「武蔵丸光洋」の版間の差分
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[[2000年]](平成12年)1月場所には左尺骨手根伸筋附着部炎のため、4日目から初土俵以来初めての途中休場となる。先場所まで継続中だった連続勝ち越し記録がストップとなった。この頃から故障が目立つようになり、以降左手首の故障に悩まされることになる。また同年5月場所は、場所直前の稽古中に左膝を[[捻挫]]したため、初めて初日から全休となった。 |
[[2000年]](平成12年)1月場所には左尺骨手根伸筋附着部炎のため、4日目から初土俵以来初めての途中休場となる。先場所まで継続中だった連続勝ち越し記録がストップとなった。この頃から故障が目立つようになり、以降左手首の故障に悩まされることになる。また同年5月場所は、場所直前の稽古中に左膝を[[捻挫]]したため、初めて初日から全休となった。 |
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2001年(平成13年)は1月場所と5月場所とに、貴乃花との優勝決定戦に進出するも、2回とも敗れて優勝を逃している。特に同年5月場所の優勝決定戦では、右[[膝]]の大怪我を負っていた貴乃花にまさかの敗北で優勝を逃し、その夜師匠の武蔵川親方に叱責されたという。その後7月場所からは、貴乃花の長期休場で7場所も一人横綱の時代が続いた。同年9月場所は平幕力士に5つも金星を献上(歴代の横綱で1場所5個もの[[金星]]配給は歴代ワースト記録)してしまい9勝6敗と不調だったが、翌11月場所は13勝2敗、7場所ぶり9回目の優勝となった。またこの2001年、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞している。 |
2001年(平成13年)は1月場所と5月場所とに、貴乃花との優勝決定戦に進出するも、2回とも敗れて優勝を逃している。特に同年5月場所の優勝決定戦では、右[[膝]]の大怪我を負っていた貴乃花にまさかの敗北で優勝を逃し、その夜師匠の武蔵川親方に叱責されたという。その後7月場所からは、貴乃花の長期休場で7場所も一人横綱の時代が続いた。同年9月場所は平幕力士に5つも金星を献上(歴代の横綱で1場所5個もの[[金星 (相撲)|金星]]配給は歴代ワースト記録)してしまい9勝6敗と不調だったが、翌11月場所は13勝2敗、7場所ぶり9回目の優勝となった。またこの2001年、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞している。 |
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[[2002年]](平成14年)1月場所は、左手首の故障再発で途中休場するものの、同年3月場所・5月場所と2連覇を達成。7月場所は首痛の影響で終盤崩れて10勝5敗に終わるも、翌9月場所の千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。その優勝のインタビューで武蔵丸は「今までの優勝の中で一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。」と笑顔でコメントする。しかし皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又二人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化、[[靱帯]]剥離[[骨折]]により6日目から途中休場した(前日の[[取組]]では貴ノ浪と対戦し[[下手投げ]]で敗れていた)。場所後手術を決意し、その後全休と途中休場が続いたが、手術した左手首は結局全快する事は無かった。 |
[[2002年]](平成14年)1月場所は、左手首の故障再発で途中休場するものの、同年3月場所・5月場所と2連覇を達成。7月場所は首痛の影響で終盤崩れて10勝5敗に終わるも、翌9月場所の千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。その優勝のインタビューで武蔵丸は「今までの優勝の中で一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。」と笑顔でコメントする。しかし皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又二人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化、[[靱帯]]剥離[[骨折]]により6日目から途中休場した(前日の[[取組]]では貴ノ浪と対戦し[[下手投げ]]で敗れていた)。場所後手術を決意し、その後全休と途中休場が続いたが、手術した左手首は結局全快する事は無かった。 |
