コンテンツにスキップ

セーターティラート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本情報
正式名称 サイ・セーターティラート王
タイ語表記 พระชัยเชษฐาธิราช
ラーオ語表記
ໄຊຍະເສດຖາທິລາດ
英語表記 King Setthathirath
別名・通称 チャイヤチェーターティラート王
チャイチェーター王
王朝・代 ラーンサーン王朝18代目
ラーンナータイ王朝16代目
統治地域 タイ王国北部東北部ラオス
誕生 1534年
即位期間(ラオス) 1551年 - 1571年
即位期間(タイ) 1546年 - 1547年
タイ仏暦2089年 - 2090年)※
タートルアンにあるセーターティラート王の銅像

セーターティラート王1534年 - 1572年)は、16世紀中ごろにラオスにかつて存在したラーンサーン王国、もしくはタイ北部にあったラーンナータイ王国の16代目の王。

特にヴィエンチャンへの遷都とビルマに対する強硬な抵抗を指導したことで知られている[1]。彼の治世は、父であるポーティサラート王(在位1520年 - 1547年)の時代から続く、ラーンサーン王国が東南アジア本土において軍事的・文化的に絶頂期を迎えた時期とされている[1][2]

治世と即位

[編集]

父ポーティサラート王は、ラーンナー王ムアン・ケーオの娘ニョット・カムを正妃として迎え、両王国の絆を強化した[2]。1540年代には、ランナー王国は王位継承争いや貴族間の派閥抗争により深刻な弱体化を迎えていた[2]。この混乱の中、ラーンナー宮廷の一派がポーティサラート王の長男セーターティラート(ニョット・カム王妃との子)を王位に推挙した。ポーティサラート王はこの機会を逃さず、大軍を率いて自らチェンマイへ赴き、息子をラーンナー王に即位させた[2]

1547年、ポーティサラート王は象の事故で急死した。二人の弟が王位を争う中、セーターティラート王はラーンナーから帰国して王位を主張し、兄弟を破って王国を統一した。しかしラーンナーとラーンサーンを同時に支配しようとシエン・ドン・シエン・トーン(ルアンパバーン)を都にしたため、チェンマイの貴族が独立を企てる機会を得た。1551年、ラオス軍はラーンナー支配の再確立に失敗した[2]

1557年にビルマ王バインナウンの軍が東方へ進軍し、チェンマイは1558年4月に戦わずして降伏した。セーターティラート王は同年再びチェンマイ王位を主張したが、すでに勢力はビルマに傾いており、ラオス軍は撤退した。以後、1776年までの約2世紀間、ラーンナー王国はビルマの属国として存続し、衰退の時代を迎えた[2]ラーンナーの支配層の一部はラーンサーンへ亡命した[3][2]

ヴィエンチャンへの遷都と宗教的正統性の強化

[編集]

ラーンナーがビルマ(ペグー)の支配下に入ったことで、ルアンパバーン(当時はシエン・ドン・シエン・トーン)の脆弱性が高まった。そのため、セーターティラートはビルマペグー)の侵攻に対抗する戦略的防御として、1560年に首都をヴィエンチャンへ移転した。この決定は、ラーンサーン王国の人口的・経済的な重心がすでに中部メコン地域に移っていたという現実も反映していた[2]

ラーンナーの崩壊は、ラーンサーンにとって文化的ルネサンスを刺激する契機となった。ラーンナーから逃れてきた家族によって、北部ユアン=ラオ文学と芸術の中心が東へ移動したのである[2]

セーターティラート王が旧都シエン・ドン・シエン・トーン(ルアンパバーン)から三大仏像のうち二体(エメラルド仏とパ・サーク・カム)を新都ビエンチャンに持ち込んだ。いずれもチェンマイから持ち出されたもので、ビルマから守るだけでなく、王の威信と権力を強化する目的があった[2]。一方、ヴィスンナラート王以来の旧都の守護仏であるパバーン仏は、シエン・ドン・シエン・トーンに残され、その地は「ルアンパバーン」と改名された。

セーターティラート王は父と同様、仏教の篤信者であり、彼の治世中(1551〜1571)には、他のラオス王よりも多くの寄進記録が残されている[2]

ワット・パケーオとエメラルド仏

[編集]

彼はチェンマイから持ち込んだエメラルド仏像(パケーオ)とそれを安置するメコン河畔に建てられた荘厳な新寺院ワット・パケーオを建立した(1566年)[3]

タート・ルアン

[編集]

彼の治世の最も強力な象徴として、ヴィエンチャンに巨大な仏塔タート・ルアンの建設を命じた(1566-1572年)。タート・ルアンは、仏教の功徳と王権を象徴するラオスの中心的シンボルである[2]

ワット・シエントーン

[編集]

旧都ルアンパバーンへの敬意を示すため、ワット・シエントーンを建立した(1560年)。これは、現在も残る16世紀の北ラオス建築の最高傑作の一つである[2]

アユタヤとの同盟と婚姻外交

[編集]

セーターティラート王は、戦略的に防衛しやすい首都を築くと同時に、アユタヤ王国との関係強化を図った。1560年7月7日、アユタヤ王チャクラパットとの間で正式な盟約が結ばれた。高官や僧侶の立ち会いのもと、「真実の水」による儀式で誓約が交わされ、両国は今後平和と友好のもとに共存し、互いの領土を侵さないことを誓った[2]

この盟約は、チャオプラヤ川とメコン川の分水嶺に位置するムアン・ダンサイに記念仏塔として石碑に刻まれ、3年後に奉納された[2]

盟約の証として、婚姻による結びつきが提案され、セーターティラート王がチャクラパット王の娘を王妃として迎えることが決定された。ラオス側の記録によれば、選ばれたのはビルマとの戦いで勇敢さを示したシャム王妃の娘テープカサットリー王女であった。しかし、実際に送られたのは彼女の妹であり、テープカサットリー王女が病気であるとの理由が添えられていた。セーターティラート王はこの婚姻を拒否した。翌年、回復したテープカサットリー王女は千人の従者を伴ってヴィエンチャンへ向かったが、途中でビルマの属国によって待ち伏せされ、ペグーへ連行された[2]

ビルマとの抵抗と最期

[編集]

ビルマ(ペグー)は1563年にアユタヤを占領し、ラーンサーンへ侵攻したが、セーターティラートは首都ヴィエンチャンが占領されても降伏を拒否し、ゲリラ戦術を採用した。彼はこのゲリラ戦によってビルマ軍を撤退に追い込むことに成功した。1569年にビルマが再度アユタヤを陥落させた後も、ラーンサーンはビルマの覇権に抵抗し続けた唯一のタイ系王国として孤立しながら戦った[2]

1571年、セーターティラートは、王国の南部(おそらくカンボジアの勢力に対する)での軍事遠征中に謎の死を遂げた(享年38歳頃)[2]

彼の死後、王位継承を巡る争いが再燃し、王国は再びビルマの介入を招くこととなり、一時的にビルマの属国となった。王位は、彼がビルマに人質として連れ去られていた弟のヴォーラウォンサー1世に移り、その後、彼の息子ノカエオクマーンが復位することになる[1]

参考文献

[編集]
  1. ^ a b c Martin Stuart-Fox『Historical Dictionary of Laos』2008年。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『The Lao Kingdom of Lan Xang: Rise and Decline』White Lotus Press、1998年。 
  3. ^ a b Grant Evans (2002). A Short History Of Laos: The Land In Between. Allen & Unwin 

関連記事

[編集]