シンザン

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シンザン
京都競馬場にあるシンザンの銅像
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1961年4月2日
死没 1996年7月13日
  (35歳没・旧36歳)
ヒンドスタン
ハヤノボリ
母の父 ハヤタケ
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産者 松橋吉松
馬主 橋元幸吉
調教師 武田文吾京都
厩務員 中尾謙太郎
競走成績
生涯成績 19戦15勝(2着4回)
獲得賞金 6021万9700円(当時1位)
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シンザン1961年 - 1996年)は、1960年代に活躍した日本競走馬種牡馬である。史上2頭目、戦後初のクラシック三冠馬1964年1965年啓衆社賞年度代表馬1984年顕彰馬に選出された。八大競走の勝利数から「五冠馬」と呼ばれる。その走りは「の切れ味」と形容された。

注意:馬齢はとくに断りがない限り旧年齢(数え)での表記とする(一部満年齢の使用箇所あり)。

概要

戦後期の日本競馬を代表する競走馬で、1964年日本クラシック三冠馬である。翌1965年有馬記念天皇賞(秋)を勝利したため、五冠馬と呼ばれることもある。

デビュー時はあまり期待されていなかったが次第に頭角を現し、クラシック三冠(皐月賞東京優駿菊花賞)、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といった当時牡馬が獲得可能なGI級競走をすべて制した。デビュー戦から引退レースまでの連続連対数19は、中央競馬におけるレコードである(ちなみに次点はビワハヤヒデの15連続連対で、連対率100パーセントに限るとダイワスカーレットの12連続連対が次点となる)。「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズとともに、このあと長らくシンザンは日本競馬の目標であった。

競走馬引退後は種牡馬となり、ミホシンザンミナガワマンナをはじめ、優秀な産駒を輩出。その活躍は当時冷遇されていた内国産馬に種牡馬の道を切り開いたとされる。

種牡馬引退後も1995年サラブレッドの最長寿記録、1996年には軽種馬の最長寿記録を更新するなど最期まで注目を集めた。

誕生

1961年に母ハヤノボリの第5子として松橋牧場で生まれたシンザンは血統名を「松風」と名付けられた。生後1か月のときに荻伏牧場の場長であった斉藤卯助の紹介により松橋牧場を訪れた京都競馬場調教師武田文吾に資質を認められ、さらに武田の紹介により牧場を訪れた馬主橋元幸吉によって当時としては高値である320万円[注 1]で購入された。

同年秋に離乳[注 2]し、直後に荻伏牧場で育成された。これは小規模な松橋牧場で育つことを嫌った武田の意向による[1]。集団で運動をさせるといつも後ろを追走し、速くは走らないが決してばてないという特徴を見せた。また、育成中はまったく体調を崩すことがなかった[2]。翌1962年11月に荻伏牧場を離れ、12月に武田文吾厩舎に入厩した。

幼少期のシンザンについては以下のようなエピソードがある。調教師の内藤繁春によるとある時、橋元幸吉から本業で資金が必要になったため所有するヒンドスタンの産駒2頭のうち1頭を他の馬主に売りたいと仲介を依頼された。そのうちの1頭が後のシンザンで、もう1頭よりも明らかに見栄えがいいと判断した内藤はシンザンの購入を希望した。しかしこの話を聞いた武田文吾が売却に強く反対したため、破談となった[3]

現役時代

3歳時(1963年)

競走内容

1963年11月にデビューし、無敗の3連勝を遂げる。しかし武田の評価は高くなく、デビュー時には前評判の高かったウメノチカラとの対戦を避けて出走を1週間遅らせ、2連勝して当時の関西3歳選手権競走・阪神3歳ステークスへの出走が可能になったが、武田厩舎からはプリマドンナオンワードセカンドが出走し、シンザンは回避させられた[4]

厩舎関係者による評価

武田厩舎に入厩した1961年生まれの競走馬のなかには、オンワードセカンド(母は牝馬クラシック二冠馬ミスオンワード、父はエプソムダービー優勝馬ガルカドール)や、ソロナウェー産駒のソロナリュー、持込馬のオンワードチェスなどがおり、それらと比べてシンザンへの評価はさして高くはなかった[注 3]。また調教でも担当厩務員中尾謙太郎が同僚から冷やかされるほどに走らなかった。

中尾もはじめは「たいした馬ではない」という印象を抱いていたが、次第にシンザンに曖昧な感覚ながらも威厳や風格を感じるようになり、武田が管理した名馬と比べても遜色がないという印象を持つようになった[5]。また、武田厩舎の主戦騎手栗田勝も「コダマ[注 4]よりも上かもしれない」と感じるようになり、シンザンへの騎乗を希望した[6]

一方、武田は年が明けてシンザンが4連勝を達成したあともオンワードセカンドのほうが強いと思っていた。そのためスプリングステークスを前に栗田が「オンワードセカンドとはものが違う。コダマより強い」と主張して皐月賞でのシンザンへの騎乗を希望したのに対し、思いとどまるよう説得した[7]。スプリングステークスで負けると思っていたシンザンが優勝すると武田も評価を改め、「俺は目が見えなかった。お前がこれほどの大物とは知らなかった」とシンザンに詫びたという[8]

4歳時(1964年)