2012年2月9日 (木) 16:02時点における版
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基礎情報 | ||||
四股名 | 武蔵丸光洋 | |||
本名 |
武蔵丸光洋 旧名: フィアマル・ペニタニ | |||
生年月日 | 1971年5月2日(53歳) | |||
出身 |
アメリカ合衆国ハワイ州 (アメリカ領サモア生まれ) | |||
身長 | 192cm(現役時) | |||
体重 | 237kg(現役時) | |||
所属部屋 | 武蔵川部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第67代横綱 | |||
生涯戦歴 | 779勝294敗115休 | |||
幕内戦歴 | 706勝267敗115休(73場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝12回 十両優勝1回 三段目優勝1回 | |||
賞 |
殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞2回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 平成元年9月場所 | |||
入幕 | 平成3年11月場所 | |||
引退 | 平成15年11月場所 | |||
備考 | ||||
通算連続勝ち越し記録歴代1位 | ||||
2007年3月10日現在 |
武蔵丸 光洋(むさしまる こうよう、1971年(昭和46年)5月2日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身(生まれは東サモア[1])で武蔵川部屋所属の元大相撲力士、現振分親方・タレント。第67代横綱。旧名はフィアマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)。身長192cm、体重237kg。現在は年寄・振分。得意手は、突き、押し、右四つ、血液型はA型、趣味は音楽鑑賞、愛称は「マル」。
2008年(平成20年)4月にフラダンス教室経営の女性と結婚、同年8月23日ハワイで挙式。
来歴
生い立ち
アメリカ領サモアで生まれる。小学校時代にアメリカンフットボールを始め、ハワイ州のワイアナエ高等学校でアメリカンフットボールのディフェンスとして活躍し、プロ選手としての活躍を目標としていた。大学からも勧誘されたが、経済的理由で進学を断念した。
初土俵から幕内昇進まで
大相撲入りの勧誘を受けたことを機に、過去に相撲との関わりが全く無かったにも拘らず、「大きな体を生かして家計を助けよう」と決心し武蔵川部屋に入門する。師匠の武蔵川親方(元横綱三重ノ海)は、その少し前に「武蔵坊」という力士をスカウトしながらあっという間に逃げられた[2]ことから、半年のテスト期間を設け、徹底的に鍛えて様子を見てから初土俵を踏ませることにした。そして「これなら大丈夫だ」と見なされ、1989年(平成元年)9月場所に初土俵を踏んだ。四股名は所属する武蔵川部屋と本名のフィヤマルの「マル」から付けた。
1991年(平成3年)11月場所に新入幕、東前頭12枚目の地位で11勝4敗を挙げて敢闘賞を受賞した。大きな体を生かした突き押しと、右四つからの寄りを得意とした。新入幕前の相撲雑誌には、「ハンマーで固めたようながっしりとした体の力士」で、「曙と一緒にハワイアンコンビとして若貴兄弟(若乃花・貴乃花)の終生のライバルとなるだろう。」と記述されており、新入幕前から大変な期待があったことが伺える。そしてこの通り、後年に曙(第64代横綱)・貴乃花(第65代横綱)・若乃花(第66代横綱)らと4横綱時代を築くこととなった。
