフガニスタン政府軍の高官にまで及び、その空席を埋め合わせるため、ソ連は軍事顧問の派遣や兵器の援助を行ったが、アフガニスタンの政治に影響を与えることはできなかった[123]。ソ連としてはアフガニスタンを失うと、アメリカの影響力が強くなるため、引くに引けない事情があった[123]。1979年3月にヘラートで起きた反乱では、ソ連の軍事顧問が殺害されるなどの被害を受け、空軍を動員して、ヘラートの奪還に成功したものの、最早アフガニスタン政府は全く当てにならなかった[123][129]。
アフガニスタン紛争の勃発以降
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1979年9月14日、ハフィーズッラー・アミーンによる再クーデターが起こり、タラキーは逮捕後急死し、アミーンが大統領に就任した[注 7][124]。アミーンが宗教弾圧を開始すると、これに反発したムジャーヒディーンが蜂起し、鎮圧に手こずるアミーンがソ連へ介入を依頼した[124]。一方、ソ連はアミーンに対して国民との摩擦を生まないように数々の提案を行ったが、アミーンは聞き入れる姿勢を持たず、1979年9月頃から、ソ連はアミーンの排除を計画するようになる[123]。1979年12月18日、ソ連はアミーンを無視して、反政府勢力(ムジャーヒディーン)の掃討に当たった際、アミーンからは猛抗議を受け、遂にソ連はアミーンを見限る[124]。
12月24日にソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、こうしてソ連軍対ムジャーヒディーンというアフガニスタン紛争が始まった[124]。
1979年12月27日の嵐333号作戦でアミーンを暗殺し、12月29日にパルチャム派のバブラク・カールマルが革命評議会議長に擁立された[131][124][132]。ソ連は、アフガニスタン側の要請によって、武力介入を行ったというでっち上げの声明を出した[124][133]。
ソ連によるアフガニスタン侵攻に対して、アメリカはソ連のアフガニスタンの即時撤退を求め、国連総会では非難決議が賛成多数で決議された[134][135][125]。そして、アメリカのジミー・カーター大統領は、ソ連に対する穀物の禁輸を宣言し、1980年7月にはモスクワ五輪の参加ボイコットを呼びかけ、アメリカを含め60か国が追従した[125][136][136]。
一方ソ連が樹立させたバブラク・カールマル政権は、1980年4月に新憲法を公布する[137]。
ムジャーヒディーン側は、様々な派閥に分かれており、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー(ラバーニ派)、ラバーニ派のアフマド・シャー・マスード、グルブッディーン・ヘクマティヤール(ヘクマティヤール派)、ムハンマド・ユーヌス・ハーリス(ハーリス派)、シブガトゥッラー・ムジャッディディー(アフガニスタン救国民族戦線)、ムハンマド・ナビー・ムハンマディ(アフガニスタン・イスラム革命運動)などの派閥がおり、結束して共闘体制を取る[137][100][138]。だが、このうち、最大勢力であったヘクマティヤールは間もなく脱退し、ムジャーヒディーン側としては痛手となった[137][139]。1984年には、パキスタン側の斡旋で、統一組織を結成させたが、結局彼らムジャーヒディーンは結束することは無かった[100]。
一方、ソ連側は当初中央アジア出身の兵士を派遣したが、彼らは民族的に近いアフガニスタン人と戦うことになったため、戦意を喪失し脱走する者が相次いだ[137][125]。これを受けて、今度はスラブ系の兵士を派遣したが、彼らは彼らで命令以外は何もしないという有様だった[137]。ソ連は最新兵器を投入して戦ったが、山の多いアフガニスタンでは、ソ連の最新兵器も効果が薄かった[140]。ソ連がムジャーヒディーンの拠点を攻撃しても、彼らは地形を活かして隠れて、再び戻ってくるということを繰り返した[140]。また、ソ連軍兵士も当初は、アフガニスタンへの介入に大義名分があると考えていたが、次第に士気が下がっていき、脱走兵が相次ぐようになる[141]。脱走兵については、アフガニスタン政府軍の方がもっとひどく、アフガニスタン紛争勃発前の政府軍の兵力は11万人程いたのが、アフガニスタン紛争後1年もすると、脱走兵が相次ぎ3万人にまで激減する[142]。ソ連はアフガニスタン紛争で、1年あたり70億ドルから120億ドル程度を費やしたと見られている[140]。