競走内容

1964年は1月にオープンを勝ち、4連勝を達成した。しかしここまでのローテーションは一流馬との対戦を避けたものであったため、皐月賞の前にシンザンの実力を測るべく東京競馬場で行われるスプリングステークスに出走した[注 5]。レース前の調教の動きが良くなかったシンザンの人気は14頭中6番めであったが、レースではかつて武田が対戦を避けたウメノチカラや、弥生賞を勝ったトキノパレードなどを退けて優勝した。

皐月賞では単勝1番人気に推され、先行策をとると直線の入口で先頭に立ち、猛追するアスカに4分の3馬身差をつけ6連勝でまず一冠目を獲得した。競走後、武田は東京競馬場の調教師・中村広の自宅[注 6]で、競馬記者の井上康文に「ひょっとするとクラシック三冠馬を取れる」と語った。

武田はクラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)を前に、調整のためシンザンを平場オープン競走に出走させたが2着に敗れ、初の敗北を喫する結果となった。本番の東京優駿では皐月賞と同様に1番人気に推され、レースが早いペースで推移するなか、中団を進んだシンザンは最後の直線コースで外から仕掛け、内から追い込んだウメノチカラに一時交わされるも、を入れられるとふたたび差し返して優勝した。優勝タイムの2分28秒8は前年のメイズイのレコードから0.1秒遅れの競走史上2位(当時)のタイムであり、のちの三冠馬となるミスターシービーや、シンボリルドルフのタイムを上回るものであった[注 7]

菊花賞へ向け、武田はシンザンを夏場の避暑のために北海道などへ移送することをせず、京都競馬場で調整することにした[注 8]。しかしこの年の夏は40年ぶりの猛暑となり、シンザンは7月の下旬に重度の夏負けにかかった(具体的な症状としては体温が普段よりも5〜6分上昇し、汗をまったくかかなくなった)。武田は扇風機で馬房を冷やす、氷柱をつり下げるなど対策を講じ、8月の下旬にシンザンの体温はもとに戻った[9][注 9]

夏負けの影響から、シンザンは10月に入るまで本格的な調教を行うことができず[10]、武田はシンザンをレースに使いつつ鍛える方針を立てた。まずオープン競走に出走(結果は2着)したが競走後も調子は上がらず、京都杯ではバリモスニセイの2着に敗れた。

11月に入りようやく体調は上向き、菊花賞直前の調教ではかつてない好内容の走りを見せた[注 10]。しかし競馬ファンの間には体調に関する懸念が残り、菊花賞での人気はウメノチカラに次ぐ2番人気であった[注 11]。菊花賞は牝馬クラシック三冠を目指したカネケヤキ[注 12]大逃げを見せ、一時は20馬身以上の大差を付けた。武田から「早く追うな」と指示を受けていた栗田は、レースを実況していた小坂巖が「シンザン、どうした。三冠はもうだめだ」と発するほど[11]仕掛けのタイミングを遅らせ、直線で一気にスパート。一時先頭に立ったウメノチカラを残り200メートルの地点で抜き去り、戦後初、セントライト以来23年ぶりの三冠を達成した。

三冠達成後、疲労が抜けずシンザンは休養に入った。回避を表明していた有馬記念でのファン投票は3位で、ウメノチカラ(ファン投票2位)より低かった。

シンザン鉄

「シンザン鉄」(京都競馬場)

1月に厩務員の中尾はシンザンの右後ろ脚の爪が出血しているのを発見した。原因は後ろ脚の脚力が増した結果踏み込みが深くなり、後ろ脚が前脚の蹄鉄にぶつかっていることにあると判明し、武田が対策を考えた[12]

対策として、当初は後ろ脚にゴムテープや革が巻かれたが、前者は馬場を歩くだけでとれてしまい、後者は水分を含む馬場に弱かった。試行錯誤の結果、装蹄師の福田忠寛とともに、後ろ脚の蹄鉄に通気穴の空いたスリッパのようなカバーを付けて後ろ脚の蹄を保護し、かつカバーがぶつかる衝撃から前脚の蹄鉄を守るため、前脚の蹄鉄に電気溶接によりT字型のブリッジを張った「シンザン鉄」と呼ばれる蹄鉄を考案した[13]

通常の蹄鉄の耐用期間は3週間ほどであったのに対し、シンザン鉄は1、2週間ほどで溶接部分がはがれ、使用ができなくなるという特徴があった[14]。シンザン鉄の交換は、シンザンが武田厩舎にいるときにはその都度行われた[注 13]が、シンザンが厩舎を離れて遠征するときには、あらかじめ作成した複数のシンザン鉄を中尾が持ち運んだ[15]

このシンザン鉄は通常の蹄鉄に比べ2倍以上の重量があったため、脚部に負担がかかり故障を招く恐れがあったが、シンザンはリスクを克服した。また、この特殊な蹄鉄の重さゆえにシンザンは調教で走らなかったという説もある[16]

5歳時(1965年)

競走内容

当初陣営は大阪杯を経て天皇賞(春)に出走する計画を立てたが、蹄が炎症を起こした影響から食欲が低下するなど体調が芳しくなく、また腰痛を発症していたため、武田は天皇賞(春)の回避を決定した[17]。武田は計画を立て直し、オープンを経て宝塚記念に出走し、その後は秋まで休養させることにした。

シンザンはオープン競走に二度出走(いずれも優勝)したあと宝塚記念に出走。出走馬選定のファン投票では第1位であった。不良馬場への対応を不安視する声も上がったが、レースでは終始好位につけ、最後の直線コースに入ると外から先行馬を交わし、スタートの出遅れから追い込んだバリモスニセイを退け勝利した。