西郷隆盛に良く似た容貌で、日本人に親しまれた[3]。「さつま武蔵丸の会」なる団体が結成されるなど、特に鹿児島県民から愛されたようである。髪は黒の直毛、体型も腰高でなく、またあんこの度合いもハワイの先達力士ほどではなかった。こうした条件が重なって、日本人力士の中に入っても浮き上がることがなく、大関昇進に渋い顔をするファンはあまりいなかった。
大関時代
1994年(平成6年)1月場所後に貴ノ浪と同時に大関に昇進し、新入幕同時の貴ノ浪とは対照的な取り口ながら実力は伯仲、大関昇進後も良きライバルとして長く名勝負を繰り広げた。ちなみに武蔵丸対貴ノ浪の幕内対戦回数58回は、大相撲史上第1位の記録であり、対戦成績は武蔵丸の37勝21敗となっている(2位は魁皇対千代大海の54回、3位は北の富士対清國の52回)。
同年5月場所では12勝の準優勝、続く7月場所では、千秋楽に貴ノ花(当時)を倒して15戦全勝で幕内初優勝。武蔵丸と同じハワイ出身の先輩である高見山、小錦、曙もなし得なかった史上初の外国出身力士による全勝優勝を果たした。12勝の準優勝に続く全勝優勝と、以前なら横綱昇進に値する実績だったが、基準が厳しくなったこともあり、当時話題にもならなかったのは不運だった。
横綱昇進も間近と思われたが、左肩関節の負傷の影響により、成績が10勝前後に落ち着いてしまい低迷した。その低迷を挽回すべく右差しで腕を返して寄る相撲に変えたのが功を奏し、これまで分の悪かった貴乃花戦は1997年(平成9年)以降12勝7敗と勝ち越し、晩年は5連勝して終わっている(優勝決定戦を除く)。なお武蔵丸は、1996年(平成8年)まで対貴乃花戦では7勝22敗と大きく負け越しており、特に貴乃花の横綱昇進以降は1勝10敗で全く歯が立たなかった。なお、その1勝は1995年(平成7年)11月場所千秋楽に立合い変化で勝ち、若貴兄弟による優勝決定戦を実現させた相撲だった。また、貴乃花との優勝決定戦では4戦全敗である(1995年1月場所、1997年9月場所、2001年1月場所、2001年5月場所)。
1996年1月に日本国籍を取得し、本名を「武蔵丸光洋」としている。
1999年(平成11年)1月場所は、序盤から中盤にかけて黒星が先行、幕内昇進後初の負け越しも懸念されたが終盤持ち直し、7勝7敗で迎えた千秋楽の武蔵丸は貴乃花を土俵際で突き落とし、辛うじて8勝7敗と勝ち越した。
その次の3月場所は、場所終盤の11日目から当時の3横綱(貴乃花・若乃花・曙)が全員休場し、横綱不在となってしまった(ほか新大関の千代大海、関脇の武双山らも途中休場。なお3横綱の全員休場は、1950年1月場所の羽黒山・東富士・照國以来49年ぶり)。この異常事態に当時の時津風理事長(元大関・豊山)が異例の謝罪会見を行っている。それでも武蔵丸と貴ノ浪の当時2大関が奮起し、千秋楽は両者大関同士の相星決戦となって場所を盛り上げた。その千秋楽結びの一番は武蔵丸が貴ノ浪を寄り切って完勝、4度目の幕内優勝を果たした。また武蔵丸は同場所で、幕下時代から続く通算連続勝ち越しが51場所となり、北の湖の持つ50場所を更新する新記録を達成した。
翌5月場所、武蔵丸は通算3回目の綱獲りとなった。場所前半で平幕力士に2敗を喫して心配されたが、その後連勝を続けて優勝争いの先頭に立ち、千秋楽は横綱曙との対戦となる。その千秋楽結びの一番は、武蔵丸が曙を寄り倒して5度目の幕内優勝を決める。また大関として2場所連続優勝を果たし、ついに5月場所後に横綱昇進となった。大関32場所目での横綱昇進は、琴櫻と並ぶ史上1位タイのスロー昇進だった。因みに大関在位中、負け越し・角番は一度も経験しなかった。
横綱時代
横綱土俵入りは、師匠の武蔵川親方同様に雲竜型を選択、土俵入りの指導も武蔵川親方が行った。しかし武蔵丸の横綱土俵入りは、せり上がりがかなり不安定で四股の足があまり高く上がらない事もあり、200kgを超える力士としては今一つ重量感に欠け、決して上手いとは言い切れなかった。
新横綱の1999年7月場所は優勝を逃すも、千秋楽に曙を破って弟弟子の関脇(当時)・出島の援護射撃を果たすなどの活躍で12勝3敗の成績をおさめ、次の9月場所も12勝3敗で横綱として初の優勝を遂げた。そして翌11月場所も千秋楽の相星決戦で貴乃花を下して12勝3敗で連覇を果たす。また横綱に昇進した1999年は、武蔵丸にとって初めての年間最多勝を受賞した。しかし当時は他の横綱が不調または休場していた時期であり、しかも12勝から13勝の低レベルの優勝であったため、あまり評価されなかった。