ムジャーヒディーン側は、当初は旧式の兵器が中心であったが、ソ連軍から鹵獲した兵器や、外国から供給された兵器を手に取って戦った[141]。アメリカは、1984年頃から公然とムジャーヒディーンに対して資金援助を行い、当初は自国兵器の供給を渋っていたが、1986年頃からスティンガーミサイルを供与するようになる[143][141][144]

1984年から1985年にかけて、パンジシール渓谷でソ連軍とムジャーヒディーンとの間で戦闘が起こり、ムジャーヒディーンの指揮官であったアフマド・シャー・マスードはソ連の攻勢を防いだ[100]。1980年から本格的に始まったムジャーヒディーンとソ連の戦いは決定打を欠き泥沼化した[142]。1984年末には、ソ連の新聞・イズベスチヤでも戦況が芳しくないことが報じられる[141]。1985年3月、ミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となり、アフガニスタンへの介入の見直しが行われるようになる[141]。だが、1985年時点では、アフガニスタンの紛争は激化の一途をたどっており、ソ連は、領空侵犯をしてムジャーヒディーンが所在するパキスタンに攻撃を仕掛けていた[143]。
ソ連は、カールマルでは事態を収拾できないと考えるようになり、 1986年5月4日、カールマルは失脚させられ、ムハンマド・ナジーブッラーが革命評議会議長に擁立された[143][145]。そして、同年7月、ゴルバチョフはアフガニスタンからの撤退を表明し、8千名のソ連兵を撤退し、空約束でないことを証明する[146][147]。現地アフガニスタン政府は、1987年1月、ムジャーヒディーンに対して半年間の停戦を宣言する[134]。だが、ムジャーヒディーンはあくまでも政権の打倒を目指した[134]。ソ連は、アフガニスタンからの撤退に向けて動き出し、1988年4月14日、ジュネーヴ合意にアフガニスタン、アメリカ、ソ連、パキスタンが署名すると、1988年5月15日からソ連軍の撤退が開始され、1989年2月15日に、ソ連軍の撤退が完了した[147][134][100]。アフガニスタン紛争でのソ連軍の死者数は約1万5千人(ソ連側の発表による[注 8])、PTSDを患った人数は75万人に達した[148][149]。
内戦とターリバーンの台頭
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ソ連軍が撤退したアフガニスタンであったが、首都カーブルにはソ連の傀儡政権であるムハンマド・ナジーブッラー政権が居座り、ムジャーヒディーンはパキスタンで暫定政府を樹立し、アフガニスタンは2政府状態になる[117]。ソ連撤退によって、即座に崩壊すると見られていたナジーブッラー政権であったが、ソ連は自国の兵器をアフガニスタンに残して撤退し、ナジーブッラー政権に対して資金援助を行ったため、しばらくの間は持ちこたえた[150][151]。ムジャーヒディーン側は、ナジーブッラー政権に対して総攻撃を仕掛けるが、統率が取れないムジャーヒディーン側は敗北し、暫定政府に加わっていたヘクマティヤールは、暫定政府から離脱し、暫定政府は瓦解した[149]。だが、ナジーブッラー政権の方も、1991年12月にソ連が崩壊すると、資金援助が受けられなくなり、最早政権維持は困難になる[134][151]。そして、1992年4月16日、ナジーブッラーは政権を辞任し、アフガニスタンの国連事務所に逃亡する[134][152]。4月28日、ムジャーヒディーンがカーブルへと入り、アフガニスタン・イスラム国を樹立する[134][152]。
アフガニスタン・イスラム国の大統領はムジャーヒディーン各派が4か月の任期を交代で務めることになった[153]。暫定的にブルハーヌッディーン・ラッバーニーが大統領となるが、グルブッディーン・ヘクマティヤールはこれを不服として、対立を深め、カーブルに対してロケット砲による攻撃を行い、アフガニスタンは内戦に突入する[153][154]。途中パキスタンの仲介によって、安定化が図られたが、ラッバーニーとヘクマティヤールらを主体とする対立は一向に収まらなかった[154][155]。1994年1月になると、ヘクマティヤールはそれまで対立を深めていたラシッド・ドスタムとも共同して、ラッバーニー政権に対して総攻撃をかけた[156][157]。