前年に引き続き夏は京都競馬場で過ごすことになった。この年は前年ほど暑くはならず、また早い段階から氷の柱で馬房を冷やすなど十分な対策を施したため、シンザンは夏負けを起こすことなく過ごすことができた[18]

秋のローテーションとして、武田は当初阪神競馬場のオープンに出走したあとで関東へ輸送し、オープンを経て天皇賞(秋)に出走する計画を立てた。しかし阪神競馬場のオープンを優勝した直後、東京、中山、阪神で馬インフルエンザが蔓延して競走馬移動禁止令が出され、禁止解除を待つ間に出走を予定していたオープンが行われてしまった。武田はやむなく目黒記念への出走を決めた[注 14]。シンザンは63キログラムという重い斤量を課されたがこれを克服し、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし優勝した。

天皇賞(秋)では目黒記念でシンザンに敗れた加賀武見騎乗のミハルカスが大逃げを打ったが、シンザンは直線でミハルカスを交わして先頭に立ち、そのままゴールし優勝した。栗田にとっては初の天皇賞優勝で、レース後の表彰式では涙を見せた[19]。なお、この競走でシンザンの単勝支持率は78.3パーセント[注 15]、単勝の配当は100円元返しであった。GI級競走における単勝の100円元返しはほかに5例しか存在しない[注 16]

このあと、平場オープン競走を1戦はさみ第10回有馬記念に向かった。単勝オッズ1.1倍の圧倒的1番人気で、前年3位だった人気投票も1位となった。シンザンは第4コーナーで逃げたミハルカスに並びかけたが、ミハルカスに騎乗していた加賀はシンザンに馬場状態の悪いインコースを走らせるために故意に外へ進路をとり、外側のラチ近くを走行した。しかし、シンザンはミハルカスのさらに外を通ってミハルカスを交わし、優勝した。このときレースを撮影していたテレビカメラの視野からシンザンが消えてしまい、「シンザンが消えた!」と実況された[20]

レース後松本は「シンザンが外を回れと言った」とコメントした[21]。また松本は、のちにレースを振り返って「3コーナーから4コーナーの中間で、前に居る馬は皆バテていたので、相手は加賀の馬だけだと思いながら、内には入らないつもりで乗った。4コーナーの入口で外に振られたが、内へ持ち直す必要は無い、並べばこっちが強いと信じていたから」とも語っている[22]

ローテーションをめぐる武田と栗田の対立

有馬記念を前に、武田はそれまで中山競馬場のレースに出走したことがなかったシンザンのスクーリングと、天皇賞(秋)からのレース間隔が開くことを避けるために、オープンに出走したあと連闘で有馬記念に出走することを決めたが、栗田はこれに強く反対した。武田博が騎乗したオープンでは、シンザンは伸びずにクリデイの2着に敗れた[注 17]。勝ったクリデイが関西では無名の馬であったことにショックを受け、深酒を煽り泥酔した末に倒れて病院へ搬送される事件を起こした[注 18][23]。これに激怒した武田は栗田を降板させ、松本善登を騎乗させることを決定した[注 19][注 20]。さらに、のちに行われたシンザンの引退式でも栗田ではなく松本と武田博が騎乗した[24]

なお、シンザンのローテーションをめぐる両者の対立は前年の東京優駿の前にも起こっており、このときは東京優駿へ向け、武田が調教だけでは仕上がらないとしてオープンへの出走をはさむことを決定したのに対して、栗田はシンザンの能力を考えれば出走は不要と主張し、出走が決まったあとにはレース直前の調教で武田の指示よりも遅く走らせた[25]

シンザンの引退

目黒記念を前に、馬主の橋元は武田に対し有馬記念を最後にシンザンを引退させ、種牡馬にすることを打診した[26]。天皇賞優勝後、武田は中村広厩舎で催された祝勝会の場で、シンザンを有馬記念を最後に引退させることを発表した。シンザンには1966年も現役を続行して海外遠征することを望む声もあったが、武田はシンザンが三冠を達成した時期にアメリカに遠征し、ワシントンDCインターナショナルに出走したリユウフオーレルが惨敗、その後故障を発症して引退したのを目の当たりにし、「決して遠征させない」と決意していた[27]。1966年1月、東京競馬場(9日)と京都競馬場(16日)でシンザンの引退式が行われた。

1968年10月13日、京都競馬場にて銅像の除幕式を行った際、シンザンはゲストとして京都競馬場に呼ばれて3年ぶりに武田厩舎に戻った。朝の乗り運動ではひさびさに栗田が騎乗したほか、13日には銅像と対面。また昼休みには、ファンに現役時代より一回り大きくなった姿を披露した[28]

なおシンザン引退後、日本のホースマンにとってシンザンを超える競走馬を生産し、育成することが目標となり、シンボリルドルフが出現するまでの約20年間、「シンザンを超えろ」のスローガンが標榜され続けた[29]。引退後のシンザンが冬の牧場で二本足で力強く立ち上がった姿を真横から捉えた写真にこのスローガンを添えた日本中央競馬会のPRポスターも存在する。なお、シンボリルドルフが無敗でクラシック三冠を達成したときに武田は「やっとシンザンを超える馬が出てきた」と述べたが、中尾はシンボリルドルフやナリタブライアンと比較しても「『超えるわけがない』という思いはあります」と述べている[29]