2000年(平成12年)1月場所には左尺骨手根伸筋附着部炎のため、4日目から初土俵以来初めての途中休場となる。先場所まで継続中だった連続勝ち越し記録がストップとなった。この頃から故障が目立つようになり、以降左手首の故障に悩まされることになる。また同年5月場所は、場所直前の稽古中に左膝を捻挫したため、初めて初日から全休となった。
2001年(平成13年)は1月場所と5月場所とに、貴乃花との優勝決定戦に進出するも、2回とも敗れて優勝を逃している。特に同年5月場所の優勝決定戦では、右膝の大怪我を負っていた貴乃花にまさかの敗北で優勝を逃し、その夜師匠の武蔵川親方に叱責されたという。その後7月場所からは、貴乃花の長期休場で7場所も一人横綱の時代が続いた。同年9月場所は平幕力士に5つも金星を献上(歴代の横綱で1場所5個もの金星配給は歴代ワースト記録)してしまい9勝6敗と不調だったが、翌11月場所は13勝2敗、7場所ぶり9回目の優勝となった。またこの2001年、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞している。
2002年(平成14年)1月場所は、左手首の故障再発で途中休場するものの、同年3月場所・5月場所と2連覇を達成。7月場所は首痛の影響で終盤崩れて10勝5敗に終わるも、翌9月場所の千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。その優勝のインタビューで武蔵丸は「今までの優勝の中で一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。」と笑顔でコメントする。しかし皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又二人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化、靱帯剥離骨折により6日目から途中休場した(前日の取組では貴ノ浪と対戦し下手投げで敗れていた)。場所後手術を決意し、その後全休と途中休場が続いたが、手術した左手首は結局全快する事は無かった。
現役引退
2003年(平成15年)1月場所限りで引退した平成の大横綱・貴乃花の後を追うように、武蔵丸も同年11月場所限りでついに現役を引退した。現役最後の相撲となった11月場所7日目の土佐ノ海戦では、引っ掛けにあっけなく土俵を割り、思わず天を仰いだ。その日の夜、武蔵川部屋で武蔵丸自ら引退を伝えると、部屋の弟弟子である武双山、雅山、武雄山らは揃って号泣し、また当時平幕に落ちていた好敵手の貴ノ浪も、翌8日目の支度部屋で大粒の涙を流したという。
引退会見では、高校時代にアメフトで首を痛めており、入門当初から左肩には力が入らなかったということを明らかにした。武蔵川親方にすら引退会見のその時まで語ったことのなかった痛みを抱えながら、14年間で通算連続勝ち越し55場所(歴代1位)、外国出身力士最多優勝回数12回(引退当時。現在は朝青龍が保持)などを記録した。
2004年(平成16年)10月2日に引退相撲が行なわれ、露払い雅山、太刀持ち武双山を従えて最後の土俵入りを披露した。
引退後は、年寄・武蔵丸として武蔵川部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた。当時武蔵丸は年寄名跡を取得していなかったため、本来は年寄として活動することはできないが、横綱は引退後5年間は現役時の四股名で一代年寄として活動できる制度があり、武蔵丸はこれを利用していた。
任期が切れる直前の2008年10月22日、武蔵丸は停年退職していた朝嵐大三郎が所有していた「振分」株を借り(2010年4月7日からは高見盛精彦が所有)、日本相撲協会理事会は、武蔵丸の年寄振分襲名を承認した[4]。これにより、武蔵丸は引き続き武蔵川部屋付き親方として協会に残ることが決まった。一代年寄の年限間際になっても年寄株取得を巡る動きは表ざたにならず、帰国して実業家の道を歩むなどと報道されてもいたため、このニュースはいささか意外の感を持って受け止められた。翌日付の東京中日スポーツによると、問題が山積している角界で、何か力になれることはないかと考えるようになったからだという。なお借り株での襲名のため、引退から5年経過した同年11月場所中に委員待遇を解かれ、全年寄の序列最下位となった[5]。
現在は小錦らが所属する芸能事務所KPに所属し、「武蔵丸」名義でタレント活動も行っている。
取り口など
