「アフリカ」の版間の差分
Ryugos0824 (会話 | 投稿記録) m →経済 |
Babi Hijau (会話 | 投稿記録) 加筆、一部en:Africa2011-02-18 10:01UTCからの訳や出典情報を移植 |
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{{ウィキポータルリンク|アフリカ}} |
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'''アフリカ''' |
'''アフリカ'''(Africa、'''阿弗利加''')<ref name=koujien70>{{Cite book|和書|year=1999|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|pages=70|chapter=【アフリカ】|isbn=4-00-080113-9}}</ref>は、広義には[[アフリカ大陸]]およびその周辺の[[マダガスカル島]]などの[[島嶼]]・[[海域]]を含む[[地域]]の総称で、[[六大州]]の一つ<ref name=koujien70 />。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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地理的には[[地中海]]を挟んで[[ヨーロッパ]]の南に位置する。 |
地理的には[[地中海]]を挟んで[[ヨーロッパ]]の南に位置する。 [[赤道]]を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の[[大陸]]でもあり、それに伴って多様な[[気候]]領域がある<ref>{{cite web|url=http://www.visualgeography.com/continents/africa.html|title=Africa. General info|last=Visual Geography|first=|date=|accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。面積は3,020万平方キロメートルで、[[地球]]表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが.<ref name=Sayre>Sayre, April Pulley. (1999) ''Africa'', Twenty-First Century Books. ISBN 0-7613-1367-2.</ref>、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。現在は53の独立国によって形成されている。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である<ref>{{cite web|url= http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/pdf/c2.pdf |format=PDF |publisher= International Monetary Fund |title= WEO Oct. 2010 |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。 |
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アフリカは[[人類]]の[[発祥]]の地と言われている。サハラ砂漠以南のアフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒の大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際には古代から文明があった。 |
アフリカ、特に東アフリカは[[人類]]の[[発祥]]の地と言われ、[[エチオピア]]からは20万年前の[[ホモ・サピエンス]]の化石が発見されている.<ref>{{cite web|url= http://web.utah.edu/unews/releases/05/feb/homosapiens.html |publisher= [[ユタ大学]] |title= The Oldest Homo sapiens |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。サハラ砂漠以南のアフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒の大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際には古代から文明があった。 |
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[[サハラ砂漠]]が大きな境 |
アフリカの地理的区分では[[サハラ砂漠]]が大きな境界となり、この北側を「[[北アフリカ|ホワイトアフリカ]]」、南側を「[[ブラックアフリカ]]」<ref>{{cite web|url= http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/11578/1/10_36_0004.pdf |format=PDF |publisher= [[新潟大学]] |title= 『地の果て』ではない、アルジェリアより|accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref>あるいは「サブサハラ」と呼び分ける場合もある。また、[[北アフリカ]]、[[中部アフリカ]]、[[東アフリカ]]、[[南部アフリカ]]、[[西アフリカ]]に分ける区分もある。 |
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== 語源 == |
== 語源 == |
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単語「アフリカ」の語源は、現在の[[チュニジア]]に当る[[カルタゴ]]近郊の北部アフリカに居住していた[[セム語]]族を指した「[[:en:Afri|Afri]]」(アフリ)と推測される。この言葉は[[フェニキア語]]の「afar」(dust)から来たものと解釈されていたが、1981年には住人が棲んだ[[洞窟]]を指す[[ベルベル語]]の「ifri」が転じたものという仮説が提示された<ref name="book on ligne">The Berbers, by Geo. Babington Michell, p 161, 1903, Journal of Royal African people [http://www.jstor.org/pss/714549 book on ligne]</ref>。ただし、これら「afar」<ref name="book on ligne"/>「ifri」「Afri」は現在の[[モロッコ]]や[[アルジェリア]]および[[リビア]]([[ベルベル人]]に一派が住んだ[[トリポリタニア]])のみを指していた<ref>Itineraria Phoenicia, Edward Lipinski, Peeters Publishers, p200, 2004, ISBN 90-429-1344-4 [http://books.google.fr/books?id=SLSzNfdcqfoC&pg=PA200&dq=Itineraria+Phoenicia+Ifren&sig=opSH-an97IhmB6GtJjMvn7bt4tc#PPA200,M1 Book on ligne]</ref>。[[ローマ時代]]、この地にリビア沿岸部を含んだ地域が[[アフリカ属州]]になると、 ローマ語で「国」や「土地」を表す[[接尾辞]]「-ca」が付属し「アフリカ」という用語が生じた<ref>{{cite web|url=http://www.consultsos.com/pandora/africa.htm|title=Consultos.com etymology|accessdate=2011-03-04|publisher=World Ideas |language=英語}}</ref>。 |
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諸説 |
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* [[:en:Afri|Afri]](アフリ):[[ローマ時代]]、[[カルタゴ]]([[アフリカ属州]]都)近辺の住民をさす言葉 |
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::[[フェニキア語]]:''afar''("dust")<br /> |
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::[[ベルベル語]]:''ifri''(洞窟)<ref>[http://michel-desfayes.org/namesofcountries.html Names of countries], Decret & Fantar, 1981</ref> |
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他にも、古代から伝わる用語「アフリカ」の起源には、様々な仮説が提唱された。 |
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* [[接尾辞]] "-ca":国、土地<ref>[http://www.consultsos.com/pandora/africa.htm Consultos.com etymology]</ref> |