ムジャーヒディーン達のこの激しい対立の原因について簡潔に説明すると、主義主張の違い以外にも、同じイスラム教でも宗派による違いや、民族間の根深い対立、そして周辺諸国による代理戦争の様相を呈していたことが挙げられる[156]。
こうして、1992年から2年以上にわたり、内戦が行われた結果、国土は荒廃し、1994年にはターリバーンが台頭するようになる[158]。ターリバーンは、ムハンマド・オマルが主体となり組織した[100]。オマルは、1994年7月、神学生を集めてカンダハールに行き、女性殺害を行っている犯人を報復として殺害した[159][160]。オマルのグループは、残虐行為に対する正当な行為として、市民から称賛された[159]。1994年11月、パキスタンからの生活支援物資を満載したトラックが、アフガニスタンの山賊に襲撃される事件が起こり、これに対して、20人ほどの学生たちが決起して、山賊を撃退する[161]。パキスタン側の報道機関は、彼らを学生であったことを理由にアラビア語の学生、求道者を意味する、タリブを英語の複数形風にした「Talibs」とし、彼らはカンダハールを支配する山賊を撃退し、1994年12月の報道で、「The Taliban Movement」と報道され、ターリバーンの名称が定着する[161]。ターリバーンは、治安回復を目標として掲げていたため、一般市民から支持を得た[157]。
ターリバーンによる政権樹立
[編集]ターリバーンは、急速に勢力を拡大し、アフガニスタン国内の主要都市を次々に掌握し、1996年9月にはカーブルを掌握し、国名をアフガニスタン・イスラム首長国とした[100][158][162][163]。カーブルを掌握したターリバーンは、ナジーブッラーを捕らえて処刑し、その遺体を市中に晒した[100][164]。ターリバーンに対しては、パキスタンが支援していると見られていた[165]。パキスタンとしては、自国の西北のアフガニスタンを引き込むことができれば、インドに対抗できること、中央アジアとの通商ルート、石油・天然ガスのパイプラインの確保のためには、アフガニスタンの安定が必要不可欠であった[165]。1995年1月、パキスタンは、「ターリバーンは我々の子供だ」と、ターリバーンを支援していることを暗に認める発言をしている[165]。
ターリバーンによって、首都のカーブルを失陥したラッバーニーは、ヘクマティヤール、ラシッド・ドスタムと結託し、北部同盟を結成し、ターリバーンとの交戦を継続する[100][160]。2000年時点で、アフガニスタンの領土の9割はターリバーンが支配し、残り1割がアフガニスタン東北部の北部同盟が支配していた[160]。
ウサーマ・ビン・ラーディン
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アフガニスタン人ではないが、アフガニスタンの歴史を理解するうえで重要なウサーマ・ビン・ラーディンについて簡単に記載する。
ウサーマ・ビン・ラーディンは、1957年にサウジアラビアで建築業を営む大富豪の息子として生まれ、イスラム教を熱烈に信仰するようになる[166]。その後、1984年に、アフガニスタンへと渡り、ムジャーヒディーンに対して、資金や物資の支援を行った[166]。だが、ソ連撤退後、内戦に明け暮れるムジャーヒディーンに対して幻滅する[166][100]。また、1991年に勃発した湾岸戦争で反米に転向する[100][167]。湾岸戦争時、サウジアラビアにアメリカ軍が駐留していることについて、政府に対して抗議したため、ビン・ラーディンは、サウジアラビアの市民権を剥奪される[166][167]。その後、ビン・ラーディンは、スーダンへと渡り、1996年にアフガニスタンに拠点を移した[166][167]。そして、同地にターリバーンから許可を得て、アルカーイダ(基地)の本部を設置する[166]。アルカーイダは、ターリバーンに対して資金援助を行い、アフガニスタン国内で訓練キャンプを設置した[168]。ビン・ラーディンは、反米に転向してからは、アメリカに対して数々のテロを行った。
1993年2月に起きた世界貿易センター爆破事件、1995年11月に起きたリヤド爆弾テロ事件もビン・ラーディンが首謀者とされる[169][170]
ウサーマ・ビン・ラーディンの身柄を巡る交渉
