全国高等学校野球選手権大会に関するエピソード
この項では全国高等学校野球選手権大会に関する様々なエピソードを紹介する。
目次 |
[編集] 歴代キャッチフレーズ
毎年12月から1月にかけて、大会で使われるキャッチフレーズを朝日新聞社が一般の高校生から公募している。本大会直前から放送される朝日新聞社のテレビ・ラジオコマーシャルで使われる。(第75回記念大会以降)
- 1993年(第75回記念大会)「なし」
- 1994年(第76回大会)「僕らのノンフィクション」
- 1995年(第77回大会)「君の勇気に会いに行く。」
- 1996年(第78回大会)「やっぱり野球が大好きです」
- 1997年(第79回大会)「夏は、ぼくらの夢舞台」
- 1998年(第80回記念大会)「甲子園で会いましょう」
- 1999年(第81回大会)「君がいる甲子園が好き」
- 2000年(第82回大会)「きっとある君だけの甲子園」
- 2001年(第83回大会)「君といる夏甲子園」
- 2002年(第84回大会)「ずっと逢いたい夢でした」
- 2003年(第85回記念大会)「忘れられない夏になる」
- 2004年(第86回大会)「夏のドラマが動き出す」
- 2005年(第87回大会)「君に見せたい夏がある」
- 2006年(第88回大会)「夏の仲間にありがとう」
- 2007年(第89回大会)「甲子園に、恋をした」
- 2008年(第90回記念大会)「この一球に、かける夏。」
- 2009年(第91回大会)「“夏”という名の宝物」
- 2010年(第92回大会)「夏の夢、今、走り出す」
- 2011年(第93回大会)「一瞬の夏、一生の記憶」
[編集] 歴代「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンモデル
1986年(第68回大会)から2008年(第90回記念大会)まで日本ビクターをスポンサーにした甲子園の宣伝ポスターが作られていた。詳細は「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンを参照。
[編集] 地方大会関連
[編集] 別都道府県での地方大会開催
地方予選大会は原則としてその都道府県にある野球場での開催となっているが、他の都道府県に会場を移して開催した事例もある。
1920年の四国大会決勝戦の香川商(現在の高松商)対松山商は兵庫県の鳴尾球場で行われた。これは当時、過去の試合中のトラブルで遺恨のあった香川県勢と愛媛県勢の対戦による、両県の観客間の騒動を回避するため四国外で開催されたものである。
最近の例としては球場難を理由に1991年 - 1993年ごろ、大阪府大会でそのケースがあった。1990年まで使用された大阪球場が野球場としての機能を停止させたため、その代替球場として奈良市・鴻ノ池球場と西宮市・阪急西宮スタジアムの2ヶ所を使用して行った。なお、その後大阪府には大阪ドーム(現京セラドーム大阪)、舞洲ベースボールスタジアム、南港中央公園野球場、豊中ローズ球場などが建設されたことから現在は越境開催は行っていない。また鴻ノ池球場はその後も奈良県大会で使用されていたが、高校統廃合による試合数減少に伴い2008年以降は奈良県大会では使用されていない。
また、西東京大会の決勝戦や開幕試合などは東東京地区にある神宮球場を使用している。
[編集] 兵庫県大会と甲子園球場
- かつては全国大会に先駆けて、兵庫大会においても甲子園球場が一部使用されるケースもあった(1975年までは決勝戦も甲子園球場で行われていたが、現在の決勝戦は兵庫県立明石公園第一野球場が主会場)。ただ、元々プロ野球(阪神タイガース)との兼ね合いから日程の確保が難しく、また現在は県内各地に球場が整備されたため甲子園球場を地方大会の会場として使用する必要性がなくなったことから、2000年以降は地方大会の会場としては使用されていない。
- なお、地方大会として使用された当時は、全国大会とは異なり会場の外野フェンスを大会名の書かれたシートで覆うことなどはせず、阪神タイガース主催試合など通常と同様のグラウンド形態で試合を行っていた。なお甲子園で試合をする高校については、スコアーボードをバックに記念写真撮影が出来るようになっている。
- しかしながら、本大会へはわずか1校しか出場できないため、「近くて遠い甲子園」といわれる。
[編集] 地方大会とドーム球場
地方大会では近年、開会式と開幕戦の一部試合をドーム球場で行う事例が数例ある。
- 大阪府大会 開会式と開幕戦2試合を京セラドーム大阪で開催(1998年ごろから毎年)