入幕から大関時代初期までは安定感のある突き押しを武器にして、期待に違わぬ快進撃を続けた。アメフトの技術を応用したことによるもので、幕内時代の鬼雷砲との対戦ではアメフトばりのタックルで鬼雷砲を土俵際まで吹っ飛ばしている。しかし、1996年頃から太り過ぎもあって次第に突き押しの回転が鈍り、突き押しでは曙ほどの破壊力を示すことができず、また、四つ相撲では腰が軽く簡単に転んでしまい、物足りなさの残る内容で苦闘を強いられることになった。
その後、1997年頃から突き押し主体の相撲では、覇権を握る貴乃花には通じないことを悟り、取り口をモデルチェンジした。すなわち右を差し、その太い右腕を返して相手を浮かせながら出て行く取り口である。この安定感と破壊力が両立されたスタイルを身につけて横綱昇進を果たし、1999年~2002年頃までライバルの曙・貴乃花・若乃花・貴ノ浪らが怪我と不振に喘ぐ中で、第一人者としての責任を全うした。
- 小錦や曙といったハワイ出身力士の欠点である下半身の脆さがなく、入門以前から抱えていたものを除けば怪我も少なかった。
- 大成を実現させた右差し、腕を返して出る取り口は左上手を必要としない、まさに右腕一本で掴んだものだった。
- その取り口には安定感があったが、優勝決定戦には弱く、7回出場するも優勝は1回のみ(1996年11月場所)。この優勝場所は15日制定着後では幕内最少勝ち星となる11勝4敗が幕内最高成績で、史上最多の5人(武蔵丸、曙、貴ノ浪、若乃花、魁皇)による決定戦であった(いずれも2012年1月場所現在)。
- 近年、外国人力士が土俵上でエキサイト気味になることがあるが、武蔵丸は終始淡々としていて、そのようなことが無かった。逆に、土俵外で話題になることも少なかったため、外国人力士としては比較的地味な印象が強かった。
エピソード
- 堅い肉と白米が好き。特に白米に至っては、大相撲ハワイ巡業の解説を行う為にハワイに行った際に「ハワイはご飯が出ないから辛いね」とまで発言したほど。
- テレビ番組で打撃の威力を計測した際、張り手で1t(1000kg)を記録した。
- めちゃイケの数取団のコーナーにゲスト(兄貴)出演した際は、ゲームそのものは4敗と振るわなかったものの、罰ゲームの関取団との相撲では真っ向勝負で打ち負かした。真剣相撲で関取団に土をつけたのは武蔵丸ただ一人である。その時の対戦相手で現在は同じ事務所に所属する火の竜には現役時代にも対戦し勝利している。
- 2007年6月に武蔵川部屋創立25周年パーティーが開催され、その席で師匠の武蔵川が還暦土俵入りを行なったが、元横綱が露払い・太刀持ちに起用されることが多いにもかかわらず、元横綱の武蔵丸は起用されず、実際に起用されたのは露払いが雅山、太刀持ちが出島だった[6]。
- 2007年7月7日に行われた第3回アメリカンフットボール・ワールドカップ開幕・日本対フランス戦(川崎市・等々力陸上競技場)でコイントスを行った。ちなみにその際に着用したユニフォームの背番号は第67代にちなんで67番であった。
- 2007年8月26日にロサンゼルスの新選組の夏祭りにゲストとして参加した。
- ハワイ出身力士の先輩である元大関で現在はタレントの小錦と共演すると、薄くなった頭髪をイジられることが多い。(すぽると!、ボクらの時代)
- 2010年2月4日、第68代横綱・朝青龍が度重なるトラブルに責任を取り、突然現役引退を表明。その朝青龍が引退記者会見で思い出の一番に、「両親の目の前で横綱武蔵丸を倒した相撲(2001年5月場所初日)」を述べた事に触れ、当の武蔵丸(現・振分親方)本人は「そうだったの。今まで何十番、何百番と相撲取ったけど、その一番と言われたら嬉しいよね。でもこういう形で引退するのは、今も信じられないし大変残念だ」と神妙な面持ちでコメントしていた。
主な成績
通算成績
- 通算成績:779勝294敗115休 勝率.726
- 幕内成績:706勝267敗115休 勝率.726
- 横綱成績:216勝67敗115休 勝率.763
- 幕内在位:73場所
- 横綱在位:27場所
- 大関在位:32場所(横綱昇進者では琴櫻と並び最長在位記録)
- 三役在位:11場所(関脇9場所、小結2場所)
- 連勝記録:22(2001年5月場所4日目-2001年7月場所10日目)
- 年間最多勝:1999年(70勝20敗)、2001年(73勝17敗)
- 連続6場所勝利:73勝(2001年1月場所~2001年11月場所)
