全国高等学校野球選手権大会に関するエピソード

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この項では全国高等学校野球選手権大会に関する様々なエピソードを紹介する。

目次

[編集] 歴代キャッチフレーズ

毎年12月から1月にかけて、大会で使われるキャッチフレーズを朝日新聞社が一般の高校生から公募している。本大会直前から放送される朝日新聞社のテレビ・ラジオコマーシャルで使われる。(第75回以降)

  • 1993年(第75回)「なし」
  • 1994年(第76回)「僕らのノンフィクション」
  • 1995年(第77回)「君の勇気に会いに行く。」
  • 1996年(第78回)「やっぱり野球が大好きです」
  • 1997年(第79回)「夏は、ぼくらの夢舞台」
  • 1998年(第80回)「甲子園で会いましょう」
  • 1999年(第81回)「君がいる甲子園が好き」
  • 2000年(第82回)「きっとある君だけの甲子園」
  • 2001年(第83回)「君といる夏甲子園」
  • 2002年(第84回)「ずっと逢いたい夢でした」
  • 2003年(第85回)「忘れられない夏になる」
  • 2004年(第86回)「夏のドラマが動き出す」
  • 2005年(第87回)「君に見せたい夏がある」
  • 2006年(第88回)「夏の仲間にありがとう」
  • 2007年(第89回)「甲子園に、恋をした」
  • 2008年(第90回)「この一球に、かける夏。」

[編集] 歴代「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンモデル

1986年から、日本ビクタースポンサーにした甲子園の宣伝ポスターが作られている。詳細は「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンを参照。

[編集] 地方大会関連

[編集] 別都道府県での地方大会開催

地方予選大会は原則としてその都道府県にある野球場での開催となっているが、球場難を理由に他の都道府県に会場を移して開催した事例が数回ある。

最近の例としては1991年-1993年ごろ、大阪府大会でそのケースがあった。1990年まで使用された大阪球場が野球場としての機能を停止させたため、その代替球場として奈良市・鴻ノ池運動公園野球場と西宮市阪急西宮スタジアムの2ヶ所を使用して行った。なお、その後大阪府には大阪ドーム(現京セラドーム大阪)、舞洲ベースボールスタジアム、南港中央公園野球場、豊中ローズ球場などが建設されたことから現在は越境開催は行っていない。また鴻ノ池球場は現在奈良県大会で使用されている。

また、西東京大会の決勝戦や開幕試合などは東東京地区にある神宮球場を使用している。

[編集] 兵庫県大会と甲子園球場

  • 開催年度にもよるが全国大会に先駆けて、兵庫県大会において甲子園球場が一部使用されるケースもある(1975年までは決勝戦も甲子園で行われていたが、現在は兵庫県立明石公園第一野球場が決勝戦の会場)。よって、一部の兵庫県の高校は一足早く甲子園の土を踏みしめていることとなる。
  • なお、全国大会とは異なり会場の外野フェンスを大会名の書かれたシートで覆うことなどはせず、プロ野球阪神タイガース主催試合)など通常と同様のグラウンド形態で試合を行う。なお甲子園で試合をする高校については、スコアーボードをバックに記念写真撮影が出来るようになっている
  • しかしながら、本大会へはわずか1校しか出場できないため、「近くて遠い甲子園」といわれる。

[編集] 地方大会とドーム球場

地方大会では近年、開会式と開幕戦の一部試合をドーム球場で行う事例が数例ある。

[編集] 没収試合

過去に数件起こっている。放棄試合(日本高校野球)参照。

[編集] 122得点

まれに地方大会では1チームに30点以上も取る大量得点試合を目にすることがある。その中でも特筆すべきは1998年青森大会2回戦、東奥義塾高校深浦高校青森県営野球場)の一戦であろう。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 R H
東奥義塾 39 10 11 17 16 12 17 122 86
深浦 0 0 0 0 0 0 0 0 0

この試合、東奥義塾は1回に早くも39点の得点を上げ、更に2回以後も毎回10得点以上を獲得、夏の大会では地方大会、全国大会を通して初めて100点の大台を上回る122-0の圧勝を演じた。当時の東奥義塾の成績は打者149人、ヒット86本(うち2塁打31、3塁打21、ホームラン7)、四死球36、盗塁78、三振1だった。4番打者の珍田はサイクルヒットを2回記録した。逆に深浦は打者25人がノーヒット(うち三振16)だった。