- 福岡県大会 ヤフードームで開会式を開催(2007年は開会式後に開幕試合として2試合実施)
- 愛知県大会 一部の試合をナゴヤドームで開催(2005年は準決勝・決勝、2006年は決勝のみ、2007年は5回戦のうち4試合と準々決勝4試合)
[編集] 没収試合
過去に数件起こっている。放棄試合(日本高校野球)参照。
[編集] 122得点
まれに地方大会では1チームに30点以上も取る大量得点試合を目にすることがある。その中でも特筆すべきは1998年(第80回記念大会)の青森大会2回戦、東奥義塾高校対深浦高校(青森県営野球場)の一戦である。
この試合、東奥義塾は1回に早くも39点の得点を上げ、更に2回以後も毎回10得点以上を獲得、夏の大会では地方大会、全国大会を通して初めて100点の大台を上回る122-0の圧勝を演じた。当時の東奥義塾の成績は打者149人、ヒット86本(うち2塁打31、3塁打21、ホームラン7)、四死球36、盗塁78、三振1だった。4番打者の珍田威臣は16打数14安打12打点、11打席連続安打にサイクルヒットを2回記録した。逆に深浦は打者25人がノーヒット(うち三振16)だった。
深浦ナインは正式な野球部員が10人しかおらず、しかもその半数は野球経験が全くなかった。この試合は青森朝日放送で生中継されていたが、放送予定時間内ではとても試合終了まで中継することができず、試合途中の2回49点差で放送は終了した。
現在5回終了時に10点差以上付けばコールドゲームで終了するが、当時の青森大会の規定では7回まで行うことになっていた。深浦の監督が「ここで試合をやめる(没収試合)という選択肢もあるが」と選手に問うと「ここで試合をやめてしまうのは、応援されているのだから野球をする気が引けてしまう」ということで最後まで戦い抜くことを決断。結局7回まで試合が行われた。また、東奥義塾も「手を抜くのは失礼に当たる」と手を緩めることなく攻撃を行った。しかし一方では不必要に大量盗塁も行っており、そのことについてノンフィクション作家の海老沢泰久は著書やコラムで厳しく批判していた。
この試合については後に川井龍介が「0対122 けっぱれ!!深浦高校野球部」と題したルポルタージュ本としてまとめている(のち加筆され「122対0の青春 深浦高校野球部物語」として文庫化された)。
この試合を教訓に高野連は地方大会のコールドゲームの基準を2000年度から統一し、5回以降で10点差以上、7回以降で7点差以上の差が付いた場合はコールドにするよう通達した。ちなみに、深浦高校は2004年の青森大会で、松風塾高校に13-6(青森市営野球場)で7回コールドで大会初勝利を挙げたが、同年7月21日に2007年度から青森県立木造高等学校の分校化が決定した(現在は「木造高校深浦校舎」として出場している)。
2011年8月、歌手JAY'EDと若旦那のコラボレーション曲「Toy box」のプロモーションビデオに、当時の野球部員が出演し、当時の試合から十数年を経た元野球部員それぞれの今の姿をうかがい知ることが出来る。
なお、2011年(第93回大会)の兵庫県予選1回戦、姫路工業高校―氷上西高校戦で、姫路工業高校が71-0の5回コールドで勝利。この試合は姫路工業高校が後攻めで攻撃イニングは4回しかなく、1イニングあたりの平均得点は17.75点となり、この試合の東奥義塾の1イニングあたりの平均得点である17.43点を上回った。
[編集] 代表決定戦の引き分け再試合
1978年(第60回記念大会)の佐賀県予選決勝、小城対佐賀学園は4-4で延長18回引き分けとなり、再試合は5-2で小城が勝利し甲子園初出場を決めた。その後2000年に延長は15回までに短縮される。
2002年(第84回大会)の福岡県予選決勝、柳川対九州国際大付は九州国際大付が4-1とリードして迎えた9回表に柳川が満塁からの走者一掃タイムリー3ベースで追いつき、そのまま延長15回引き分け。15回制になって初の代表決定戦の再試合は11-8で柳川が勝利した。
2004年(第86回大会)の大阪府予選決勝、PL学園対大阪桐蔭の対戦は大熱戦の末延長15回の大会規定で4-4の引き分けに終わり、翌日再試合が開かれた。この試合ではPLが序盤に大量得点を奪い13-7で圧勝。2日越しの熱戦を制して甲子園出場の切符を手にした。なお、この試合は藤井寺球場における高校野球最後の試合でもあった。
