独裁者 (映画)

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独裁者
The Great Dictator
監督 チャールズ・チャップリン
脚本 チャールズ・チャップリン
製作 チャールズ・チャップリン
出演者 チャールズ・チャップリン
ポーレット・ゴダード
ジャック・オーキー
音楽 メレディス・ウィルソン
撮影 カール・ストラス
ローランド・トザロー
編集 ウィラード・ニコ
製作会社 ユナイテッド・アーティスツ
配給 アメリカ合衆国の旗 ユナイテッド・アーティスツ
日本の旗 東和
公開 アメリカ合衆国の旗 1940年10月15日
日本の旗 1960年10月22日
日本の旗 1973年10月(リバイバル上映)
上映時間 124分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $2,000,000
配給収入 世界の旗 $5,000,000[1]
日本の旗 1億6800万円[2]
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映像外部リンク
全編を鑑賞する。
独裁者 - Tutomuete Producciones, YouTube.

独裁者』(どくさいしゃ)または『チャップリンの独裁者』(The Great Dictator)は、1940年に公開したアメリカ映画で、チャールズ・チャップリンが監督・製作・脚本・主演を務めた。

概要

チャップリンが、当時のドイツ国の指導者で、オーストリア併合ポーランド侵攻ユダヤ人虐待などを行ったアドルフ・ヒトラーの独裁政治を批判した作品で、近隣諸国に対する軍事侵略を進めるヒトラーとファシズムに対して非常に大胆に非難と風刺をしつつ、ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコミカルながらも生々しく描いている。

1940年10月15日アメリカ合衆国で初公開された。当時のアメリカはヒトラーが巻き起こした第二次世界大戦とはいまだ無縁であり、平和を享受していたが、この映画はそんなアメリカの世相からかけ離れた内容だった。

またこの作品は、チャップリン映画初の完全トーキー作品[注 1]として有名であり、さらにチャップリンの作品の中で最も商業的に成功した作品として映画史に記録されている。

アカデミー賞では作品賞主演男優賞助演男優賞(ジャック・オーキー)脚本賞作曲賞メレディス・ウィルソン)にノミネートされ、ニューヨーク映画批評家協会賞では主演男優賞を受賞した。また、1997年アメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

あらすじ

敵陣への突撃を前に、手榴弾を渡される主人公

時は第一次世界大戦の最中。トメニアの陸軍重砲部隊に所属する二等兵の男(チャールズ・チャップリン、タイトルでは「ユダヤ人の床屋」)は、前線で味方とはぐれ、負傷した飛行士官のシュルツを偶然救出する。シュルツが所持している重要書類を本国に届けるべく二人は小型飛行機で飛び立つが、飛行機は燃料切れにより墜落してしまう。生き延びた二人は味方に救助されるが、トメニアがすでに降伏していたことを知らされる。シュルツが大いに悲しむ一方、床屋は墜落の衝撃で戦場での記憶をすべて失っていた。

抱腹絶倒の飛行機の場面。逆さづりの状態で撮影された。

床屋が病院で過ごしている数年の間にトメニアでは政変が起こり、アデノイド・ヒンケル(チャップリンの一人二役)がダブルクロス党(ナチスの鉤十字に似せた双十字が特徴。英語の"double cross"には「裏切り」の意味がある[3])を率いて独裁者[注 2]として君臨し、内務大臣宣伝大臣ガービッチ(ヘンリー・ダニエル)と戦争大臣ヘリング元帥(ビリー・ギルバート)の補佐を受けつつ、自由と民主主義を否定し、国中のユダヤ人を迫害するようになっていた。

病院を抜け出した床屋ゲットーにある自宅兼理髪店に戻ってくる。時間の経過を理解していないため、ほこりが積もり蜘蛛の巣だらけとなった店内のありさまに呆然とするが、ゲットーの隣人たちに暖かく迎えられ、ハンナ(ポーレット・ゴダード)という若い女性と親しくなる。

ある日、床屋はヒンケルの手先である突撃隊に暴力を振るわれるが、突撃隊の存在自体を知らないために反抗し、吊るし首にされそうになったところにシュルツが通りかかる。シュルツはヒンケルの信頼も厚く、今では突撃隊長となっていた。床屋がユダヤ人と知って驚いたシュルツであったが、以前助けられた恩から、床屋と彼の隣人たちに手を出さないよう命じる。