それもそのはずで、深浦ナインは正式な野球部員が10人しかおらず、しかもその半数は野球経験が全くなかった。この試合は青森朝日放送で生中継されていたが、放送予定時間内ではとても試合終了まで中継することができず、試合途中の2回49点差で放送は終了した。

現在5回終了時に10点差以上付けばコールドゲームで終了するが、当時の青森大会の規定では7回まで行うことになっていた。深浦の監督が「ここで試合をやめる(没収試合)という選択肢もあるが」と選手に問うと「ここで試合をやめてしまうのは、応援されているのだから野球をする気が引けてしまう」ということで最後まで戦い抜くことを決断。結局7回まで試合が行われた。また、東奥義塾も「手を抜くのは失礼に当たる」と手を緩めることなく攻撃を行った。

この試合については後に川井龍介が「0対122 けっぱれ!!深浦高校野球部」と題したルポルタージュ本としてまとめている(のち加筆され「122対0の青春 深浦高校野球部物語」として文庫化された)。

この試合を教訓に高野連は地方大会のコールドゲームの基準を2000年度から統一し、5回以降で10点差以上、7回以降で7点差以上の差が付いた場合はコールドにするよう通達した。ちなみに、深浦高校は2004年の青森大会で、松風塾高校に13-6(青森市営野球場)で7回コールドで大会初勝利を挙げたが、同年7月21日に2007年度から青森県立木造高等学校の分校化が決定した(現在は「木造高校深浦校舎」として出場している)。

[編集] 代表決定戦の引き分け再試合

2004年度の大阪府代表決定戦(大阪府大会決勝)、PL学園対大阪桐蔭の対戦は大熱戦の末延長15回の大会規定で4-4の引き分けに終わり、翌日再試合が開かれた。この試合ではPLが序盤に大量得点を奪い13-7で圧勝。2日越しの熱戦を制して甲子園出場の切符を手にした。なお、この試合は藤井寺球場における高校野球最後の試合でもあった。

2006年宮城県大会では、度重なる雨により予定を大幅に超過した。さらに7月28日に予定していた決勝戦まで雨で中止、元々29,30日はフルキャストスタジアム宮城楽天戦が組み込まれていたこともあり7月31日に延期となった。そして行われた決勝戦東北高校仙台育英高校は投手戦の末延長15回0-0の引き分けに終わり地区大会が8月までもつれ込む事態となった。翌8月1日の試合では仙台育英が前日に引き続いて登板した2年生エース佐藤由規(現東京ヤクルトスワローズ)の力投に打線が応え、仙台育英が勝利した。

[編集] 故意の三振による勝利

2006年7月22日、秋田市秋田県立こまちスタジアムで行われた秋田大会準決勝の本荘対秋田の対戦で、12-1で大量リードした本荘の尾留川徹監督が7回表・1死二塁の場面で雨天ノーゲームを避けるために、打者に対しては故意の三振、ランナーに対してはアウトになるような強引な盗塁を指示した。7回裏の秋田の攻撃は無得点となり、本荘は雨天ノーゲームを避けることに成功してコールド勝ちを収めた。

この件につき、秋田県高野連は7月22日付で本荘高校野球部に対しフェアプレーをするよう指導のうえ始末書を提出するよう求めた。しかし、この試合では秋田高校側も雨天ノーゲームを狙っての投手交代や故意四球、相手の盗塁をアウトにしないなどの遅延行為を行っていた節があり、本荘・尾留川徹監督の判断を擁護する声も少なくなかった。

[編集] 振り逃げ3ラン

2007年7月28日、神奈川県横浜市中区横浜スタジアムで行われた神奈川大会準決勝の東海大相模対横浜の一戦で、4回に東海大相模のバッター、菅野智之(現・東海大学)の打席で起きた。この回3点を先制し、2死一、三塁という場面で2ストライク後にワンバウンドのボールを空振りした。スリーストライクが宣告されたが、これを「三振でバッターアウト・スリーアウトチェンジ」だと勘違いした横浜の選手たちは、ナイン全員そのままベンチに引き上げてしまった。記録は三振であるが、この時の投球はワンバウンドしており、東海大相模のバッター菅野の振り逃げが成立するシーンである。すぐに横浜の捕手が菅野にタッチをせず、しかもボールを一塁にも送球しなかったため、東海大相模のランナー2人と振り逃げでアウトになっていないバッターの菅野自身も、無人のダイヤモンドを回って3点追加した。横浜の渡辺元智監督が抗議したものの認められず、結局横浜はこの3点が響いた格好となり、スコアは6-4の2点差で東海大相模が勝利した。ちなみに菅野智之は読売ジャイアンツ原辰徳監督のにあたる。