2006年(第88回大会)宮城県予選では、度重なる雨により予定を大幅に超過した。さらに7月28日に予定していた決勝戦まで雨で中止、元々29・30日はフルキャストスタジアム宮城で楽天戦が組み込まれていたこともあり7月31日に延期となった。そして行われた決勝戦東北高校対仙台育英高校は投手戦の末延長15回0-0の引き分けに終わり地区大会が8月までもつれ込む事態となった。翌8月1日の試合では仙台育英が前日に引き続いて登板した2年生エース佐藤由規(現東京ヤクルトスワローズ)の力投に打線が応え、仙台育英が勝利した。
2011年(第93回大会)兵庫県予選決勝、東洋大姫路対加古川北の対戦は延長15回の大会規定で2-2の引き分けとなり、翌日に再試合が行われた。最初の試合では7回表に東洋大姫路が1点取ればその裏加古川北が1点、9回表裏にも1点ずつ取り合うというまったく五分の接戦であったが、再試合では5回裏に東洋大姫路が1点先制すると、7回裏に一挙5点の猛攻をみせ、結果6-0というスコアでの決着となった。
[編集] 振り逃げ3ラン
2007年(第89回大会)7月28日、神奈川県横浜市中区の横浜スタジアムで行われた神奈川大会準決勝の東海大相模対横浜の一戦で、4回に東海大相模のバッター、菅野智之(現・東海大学)の打席で起きた。この回3点を先制し、2死一、三塁という場面で2ストライク後にワンバウンドのボールを空振りした。スリーストライクが宣告されたが、これを「三振でバッターアウト・スリーアウトチェンジ」だと勘違いした横浜の選手たちは、ナイン全員そのままベンチに引き上げてしまった。
記録は三振であるが、この時の投球はワンバウンドしており、東海大相模のバッター菅野の振り逃げが成立するシーンである。すぐに横浜の捕手が菅野にタッチをせず、しかもボールを一塁にも送球しなかったため、東海大相模のランナー2人と振り逃げでアウトになっていないバッターの菅野自身も、無人のダイヤモンドを回って3点追加した。横浜の渡辺元智監督が抗議したものの認められなかった(その当時の映像をYouTubeで見ることが出来る[1])。結局横浜はこの3点が響いた格好となり、スコアは6-4の2点差で東海大相模が勝利した。ちなみに菅野智之は読売ジャイアンツ原辰徳監督の甥にあたり、2011年ドラフト会議において北海道日本ハムファイターズに1位指名を受けた。
[編集] 再再試合
2003年(第85回記念大会)の福井県予選1回戦では、大野東-敦賀気比の試合で延長15回に規定により5-5で引き分けとなった。翌日の再試合でも延長15回に規定により3-3で引き分けとなり、雨天順延をはさんだ翌々日の再再試合で敦賀気比が6-1で大野東に勝利した。総イニング数39回、試合時間は8時間42分に及んだ。これは戦後唯一の再再試合である。
1941年(第27回大会)には、台湾予選の嘉義農林-台北工でも再再試合が記録された。0-0のまま8回に雨天引き分けとなり、翌日も0-0のまま7回雨天引き分けとなった。その翌日には延長25回で嘉義農林が台北工を2-1で破った。総イニング数は40回に及んだ[1]。
[編集] 最終回裏二死から9点差を跳ね返す
地方大会では9回裏2死から大逆転劇が繰り広げられる事もある。例えば、1985年(第67回大会)7月25日の埼玉県予選5回戦の城西大川越と秀明高校の試合において最終回城西大川越が7-1でリードという状況で、秀明が二死ランナー無しからエラーと四球を挟み7連打で7点を奪い逆転サヨナラという事があった。
こういった逆転劇の中でも特筆すべきは2002年(第84回大会)7月20日の大分県予選2回戦の緒方工と中津北の試合である。この試合は天候がそれほど良くない状況で行われ、9回に雨が激しくなり投手の制球が乱れ緒方工は7点を追加し14-5となりダメ押しをしたかと思われた。ところが、この状況は相手投手にとっても同様であり9点差で迎えた9回2死満塁から、タイムリーでまず2点、5連続四球で押し出しで4点、ショートのエラーで1点、そして3点タイムリーで計10点を奪い、14-15で逆転サヨナラという前代未聞の結果となった。
[編集] 観客乱入による中断
2008年(第90回記念大会)7月20日の岡山県予選準々決勝の関西と作陽の試合に於いて、試合中に観客が乱入したため12分間中断した。関西が作陽に7-9と2点差まで迫っていたときに起こり、攻撃中だった関西側のベンチで暴言などを吐き威嚇した。県高野連関係者がベンチ前で男たちを取り囲んだため監督や選手に危害は及んでいない。さらに観客の野次に激昂しスタンドに上がったところで、通報を受けた倉敷署の署員に取り押さえられた。
[編集] 全国大会関連
[編集] 甲子園球場以外での開催