競走成績

年月日 競走名 オッズ 着順 距離 タイム 着差 騎手 1着馬/(2着馬)
1963.11.13 京都 3歳新馬 1.4(1人) 1着 1200(良) 1:13.9 4馬身 栗田勝 (ホシツキ)
11.30 阪神 オープン 2.2(2人) 1着 1400(稍) 1:25.7 2 1/2 栗田勝 (エイブルマン)
12.14 阪神 3歳中距離特別 1.9(1人) 1着 1600(稍) 1:40.0 4馬身 栗田勝 (オークラヤマ)
1964. 1. 4 京都 オープン 1.0(1人) 1着 1600(良) 1:42.3 2馬身 栗田勝 (ハナビシ)
3.29 東京 スプリングS 10.5(6人) 1着 1800(良) 1:51.3 1/2身 栗田勝 (ヤマニンスーパー)
4.19 東京 皐月賞 2.7(1人) 1着 2000(良) 2:04.1 3/4身 栗田勝 (アスカ)
5.16 東京 オープン 1.3(1人) 2着 1800(良) 1:50.8 0.1秒 栗田勝 ヤマニンシロ
5.31 東京 東京優駿 2.1(1人) 1着 2400(良) 2:28.8 1 1/4 栗田勝 (ウメノチカラ)
10.10 阪神 オープン 1.2(1人) 2着 1800(良) 1:51.6 0.1秒 栗田勝 イチミカド
11. 1 京都 京都杯 2.5(1人) 2着 1800(良) 1:52.1 0.2秒 栗田勝 バリモスニセイ
11.15 京都 菊花賞 2.4(2人) 1着 3000(稍) 3:13.8 2 1/2 栗田勝 (ウメノチカラ)
1965. 5.29 阪神 オープン 1.9(1人) 1着 1600(稍) 1:37.7 4馬身 武田博 (ヤマヒロ)
6.13 阪神 オープン 1.0(1人) 1着 1850(良) 1:53.7 1 1/2 武田博 (ヤマヒロ)
6.27 阪神 宝塚記念 1.3(1人) 1着 2000(不) 2:06.3 1/2身 栗田勝 (バリモスニセイ)
10. 2 阪神 オープン 1.8(2人) 1着 1850(良) 1:54.0 アタマ 武田博 (ヒカルポーラ)
11. 3 東京 目黒記念(秋) 2.4(1人) 1着 2500(稍) 2:42.2 1/2身 栗田勝 (ブルタカチホ)
11.23 東京 天皇賞(秋) 1.0(1人) 1着 3200(良) 3:22.7 2馬身 栗田勝 (ハクズイコウ)
12.18 中山 オープン 1.0(1人) 2着 2000(良) 2:05.5 0.2秒 武田博 クリデイ
12.26 中山 有馬記念 1.1(1人) 1着 2600(稍) 2:47.2 1 3/4 松本善登 (ミハルカス)

受賞

  • 1964年 啓衆社賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬
  • 1965年 啓衆社賞年度代表馬、最優秀5歳以上牡馬

引退後

谷川牧場で繋養される最晩年のシンザン
1994年8月撮影

種牡馬時代

引退後は種牡馬となったが、当時は海外から輸入した種牡馬の活躍が著しく、内国産種牡馬の成績は低迷していた[注 21]。そのような状況に配慮して、シンザンを繋養した谷川牧場は、「儲けることよりもシンザンの血統を後世に伝えることが重要」と考え、シンザンの種付け料は20万円に設定された。なお、競走馬引退後のシンザンの世話は谷川牧場の従業員・斉藤優が担当した。

スガノホマレがレコードタイムを5回記録し、シルバーランドが日本で初めて2000メートルで2分を切るタイムを記録するなど産駒がスピードを示すようになると、シンザンの種牡馬としての人気は次第に高まり、1978年の5位を最高に合計7回種牡馬ランキングのトップ10に入った。ライター山河拓也は、シンザンの活躍によって内国産種牡馬が見直され、アローエクスプレストウショウボーイの活躍に繋がったとしている[30]1980年代に入ると種牡馬成績は次第に下降し、1980年に内国産種牡馬1位の座をアローエクスプレスに奪われ[注 22]1985年にはリーディングサイアートップ10から陥落した。

産駒からは八大競走などの大レースを勝つ馬がなかなか出なかったが、1981年ミナガワマンナが菊花賞に優勝した。この時点でシンザンは高齢であったためミナガワマンナは「シンザン最後の大物」とも呼ばれたが、さらにそのあと代表産駒となる二冠馬ミホシンザンが登場した。

シンザンはミホシンザンが天皇賞(春)を制した1987年に、受精能力低下により種牡馬を引退した。最終的に産駒の重賞勝利数は49勝に達した[注 23]。また、1969年 - 1992年には産駒24年連続勝利の記録を打ち立てた。これはのちにノーザンテーストが更新するまで日本最長記録だった。

種牡馬成績

  • 産駒数/種付け数 805/1122頭
  • 産駒勝利数625勝
  • 産駒重賞勝利数 49勝(20頭)
  • 産駒GI級競走勝利数 4勝(2頭)

勝利数はいずれも中央競馬のみの集計。

おもな産駒

母の父(ブルードメアサイヤー)としては、以下の産駒がいる。

シンザンの子孫

子孫には馬術競技馬として才能を示した馬もおり、とくにシルバーランドの産駒ミルキーウェイ(競走馬名:シルバータイセイ)は、障害飛越競技日本代表馬としてソウル五輪バルセロナ五輪に出場した(それぞれ67、39位)。元競走馬が障害飛越競技で五輪日本代表になったのは、2010年現在この馬のみである[注 24]