[編集] 再再試合

2003年福井大会1回戦では、大野東敦賀気比の試合で延長15回に規定により5-5で引き分けとなった。翌日の再試合でも延長15回に規定により3-3で引き分けとなり、雨天順延をはさんだ翌々日の再再試合で敦賀気比が6-1で大野東に勝利した。総イニング数39回、試合時間は8時間42分に及んだ。これは戦後唯一の再再試合である。

1941年には、台湾予選の嘉義農林-台北工でも再再試合が記録された。0-0のまま8回に雨天引き分けとなり、翌日も0-0のまま7回雨天引き分けとなった。その翌日には延長25回で嘉義農林が台北工を2-1で破った。総イニング数は40回に及んだ[1]

[編集] 最終回裏二死から9点差を跳ね返す

地方大会では9回裏2死から大逆転劇が繰り広げられる事もある。例えば、1985年7月25日第67回全国高等学校野球選手権大会埼玉大会予選5回戦の城西大川越秀明高校の試合において最終回城西大川越が7-1でリードという状況で、秀明が二死からエラーと四球を挟み7連打で7点を奪い逆転サヨナラという事があった。

こういった逆転劇の中でも特筆すべきは2002年7月20日第84回全国高等学校野球選手権大会大分大会予選2回戦の緒方工中津北の試合である。この試合は天候がそれほど良くない状況で行われ、9回に雨が激しくなり投手の制球が乱れ緒方工は7点を追加し14-5となりダメ押しをしたかと思われた。ところが、この状況は相手投手にとっても同様であり9点差で迎えた9回2死満塁から、タイムリーでまず2点、5連続四球で押し出しで4点、ショートのエラーで1点、そして3点タイムリーで計10点を奪い、14-15で逆転サヨナラという前代未聞の結果となった。

[編集] 観客乱入による中断

2008年7月20日第90回全国高等学校野球選手権大会岡山大会予選準々決勝の関西作陽の試合に於いて、試合中に観客が乱入したため12分間中断した。

関西が作陽に7-9と2点差まで迫っていたときに起こり、攻撃中だった関西側のベンチで暴言などを吐き威嚇した。県高野連関係者がベンチ前で男たちを取り囲んだため監督や選手に危害は及んでいない。

さらに観客の野次に激昂しスタンドに上がったところで通報を受けた倉敷署の署員に取り押さえられた。

[編集] 全国大会関連

[編集] 甲子園球場以外での開催

1915年1916年は豊中球場で1917年から1923年までは鳴尾球場で開催された。

1924年に甲子園球場が完成し、以降は甲子園球場での開催となった。

しかし、それ以降も全国高校野球を甲子園球場以外で何度か開催されている。1946年阪急西宮球場で開催された。甲子園球場がアメリカ軍の接収下にあり、利用できなかったための代替球場であった。1958年の40回大会と1963年の45回大会は、全国各都道府県と沖縄の代表を含めた47代表が参加する記念大会であり、試合消化のために甲子園球場と阪急西宮球場の併催となった。これは甲子園では消化しきれないための処置であり、一回戦から三回戦までの試合を甲子園球場での試合と阪急西宮球場での試合を半分ずつに分け、準々決勝以降は甲子園球場での試合とした。

ちなみに春の大会は第1回の1924年八事(山本)球場で開かれた以外、全部甲子園のみを会場として行っている。

[編集] 優勝商品の歴史

1915年の第1回から優勝校と準優勝校のナインにメダルが贈呈され(※ 前者は金・後者は銀)以降定着しているが第1回では副賞として現物が支給されていたという。第1回では出場校は1つ勝利するごとに万年筆が贈呈され、優勝校と準優勝校には賞金と辞典(前者が百科事典・後者が国語辞典と英和和英辞典)が贈呈されていたと記録されているがさすがにおかしいという声が上がり第2回からメダルのみとなったのである。