[編集]1998年8月7日にケニアとタンザニアでアルカーイダによるアメリカ大使館爆破事件が起こり、テロリストがタリバーン政権の保護下に逃げ込んだ[171][172]。アメリカ政府(ビル・クリントン政権)はテロリスト訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで破壊し報復した[173]。アメリカ政府は、アメリカに対して行われた一連のテロの首謀者がビン・ラーディンであることを掴んでいたため、アメリカ大使館爆破事件以降、幾度もターリバーンに対して身柄引き渡しを求めたが、ターリバーンがこれを拒否したため、経済制裁が課された[174][172]。
ビン・ラーディンの身柄引き渡しについては、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件以降も続けられていたが、ターリバーンは身柄引き渡しに応じることは無かった[175]。ターリバーンが、ビン・ラーディンの身柄引き渡しに応じなかったのは、パシュトゥーンワーリーにあるとされる[176][177][171]。ターリバーン内部でも、アメリカによる数々の制裁によって、ビン・ラーディンの身柄引き渡しを承諾するべきであると主張する派閥もあったが、結局ターリバーンは応じることは無かった[178][177]。
ターリバーンの崩壊と新政府樹立
[編集]カーブルを掌握したターリバーンであったが、それまでコーランしか学んでいなかった者が行政業務を担当したため、公共サービスが停滞する[179][171]。ターリバーンは、ありあらゆる娯楽を禁止し、女性の外出・労働の禁止、男性も髭を蓄えるなどイスラムの厳しい教えを課した[179][163]。国際社会は人権侵害や、虐殺行為などによって、ターリバーン政権を国家として承認しなかった[171]。

厳格なイスラーム化にこだわるターリバーンは、2001年2月20日、バーミヤンの磨崖仏の破壊を命令し、3月に破壊し、国際的に批判された[180][181]。
ターリバーン政権の崩壊
[編集]2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、9月15日には、テロの実行犯をウサーマ・ビン・ラーディンと断定した[175]。その報復として10月からアメリカ(ジョージ・W・ブッシュ政権)、イギリスと北部同盟が主体となり、アフガニスタン紛争が行なわれた[117][182]。ターリバーン政権は瞬く間に敗走し、2001年11月13日には、カーブルは北部同盟が掌握する[182][181]。ターリバーンが隆盛を誇ったカンダハールについては、2001年12月7日、ターリバーンの支配から解放される[183][184]。なお、ビン・ラーディンについては、アメリカ同時多発テロ事件発生の2年ほど前から一部の者しか所在が分からないという状態であった[181]。また、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルは、ターリバーン政権崩壊後、消息を絶った[185][186]。
暫定行政機構
[編集]12月22日にパシュトゥーン人でザーヒル・シャー元国王派のハーミド・カルザイが暫定行政機構議長に就任する[187][183]。以降、諸外国は経済支援を行うようになる[188][183]。
アフガニスタン・イスラム共和国
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2004年、アフガニスタン・イスラム共和国が発足する[189]。
初代大統領には、ハーミド・カルザイが選挙を通じて選出される[190]。だが、アフガニスタン・イスラム共和国では汚職が蔓延し、政府高官内でも麻薬ビジネスに手を染める者や、民間企業でも汚職が蔓延っていた[189]。アフガニスタン・イスラム共和国に対して向けられた諸外国の金銭支援は、汚職のために消えていった[189]。民衆は政府に対して失望し、大統領選挙では不正が相次ぎ、2019年の大統領選挙では投票率は18.8%と言う有様で、政府に対する不信が露呈する[191]。汚職について補足すると、交通事故が起こった際、警察官に対する賄賂によって、事故の判断がなされるという有様だった[192]。一方のターリバーンは、シャーリアに基づいて公正に判断していた[192]。
政府中枢がこのような有様だったため、厳格であったターリバーンが再び支持されるようになる[192]。ターリバーンは、2010年頃より、再び軍事攻勢を強める[193]。