1915年(第1回大会)と1916年(第2回大会)は豊中球場で、1917年(第3回大会)から1923年(第9回大会)までは鳴尾球場で開催された。1924年(第10回大会)に甲子園球場が完成し、以降は甲子園球場での開催となった。
しかし、それ以降も全国高校野球を甲子園球場以外で何度か開催されている。1946年(第28回大会)は阪急西宮球場で開催された。甲子園球場がアメリカ軍の接収下にあり、利用できなかったための代替球場であった。1958年(第40回記念大会)と1963年(第45回記念大会)は、全国各都道府県と沖縄の代表を含めた47代表が参加する記念大会であり、試合消化のために甲子園球場と阪急西宮球場の併催となった。これは甲子園では消化しきれないための処置であり、一回戦から三回戦までの試合を甲子園球場での試合と西宮球場での試合を半分ずつに分け、準々決勝以降は甲子園球場での試合とした。西宮球場に分けられた高校からは不評であり、同じく47代表参加の1968年(第50回記念大会)は全試合が甲子園球場で試合が行われ、以降代表校が49校あるいは55校までに増えてからも同様である。
ちなみに春の大会は第1回の1924年に八事(山本)球場で開かれた以外、全部甲子園のみを会場として行っている(終戦直後の1946年春は中止)。
[編集] 優勝賞品の歴史
1915年(第1回大会)から優勝校と準優勝校のナインにメダルが贈呈され(※前者は金・後者は銀)以降定着しているが第1回では副賞として現物が支給されていたという。第1回では出場校は1つ勝利するごとに万年筆が贈呈され、優勝校と準優勝校には賞金と辞典(前者が百科事典・後者が国語辞典と英和和英辞典)が贈呈されていたと記録されているが、さすがにおかしいという声が上がり第2回からメダルのみとなったのである。
[編集] 敗者復活制度
大会初期の頃、敗者復活制度が実施された。これは第2・3回大会の2回だけ行われたもので、1916年(第2回大会)の場合、全国大会に参加は12校。1回戦の試合数が6試合。2回戦が3試合となると、次のステップに進めるのは3校と端数が生じてしまうということで、1回戦で敗れた6チームのうち成績上位の2校を敗者復活として出場させた。対象校は中学明善(福岡)と鳥取中(鳥取)であった。敗者復活校同士の試合は鳥取中が勝利したが、鳥取中は次の試合で敗北している。
1917年(第3回大会)も12校で開かれたが、この時は敗者復活の対象が4校となった。対象校は愛知一中(愛知)、明星商(大阪)、長崎中(長崎)、和歌山中(和歌山)であった。4校による敗者復活戦をして、その勝者2校が2回戦に進出し、勝者2校による二回戦が行われた。ところが、この敗者復活戦を勝ち抜いた愛知一中は決勝まで進み、そのまま優勝した。このことから敗者復活制度を行うことに疑問が感じられたため、この第3回を最後に廃止された。
[編集] 場内一周を拒否
決勝戦の後の閉会式のトリは優勝校・準優勝校選手による場内一周である。これが最初に提案されたのは1919年(第5回大会)。地元勢として初優勝を果たした兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)の偉業を称え、スタンドを埋めた観衆へのサービスとしての企画であった。しかし神戸一中ナインは、われわれは見世物ではないとの理由でこれを固辞。神戸高校は神戸一中時代に当該大会以降も何度か出場しているが、場内一周の機会にはこれ以降恵まれていない。
[編集] 甲子園球場近くにあった「野球乃塔」
詳細は「阪神甲子園球場#野球塔」を参照
[編集] 優勝旗の保持が7年に渡った学校
1941年(第27回大会)が戦時体制による交通制限実施により中止となり、以降1946年(第28回大会)が行われるまで5年間、太平洋戦争などにより空白の時代を迎えていた。しかしこれによって和歌山県立海草中学校が6年間も優勝旗を保持することとなってしまったが、実は中止になった第27回で3連覇の期待がかけられていた。海草中は1939年(第25回大会)を制し、翌1940年(第26回大会)でも連覇。中止になった時点で2年間保持していた。そのため優勝旗の保持が7年にも渡ったのである。
戦後初の大会である1946年(第28回大会)での海草中の成績だが紀和大会で敗退し結果入場行進は主将一人となった(※その大会の代表校は和歌山県立和歌山中学校であった)。
[編集] 没収された甲子園の土
詳細は「日本の高校野球#甲子園の土」を参照
[編集] 決勝戦の引き分け再試合