独裁者ヒンケルが地球儀のバルーンをもてあそぶ、有名な場面。

ヒンケルは隣国のオーストリッチ[注 3]侵略を企て、ユダヤ系の金融資本から金を引き出すため、ユダヤ人への抑圧政策を緩和した。急に優しくなった突撃隊員たちを見てゲットーの住人は淡い期待を持つが、資金援助を断られるとヒンケルは再び態度を変え、シュルツにゲットーを襲うように命令する。シュルツがこれに反対するとヒンケルは彼を強制収容所に送ってしまう。そして、ラジオ放送においてユダヤ人への怒りを露わにした演説を行い、ユダヤ人迫害を再び強化する。床屋の店も、シュルツ失脚を逆恨みした突撃隊によって破壊されてしまう。

強制収容所から脱出したシュルツはゲットーに逃げ込み、ヒンケルの暗殺を計画するが、突撃隊に発見され、床屋と共に再び強制収容所に送られる。ハンナたちゲットーの住人たちはつてを頼ってオーストリッチへ避難し、農園で働きながら幸せに暮らし始める。

ヒンケルとナパロニは、オーストリッチ侵攻で争い、激しい交渉を繰り広げる。

近隣国バクテリアの独裁者であるベンツィーノ・ナパロニ[注 4]はトメニアのヒンケルとオーストリッチ侵攻をめぐって争っていた。トメニアを訪れたナパロニとヒンケルは激しい交渉の末にいったん妥協しあうが、ヒンケルにはこの妥協を呑むつもりはなく、すぐにオーストリッチ侵攻を決行する。ハンナたちの農園も突撃隊の暴力を受ける。

床屋とヒンケルは入れ替わってしまう。

床屋とシュルツはトメニアの軍服を奪い、強制収容所から逃げ出す。二人を捜索していた兵士たちは、侵攻に備え、狩猟旅行を装ってオーストリッチ国境付近で単身待機していたヒンケルを床屋と間違えて逮捕してしまう。逆に床屋は将兵たちによってヒンケルに間違えられ、シュルツと共に丁重に扱われる。

映像外部リンク
男の演説 - Association Chaplin, YouTube.
ヒンケルに代わって、男はラジオで一世一代の演説を打つ(The Barber's speech)。

床屋はヒンケルと間違えられたまま、トメニア軍に占領されたオーストリッチの首都へ連れていかれ、大勢の兵士が集う広場で演説を行うことになる。意を決してマイクの前に立った床屋は演説を行うが、それは自由と寛容、人種の壁を越えた融和を訴えるものだった。演説を終えた床屋は兵士たちの拍手喝采の中、ハンナに対して、希望を捨てないようラジオを通じて語りかけるのだった。

キャスト

チャップリンとポーレット・ゴダートの二人は前作『モダン・タイムス』でも共演し、公私にわたるパートナーであった。
独裁者は何から何まで自分で決めねばならず、とても忙しい。自身の彫刻と肖像画のモデルを務められるのも、一度に数秒ずつである。

日本語吹替

俳優 日本語吹替
TBS BD
チャールズ・チャップリン 愛川欽也 山寺宏一
ポーレット・ゴダード 小川知子 三木美
ジャック・オーキー 富田耕生 こねり翔
ヘンリー・ダニエル 板取政明
レジナルド・ガーディナー 竹内亨 田村真
ビリー・ギルバート 吉柳太士郎
モーリス・モスコヴィッチ 板取政明
カーター・デ・ヘイヴン 宮崎敦吉
  • TBS版吹き替え - 初回放送1977年5月2日 『月曜ロードショー
  • BD版吹き替え - 2016年発売の『チャップリン Blu-ray BOX』に収録

受賞歴

予告編

アカデミー賞

ノミネート

ニューヨーク映画批評家協会賞

受賞

設定

劇中で使われたトメニアのダブルクロス
ナポロニとヒンケル、ファシストの先輩であるムッソリーニと後発のヒトラーがモデル

映画に登場するゲットーの街の看板などは基本的にエスペラントで書かれ、さらに本来のエスペラント表記にはない符号が文字の上にところどころ付けられて、それがドイツ語風あるいはポーランド語風に見えるようにアレンジされている。これは、エスペラントの考案者ザメンホフがユダヤ人であることや、当時ヒトラー政権下のドイツにおいてエスペラントが弾圧されていたことと関連がある。