種牡馬引退後

種牡馬引退後は谷川牧場にて余生を送った。晩年は右目の視力を失い[注 25]、歯をすべて失い、さらに1994年2月以降、幾度となく自力で立つことができなくなる[注 26]など身体の衰弱が目立つようになった[31]。1996年7月13日2時ごろ、老衰により永眠(死亡)。35歳3か月11日(満年齢。旧年齢表記で36歳)の大往生だった。

死後は盛大な葬儀が行われ、日本の競走馬としてはテンポイント以来となる土葬が行われた[注 27]。シンザンの墓は生まれ故郷である北海道浦河郡浦河町の谷川牧場にあり、この牧場にはシンザンの銅像も建てられている。

軽種馬の日本最長寿記録を樹立

シンザンは1995年11月19日、シンザンと同世代の二冠牝馬カネケヤキが記録[注 28]したサラブレッドの日本最長寿記録を更新し、さらに翌1996年5月3日にはタマツバキアングロアラブの名馬)が持っていた軽種馬の日本最長寿記録も更新した。

この記録は2011年6月28日にアングロアラブのマリージョイ(競走馬名:スインフアニー)によって破られ[32]、サラブレッド記録としては2014年8月26日にシャルロット(競走馬名:アローハマキヨ)に破られた[33]

評価・特徴

競走馬としての特徴

  • 現役時代の出走体重は456 - 472キログラム。中型からやや大型の馬体の持ち主であったが、体つきはずんぐりむっくりとし、松橋牧場の関係者や厩務員の中尾は揃って「平凡」という第一印象を抱いた[34]。前述のように武田も活躍するまでは素質を見抜けず、厩舎内でもそれほど期待はされていなかった。
  • 気性は生来非常に落ち着いており、武田厩舎に入厩するために貨車で移送中にも暴れることはなく、添乗した人間の不手際で一晩中トランジスタラジオがかけられた状況下でも眠りを妨げられなかった[35]。また、デビュー後はじめて関東へ遠征したときにもまったく動揺を見せなかった[36]
  • 前述のように調教では走らなかった。これについて武田はしばしば「シンザンはゼニのかかっていないときは走らん」とコメントした[37]。また大川慶次郎はこのことで調教の時計は実戦とはあまり関係がないのだと教えられたと述べている[38]
  • 5歳の春に見習騎手を乗せたまま後ろ脚だけで立ち上がり、そのまま約50メートル歩行したことがある。通常、サラブレッドは後ろ2本の脚で立ち上がっても耐え切れずにすぐ降りてしまうため、シンザンの腰の力の強さを示す逸話となっている[39]
  • レースではスタートの飛び出しが非常に強くスタートがうまいという特徴があり[40]、多くのレースで逃げ馬を後方から見る形で先行し、計ったようにゴール前で交わすレース運びをした。着差を大きく広げて勝ったことは少なく、レコード勝ちも一度もない。大川慶次郎は、このことから「着差は決して馬の能力のバロメーターにはならない」ことを教えられたと述べている[41]。中尾は「ハナ差でも勝ちは勝ち」と考える栗田の騎乗スタイルがシンザンのレース振りに影響していたと述べている[29]
  • ゴール板を過ぎるとすぐ止まる癖があった。武田はこれを「りこうな馬でムダっ走りしないことを知っていた」と評した[42]
  • シンザンが喫した4敗のうち3敗は平場オープン競走であった。大川慶次郎はそのときの優勝馬は「お義理にもA級馬とはいえない」馬であり、そんな相手に負けたのはそれらのレースを「馬の仕上げをするのに一回の調教では取れない太めが、レースに使うと三回調教をしたくらいに解消する」と公言していた武田が「調教代わり」に使ったからだとし、「レースを調教代わりに使う。ファンや評論家の立場からは腹が立ちます」と述べている[43]
  • 武田は皐月賞のレースぶりを見て、自身が管理したクラシック二冠馬コダマと比較して「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタはも剃れるナタである」と評した。これは武田のシンザンに関する発言としてもっとも有名なものとなった[44]
  • 栗田勝はシンザンを「こちらの考えていることが以心伝心、電気のように伝わる。こんなに乗りやすい馬はいない」と評した[29]
  • 尾形藤吉はシンザンがレース前に首を長く伸ばし、首と背中のラインが地面と平行になる格好を「サラブレッドの見本」と評した[45]
  • 大川慶次郎はスプリングステークス前の調教で初めてシンザンを見たが、背中がへこんで見える体型をひどく見劣ると感じ、さらに調教の走破タイムが悪かったこと、それまでのローテーション(2か月半の間に4回レースに出走していた)を「とてもクラシックを狙う馬の使い方ではない」と感じたことなどからシンザンを低く評価した。大川はシンザンがスプリングステークスを優勝したあとも「この次は、きっとシンザンは何かに負けるだろう」という思いを抱き、それはシンザンがクラシック三冠を制したあとも変わらなかった。そのため、大川は予想の際に「負かすとすれば、この馬だろう」という馬を探すのを常とし、シンザンを本命にすることは一度もなかった。大川はのちに「シンザンにはその体型に勝る大きなものが内在していた。間違っていたのは私がそれに気がつかなかったことの方」と述べている[46]
  • シンザンの銅像を制作した彫刻家の三井高義はシンザンを「よさは第一に目がいいこと」「目を見て圧倒された」と評した[47]