1969年(第51回大会)、松山商(愛媛)と三沢(青森)の決勝戦は同点のまま延長18回で試合終了した。翌日に決勝戦では春夏を通じて初の引き分け再試合が行われた。この再試合で松山商が勝利し、優勝となった。準優勝投手である三沢の太田幸司は4日連続で45イニングを一人で投げぬいた。
また、2006年(第88回大会)、駒大苫小牧(南北海道)対早稲田実業(西東京)の決勝戦も8回に両軍1点ずつを獲得するが両軍エースの好投で延長15回引き分けとなり、37年ぶり2回目の再試合となった。この再試合で早稲田実が勝利し、優勝となった。優勝投手である早実の斎藤佑樹は4日連続で42イニングを一人で投げぬいた。
この決勝戦は朝日放送発にテレビ朝日系で12:55~試合終了まで完全生中継されたが、偶然にも決勝第1戦の日が日曜日と重なったため、関東地区では平均視聴率で23.8%、最高視聴率は30.4%を記録した。
[編集] 全国大会初の毎回得点
1985年(第67回大会)の2回戦(初戦)PL学園対東海大山形の試合において、PL学園が春夏を通じて全国大会では史上初の毎回得点を達成し、29対7の圧勝を演じた。(スコアはその項を参照されたい)
[編集] 同一校名対決
1972年(第54回大会)の1回戦及び1989年(第71大会)の2回戦(初戦)で、長崎県代表の海星高校と三重県代表の海星高校との同一校名対決が実現した(どちらも「かいせい」と読む)。1972年は2対0で長崎海星が、1989年には10対2で三重海星が勝利している。この時、スコアボードには三重側を「三・海星」、長崎側を「長・海星」と表示された。
また、1957年(第39回大会)の2回戦では埼玉県代表の埼玉県立大宮高等学校と宮崎県代表の宮崎県立宮崎大宮高等学校が対戦し、延長10回の末7対6で埼玉の大宮高校が勝利している。
[編集] 4アウト事件
1982年(第64回大会)の2回戦(初戦)益田対帯広農業の試合で、9回表の益田の攻撃のときに事件は起きた(振り逃げ無しで成立した事例である)。帯広農業の投手は3アウトには気付いていたが、4人の審判員のほか各選手らはそれに全く気付かず、3アウト後も次の打者を出していたが、後に記録員の指摘で間違いが判明した。これは当時、スコアボードのアウトを表示するカウントランプが故障により、1つしか灯っていなかったのが原因だったという(YouTube・当時の映像より[2])。この4アウト目の記録は直ちに取り消されたものの、試合終了後にこのミスジャッジを重く見た高野連は、この試合を務めた4人の審判全員を同64回大会中謹慎処分とした。また「熱闘!高校野球-甲子園&高校野球・トリビアの蔦」にも、その経緯が詳しく書かれている。
[編集] 同一ユニフォーム対決
2002年(第84回大会)3回戦にて、和歌山県代表の智弁和歌山と奈良県代表の智弁学園が対戦したことがある。この2校は同系列の兄弟校であり、ユニフォームのデザイン・色調も同一(違いは左腕の校章の一部と県名、胸の智辯の大きさ)の為、非常に稀な同一ユニフォーム対決となった。試合結果は7対3で、智弁和歌山が勝利した。1989年のNHKの高校野球開催直前の特別番組で、1980年代頃に兄弟校対決を予測して和歌山側が赤の帽子を準備したと放送されていた。しかしこの試合では従来の帽子が使用された。
[編集] 雨と決勝の因縁
降雨等による天災でノーゲームになった試合が、夏の選手権大会では9度起こっている。
2003年(第85回記念大会)1回戦、倉敷工(岡山)対駒大苫小牧(南北海道)の試合では、駒大苫小牧が8-0と8点差の大量リードしながらも、4回裏途中台風接近による激しい雨が降り続き、降雨ノーゲームとなる。そして翌日の再試合では、前日と打って変わって倉敷工が試合を優位に進め、5-2で駒大苫小牧を下した。駒大苫小牧側では日付から「8・9の悲劇」と呼んでいる。
翌2004年(第86回大会)で甲子園に戻ってきた駒大苫小牧は、初戦の2回戦で佐世保実(長崎)を7-3で下し、北海道勢春夏50勝目の勝利を挙げた。その後も駒大苫小牧は日大三、横浜など強豪に勝ち続け、そして決勝戦では2004年春選抜大会で優勝の済美(愛媛)を13-10の乱打戦を制し、見事に北海道勢として初の甲子園優勝を果たした。
駒大苫小牧が8点もリードしながら、降雨によるノーゲーム再試合負けが大きく知られることになったが、これからさかのぼること10年前にも似たような経緯の試合があった。
1993年(第75回記念大会)2回戦、鹿児島商工(鹿児島)対堀越(西東京)の試合では、鹿児島商工が3-0と3点リードした8回表、突然の豪雨で球場全体が水浸しになり、2度目の24分間の中断後、降雨コールドゲームが適用されて鹿児島商工が堀越を下した。