2011年5月2日、CNNはビン・ラーディンがパキスタンのアボッターバードにある隠れ家をアメリカ合衆国海軍の特殊部隊、Navy SEALsに襲撃され、殺害されたと報道[194][195] [196]。だが、その後も、アフガニスタンの治安は改善されることは無く、2011年9月には、ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自爆テロによって殺害される[197]。2014年12月に、不朽の自由作戦が終了し、外国の軍隊は続々とアフガニスタンを撤収し、2015年になると、アフガニスタンの治安は悪化する[198]。
2015年7月8日、アフガニスタン政府がパキスタンの首都イスラマバードでターリバーンと初めて公式に和平を直接協議[199] [193]。同年7月30日、消息が不明だったターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認された[200]。
2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがターリバーンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立[201]。同年3月、ターリバーンは和平交渉を拒否した[202]。2019年になると、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、(アメリカが)多額の戦費と戦死者を出しながら、一向に情勢が良くならないため、アフガニスタン政府を見限って、ターリバーンとの交渉が実利に適っていると考えるようになる[203]。そして、2020年に、アメリカはターリバーンと交渉し、2021年5月1日までに、アメリカ軍はアフガニスタンから全面撤退することが合意された[204]。
ターリバーンは、その後支配地域を拡大し、2020年になると、国土の半分以上を支配するようになる[205]。
2021年4月、アメリカ合衆国のジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した[206]。
第二次ターリバーン政権樹立
[編集]
アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは主要都市を次々に制圧し、2021年8月15日にはカーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した[207]。政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した[208]。
詳細は「2021年ターリバーン攻勢」および「カーブル陥落 (2021年)」を参照
そして同年8月19日には、ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国として新政権を樹立した[209]。
8月15日以降、政権崩壊に直面して多国籍軍、外国の支援団体に協力していた市民を中心に、ターリバーン政権下で迫害を受ける可能性のある市民らの国外脱出が本格化した[210]。カーブル国際空港からは連日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍の輸送機が多数の市民を乗せて離陸、8月25日までに約8万8000人がアフガニスタンを後にした[211]。これらの中にはテレビ放送局(TOLO)に所属していたジャーナリストらがいた[212]。
年表
[編集]- 紀元前8千年頃 - 現在のアフガニスタンで農業・牧畜が行われる[7]。
- 紀元前6千年紀 - ラピスラズリが採掘され、インドとの交易が行われていた[7]。
- 紀元前2500年頃 - ヘルマンド文明が栄える[6]。
- 紀元前330年 - アレクサンドロス3世がアフガニスタンを占領する[7]。
- 紀元前3世紀中頃 – マウリヤ朝アショーカ王によって仏教が布教される[17]。
- 紀元前155年-130年 - インド・グリーク朝のメナンドロス1世が支配する[18]。
- 紀元後75年頃 - 月氏の部族の一つのクシャーナ族が台頭する(クシャーナ朝)[18]。
- 3世紀 - サーサーン朝の支配が開始される[213]。
- 5世紀後半 - ヒンドゥークシュ山脈の南北にエフタル朝が成立する[27]。