投票による評価

  • 2000年日本中央競馬会が実施した競馬ファンによる「20世紀の名馬大投票」では17,159票を獲得し、7位に選出された[48]。1位ナリタブライアンには2万票あまりの差を付けられたが、50歳と60歳以上の世代からはそれぞれ1位の支持を得た[49]
  • 雑誌『Number』が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では1位に選ばれた。

競走馬名および呼称

競走馬名

競走馬名「シンザン」は、馬主の橋元から命名を頼まれた武田が孫の栗田伸一(栗田勝の息子で、後に日本中央競馬会騎手になった)から一字を取り、「伸山」としたのが由来[50]で、「新山」「深山」などの異説、誤説もある。京都競馬場の銅像やホッカイドウ競馬の競走名にもなっている「神賛」は三冠達成時に当時の日本中央競馬会理事長:石坂弘がシンザンを称えこう呼んだことからきている[51][注 29]。ちなみに「伸山」の「山」は「入厩時から山のようにどっしりと落ち着いていた」からであったという。

このシンザンという名前はシンザンの子孫の名前としてもよく使われ、シンザンミサキ、ミホシンザン、マイシンザン、シンザンの末子となったスーパーシンザンらが知られている。なおシンザンと名付けられた競走馬は1949年生まれの牝馬(父ニシヒカリ)シンザン、1986年オーストラリア生まれのShinzanの二頭がいるが、現在は国際保護馬名に登録されているためShinzanをそのまま使うことはできない。

呼称

  • シンザンは五冠馬と称される。GI級競走は宝塚記念を含め6勝しているが、宝塚記念は八大競走に入っていなかったため、六冠馬とは称されない。
  • JRA競馬博物館内のメモリアルホール、JRAのページ(競馬の殿堂:シンザン)などでは「最強の戦士」という副題で紹介されている。

エピソード

  • シンザンが本拠地としていた京都競馬場にはシンザンの銅像(1968年に設置)と蹄鉄が展示されているほか、毎年1月には3歳馬(旧4歳)の重賞競走に同馬の名前を冠した「(日刊スポーツ賞)シンザン記念」(1967年に創設。施行条件は1964年1月にシンザンが勝利した京都競馬場のオープン戦にちなんでいる)が開催されている。
  • また毎年7月下旬か8月初めには故郷である北海道浦河郡浦河町で「シンザンフェスティバル」が開かれている。現在は草競馬の競技コンクール「浦河競馬祭り」(ジョッキーベイビーズ北海道予選大会含む)と一体化して「うらかわ馬フェスタ」の一環として開催しており、浦河の観光大使を務める「ミスシンザンコンテスト」のグランプリ(2名)発表なども行われる。
  • 5歳時に出走したオープンでは、斤量を減らす[注 30]ために見習騎手(調教師の武田の息子の武田博)が騎乗した。
  • NHKテレビの紀行ドキュメンタリー番組『新日本紀行』において、1969年9月22日に放送された「サラブレッド高原〜北海道・日高〜」の回では、故郷・浦河町の谷川牧場で、牧場内をのんびりと駆け回る、引退式から3年後のシンザンの映像が撮影・収録されている(1995年から1996年にかけて発売された『新日本紀行』の全60巻の傑作選のビデオソフトの第2巻としてもリリースされている)。
  • 日本中央競馬会はシンザンの功績を讃え、2009年に京都競馬場の一号入場門を「シンザンゲート」に改称した。
  • 厩務員からの証言によればシンザンは現役、引退後通じてエサは幕の内弁当のように分けないと食べず、少しでも気に入らないとエサをひっくり返すということがあったという[52]
  • 2015年現在までクラシック三冠馬は7頭存在するが、小さな牧場で育ったシンザン以外はいずれも社台グループ早田牧場のような「大手」やシンボリ牧場のような「名門」とされる牧場の出身である。
  • シンザンの出走シーンは2012年の日本中央競馬会「近代競馬150周年テレビCM〜「次の夢へ」〜」(30秒版・60秒版)に使用されている。

血統

血統表

シンザン血統ボワルセル系 / Gainsborough4×4=12.5%) (血統表の出典)

*ヒンドスタン
Hindostan
1946 黒鹿毛
父の父
Bois Roussel
1935
Vatout Prince Chimay
Vasthi
Plucky Liege Spearmint
Concertina
父の母
Sonibai
1939
Solario Gainsborough
Sun Worship
Udaipur Blandford
Uganda

ハヤノボリ
1949 栗毛
ハヤタケ
1939 鹿毛
*セフト Tetratema
Voleuse
飛竜 *クラックマンナン
*オーフロラ(Yinkari)
母の母
第五バッカナムビューチー
1941 栗毛
*トウルヌソル Gainsborough
Soliste
バッカナムビューチー *シアンモア
第三ビューチフルドリーマー F.12


血統的背景

母ハヤノボリは競走馬として5勝をあげた。母の半妹には優駿牝馬優勝馬ジツホマレ、に皐月賞優勝馬カズヨシがいる。牝系(ファミリーライン)は1907年イギリスから小岩井農場が高額で輸入したビューチフルドリーマー系(参照:小岩井農場の基礎輸入牝馬)に属する。ビューチフルドリーマー系はほかにテイエムオーシャンメイヂヒカリなど多数の名馬を輩出している。