[編集] 敗者復活制度

大会初期の頃、敗者復活制度が実施された。これは第2、3回大会の2回だけ行われたもので、1916年の第2回の場合、全国大会に参加は12校。1回戦の試合数が6試合。2回戦が3試合となると、次のステップに進めるのは3校と端数が生じてしまうということで、1回戦で敗れた6チームのうち成績上位の2校を敗者復活として出場させた。対象校は中学明善(福岡)と鳥取中(鳥取)であった。敗者復活校同士の試合は鳥取中が勝利したが、鳥取中は次の試合で敗北している。

1917年の第3回も12校で開かれたが、この時は敗者復活の対象が4校となった。対象校は愛知一中(愛知)、明星商(大阪)、長崎中(長崎)、和歌山中(和歌山)であった。4校による敗者復活戦をして、その勝者2校が2回戦に進出し、勝者2校による二回戦が行われた。ところが、この敗者復活戦を勝ち抜いた愛知一中は決勝まで進み、そのまま優勝した。このことから敗者復活制度を行うことに疑問が感じられたため、この第3回を最後に廃止された。

[編集] 場内一周を拒否

決勝戦の後の閉会式のトリは優勝校・準優勝校選手による場内一周である。これが最初に提案されたのは1919年第5回大会。地元勢として初優勝を果たした兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)の偉業を称え、スタンドを埋めた観衆へのサービスとしての企画であった。しかし神戸一中ナインは、われわれは見世物ではないとの理由でこれを固辞。神戸高校は神戸一中時代に当該大会以降も何度か出場しているが、場内一周の機会にはこれ以降恵まれていない。

[編集] 甲子園球場近くにあった「野球乃塔」

甲子園球場のレフト側スタンド近く、現在の甲子園警察署のある所に「野球乃塔」があった。これは1934年第20回開催を記念して建てられた。円筒形の石組のモニュメントで台座が階段になっていて柱の部分には歴代優勝校とナイン・優勝決定試合のスコアと審判が埋め込まれていて東側に石塔が立てられるなどかなり立派なものであったという。

しかし中断中に鳴尾球場のあった場所が帝国陸軍の飛行場となると軍事上の妨げとなることから石塔だけが破壊され、スコアプレートは金属供出でなくなり阪神一帯を襲った大空襲によりのこった台座・柱部分が破壊された。戦後再建されることなく撤去されている。

[編集] 優勝旗の保持が7年に渡った学校

1941年第27回が戦時体制による交通制限実施により中止となり以降1946年第28回が行われるまで5年間、太平洋戦争などにより空白の時代を迎えていたのは周知の事実である。しかしこれによって和歌山県立海草中学校が6年間も優勝旗を保持することとなってしまったわけだが実は中止になった第27回で3連覇の期待がかけられていた。海草中は1939年第25回を制し、翌年の第26回で連覇。中止になった時点で2年間保持していた。そのため優勝旗の保持が7年にも渡ってしまったのである。

さて、戦後初の大会である第28回での海草中の成績だが紀和大会で敗退し結果入場行進は主将一人となってしまった(※その大会の代表校は和歌山県立和歌山中学校であった)。

[編集] 没収された甲子園の土

1958年の夏の大会で、春夏を通じて初めて沖縄(当時はアメリカ統治下)から首里(沖縄)が出場。1回戦で敦賀高校福井)に敗戦したが、試合終了後に集め持ち帰った甲子園の土が検疫の関係で持ち帰ることができず、帰郷後処分された(外国の土・動植物を検疫を経ずに持ち込む事はどこの国でも通常は検疫法などで禁じられている。当時の沖縄は日本国内でありながらアメリカ統治下であったため、そのような理由での処分にも関わらず、那覇港の沿岸に捨てられた)。それを知った日本航空スチュワーデス有志らが球場周辺にあった海岸の石を拾い首里に寄贈。同校庭に今も甲子園初出場を記念した「友愛の碑」というモニュメントとして飾られている。また、これがメディアで扱われ、沖縄返還運動を加速させる一端ともなった。なお、那覇港ではアメリカ人が高圧的に没収したわけではなく、沖縄の係官が申し訳なさそうに「規則なので」と没収したため、申し出ずに土を持ちかえった生徒もいたという。

