東宮御所
プロジェクト‐ノート:日本の皇室に、このページに関する議論があります。 議論の要約:皇位継承に伴う各施設の名称と記事内容変更 |
赤坂御所 | |
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赤坂御用地の鮫が橋門 | |
情報 | |
旧名称 | 東宮御所 |
用途 | 天皇・皇后および子女の住居 |
旧用途 | 皇太子・皇太子妃および子女の住居 |
設計者 | 谷口吉郎 |
延床面積 |
5,460 m² ※増築部分572m2含む |
階数 | 地上2階、地下1階 |
着工 | 1959年(昭和34年)1月9日 |
竣工 | 1960年(昭和35年)4月27日 |
所在地 |
〒107-0051 東京都港区元赤坂二丁目1-8 |
座標 | 北緯35度40分35秒 東経139度43分27秒 / 北緯35.67639度 東経139.72417度座標: 北緯35度40分35秒 東経139度43分27秒 / 北緯35.67639度 東経139.72417度 |
東宮御所(とうぐうごしょ)は、日本における皇太子の御所。皇太子が「東宮」とも称されることから、こう称される。
平成31年(2019年)4月30日までの東宮御所は、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内に当時の皇太子徳仁親王とその家族の住居である御所として所在した[1]。
しかし、令和元年(2019年)5月1日に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位したあとも、東京都千代田区千代田の皇居内の正式な御所に移転するまでは同所に引き続き居住するため、この東宮御所は第126代天皇の御所となり、「赤坂御所」(あかさかごしょ)と改称された[2]。なお、第126代天皇徳仁には皇位継承権を有する皇子たる皇太子がいないため、東宮御所は存在しないものとなった[3]。
概要
東宮とは皇宮から見て東方に位置する宮であり、東は五行説で春に相当するため「春宮」(とうぐう/はるのみや)とも記され、易では長子を意味する震卦にあたることから、皇太子の居所とされた。さらに皇太子の家政機関として律令で春宮坊(とうぐうぼう)が定められていた。『職原抄述解』によると東宮は御座所を、春宮は官舎を呼んだもので、唐に皇太子付きの左春坊、右春坊という役所があったためそれに倣って春宮坊と呼んだものが、のちに混用されて皇太子自身を東宮とも春宮ともいうようになり[4]、居所としての東宮は東宮御所と呼ばれるようになった。
東宮御所には古くは内裏内の昭陽舎(梨壺)を充てていたが、鎌倉時代以後は小御所で儀式を行うのが慣例であった。東京奠都後は天皇の御所とは別の場所に東宮御所が充てられるようになった。
もともとは御料地などとともに皇室財産であった東宮御所であるが、第二次世界大戦敗戦と日本国憲法の施行後には日本国政府の所有に移され、あくまで「国有財産たる皇室用財産」として皇室の用に供せられている[5]。
現在の東宮御所
天皇退位特例法に基づき、2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が退位し上皇となり、翌(令和元年)5月1日に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位したことに伴い皇太子が空位となった。これ以降「東宮御所」は、少なくとも皇嗣となった秋篠宮文仁親王が即位するまでは存在しない(現在の皇室典範が改正されなければ、文仁親王が第127代天皇に即位した場合、その皇子となる悠仁親王が立太子する)予定である。
実質的な東宮御所の機能は、皇嗣となった文仁親王、皇嗣妃となった同妃紀子、長女の眞子内親王、次女の佳子内親王、長男の悠仁親王の邸宅である秋篠宮邸(増築が予定されている)と赤坂東邸を事実上一体として担わせる方針である[6]。
2019年(平成31年)4月30日まで使用された東宮御所は、同年(令和元年)5月1日以降は、今上天皇の御所としての「赤坂御所」と称され[2]、年内に今上天皇が皇居内の「御所」(現・吹上仙洞御所)へ正式に転居した後、入れ替わるように上皇明仁が赤坂御所に転居し「仙洞御所」と改称されて使用される予定である[6]。仙洞御所の整備が終わるまでは、高輪皇族邸(東京都港区高輪)を上皇明仁の御假寓とする予定である。
歴史上の東宮御所
平安京内裏昭陽舎
平安京では、もともとは内裏の東にある雅院(東雅院・西雅院)が東宮御所とされていたが、10世紀初めより内裏内に居住するようになった。とりわけ昭陽舎が東宮御所に用いられることが多かった。
朝仁親王 東宮御所
天和3年(1683年)に皇太子となった朝仁親王(のちの東山天皇)は、貞享3年(1686年)に天皇の御所とは別に東宮御所を構えた。 それは現在の京都御苑内の京都仙洞御所の地にほぼ該当する。
京都御所御花御殿
以後、東宮の独立した御所は置かれず御花御殿などに住まった。また、東宮の儀式は小御所で行われ、昭陽舎代と呼ばれた。