それぞれ演じられているトメニアの独裁者とその側近などはドイツのナチス党の幹部の名前をイメージさせるものにしてあり、アデノイド・ヒンケル(Adenoid Hynkel)は総統のアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)、内相兼宣伝相ガービッチ(Garbitsch[注 5]は宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスJoseph Goebbels)、戦争相ヘリング元帥(Herring[注 6]は空軍総司令官兼航空相ヘルマン・ゲーリング国家元帥(Hermann Göring)のもじりである。また、ベンツィーノ・ナパロニ(Benzino Napaloni)はイタリア首相ベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)のもじりである[注 4][注 7]

製作

もともとチャップリンは、『モダン・タイムス』の次回作として女密航者を主人公にした映画(ポーレット・ゴダード主演。1967年制作の『伯爵夫人』の原案となる)、ついでナポレオン・ボナパルトを主人公にした映画を構想していた。後者においては、ナポレオンが影武者と入れ替わってセントヘレナ島を抜け出し、市井の教師ナポレオンとなって革命に参加するも、島に残した替え玉が死んで、最後は悲劇的な結末を迎えるというものであった。どちらも、時勢に鑑みるとあまり適当でない作品と考えられた[誰によって?]

そこで現代に即し、ナポレオンをヒトラーに代えて映画を作ることとなった。チャップリンは例によってこの映画の脚本・監督をつとめ、チャップリン・スタジオに加えて、ローレル・キャニオンなどロサンゼルス近郊の各所で撮影された。なお、チャップリンは『街の灯』以降自分で音楽も作曲していたが、今回に限っては気に入らないところの撮り直しもあって時間的に作曲の時間が立てられず(クランクアップ後、たっぷり時間をかけて作曲と編集に集中するのがチャップリンのパターンであった)、作曲のほとんどはメレディス・ウィルソンに委ねられた。

ドイツ軍占領下のパリを歩くヒトラー

もちろん、この映画のアイデアは『小さな放浪者英語版』とヒトラーとのキャラクター上の類似から発展したものである。ユダヤ人の友人や同僚から聞き及んだ、1930年代を通じてエスカレートするドイツのユダヤ人迫害もモチベーションとなった。最終的に制作を決断したのは、アレクサンダー・コルダのプランを受け入れてからであった。チャップリンはそのプランを、バーレスクパントマイムを両立させる絶好のチャンスであると判断した[4]

チャップリンは1938年から1939年にかけてストーリーを制作し、1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻して始まり、祖国のイギリスも参戦した第二次世界大戦勃発後の2週間後から撮影を開始した。撮影を終了した6か月後にはフランス第三共和政がドイツ軍によって陥落し、次いでイギリスへのドイツ軍の上陸が行われると言われていた。制作中に起こったヨーロッパでの戦争が、賛否両論を生んだ終盤のスピーチを挿入する動機となった。

チャップリンは後世、自伝において「ホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれない」と述べている。なお、映画の撮影当時はドイツによるユダヤ人に対する迫害政策と、ゲットーへの強制移送はドイツ国内とドイツ軍の占領地で実施されていたが、ユダヤ人に対する大量虐殺はまだ行われてはいない。なお、ホロコーストという状況の中でユーモアを導入する試みは、ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』までの半世紀の間は見られない。

当初、独裁者の最後は戦争が終わり、ユダヤ人と兵士が手に手を取って踊りを踊り、また中華民国と戦争をしていた日本も爆弾の代わりにおもちゃを落とし、戦争を終えるという設定をしていた。しかし、チャップリンはこれでは独裁者に対する怒りを表現できないとして台本を変え、最後の6分間の演説シーンとなった。この6分間の演説についてアメリカなどの右翼勢力は「共産主義者の陰謀である」として強く反発した。また、1929年の世界大恐慌によって黒人やユダヤ人を迫害するKKKを中心とした右翼がアメリカをはじめ先進諸国で台頭したため、そのことも『独裁者』に対する反発を促進させることとなった。

一部のチャップリンの評論では「『殺人狂時代』がアメリカ追放の原因である」と論評しているものがあるが、チャップリンに対する政治上の反発は『モダン・タイムス』の頃、もっと遡れば第一次世界大戦の頃から上がっており、また以上にあるように最大の収益を上げた『独裁者』に対しても政治的圧力や反発があった。ヒトラーは1939年1月の国会演説において「反ナチーすなわち、反ドイツ映画の製作を企図しているというアメリカ映画会社の声明は、ドイツにおける反ユダヤ映画の製作を誘発するものでしかない」と批判した[5]