[編集] 決勝戦の引き分け再試合

2006年・第88回決勝。早稲田実業が夏の大会初優勝を決めた再試合のスコアボード

1969年の第51回大会、松山商(愛媛)と三沢(青森)の決勝戦は同点のまま延長18回で試合終了した。翌日に決勝戦では春夏を通じて初の引き分け再試合が行われた。この再試合で松山商が勝利し、優勝となった。準優勝投手である三沢の太田幸司は4日連続で45イニングを一人で投げぬいた。

また、2006年の第88回大会、駒大苫小牧(南北海道)対早稲田実業(西東京)の決勝戦も8回に両軍1点ずつを獲得するが両軍エースの好投で延長15回引き分けとなり、37年ぶり2回目の再試合となった。この再試合で早稲田実が勝利し、優勝となった。優勝投手である早実の斎藤佑樹は4日連続で42イニングを一人で投げぬいた。 この決勝戦は朝日放送発にテレビ朝日系で12:55~試合終了まで完全生中継されたが偶然にも日曜日に重なったため、関東地区では平均視聴率で23.8%、最高視聴率は30.4%を記録した。

[編集] 全国大会初の毎回得点

1985年PL学園東海大山形の試合において、PLが春・夏を通して初の全国大会毎回得点で29-7の圧勝を演じた。(スコアはその項を参照されたい)

[編集] 同一校名対決

1972年の1回戦及び1989年の2回戦(初戦)で、長崎県代表の海星高校と三重県代表の海星高校との同一校名対決が実現した(どちらも「かいせい」と読む)。1972年は2対0で長崎海星が、1989年には10対2で三重海星が勝利している。また、1957年の2回戦では埼玉県代表の埼玉県立大宮高等学校と宮崎県代表の宮崎県立宮崎大宮高等学校が対戦し、延長10回の末7対6で埼玉の大宮高校が勝利している。惜しい(?)のが1983年の1回戦で実現した東海大一(静岡=現・東海大翔洋)と東海大二(熊本)の対戦である。偶然にも東海大学付属高同士の対戦となったこの試合は13対1で東海大一が勝利している。

[編集] 4アウト事件

1982年の益田対帯広農業の試合で、9回表の益田の攻撃のときに事件は起きた。振り逃げなしで成立した事例であった。帯広農業の投手は3アウトには気付いていたが、他の各選手・審判員らはそれに気付かず、3アウト後も次の打者を出していたが、後に記録員の指摘で間違いがわかる。この4アウト目の記録は直ちに取り消された。当時のスコアボードのアウトのカウントランプが故障で1つしか灯っていなかったのが原因だったという。

[編集] 同一ユニフォーム対決

2002年(平成14年)第84回大会3回戦にて、和歌山県代表の智弁和歌山と奈良県代表の智弁学園が対戦したことがある。この2校は同系列の兄弟校であり、ユニフォームのデザイン・色調も同一(違いは左腕の校章と県名)の為、非常に稀な同一ユニフォーム対決となった。試合結果は7-3で、智弁和歌山が勝利。

東海大系列の学校は全て同じデザインのユニフォームだが前述の東海大一と東海大二の対戦では東海大一が白、東海大二が水色のユニフォームを着用した。

[編集] 初戦での隣県対決及び同地区対決

かつて、1府県1代表制(北海道・東京は2代表)となった1978年の第60回記念大会から2006年の第88回大会まで、夏の甲子園では初戦で近隣都道府県の代表校と当たることを避けるために、初戦は「東ブロックの高校対西ブロックの高校」として、組み合わせが行われていた。しかし、全国10地区で唯一東西に分断される北信越地区(新潟・長野・富山・石川・福井)だけ初戦対決が行われるケースが何度か有り、不公平感があるとの声があがった。そのため検討の末、2007年の第89回大会から東西対決方式だった初戦の組み合わせ方法を、1977年の第59回大会以来30年ぶりに、全地区でのフリー抽選式に戻すこととなった。但し、2代表が出場する北海道と東京勢は初戦で対戦しないように、抽選の最初に振り分けられる。