元赤坂東宮御所
明治期の皇太子であった明宮嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮御所として旧紀州徳川家中屋敷の敷地に建設される。現在の東宮御所と区別するため旧東宮御所とも呼ばれる。
建設は 1899年(明治32年)に始まり、10年後の1909年(明治42年)に完成する。建物はネオ・バロック様式で片山東熊が設計し日本最初の宮殿建築となった。このときの建物は現在も残り、迎賓館として用いられている。嘉仁親王の天皇即位後は離宮(赤坂離宮)となった。
高輪東宮御所
大正期に皇太子であった迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)は港区の高輪御殿を東宮御所とし、結婚後は赤坂離宮(現在の迎賓館)に移った。
高輪東宮御所は、後に高松宮邸を経て、現在は高輪皇族邸となっており、将来は、仙洞御所の御假寓を経て、従来、赤坂東邸が担っている、皇族の共用邸宅とされる方針が予定されている[6]。
御所の表門は東京国立博物館敷地内に移築され現存する。
青山東宮御所
迪宮裕仁親王は結婚後に青山御所(赤坂御用地南西)に移り住み東宮御所とした。
赤坂東宮御所
皇太子明仁親王の御所として、貞明皇后の大宮御所の跡地に建設され、総工費2億2300万円で、1960年(昭和35年)4月に竣工した。
2015年(平成27年)時点では、72部屋(公室部分12、事務棟38室、奥私室22)ある。
谷口吉郎の設計による鉄筋コンクリート地上2階、地下1階建てで、御座所棟と事務棟に分かれる。御座所は、日月の間・檜の間・鶴溜・もみじの間・黒柿の間・黒林の間・塩地の間などがあり、御座所は更に表公室(大小応接室・進講室・レセプション用の大食堂・事務室・書庫など)と奥私室(談話室・居間・食堂・妃用のキッチン・予備室・応接室・寝室・着替え室・御化粧室・地下厨房)に分かれる。御座所棟と事務棟は渡り廊下でつながれており、事務棟1階(護衛室・電池室・応接室・事務主管室・事務宿直室・事務室など)と事務室2階(侍医室・東宮大夫室・侍従長室・侍従寝室・侍従室・応接室・女官室・女官長室・女官寝室など)がある。
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御し、皇太子明仁親王が践祚(即位)するが、その後も当地に住み続けたため、「御所」(赤坂御所)とされ、1993年(平成5年)12月に吹上御苑内の皇居半蔵門近くに新築された御所(現・吹上仙洞御所)に天皇・皇后と紀宮清子内親王が転居した後は皇太子徳仁親王の御所となった。
改修工事
1978年(昭和53年)9月、皇子女の成長に伴い東宮御所増築工事が行われた。総工費2億2000万円で、1977年(昭和52年)7月に着工した。私室棟の東側に平屋建て一部二階建てにされ、皇子室(一階に3部屋)、進講室(3部屋)、和室、職員室(2部屋)、納戸などが新たに建築された。
1993年(平成5年)5月から、1994年(平成6年)7月まで、小和田雅子の入内に伴い、日本庭園の建設と洋風内装の工事を施す。着工費は3億800万円。
さらに、1997年(平成9年)には、バリアフリー化、公室棟改修(耐震補強工事・車椅子用リフト設置等)のため、改修工事が行われた。着工費は5億8000万円。
2001年(平成13年)8月、皇太子妃雅子の懐妊に伴い、子供部屋関係改修工事が行われた。元住人の紀宮清子内親王(現:黒田清子)の部屋を耐熱性のあるコルクタイルに変えられ、壁にはリノリウムが使用され、天井・壁ともクリーム色に塗り替えられた。また、部屋を仕切って看護婦控室も新たに製作され、空調施設も取り替えられ、看護婦が待機できる部屋も隣に併設された。総工費は約3000万円。
部分的な改修工事は行われてきたが、実質的に東宮御所は、竣工より50年近く経過しており、建物の老朽化が著しくなった。このため、2008年(平成20年)8月より1年間、私室と事務棟の配管の交換や内装の張り替えなどの改修工事が行われた。併せて、2009年(平成21年)5月、事務棟の屋根に太陽光発電用のソーラーパネルを設置しトイレにLED照明を設置するなどのエコロジーを考慮した改修も行われた。総工費は約10億円。この工事期間中、皇太子一家は赤坂東邸を東宮仮御所とした。
脚注
- ^ 2019年(令和元年)5月1日宮内庁告示第1号『平成六年宮内庁告示第八号を廃止する件』。ウィキソースより閲覧。
- ^ a b 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」
- ^ 東宮御所・宮邸 宮内庁のウェブサイト、2012 (平成24)年4月2日閲覧
- ^ 『官職要解』(1902年(明治35年)) 和田英松
- ^ 皇室関連施設 宮内庁ウェブサイト、平成24年4月2日閲覧
- ^ a b c 天皇陛下の御退位に伴うお住居の移転等について(平成29年12月18日発表) 宮内庁 2017年12月18日