なお、完成に至る過程で不採用となったいくつかのシーンを写真で確認できる。ヒンケルがビアガーデンでガービッチやへリングを前に自分のアイディアを展開する、盗聴器を使ってガービッチと2人でガソリーニ(ナパロニの初期の名前の一つ)夫妻の会話を盗聴する、へリングが持ち込んだ発明品の一つである飛行船を身にまとってはしゃぐ、赤ん坊に変装した6歳のスパイのノグチがガソリーニの軍隊をスパイしヒンケルに報告する、といったシーンである[6]

公開

日本公開版でのチャーリーの演説シーン。

この映画の製作は、世界状況の緊張と軌を一にしている。『独裁者』だけでなく、『The Mortal Storm』や『Four Sons』(どちらも日本未公開)のような他の反ファシズム映画は、アメリカとドイツが微妙な関係にありながら中立状況を保っていた中ではリリースできないだろうと予測されていた。そんな中、チャップリンは財政的にも技術的にも他のスタジオから独立していたため、大々的に作品の製作を行うことができた。

だが一方では、『独裁者』がリリース不可能になれば、150万ドルを個人資産から投資していたチャップリンは破産する、という状況でもあった。結局、『独裁者』は1940年9月ニューヨークで封切られ、10月にはアメリカ国内で拡大公開され、11月にはイギリスで公開された。パリの解放後間もない1945年4月にはフランスでも公開された。

アメリカとドイツはまだ開戦していないものの(ドイツがアメリカと開戦するのは1941年12月になってからである)、映画の内容から、当事国であるドイツはもちろん、ポーランドやオーストリアなどのドイツの占領下、影響下にある地域、ドイツと同盟関係にあった日本やイタリア、またアルゼンチンチリなど、ドイツ系移民が多く親独政権が多かった南米諸国や、中立政策を採っていたアイルランドでは上映禁止となった[注 8]高見順1941年12月にジャワ島で、小林桂樹は陸軍兵士としてイギリスが植民地支配していたシンガポールに駐屯した際、イギリス軍からの押収品の中に『独裁者』のフィルムがあり、それを見たという。

日本初公開は第二次世界大戦の終戦から15年、サンフランシスコ講和条約締結から8年後の1960年であった。しかし、日本でもヒットし興業収入は1億6800万円を記録、この年の興業収入第4位となった。同年のキネマ旬報ベストテンでは外国映画の第1位にランキングされた[7]1973年にリバイバル公開。

評価

『独裁者』は、発表と同時にアメリカで大人気となった。批評家の反応は様々で、特に終盤のチャップリンのスピーチを「容共的」、「左翼的」として批判する者も多かった[要出典]喜劇化された突撃隊を、ナチスの恐怖を大っぴらに誇張していて不謹慎だとする意見もあった[要出典]だが、ユダヤ系の観客はユダヤ人のキャラクターとその絶望に深く感動した[要出典]当時のハリウッドでは、ユダヤ人に関することはタブーであったのだ[要出典]

ランキング

以下は日本でのランキング

  • 1988年:「大アンケートによる洋画ベスト150」(文藝春秋発表)第24位
  • 1995年:「オールタイムベストテン・世界映画編」(キネマ旬報発表)第18位
  • 1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト・外国映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第28位

盗作訴訟

チャップリンの友人コンラッド・ベルコヴィチは、『独裁者』を盗作であるとチャップリンを訴え、チャップリンサイドに500万ドルを要求した[8]。チャップリンサイドは最終的に9万5千ドルを支払うことになった[9]

前作『モダン・タイムス』はドイツの映画会社トビス社から訴訟を起こされた(1937年と1947年の計2回)。チャップリンサイドは、『モダン・タイムス』への訴訟(2回目)を、『独裁者』への報復であるとみている[10]

チャップリンとヒトラー

チャップリンによるヒトラーのパロディー描写
ヒトラー(1939年)

チャップリンとヒトラーとの間にはいくつかの共通点があり、チャップリンは1889年4月16日生まれなのに対し、ヒトラーは1889年4月20日とわずかに4日違いである。またトレードマークが口ひげであり、チャップリン自身ヒトラーの口ひげは自分のオリジナルキャラのチャーリーを下品にしたようだというイメージを持っていた。

また、チャップリンはロンドンの貧しい家に生まれ、生活に苦労し、ヒトラーは生まれた家は中産階級で豊かだったものの青年期において公共独身者合宿所で生活しているということ(これについては近年[いつ?]我が闘争』でヒトラーが誇張したものであって、実際の施設である公共独身者合宿所は必要最低限の生活ができる施設であったという説が有力である)、また両人に一時ユダヤ人説が流れていたことで共通項が多いと見る向きもある。[誰によって?]

