コンテンツにスキップ

「安田猛 (野球)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Jackjack (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
91行目: 91行目:


=== タイトル ===
=== タイトル ===
* [[最優秀防御率]]:2回(1972年、1973年)
* [[最優秀防御率]]:2回 (1972年、1973年)


=== 表彰 ===
=== 表彰 ===
* [[最優秀新人 (野球)|新人王]](1972年)
* [[最優秀新人 (野球)|新人王]] (1972年)


=== 記録 ===
=== 記録 ===
* 初登板:1972年4月16日、対[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]1回戦([[明治神宮野球場]])
* 初登板:1972年4月16日、対[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]1回戦([[明治神宮野球場]])
* 初勝利:1972年4月27日、対[[広島東洋カープ]]2回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])
* 初勝利:1972年4月27日、対[[広島東洋カープ]]2回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回(1973年、1975年、1977年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回 (1973年、1975年、1977年)


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===

2011年9月29日 (木) 11:08時点における版

安田 猛
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県北九州市
生年月日 (1947-04-25) 1947年4月25日(77歳)
身長
体重
173 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1971年 ドラフト6位
初出場 1972年4月16日
最終出場 1981年8月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • ヤクルトスワローズ (1982 - 1986, 1990 - 1994)

安田 猛(やすだ たけし、1947年4月25日 - )は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手投手)。

来歴・人物

小倉高校時代に1965年第37回選抜高等学校野球大会に出場。高校卒業後は早稲田大学教育学部へ進学。東京六大学リーグで通算18試合に登板し4勝2敗。早大時代は小坂敏彦に次ぐ二番手に甘んじたが、社会人野球大昭和製紙に進み頭角を現し、1970年第41回都市対抗野球大会で優勝し最優秀選手の橋戸賞を受賞した。なおこの大会の予選はぎりぎりの通過だった。本選出場まで1ヶ月しかない間に安田は遅いボールのマスターに取り組み60キロほどの超スローボールをものにし、この球を武器に全試合ロングリリーフに立ち、決勝戦引き分け再試合を挟んでチームを優勝に導いた。この都市対抗が野球人生のターニングポイントになったと語っている[1]1971年のドラフト6位でヤクルトアトムズに入団。

技巧派投手として入団当初から活躍し、1年目に7勝5敗、防御率2.08の成績で新人王最優秀防御率のタイトルを獲得、翌年にも防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。小柄なサイドスローの投手で、抜群のコントロールと緩急自在の投球術、機敏な動きからペンギン投法と呼ばれ、名投手としてファンに親しまれた。

1973年7月16日の阪神タイガース戦から9月9日の阪神戦まで81イニング連続無四死球のプロ野球記録を樹立。田淵幸一への敬遠四球で始まり、同じ田淵幸一への敬遠四球で記録が止まった[2]1975年から1978年まで4年連続二桁勝利を挙げた。1979年に膝を故障したことで成績が低迷し1981年限りで現役引退。

引退後はヤクルトの投手コーチ、スカウト、スコアラー、編成部長を歴任した。野村克也はヤクルト監督時代に雑誌「ナンバー」にて、安田を「名スコアラー」と評している。2009年オフに退団し、翌2010年より夕刊フジ評論家となった[3]

エピソード

  • ヤクルト入団後も「社会人時代の苦労を忘れたくない」とオフには牛乳配達などのアルバイトをしていたという逸話がある。プロに入った理由は「金でも、名誉でもない。ただ一つ、王さん長嶋さんと勝負したかった」から。引退のときにも「女房に言われました。『王さん、長嶋さんという最高の打者と勝負できてこんな幸せな投手っているの?』その通りですよ」とコメントしている。
  • 阪神タイガースには滅法強く「阪神キラー」と呼ばれていた。超スローボールで田淵や遠井吾郎などの強打者を三振させると、後ろを向いていた。訳を聞かれると「あまりにも面白くてつい笑ってしまうんだけど、失礼だから後ろ向いていた。」と答えた。安田は、マウンドで阪神ファンの心ないヤジやプレッシャーに出会っても顔色一つ変えずに阪神打線を沈黙させ、「度胸七分に技三分さ。」とコメントした。
  • 小柄でスピードもないことから周辺は安田のプロ入りに冷ややかな見方をしていた。しかし早大時代の石井藤吉郎監督だけは安田を評価しておりプロ入りを勧めていた。かつて石井が所属していた大昭和製紙に進んだこともあり、安田にとって石井は頭の上がらない恩人だった。同時に安田は石井にとって欠かせない麻雀相手でもあり、プロ入り後先発して早々にノックアウトされると石井の家に直行、卓を囲んでいたという。
  • いしいひさいち漫画がんばれ!!タブチくん!!』では、彼がモデルの『ヤスダ』投手が登場し、「七色の魔球」と称した数々の魔球を披露している(なお、チームメイトの大矢明彦も『オーヤくん』で登場)。これに対する彼へのお礼は『がんばれ!!タブチくん!!』映画のペアチケットだけだったらしい。本人も自分とは別物として考えていたというエピソードがある。このキャラクターはコーチ昇格後だけでなく、小説雑誌編集者など役柄を変え、いしいマンガに重用され続け、今なお朝日新聞連載「ののちゃん」に小学校教師として(同僚役のタブチともども)登場し続けている。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1972 ヤクルト 50 12 3 2 1 7 5 -- -- .583 668 168.2 136 6 31 4 2 81 0 0 51 39 2.08 0.99
1973 53 14 11 4 5 10 12 -- -- .455 799 208.2 175 13 25 9 1 107 0 0 50 47 2.02 0.96
1974 28 15 4 0 0 9 5 0 -- .643 547 130.1 143 6 17 5 4 63 0 0 50 46 3.18 1.23
1975 44 27 13 3 7 16 12 4 -- .571 978 243.2 238 20 36 10 0 101 1 0 78 74 2.73 1.12
1976 38 32 12 0 6 14 13 2 -- .519 954 229.1 242 38 32 9 2 79 0 1 113 100 3.93 1.19
1977 51 20 8 1 3 17 16 6 -- .515 894 214.0 229 35 51 10 3 108 2 0 95 89 3.74 1.31
1978 47 21 6 1 0 15 10 4 -- .600 800 182.2 228 13 50 9 3 71 1 1 92 80 3.93 1.52
1979 19 10 0 0 0 1 4 0 -- .200 221 46.1 69 8 21 3 1 19 1 0 32 32 6.26 1.94
1980 22 9 2 2 1 4 3 1 -- .571 319 77.2 77 12 20 3 0 24 0 0 33 33 3.81 1.25
1981 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 32 7.0 11 3 2 0 0 2 0 0 7 7 9.00 1.86
通算:10年 358 160 59 13 23 93 80 17 -- .538 6212 1508.1 1548 154 285 62 16 655 5 2 601 547 3.26 1.22
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 22 (1972年 - 1981年)
  • 79 (1982年 - 1986年)
  • 82 (1990年 - 1994年)

脚注

関連項目