シンザンの尻尾の付け根には白色の毛が混じっていたが、これは母の父の父にあたるセフトの遺伝といわれている[53]。また、調教師の武田は初めてシンザンを見たときに母の母の父にあたるトウルヌソルの特徴が強く出ていると感じた[54]

兄弟

兄弟は兄にリンデン(5勝。京都4歳特別、中京4歳特別、4歳抽せん馬特別)、オンワードスタン(9勝。中山記念、アメリカジョッキークラブカップ、天皇賞3着、日経賞3着)、ケンスターツ(3勝)などがいる。兄に比べ弟妹はさっぱり走らず、チヨノキク(牝系子孫現存)が南関東公営競馬で2勝をあげた程度でほか4頭は未勝利に終わった。

脚注

注釈

  1. ^ 『シンザン物語』p.212による。より古い『黄金の馬シンザン』p.300によると300万円。ちなみに当時東京優駿の優勝賞金は700万円であった。
  2. ^ 人為的に仔馬を母馬から引き離すこと。
  3. ^ 当時の『優駿』誌の有力厩舎の新馬紹介では「仕上がりは早く、秋の一番馬の期待は持てる」との評価を与えているが、武田厩舎の馬の紹介順では、オンワードセカンドらのあとであった。
  4. ^ 武田が管理したクラシック二冠馬。
  5. ^ スプリングステークスは本来中山競馬場で行われるが、この年は中山競馬場の改修工事が行われていたため東京競馬場で行われた。後述の皐月賞も同様。
  6. ^ シンザンは関東に遠征したときには中村の厩舎で管理された。その際には武田は中村の自宅に宿泊した(『黄金の馬シンザン』p.114)。
  7. ^ ただし、ルドルフの年は多雪、長雨の影響で馬場がダービーの時期にも回復せず、大量の砂が入れられた半ばダートのような馬場であった(『史上最強馬シンボリルドルフ』 p.61)。
  8. ^ 武田の決定の根拠は、京都の夏の気温に対応した状態にあるシンザンを北海道へ送り、さらに涼しくなった北海道に対応した状態で残暑の厳しい京都へ戻すことによるリスクを回避することにあった。
  9. ^ 厩舎が使った氷は一日60で、ひと夏に20万円の費用を要した。
  10. ^ 調教でよく走るオンワードセカンドを相手に、相手よりも長い距離を走ったにもかかわらず先にゴールした。
  11. ^ 菊花賞に出走した二冠馬で1番人気に推されなかったのは史上初のことであった。
  12. ^ 当時牝馬クラシック三冠はイギリス式「1000ギニー(桜花賞)・オークスセントレジャー(菊花賞)」であり、カネケヤキにも三冠がかかっていた。
  13. ^ 具体的には、シンザンに蹄鉄を履かせながら作成された。
  14. ^ 目黒記念は距離が2500メートルと長いうえに、負担重量を減らす手段がないハンデキャップ競走であったため、当初武田はローテーションの候補から除外していた。
  15. ^ GI級競走における単勝支持率としてはハクチカラ1957年天皇賞〈秋〉、85.9パーセント)とディープインパクトの菊花賞(79.03パーセント)に次ぐ記録。
  16. ^ 5例の内訳は、1951年皐月賞(勝ち馬トキノミノル)、1957年桜花賞(ミスオンワード)、1957年天皇賞・秋(ハクチカラ)、1957年有馬記念(ハクチカラ)、2005年菊花賞(ディープインパクト)。
  17. ^ このとき、中山競馬場でレースまで掛かりっきりで調教をつけた博によると、調教時から馬体が重く、調教で気合を付けながら強めに追っても伸びなかったという。
  18. ^ 『シンザン物語』によると急性アルコール中毒。『黄金の馬シンザン』によると急性胃腸カタル
  19. ^ 栗田が全治1か月と診断されたために騎乗が不可能になったという説もある(『黄金の馬シンザン』p.228)。
  20. ^ 武田は当初中山競馬場をよく知る関東の騎手に乗せたいと思い、当時のリーディングジョッキー加賀武見をはじめ複数の騎手に騎乗を打診したが、依頼を断られた。
  21. ^ シンザンの初年度産駒がデビューした1968年にはリーディングサイアーランキング上位20頭に内国産種牡馬は1頭も入っておらず、1970年代もトップ10にランクインしたのはシンザンを含めて2頭のみという状況であった。
  22. ^ アローエクスプレスは同時に外国産種牡馬を含めても日本1位となっている(1980年 - 1981年)。
  23. ^ 中央競馬のみの記録。当時の地方競馬では記録に不備があり残っていない。
  24. ^ 総合馬術の代表経験馬に1932年ベルリン五輪に出場したアスコット帝室御賞典など17勝)、1976年モントリオール五輪に出場したインターニホン(8勝)がいる。
  25. ^ 右目の眼球が白濁していたため一般には白内障といわれているが、正確な病名は不明である(『シンザン物語』p.15)。
  26. ^ そのうちのいくつかはマスコミによってシンザンが危篤状態に陥ったと報道された。
  27. ^ 日本で土葬された競走馬は、昭和50年代以降では、シンザンとテンポイントのほかにマルゼンスキーナリタブライアンパシフィカスの計5頭が確認されている。
  28. ^ カネケヤキは1961年3月12日に生まれ、1995年10月28日に死亡した。なお、同馬はシンザン三冠達成の菊花賞にも出走していた。
  29. ^ ホッカイドウ競馬の競走名である「五冠神讃特別」は同名の日本酒の銘柄に由来するが、その日本酒もシンザンから命名している(大本命五冠神讃 北海道日高振興局)。
  30. ^ オープンで見習騎手が騎乗した馬の斤量は3キログラム減らされた。