- 通算連続勝ち越し記録:55場所(歴代1位、1990年11月場所~1999年11月場所)
- 幕内連続勝ち越し記録:49場所(北の湖の50場所に次いで歴代2位、1991年11月場所~1999年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:10場所(1994年5月場所~1995年11月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:5場所(1994年11月場所~1995年7月場所、1999年3月場所~1999年11月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:12回(1994年7月場所、1996年11月場所、1998年1月場所、1999年3月場所、1999年5月場所、1999年9月場所、1999年11月場所、2000年9月場所、2001年12月場所、2002年3月場所、2002年5月場所、2002年9月場所)
- 十両優勝:1回(1991年7月場所)
- 三段目優勝:1回(1990年5月場所)
- 序ノ口優勝:1回(1989年11月場所)
三賞・金賞
- 三賞:4回
- 殊勲賞:1回(1993年11月場所)
- 敢闘賞:1回(1991年11月場所)
- 技能賞:2回(1992年7月場所、1994年1月場所)
- 金星:なし
- 平幕時代に横綱と対戦したことがない。横綱初挑戦は関脇時代の対曙戦
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1989年 (平成元年) |
x | x | x | x | (前相撲) | 西序ノ口41枚目 7–0 |
1990年 (平成2年) |
東序二段56枚目 6–1 |
西三段目94枚目 6–1 |
東三段目40枚目 7–0 |
東幕下25枚目 5–2 |
西幕下11枚目 2–5 |
西幕下24枚目 6–1 |
1991年 (平成3年) |
東幕下9枚目 4–3 |
西幕下4枚目 4–3 |
東幕下筆頭 5–2 |
東十両11枚目 11–4 |
東十両3枚目 10–5 |
東前頭12枚目 11–4 敢 |
1992年 (平成4年) |
東前頭3枚目 9–6 |
西前頭筆頭 9–6 |
西張出小結 8–7 |
東小結 11–4 技 |
西関脇 10–5 |
東関脇 9–6 |
1993年 (平成5年) |
東張出関脇 10–5 |
東関脇 10–5 |
東関脇 9–6 |
西関脇 8–7 |
東関脇 8–7 |
西張出関脇 13–2[7] 殊 |
1994年 (平成6年) |
東関脇 12–3 技 |
西張出大関 9–6 |
東張出大関 12–3 |
西大関 15–0 |
東大関 11–4 |
西大関2 12–3 |
1995年 (平成7年) |
西大関 13–2[8] |
東大関 12–3 |
東大関 12–3 |
東大関 12–3 |
東大関 10–5 |
東大関 10–5 |
1996年 (平成8年) |
西大関 9–6 |
西大関 9–6 |
東大関2 9–6 |
東大関2 10–5 |
東大関2 11–4 |
西大関 11–4[9] |
1997年 (平成9年) |
西大関 12–3 |
西大関 12–3[10] |
東大関 9–6 |
西大関 10–5 |
東大関 13–2[8] |
東大関 12–3 |
1998年 (平成10年) |
西大関 12–3 |
東大関 8–7 |
西大関 10–5 |
西大関 12–3 |
東大関 11–4 |
東大関 11–4 |
1999年 (平成11年) |
東大関 8–7 |
東大関 13–2 |
東大関 13–2 |
西横綱 12–3 |
西横綱 12–3 |
東横綱 12–3 |
2000年 (平成12年) |
東横綱 2–2–11[11] |
東横綱2 11–4 |
東横綱2 休場 0–0–15 |
東横綱2 10–5 |
西横綱 14–1 |
東横綱 11–4 |
2001年 (平成13年) |
西横綱 14–1[8] |
西横綱 12–3 |
西横綱 13–2[8] |
西横綱 12–3 |
東横綱 9–6 |
東横綱 13–2 |
2002年 (平成14年) |
東横綱 1–3–11[11] |
東横綱 13–2 |
東横綱 13–2 |
東横綱 10–5 |
東横綱 13–2 |
東横綱 4–2–9[11] |
2003年 (平成15年) |