続く3回戦、鹿児島商工は常総学院(茨城)と対戦、鹿児島商工が4-0と4点リードしながらも4回表、前日に続く雨で今度は降雨ノーゲームとなってしまう。翌日の再試合ではなかなか点が取れず投手戦になり、7回表に1点を取った常総学院にそのまま1-0の僅差で敗れ、鹿児島商工は不運な敗戦で甲子園を去った。
翌1994年(第76回大会)で鹿児島商工は、学校名を樟南に変更して甲子園に戻ってくる。前年にノーゲームによる悔しい負け方をした樟南(鹿児島)は3回戦、双葉(福島)との試合で、3-1と樟南が2点リードで迎えた試合成立寸前の7回裏途中、降り続く雨で中断。又もノーゲームと思われたが1時間10分後に試合再開、結果樟南が4-1で下してそのまま決勝へ勝ち進むことになる。
この年の決勝で対戦した佐賀商(佐賀)も、準々決勝の北海(南北海道)との試合中、5-0と佐賀商が先行していた4回表に、激しい雷雨により1時間33分間も中断となったが、6-3で佐賀商が逃げ切って勝利。
この年の樟南は、前年のことや福岡-田村のバッテリーの評判から優勝候補とも言われていたが、地方大会から神がかり的に勝ってきた佐賀商に対して、9回表佐賀商の当時キャプテンだった西原に、4-4の同点から夏の大会の決勝では史上初の満塁ホームランを打たれ、4-8で惜しくも優勝を逃してしまった。この似た経緯の試合から、もし1994年に樟南が優勝していた場合、2004年に優勝した駒大苫小牧と同様に、前年の降雨ノーゲーム再試合負けの常総学院との試合を含め、大きく取り上げられていたことだろう。
1994年夏選手権の佐賀商の優勝に貢献した当時のコーチは、奇しくも10年後、2004年の夏選手権で優勝した駒大苫小牧の香田誉士史監督である。監督自身も1988年(第70回記念大会)・1989年(第71回大会)で佐賀商の選手として出場し、1989年の選手権ではホームランも打っている。さらに、1993年の夏選手権でノーゲーム再試合で運良く鹿児島商工に勝った常総学院は、同じく奇遇にも駒大苫小牧がノーゲーム再試合で悔しく敗れた、2003年の夏選手権で全国制覇を成し遂げている。
2008年(第90回記念大会)1回戦では、大阪桐蔭(大阪)対日田林工(大分)の試合で、大阪桐蔭が4-0とリードしながら、2回裏途中で雷雨により降雨ノーゲームとなる。大阪桐蔭の部員数人は「再試合はリードしていた学校が敗れるケースが多いので、嫌な予感がよぎった」と語ったが、翌日の再試合も大阪桐蔭は前日の打撃好調を維持、16-2と日田林工に圧勝してノーゲームの不運を吹き飛ばした。大阪桐蔭はその後も勝ち進んで決勝戦に進出。そして決勝の大阪桐蔭は、常葉菊川(静岡)に17-0と圧倒的な大差を付けて、17年ぶり2回目の夏選手権での全国制覇を成し遂げた。
[編集] 初戦での隣県対決及び同地区対決
かつて、1府県1代表制(北海道・東京は2代表)となった1978年(第60回記念大会)から2006年(第88回大会)まで、夏の甲子園では初戦で近隣都道府県の代表校と当たることを避けるために、初戦は「東ブロックの高校対西ブロックの高校」として、組み合わせが行われていた。しかし、全国9地区で唯一東西に分断される北信越地区(新潟・長野・富山・石川・福井)だけ初戦対決が行われるケースが何度か有り、不公平感があるとの声があがった。そのため検討の末、2007年(第89回大会)から東西対決方式だった初戦の組み合わせ方法を、1977年(第59回大会)以来30年ぶりに、全地区でのフリー抽選式に戻すこととなった。但し、2代表が出場する北海道と東京勢は初戦で対戦しないように、抽選の最初に振り分けられる(なお10年毎の記念大会では他に、埼玉・千葉・神奈川・愛知・大阪・兵庫の6府県2代表も、同府県同士が初戦で当たらないよう配慮される)。
フリー抽選式で行った第1回から第59回大会までに、実現していた初戦隣県対決及び現在の春選抜の同じ地区に属するものは、以下のものなどがある。
| 回 | 開催年 | 勝利校 | 結果 | 相手校 |
|---|---|---|---|---|
| 9 | 1923年 | 早稲田実(東京) | 5-1 | 横浜商(神奈川) |
| 徽文高普(朝鮮) | 9-4 | 大連商(満州) | ||
| 11 | 1925年 | 静岡中(静岡) | 3-2 | 愛知一中(愛知) |
| 17 | 1931年 | 平安中(京都) | 6-5 | 八尾中(大阪) |
| 20 | 1934年 | 享栄商(愛知) | 11-2 | 島田商(静岡) |