- 630年前後 - 唐の僧・玄奘がアフガニスタンを訪れ、その様子を大唐西城記に記す[25][24]。
- 661年 - イスラム王朝のウマイヤ朝が成立し、アフガニスタンは以降イスラム教が受容される[214]。
- 750年 - アッバース朝が成立する[32]。
- 821年 - アッバース朝の将軍ターヒルが、王朝を樹立する(ターヒル朝)[32]。
- 874年 - イスマーイール・サーマーニーがサーマーン朝を樹立する[33]。
- 962年 – サーマーン朝将軍の奴隷のアルプテギーンがガズナ朝を樹立する[32]。
- 1187年 - ヘラート東部の山岳地帯にゴール朝が成立する[35][37]。
- 1220年頃 - モンゴルのチンギス・カンがアフガニスタンを侵略し、モンゴルを支配する[39]。
- 1244年 - モンゴルの支配の下、マリク・シャムス・ウッディーン1世のクルト朝が樹立される[39]。
- 1364年 - ティムールが創始したティムール朝がチャガタイ・ハン国の西方を支配する(ティムール朝)[40]。
- 1469年 - ティムール朝がサマルカンド政権とヘラート政権に分裂する[43]。
- 1500年 – ティムール朝サマルカンド政権がムハンマド・シャイバーニーによって滅ぼされる[41]。その後1507年にはヘラート政権も滅ぼし、ティムール朝は滅亡[215]。
- 1526年 – ティムール朝サマルカンド政権のバーブルがムガル帝国を建国[44]。その後アフガニスタンはムガル帝国とサファヴィー朝が支配する[43]。
- 1709年 – ギルゾイ族のミールワイス・ホータクがサファヴィー朝からカンダハールを奪還し、ホータキー朝が成立[47]。
- 1747年 – アフガニスタン人(パシュトゥーン人)による初めての王朝ドゥッラーニー朝が樹立される[216]。
- 1808年 - イギリスの外交使節がアフガニスタンに接触する(グレート・ゲームの始まり)[60]。
- 1838年 – 第一次アフガン戦争勃発、イギリスによって首都のカーブルを占領されるが、現地勢力の抵抗により、1842年にイギリス軍は退却する[217] [71][74]。
- 1878年 - 第二次アフガン戦争勃発、イギリスが翌年1月にカーブルを占領する[70][218]。ガンダマク条約によって、アフガニスタンは外交権を失う[81][218]。
- 1897年 - デュアランド・ラインが国境として確定する[89][83]。
- 1907年 – 英露協商が成立、グレート・ゲームが事実上終了する[219]。
- 1919年 - 第三次アフガン戦争が勃発し、アフガニスタンは外交権を回復する[70]。
- 1933年 - ザーヒル・シャーが国王となる[220]。
- 1953年 – ザーヒル・シャーの従兄弟ムハンマド・ダーウードが首相となり、ソ連への傾斜を強める[221]。
- 1963年 - パキスタンとの関係悪化のため、ダーウードが首相を辞任する[100]。アフガニスタンはその後旱魃被害や政府の失策が続き、市民の不満が鬱積する[115][104][113]。
- 1973年 - 国王のザーヒル・シャー不在時にダーウードがクーデターを起こし、独裁政権を樹立する[116][115][114]。
- 1975年 – ダーウード、サウジアラビアのファイサル国王の葬儀に参列し、出席国の中東各国からソ連からの離脱を進言され、ソ連からの傾斜を取りやめることを決心する[116][222][222]。
- 1978年 - アフガニスタン人民民主党のクーデターによって、ダーウード政権が崩壊、ダーウードは処刑となり、社会主義政権が樹立された[124][152]。
- 1979年12月 - アフガニスタン人民民主党内の権力闘争並びに政情不安に対して、ソ連が介入しアミーンを殺害、アフガニスタン紛争が始まる[131][136]。ムジャーヒディーンがソ連と戦う[223]。
- 1985年3月 - ミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となる[143]。
- 1986年7月 – ソ連がアフガニスタン駐留のソ連軍の一部撤退を行い、アフガニスタンからの完全撤退に向けて議論が行われる[147]。
- 1988年4月 – ジュネーヴ合意によって、ソ連軍の完全撤退が合意される[145]。1989年2月14日 にソ連軍が完全撤退を完了する[149]。以降、ナジーブッラー政権が崩壊する1992年まで、ムジャーヒディーンとの戦委が繰り広げられる[149][152]。