フリー抽選式で行った第1回から第59回大会までに、実現していた初戦隣県対決及び現在の春選抜の同じ地区に属するものは、以下のものなどがある。

1915年~1977年の初戦隣県及び同地区対決
開催年 勝利校 結果 相手校
9 1923年 早稲田実(東京) 5-1 横浜商(神奈川)
徽文高普(朝鮮) 9-4 大連商(満州)
11 1925年 静岡中(静岡) 3-2 愛知一中(愛知)
17 1931年 平安中(京都) 6-5 八尾中(大阪)
20 1934年 享栄商(愛知) 11-2 島田商(静岡)
23 1937年 平安中(京都) 6-5 浪華商(大阪)
呉港中(広島) 9-5 大田中(島根)
24 1938年 仁川商(朝鮮) 3-2 天津商(満州)
28 1946年 愛知商(愛知) 2-0 沼津商(静岡)
浪華商(大阪) 11-2 和歌山中(和歌山)
37 1955年 新宮(和歌山) 3-2 浪華商(大阪)
41 1959年 倉敷工(岡山) 10-1 大田(島根)
八尾(大阪) 1-0 滝川(兵庫)
42 1960年 米子東(鳥取) 8-0 盈進商(広島)
大宮(埼玉) 1-0 桐生工(群馬)
43 1961年 銚子商(千葉) 2-1 法政一(東京)
49 1967年 習志野(千葉) 3-1 堀越(東京)
51 1969年 松山商(愛媛) 10-0 高知商(高知)
52 1970年 大分商(大分) 5-1 九州工(福岡)
53 1971年 銚子商(千葉) 3-2 深谷商(埼玉)
58 1976年 豊見城(沖縄) 3-0 鹿児島実(鹿児島)
59 1977年 桜美林(西東京) 1-4 早稲田実(東東京)

それから第60回記念大会から第88回大会までの29年間、夏の甲子園で初戦は「東ブロックの高校対西ブロックの高校」として、組み合わせが行なわれるようになった。しかし、東西ブロックの境目での隣県と北信越地区については、以下のようなケースで初戦対決が行われている(東ブロックの境目-新潟・長野・富山・岐阜・三重。西ブロックの境目-石川・福井・滋賀・京都・奈良・和歌山。なお第60~69回大会まで、石川県は東ブロックに入っていた)。

1978年~2006年の東西隣県及び北信越地区初戦対決
開催年 西ブロック代表校 結果 東ブロック代表校
62 1980年 瀬田工(滋賀) 9-7 明野(三重)
67 1985年 甲西(滋賀) 7-5 県岐阜商(岐阜)
和歌山工(和歌山) 1-11 海星(三重)
69 1987年 天理(奈良) 7-3 明野(三重)
74 1992年 星稜(石川) 11-0 長岡向陵(新潟)
76 1994年 敦賀気比(福井) 0-5 佐久(長野)
77 1995年 星稜(石川) 3-0 県岐阜商(岐阜)
81 1999年 小松(石川) 5-9 新湊(富山)
83 2001年 金沢(石川) 13-4 滑川(富山)
85 2003年 近江(滋賀) 9-5 宇治山田商(三重)
86 2004年 遊学館(石川) 6-3 県岐阜商(岐阜)
87 2005年 京都外大西(京都) 4-1 菰野(三重)
88 2006年 福井商(福井) 8-1 福岡(富山)

第60回大会から第88回大会まで、東西の隣県及び北信越地区の初戦対決は、過去に13回行われている。また東ブロック代表の勝利はわずか3回のみで、圧倒的に西ブロック代表の方が有利な試合展開となっていた。

2007年以降の初戦隣県及び同地区対決
開催年 勝利校 結果 相手校
89 2007年 文星芸大付(栃木) 5-0 市船橋(千葉)
前橋商(群馬) 2-1 浦和学院(埼玉)
90 2008年 宮崎商(宮崎) 7-1 城北(熊本)
智弁学園(奈良) 5-4 近江(滋賀)
関東一(東東京) 13-5 常総学院(茨城)
浦添商(沖縄) 7-0 飯塚(福岡)
横浜(南神奈川) 6-5 浦和学院(南埼玉)

[編集] 国体への出場

毎年この大会の上位(概ねベスト16以上)のチームは、この大会終了後の9月か10月に各都道府県持ち回りで開く国民体育大会に出場できる可能性がある。なお、国体の高校野球競技は公開種目(軟式も同じ)であり、公式な天皇杯獲得ポイントには反映されない。

この大会では実質的な新人トーナメントとなる秋季高校野球都道府県大会・地区大会と同じく、新シーズンの甲子園出場を目指す1・2年生が中心となる場合もあるが、甲子園を湧かせた3年生の選手も事実上最後の全国大会としても出場することが大半であり、特にドラフトで注目を集める選手らは注目される存在となっている。