なお、ヒトラーが本作を見たかどうかについて、チャップリン研究者の大野裕之は2015年の著書で、ドイツ政府が収集した映画作品のリストに含まれているが、ヒトラーの鑑賞については不確かな証言が複数あるものの明確に裏付けられる資料はないとしている[11]。2001年に製作されたBBCドキュメンタリー作品『放浪者と独裁者』(The Tramp and the Dictator)では、「ヒトラーは実際にこの映画を観た」というヒトラーの元秘書による証言が残っている。Internet Movie Databaseによれば、チャップリンはこの証言を聞いて、「なんとしても感想を聞きたいね」と答えたという。

また、ヒトラーは政治キャリアの初期においてすでに、映画界におけるチャップリンの人気に目をつけていたとする意見もある。“チャーリー”のキャラクターとヒトラーの類似はたびたび語られるところである。つまり、自らの知名度を上げるために、チャップリンと同じ四角い口ひげを生やしていた、というのである。[誰によって?]

実際のヒトラーの最期は映画『独裁者』の終わり方のような希望であるよりむしろ絶望であり、長年のパートナーエヴァ・ブラウンと正式に結婚して数十時間後、総統地下壕の一室でエヴァとともに非業の死を遂げた。

フリーメイソンリー

左からチャップリン、ヒトラー、クーデンホーフ=カレルギー。1920年代の3人。

ヒトラーは反ユダヤ、反フリーメイソンであった。フリーメイソンはナチス党率いる当時のドイツ政府による弾圧の対象であり、ドイツ警察に収監され獄死したフリーメイソンたちがいる[12]

映画『独裁者』の中盤、地球儀が大きな音を立てて破裂し、場面が理髪店に移りラジオから流れる音楽は、フリーメイソンの音楽家ヨハネス・ブラームス[13]の『ハンガリー舞曲 第5番』(管弦楽版)である。

チャップリン映画の常連でフリーメイソン[14][15]のチェスター・コンクリンが前作『モダン・タイムス』に続いて本作『独裁者』に出演した。

ポーレット・ゴダード(1940年代)

「欧州統合の父」でパン・ヨーロッパ連合主宰者リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、ヒトラーの政治上の敵であり、チャップリンと共同で『独裁者』の配給元ユナイテッド・アーティスツを設立したダグラス・フェアバンクス(1925年にフリーメイソンリーに入会)や[16]、出演者のチェスター・コンクリンらと同様、クーデンホーフ=カレルギー伯爵もまたフリーメイソンである(1922年に入会)[17][18]

クーデンホーフ=カレルギーのアメリカへの亡命劇が比喩的に描かれているワーナー映画『カサブランカ』(1942年)もまた反ナチス映画であり、ワーナー四兄弟の中にフリーメイソンリーのメンバーがいる(少なくともハリーサムジャックの3人はフリーメイソンである[19])。

チャップリンと女優ポーレット・ゴダード(ハンナ役)は公私にわたるパートナーであった。クーデンホーフ=カレルギーのパートナーもまた女優であり、ヨーロッパの三大女優(四大女優)イダ・ローラン英語版である。ポーレット・ゴダードとイダ・ローランはユダヤ系である。ポーレット・ゴダードはまたパラマウント社の女優であり、パラマウントの前身「フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー」を設立したアドルフ・ズコールは、フリーメイソンである[20]

脚注

注釈

  1. ^ 全編に渡って肉声のセリフがある作品。いわゆるトーキー作品としては、最初の音楽録音付きの作品は『街の灯』(1931年)、最初のチャップリン肉声付き(但し即興歌のみ)の作品は『モダン・タイムス』(1936年)。
  2. ^ 劇中での呼称は“Phooey”、軽蔑的ニュアンスを持つ擬音語であり、意味は「ナンセンス」。
  3. ^ Osterlich。英語でダチョウを意味するOstrichと、ドイツ語でオーストリアを意味するÖsterreichを掛けている。
  4. ^ a b Benzino Napaloniであるが、ナポロニ、ナパローニ、ナポローニといった表記も見られる。
  5. ^ 「ごみ」を意味する“garbage”(ガービッジ)のもじり。
  6. ^ 「ヘリング」は英語でニシンを意味する。
  7. ^ 「ナパロニ」は「ナポリ」と「マカロニ」を合わせたもの。またナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparte)も意識している。
  8. ^ これらの地域での封切り年は次のとおり。イタリアとアイルランド:1946年、ドイツ:1958年、日本:1960年