東横綱 休場 0–0–15 |
東横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 2–4–9[11] |
西横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 引退 3–5–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
曙 | 16 | 22 | 旭豊 | 7 | 2 | 湊富士 | 8 | 1 | 琴稲妻 | 7 | 0 |
朝青龍 | 5 | 4 | 安美錦 | 2 | 1 | 安芸乃島 | 32 | 11 | 琴別府 | 4 | 2 |
小錦 | 8 | 7 | 魁皇 | 26 | 20 | 琴錦 | 26 | 18 | 琴龍 | 6 | 1 |
高見盛 | 4 | 1 | 旭鷲山 | 17 | 2 | 琴ノ若 | 29 | 13 | 敷島 | 4 | 0 |
千代大海 | 11 | 9 | 旭天鵬 | 10 | 1 | 琴光喜 | 7 | 3 | 大善 | 6 | 2 |
闘牙 | 15 | 0 | 旭道山 | 8 | 2 | 貴闘力 | 37 | 8 | 千代天山 | 6 | 3 |
水戸泉 | 10 | 3 | 智ノ花 | 4 | 1 | 貴ノ浪 | 37 | 21 | 浪乃花 | 6 | 0 |
小城錦 | 11 | 2 | 蒼樹山 | 10 | 0 | 貴乃花 | 19 | 29 | 追風海 | 6 | 0 |
栃東 | 16 | 8 | 霧島 | 6 | 2 | 玉春日 | 14 | 3 | 肥後ノ海 | 11 | 2 |
栃乃洋 | 17 | 4 | 寺尾 | 14 | 3 | 玉乃島 | 5 | 2 | 三杉里 | 18 | 2 |
栃乃和歌 | 23 | 0 | 時津海 | 4 | 0 | 若の里 | 10 | 5 | 北勝力 | 2 | 0 |
舞の海 | 5 | 1 | 土佐ノ海 | 28 | 6 | 若乃花 | 24 | 14 | 朝乃翔 | 5 | 0 |
隆乃若 | 9 | 2 | 濱ノ嶋 | 8 | 0 | 剣晃 | 12 | 3 | 巌雄 | 4 | 0 |
久島海 | 7 | 1 | 鬼雷砲 | 4 | 1 | 北勝鬨 | 6 | 0 | 海鵬 | 3 | 3 |
(太字は2012年1月場所終了現在、現役力士。)
年寄名変遷
- 武蔵丸 光洋(むさしまる こうよう)2003年11月〜2008年10月
- 振分 光洋 (ふりわけ-)2008年10月〜
CM出演
- ソフトバンクモバイル (2009年6月)ボディーガード編。ブラッド・ピットと競演。監督は『マルコヴィッチの穴』などで知られる奇才、スパイク・ジョーンズが手掛けた。
脚注
- ^ 武蔵丸日記「大阪出張、ビジネスマン!」2009年10月2日 - 出生地がサモア沖地震 (2009年)の被害に遭ったことへの言及がある。
- ^ 後に武蔵川親方は、「素質はあいつの方が上だったはずだ」と語っている。
- ^ もっとも西郷本人の写真は、写真嫌いもあって一枚も残っておらず、武蔵丸に似ているとされるよく知られる肖像画や銅像は後世の画家や彫刻家が親族の顔や証言を参照して想像で作ったため、本当に似ているかどうかは現在においては定かではない。ただし体格については、大男ぞろいであった西郷家歴代の男たちと比しても劣るとは思えぬ立派なものであった。
- ^ 武蔵丸親方が年寄「振分」襲名 MSN産経ニュース(2008年10月22日)
- ^ 年寄武蔵丸時代は委員待遇の平年寄だったので、給料は委員と同じであり、序列は平年寄の最上位だった。それが持ち株で襲名している平年寄よりも格下とされ、しかも借り株で襲名の平年寄の序列は襲名期間によって決まるため、序列最下位に置かれた。
- ^ これは左右のバランスを考慮したもので、共に最高位大関で現役の出島と雅山を起用した方がバランスがよいと判断したため、と思われる。太刀持ちが武蔵丸では、露払いを務める他の力士は最高位が大関であるため、綱を張れない(例として、元武双山の藤島親方)。
- ^ 曙と優勝決定戦
- ^ a b c d 貴乃花と優勝決定戦
- ^ 曙・3代若乃花・貴ノ浪・魁皇と優勝決定戦
- ^ 貴乃花・曙・魁皇と優勝決定戦
- ^ a b c d 途中休場(全4回)
関連項目
参考文献
- 相撲(月刊誌・ベースボール・マガジン社)
- 大相撲(月刊誌・読売新聞社・現在は休刊)など