| 23 | 1937年 | 平安中(京都) | 6-5 | 浪華商(大阪) |
| 呉港中(広島) | 9-5 | 大田中(島根) | ||
| 24 | 1938年 | 仁川商(朝鮮) | 3-2 | 天津商(満州) |
| 28 | 1946年 | 愛知商(愛知) | 2-0 | 沼津商(静岡) |
| 浪華商(大阪) | 11-2 | 和歌山中(和歌山) | ||
| 37 | 1955年 | 新宮(和歌山) | 3-2 | 浪華商(大阪) |
| 41 | 1959年 | 倉敷工(岡山) | 10-1 | 大田(島根) |
| 八尾(大阪) | 1-0 | 滝川(兵庫) | ||
| 42 | 1960年 | 米子東(鳥取) | 8-0 | 盈進商(広島) |
| 大宮(埼玉) | 1-0 | 桐生工(群馬) | ||
| 43 | 1961年 | 銚子商(千葉) | 2-1 | 法政一(東京) |
| 49 | 1967年 | 習志野(千葉) | 3-1 | 堀越(東京) |
| 51 | 1969年 | 松山商(愛媛) | 10-0 | 高知商(高知) |
| 52 | 1970年 | 大分商(大分) | 5-1 | 九州工(福岡) |
| 53 | 1971年 | 銚子商(千葉) | 3-2 | 深谷商(埼玉) |
| 58 | 1976年 | 豊見城(沖縄) | 3-0 | 鹿児島実(鹿児島) |
| 59 | 1977年 | 早稲田実(東東京) | 4-1 | 桜美林(西東京) |
それから第60回記念大会から第88回大会までの29年間、夏の甲子園で初戦は「東ブロックの高校対西ブロックの高校」として、組み合わせが行なわれるようになった。しかし、東西ブロックの境目での隣県と北信越地区については、以下のようなケースで初戦対決が行われている(東ブロックの境目-新潟・長野・富山・岐阜・三重。西ブロックの境目-石川・福井・滋賀・京都・奈良・和歌山。なお第60~69回大会まで、石川県は東ブロックに入っていた)。
| 回 | 開催年 | 西ブロック代表校 | 結果 | 東ブロック代表校 |
|---|---|---|---|---|
| 62 | 1980年 | 瀬田工(滋賀) | 9-7 | 明野(三重) |
| 67 | 1985年 | 甲西(滋賀) | 7-5 | 県岐阜商(岐阜) |
| 和歌山工(和歌山) | 1-11 | 海星(三重) | ||
| 69 | 1987年 | 天理(奈良) | 7-3 | 明野(三重) |
| 74 | 1992年 | 星稜(石川) | 11-0 | 長岡向陵(新潟) |
| 76 | 1994年 | 敦賀気比(福井) | 0-5 | 佐久(長野) |
| 77 | 1995年 | 星稜(石川) | 3-0 | 県岐阜商(岐阜) |
| 81 | 1999年 | 小松(石川) | 5-9 | 新湊(富山) |
| 83 | 2001年 | 金沢(石川) | 13-4 | 滑川(富山) |
| 85 | 2003年 | 近江(滋賀) | 9-5 | 宇治山田商(三重) |
| 86 | 2004年 | 遊学館(石川) | 6-3 | 県岐阜商(岐阜) |
| 87 | 2005年 | 京都外大西(京都) | 4-1 | 菰野(三重) |
| 88 | 2006年 | 福井商(福井) | 8-1 | 福岡(富山) |
第60回~第88回大会まで、東西の隣県及び北信越地区の初戦対決は、過去に13回行われている。また東ブロック代表の勝利はわずか3回のみで、圧倒的に西ブロック代表の方が有利な試合展開であった。
| 回 | 開催年 | 勝利校 | 結果 | 相手校 |
|---|---|---|---|---|
| 89 | 2007年 | 文星芸大付(栃木) | 5-0 | 市船橋(千葉) |
| 前橋商(群馬) | 2-1 | 浦和学院(埼玉) | ||
| 90 | 2008年 | 宮崎商(宮崎) | 7-1 | 城北(熊本) |
| 智弁学園(奈良) | 5-4 | 近江(滋賀) | ||
| 関東一(東東京) | 13-5 | 常総学院(茨城) | ||
| 浦添商(沖縄) | 7-0 | 飯塚(福岡) | ||
| 横浜(南神奈川) | 6-5 | 浦和学院(南埼玉) | ||
| 91 | 2009年 | 明豊(大分) | 4-3 | 興南(沖縄) |
| 智弁和歌山(和歌山) | 2-0 | 滋賀学園(滋賀) | ||
| 立正大淞南(島根) | 1-0 | 華陵(山口) | ||