出典

  1. ^ Friedman, Barbara G. (2007). From the Battlefront to the Bridal Suite: Media Coverage of British War Brides, 1942-1946. ISBN 978-0-8262-1718-9. "Charlie Chaplin's 1940 film The Great Dictator, satirizing Hitler and Nazism, grossed $5 million worldwide and became a classic." 
  2. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)171頁
  3. ^ 英語「double cross」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書”. ejje.weblio.jp. 2022年10月27日閲覧。
  4. ^ 五十嵐由香「喜劇映画における独裁者ヒトラーの表象―チャップリンの『独裁者』とデヴィッド・ヴェンドの 『帰って来たヒトラー』―」『東洋大学人間科学総合研究所紀要』第21巻、東洋大学人間科学総合研究所、2019年3月、214頁、ISSN 1349-2276、NII:1060/00010912 
  5. ^ 大野裕之「第5章 戦争 二人の別れ」『ディズニーとチャップリン エンタメビジネスを生んだ巨人』光文社〈光文社新書 1139〉、2021年6月15日。ISBN 978-4-3340-4547-0 
  6. ^ The Great Dictator. Scenes audiences never saw” (英語). Charlie Chaplin Archive (2021年9月3日). 2022年10月25日閲覧。
  7. ^ [1]. キネマ旬報ベスト・テン 1960年・第34回 2022年9月24日閲覧。
  8. ^ Chaplin Dictator In Plagiarism: Suit Conrad Bercovici Sues Comedian For Use of Film Idea. The Montreal Gazette - Apr 15, 1941. 2015年閲覧。
  9. ^ May 2, 1947 - $95,000 PAY-OFF BY CHAPLIN ENDS PLAGIARISM SUIT. Chicago Tribune - May 2, 1947. 2015年閲覧。
  10. ^ Filming Modern Times. Charlie Chaplin - Official Website. 2015年閲覧。
  11. ^ 大野裕之『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店、2015年6月25日、225-230頁。ISBN 978-4-0002-3886-1 
  12. ^ どんな弾圧を受けたのですか?”. 日本グランド・ロッジ. 2010年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月9日閲覧。
  13. ^ The Cambridge Biographical Encyclopedia. Cambridge University Press. (2000). ISBN 0-521-63099-1 
  14. ^ CDATA”. Torrance University Lodge #394. 2013年10月21日閲覧。
  15. ^ A few famous freemasons”. Grand Lodge of British Columbia and Yukon A.F. & A.M. 2013年10月21日閲覧。
  16. ^ The History of our Worshipful Lodge”. Beverly Hills Masonic Center Lodge No. 528. 2013年10月30日閲覧。
  17. ^ Jonathan Levy (2007-06-30). The Intermarium: Wilson, Madison, and East Central European Federalism. Universal-Publishers. p. 394. ISBN 978-1-5811-2369-2 
  18. ^ Richard N. Coudenhove-Kalergi (2011-09-01). Pan-Europa. Félix de la Fuente (traducción), Otto de Habsburgo (prólogo). Paneuropa Verlag GmbH, Augsburg y Ediciones Encuentro, S. A., Madrid. pp. 190-191. ISBN 978-8-4992-0554-0. https://books.google.co.jp/books?id=N-drFWKFS3UC&pg=PA190&redir_esc=y&hl=ja 
  19. ^ Royal Arch Mason Magazine. (Spring, 1981). p. 271 
  20. ^ R. Denslow, William (1957). 10,000 Famous Freemasons: Volume IV Q to Z. Foreword by Harry S. Truman. Macoy Publishing & Masonic Supply Co., Inc.. http://www.phoenixmasonry.org/10,000_famous_freemasons/Volume_4_Q_to_Z.htm . (optically scanned by Phoenixmasonry)

発展資料

関連項目

出典

  1. ^ 小林信彦「第四部 幼年期の終り;第一章 幼年期の終り」『世界の喜劇人』新潮社〈新潮文庫〉、1983年11月。ISBN 978-4-1011-5806-8 

外部リンク