1992年の星稜高校は、明徳義塾高校に2回戦(松井秀喜の5打席敬遠があった試合)で敗戦したが特例で国体の出場が認められ、国体では決勝戦の最終打席で高校生活最後のホームランを放った松井の活躍もあり優勝を飾った。

なお、2006年国民体育大会のじぎく兵庫国体)は、プロ野球公式戦の試合日程などの都合上、甲子園は使用せず、高砂市にある高砂球場で行われた。またこの年の国体決勝は、夏の甲子園決勝戦と同じ、駒大苫小牧-早稲田実業の対戦となりスタンドは満員札止め。朝日放送も、午後から録画中継でTV放送を行った。

[編集] 優勝旗

  • 優勝旗は「大深紅旗」と称されている。初代と二代目があり、初代の優勝旗は第1回大会が行われた1915年に「全国大会の覇者に送られるわけだから日本一の旗を送ろうではないか」ということから京都の高島屋が京都で有名な伝統工芸の西陣織の職人に依頼して創ったもので、制作費は約1,500円(現在の貨幣価値に直すと約1,000万円といわれている)。しかし後に傷みが酷くなり、補修の痕が目につくようになったため、1958年の40回記念大会から新調された二代目が使われるようになった。初代と同様、現在の優勝旗も西陣織の職人に依頼して創ったものだといわれている。初代と現在のものとの相違点は以下の三点。
  1. 上部の大会名称・・・初代が「全国優勝野球大会」(なぜか中等学校が抜けていた)に対し、現在は「全国高等学校野球選手権大会」。
  2. 主催新聞社名・・・初代が「大阪朝日新聞社」に対し、現在は「朝日新聞社」(1940年に題号が朝日新聞に統一された)。
  3. ・・・初代が赤い糸を使ったしっかりしたものなのに対し、現在のものは赤い糸を使ってはいるが綴れ織。
  • 優勝旗の竿も初代と現在のものがある。初代の竿は1934年の第20回大会で優勝した呉港中(広島)が故郷に凱旋した際部員が旗を振り上げようとした際、何かが原因で折れてしまったらしい。慌てた関係者が旗竿を地元呉の旗竿業者に作り直してもらい、翌1935年の第21回大会で全員で返却した。従って、現在の竿は1935年から使用されているものである。
  • 優勝旗にはラテン語で「VICTORIBUS PALMAE」(勝者に栄光あれ)と刺繍されている。
  • 1946年に優勝した浪華商(大阪)は優勝パレードが占領軍憲兵によって中止させられた。深紅の優勝旗を赤旗と捉えられ、労働デモと誤認されたことが原因とされる。
  • 1954年11月に優勝校の中京商(愛知)が保管していた優勝旗が盗難される事態が起こった。85日後、無事に発見された。
  • 初代の優勝旗での最後の優勝校は広島商(広島)。現在の優勝旗を最初に手にしたのは柳井(山口)である。
  • 夏の全国大会には準優勝旗は存在しない(春の全国大会には準優勝旗が存在する)。木内幸男が夏にも準優勝旗があると勘違いしていたのは有名。ちなみに、優勝・準優勝校には記念盾が贈られる(永久授与)。
  • 地方大会にも優勝旗がある。ただし、地方大会の優勝旗も大深紅旗となったのは1960年代後半以降で全部揃ったのは1978年の事である。

[編集] 連覇

今大会においての連覇は現在6例ある。

夏の大会の連覇
開催年 学校 連覇 備考
7 1921年 和歌山中(和歌山) 2連覇 3連覇がかかった1923年大会は
全国大会決勝戦敗退により準優勝
8 1922年
15 1929年 広島商(広島) 2連覇 3連覇がかかった1931年大会は
主力がアメリカ遠征で地区大会敗退
16 1930年
17 1931年 中京商(愛知) 3連覇 連覇としては大会記録
18 1932年
19 1933年
25 1939年 海草中(和歌山) 2連覇 3連覇がかかった1941年大会は
戦争のため中止
26 1940年
29 1947年 小倉中(福岡)
小倉(福岡)
2連覇 1948年大会から学制改革によって
高等学校大会に
30 1948年
86 2004年 駒大苫小牧(南北海道) 2連覇 現学校制度による初の連覇
3連覇がかかった2006年大会は
全国大会決勝戦敗退により準優勝
87 2005年

春夏連覇、夏春連覇は高校野球を参照。