| 92 | 2010年 | 関東一(東東京) | 9-2 | 佐野日大(栃木) |
| 延岡学園(宮崎) | 5-4 | 大分工(大分) | ||
| 東海大相模(神奈川) | 10-5 | 水城(茨城) | ||
| 履正社(大阪) | 4-1 | 天理(奈良) | ||
| 93 | 2011年 | 開星(島根) | 5-0 | 柳井学園(山口) |
[編集] 国体への出場
毎年この大会の代表校の中から選出された12校が、この大会終了後の9月か10月に各都道府県持ち回りで開く国民体育大会に出場する。出場校は開催都道府県の代表校、ベスト8以上の各校の他、概ね3回戦の敗戦校の中から地域性、試合内容などを考慮して決定する。なお、国体の高校野球競技は公開種目(軟式も同じ)であり、公式な天皇杯獲得ポイントには反映されない。
この大会では実質的な新人トーナメントとなる秋季高校野球都道府県大会・地区大会と同じく、新シーズンの甲子園出場を目指す1・2年生が中心となる場合もあるが、甲子園を湧かせた3年生の選手も事実上最後の全国大会としても出場することが大半であり、特にドラフトで注目を集める選手らは注目される存在となっている。
1992年(第74回大会)の星稜高校は、明徳義塾高校に2回戦(松井秀喜が5打席連続敬遠された試合)で敗戦したが特例で国体の出場が認められ、国体では決勝戦の最終打席で高校生活最後のホームランを放った松井の活躍もあり優勝を飾った。
なお、2006年(第88回大会)の国民体育大会(のじぎく兵庫国体)は、プロ野球公式戦の試合日程などの都合上、甲子園は使用せず、高砂市にある高砂球場で行われた。またこの年の国体決勝は、夏の甲子園決勝戦と同じ、駒大苫小牧-早稲田実業の対戦となりスタンドは満員札止め。朝日放送も、午後から録画中継でTV放送を行った。
[編集] 優勝旗
- 優勝旗は「大深紅旗」と称されている。初代と二代目があり、初代の優勝旗は1915年(第1回大会)に「全国大会の覇者に送られるわけだから日本一の旗を送ろうではないか」ということから、京都の高島屋が京都で有名な伝統工芸の西陣織の職人に依頼して創ったもので、制作費は約1,500円(現在の貨幣価値に直すと約1,000万円といわれている)。しかし後に傷みが酷くなり、補修の痕が目につくようになったため、1958年の40回記念大会から新調された二代目が使われるようになった。初代と同様、現在の優勝旗も西陣織の職人に依頼して創ったものだといわれている。初代と現在のものとの相違点は以下の三点。
- 上部の大会名称・・・初代が「全国優勝野球大会」(なぜか中等学校が抜けていた)に対し、現在は「全国高等学校野球選手権大会」。
- 主催新聞社名・・・初代が「大阪朝日新聞社」に対し、現在は「朝日新聞社」(1940年に題号が朝日新聞に統一された)。
- 糸・・・初代が赤い糸を使ったしっかりしたものなのに対し、現在のものは赤い糸を使ってはいるが綴れ織。
- 優勝旗の竿も初代と現在のものがある。初代の竿は1934年(第20回大会)で優勝した呉港中(広島)が故郷に凱旋した際部員が旗を振り上げようとした際、何かが原因で折れてしまったらしい。慌てた関係者が旗竿を地元呉の旗竿業者に作り直してもらい、翌1935年(第21回大会)に全員で返却した。従って、現在の竿は1935年から使用されているものである。
- 優勝旗にはラテン語で「VICTORIBUS PALMAE」(勝者に栄光あれ)と刺繍されている。
- 1946年(第28回大会)に優勝した浪華商(大阪)は優勝パレードが占領軍憲兵によって中止させられた。深紅の優勝旗を赤旗と捉えられ、労働デモと誤認されたことが原因とされる。
- 1954年(第36回大会)優勝校の中京商(愛知)が保管していた優勝旗が、11月に盗難される事態が起こった。その事件発生から85日後、無事に発見された。
- 初代の優勝旗での最後の優勝校は広島商(1957年/広島)。現在の優勝旗を最初に手にしたのは柳井(1958年/山口)である。
- 夏の全国大会には準優勝旗は存在しない(春の全国大会には準優勝旗が存在する)。木内幸男が夏にも準優勝旗があると勘違いしていたのは有名[要出典]。ちなみに、優勝・準優勝校には記念盾が贈られる(永久授与)。
- 地方大会にも優勝旗がある。ただし、地方大会の優勝旗も大深紅旗となったのは1960年代後半以降で全部揃ったのは1978年(第60回大会)の事である。
[編集] 連覇
今大会においての連覇は現在6例ある。詳しくは甲子園連覇を参照されたい。