- 1992年 – ムジャーヒディーン各派閥間による内戦が行われる[117][153]。
- 1996年 - 1994年に台頭したターリバーンが首都カーブルを占領する[163][164]。以降、ムジャーヒディーン各派は北部同盟を設立し、ターリバーンと対立[117]。同年、ウサーマ・ビン・ラーディンがターリバーンと協調し、アフガニスタンで活動を行なうようになる[166]。
- 2001年 - アメリカ同時多発テロが起こり、アメリカ軍とイギリス軍が主体となり、ターリバーン政権を崩壊させる[184][182]。首都カーブルは北部同盟が掌握する[182]。
- 2002年 – ハーミド・カルザイが大統領に選出される[183]。以降、カルザイは2014年まで大統領を務めた[198]。
- 2011年 – 消息不明だったビン・ラーディンがアメリカ軍によって殺害される[197]。
- 2014年 – 同年12月末よりアフガニスタンに駐留していた外国の軍隊が引き揚げ、アフガニスタンの治安が悪化する[198]。
- 2020年 - アメリカとターリバーンとの間で交渉の場がもたれ、アメリカ軍の撤退が合意される[204]。
- 2021年 – 同年9月、アメリカ軍が完全撤退し、ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国を樹立[209]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 北アフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川に挟まれた地域[17]。
- ^ ローヤ・ジルガとは地方の部族代表者による会議の事である[55]。
- ^ ただ、これについては、アフガニスタン側の残虐さを強調するためであったり、イギリス側の失策を糊塗するために誇張されたという説もあり、捕虜となった者、捕虜となりながらも丁重な扱いを受けた者も多数いたとされる[69]。
- ^ その後、2002年に帰国[104]。
- ^ ムジャーヒディーンはジハードを実践する者という意味[117]。
- ^ その後、カールマルはモスクワに亡命[125]。
- ^ タラキーの急死は殺害の可能性が濃厚である[126][130]
- ^ 実際はその3倍の可能性があると指摘されている[148]。
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参考文献
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- 渡辺光一『アフガニスタン : 戦乱の現代史』岩波書店〈岩波新書〉、2003年3月。ISBN 4-00-430828-3。
- マーティン・ユアンズ『アフガニスタンの歴史 : 旧石器時代から現在まで』金子民雄監修、柳沢圭子、海輪由香子、長尾絵衣子、家本清美訳、明石書店、2002年9月。ISBN 4-7503-1610-5。
- ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』前田耕作,山内和也監訳、明石書店〈世界歴史叢書〉、2005年4月。ISBN 4-7503-2070-6。
- 前田耕作、山内和也『アフガニスタンを知るための70章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2021年9月。ISBN 978-4-7503-5243-5。
- 内藤陽介『アフガニスタン現代史』えにし書房、2022年3月。ISBN 978-4-86722-106-8。
- 青木健太『タリバン台頭 : 混迷のアフガニスタン現代史』岩波書店〈岩波新書〉、2022年3月。ISBN 978-4-00-431920-7。
- 嶋田晴行『現代アフガニスタン史 : 国家建設の矛盾と可能性』明石書店〈世界歴史叢書〉、2013年7月。ISBN 978-4-7503-3865-1。
- 永田雄三『西アジア史』山川出版社〈新版世界各国史〉、2002年8月。ISBN 4-634-41390-6。
関連項目
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