出典

  1. ^ 『黄金の馬シンザン』p.28
  2. ^ 『黄金の馬シンザン』pp.35-39
  3. ^ 内藤 2005, pp. 64–65.
  4. ^ 『シンザン物語』pp.63-65
  5. ^ 『シンザン物語』p.56-57、『黄金の馬シンザン』p.48
  6. ^ 『シンザン物語』p.58-61
  7. ^ 『シンザン物語』p.76-77
  8. ^ 『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』p.177
  9. ^ 『シンザン物語』p.100-111
  10. ^ 『黄金の馬シンザン』p.147
  11. ^ 『黄金の馬シンザン』p.162-163、『シンザン物語』p.125-126
  12. ^ 『シンザン物語』p.65-67
  13. ^ 『シンザン物語』p。68-71、『黄金の馬シンザン』pp.96-98
  14. ^ 『シンザン物語』p.72
  15. ^ 『シンザン物語』pp.74-75
  16. ^ 『シンザン物語』p.72、『黄金の馬シンザン』pp.99-100
  17. ^ 『シンザン物語』pp.139-141、『黄金の馬シンザン』pp.174-175
  18. ^ 『シンザン物語』p.149、『黄金の馬シンザン』p.187
  19. ^ 『黄金の馬シンザン』p.213
  20. ^ 畠山直毅「消えた主戦騎手“天才”栗田勝、謎の失踪の裏ドラマ」『競馬名勝負列伝』p.246
  21. ^ 『サラブレ』2007年9月号 p.28
  22. ^ 『日本の騎手』(中央競馬ピーアール・センター編、p212)
  23. ^ 『シンザン物語』pp.169-177、『黄金の馬シンザン』pp.223-228
  24. ^ 『シンザン物語』pp.180-182、194
  25. ^ 『シンザン物語』pp.85-92
  26. ^ 『黄金の馬シンザン』p.193
  27. ^ 『黄金の馬シンザン』p.169
  28. ^ 『週刊競馬ブック』1968年10月19・20日号。
  29. ^ a b c d 「名馬物語 シンザン」(『サラブレ』2003年11月号、p.164)
  30. ^ 「名馬物語 シンザン」(『サラブレ』2003年11月号、p.169)
  31. ^ 『シンザン物語』pp.14-31
  32. ^ ファイル お尋ねします・お答えします『馬の長寿記録を知ろう』”. 馬を知ろう. JRA競走馬総合研究所. 2012年3月15日閲覧。
  33. ^ シンザン超えた長寿記録アローハマキヨ”. 日刊スポーツ. 2014年8月30日閲覧。
  34. ^ 『シンザン物語』p.56、『黄金の馬シンザン』p.12、47
  35. ^ 『黄金の馬シンザン』pp.42-44
  36. ^ 『シンザン物語』p.75
  37. ^ 『黄金の馬シンザン』p.113、132
  38. ^ 『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』 p.186
  39. ^ 『シンザン物語』pp.142-144
  40. ^ 『シンザン物語』p.82
  41. ^ 『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』p.187
  42. ^ 『黄金の馬シンザン』pp.110-111
  43. ^ 『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』p.87
  44. ^ 『シンザン物語』p.85
  45. ^ 『黄金の馬シンザン』pp.243-244
  46. ^ 『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』pp.176-178
  47. ^ 『黄金の馬シンザン』pp.244-245
  48. ^ 『優駿』2000年10月号、p.17
  49. ^ 『優駿』2000年10月号、p.120
  50. ^ 『黄金の馬シンザン』p.64
  51. ^ 『黄金の馬シンザン』p.169
  52. ^ やまさき拓味優駿達の蹄跡』シンザンより
  53. ^ 『シンザン物語』p.203
  54. ^ 『黄金の馬シンザン』p.18、『シンザン物語』p.209

参考文献

  • 中央競馬 編「サラブレッド世界百名馬」中央競馬ピーアール・センター、1978年
  • 大寺駿『黄金の馬シンザン』日経通信社、1982年 ISBN 4-8187-0055-X
  • 大寺瞬『史上最強馬シンボリルドルフ』 三恵書房、1985年、ISBN 4782901275
  • 吉永みち子『シンザン物語』大和出版、1995年 ISBN 4-8047-6044-X
  • 大川慶次郎『大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生』 日本短波放送、1998年 ISBN 4931367291
  • 「Number PLUS」1999年10月号 文藝春秋
  • 雑誌『Gallop臨時増刊 20世紀の100名馬Vol.52 マイシンザン』産業経済新聞社、2001年
  • 山河拓也「名馬物語 シンザン」 『サラブレ』2003年11月号、p163-169、エンターブレイン
  • 内藤繁春『定年ジョッキー あっと驚く馬バカ物語!』アールズ出版、2005年。ISBN 978-4-86204-006-0 
  • 畠山直毅「消えた主戦騎手“天才”栗田勝、謎の失踪の裏ドラマ」『競馬名勝負列伝』p232-247、競馬名勝負愛好会(編)、洋泉社、2006年 ISBN 4862480063
  • 『サラブレ』2007年9月号 エンターブレイン

関連項目

外部リンク