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*1世紀のユダヤ人[[歴史家]][[フラウィウス・ヨセフス]]は、旧約聖書25章4に登場する[[アブラハム]]の孫エフェル(Epher)に因み、彼の子孫がリビアを征服した故事に端を発すると主張した。 |
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*[[イシドールス]]は『[[イシドールス#著作|語源(XIV.5.2)]]』にて、[[ラテン語]]の「aprica (sunny)」に因むと述べた。 |
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* [[アブラハム]]の孫エフェル(Epher)に因むとの説。:[[歴史家]][[フラウィウス・ヨセフス]] |
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*歴史家[[レオ・アフリカヌス]](1488年 - 1554年)は、[[ギリシア語]]の「phrike (φρίκη)」(「寒い」または「怖い」の意)に[[α (欠性辞)|欠性辞のα]]を意味する「a-」が付属し、寒さが無いところを意味する「aphrike (Αφρική)」となった主張した。 |
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* [[ラテン語]] ''aprica''(sunny)に因る:[[イシドールス]]『[[イシドールス#著作|語源(XIV.5.2)]]』 |
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*ジェラルド・マッセイ[[:en:Gerald Massey]]は1881年に、[[エジプト語]]の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。それによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。この「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。エジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する<ref>{{cite web|url=http://gerald-massey.org.uk/massey/cmc_nile_genesis.htm |title='Nile Genesis: the opus of Gerald Massey' |publisher=Gerald-massey.org.uk |date=1907-10-29 |accessdate=2011-03-01}}</ref>。 |
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* [[ギリシャ語]] ''aphrike''( "without cold.", 寒さが無い):歴史家[[レオ・アフリカヌス]] |
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*Michèle Fruytは1976年発表の『Revue de Philologie』(50章、pp.221-238)で、[[ウンブリア語]]に起源を持つラテン語の「africus (south wind、南風)」との関係を示唆し、元々の意味は「湿気を含んだ風」だと述べた。 |
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* [[エジプト語]] ''af-rui-ka''("to turn toward the opening of the [[:en:|Ka]].")<ref>[http://gerald-massey.org.uk/massey/cmc_nile_genesis.htm 'Nile Genesis: the opus of Gerald Massey']</ref> |
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後に[[イスラム]][[帝国]] [[イフリーキヤ]](افريقية)に引き継がれる。 |
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[[アイルランド語]]の女性名 ''Aifric'' は ''Africa'' と英語化されるが、地名とは関係が無い。 |
[[アイルランド語]]の女性名 ''Aifric'' は ''Africa'' と英語化されるが、地名とは関係が無い。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== アフリカの形成 === |
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[[ファイル:Africa map from Atlas 1648.png|300px|right|thumb|'''アフリカの[[地図]]'''(G. and I. Blaeuによる[[1648年]]の地図) [[ポルトガル]]人の[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がインド洋航路を発見した150年後に制作された。海岸線は正確だが、内陸部、特に河川の流路に関する情報が極端に不足していたことが分かる。例えば[[ナイル川]]が南部アフリカに達しており、[[ニジェール川]]の流路は全く異なっている。冒頭の地図と比較されたい。]] |
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[[File:Massospondylus BW.jpg|thumb|right|150px|アフリカの古竜脚類/基盤的竜脚形類である[[マッソスポンディルス]]]] |
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[[中生代]]初期、アフリカは他の大陸と同じく[[超大陸]][[パンゲア]]を形成した<ref name="dinopedia-african">Jacobs, Louis L. (1997). "African Dinosaurs." ''Encyclopedia of Dinosaurs''. Edited by Phillip J. Currie and Kevin Padian. Academic Press. pp. 2–4.</ref>。その状況下で、[[獣脚類]]や[[竜脚形亜目]]また原始的な[[鳥盤類]]が、[[三畳紀]]終わり頃まで繁殖していた。これらの[[化石]]はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる<ref name="dinopedia-african" />。三畳紀と[[ジュラ紀]]を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない<ref name="dinopedia-african" />。 |
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{{Main|アフリカ史}} |
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初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なった状態が多く、南で多く見つかる。しかし化石層の発掘は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく<ref name="dinopedia-african" />。ジュラ紀には、アフリカでは[[竜脚下目]]や[[鳥脚目]]などの[[恐竜]]が広い範囲で隆盛を極めた<ref name="dinopedia-african" />。中期の研究はあまり進んでいない<ref name="dinopedia-african" />。後期も発掘は遅れている<ref name="dinopedia-african" />が、数少ない例外に当る[[タンザニア]]のテンダグル層[[:en:Tendaguru Formation|(en)]]では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層[[:en:Morrison Formation|(en)]]の古生物学的様相[[:en:Paleobiota of the Morrison Formation|(en)]]と非常に近似したところが見られた<ref name="dinopedia-african" />。 |
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[[File:Spinosaurus BW2.png|thumb|left|200px|[[スピノサウルス]]はアフリカを代表する肉食恐竜である。]] |
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1億6千-1億5千年前の[[中生代]]中頃、[[ゴンドワナ大陸]]には後の[[インド亜大陸]]と[[マダガスカル]]が繋がっていた。そのため、マダガスカルからはアベリサウルス[[:en:abelisaur|(en)]]やティタノサウルス上科[[:en:titanosaur|(en)]]の化石が発見される<ref name="dinopedia-african" />。 その後、[[白亜紀]]初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期にはこの2つの陸塊も別れて現在に至る<ref name="dinopedia-african" />。[[中生代]]、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア大陸そのものの変化は進行し、白亜紀後期の始まり頃には[[南アメリカ]]がアフリカから分離し、[[南大西洋]]が形成された<ref name="dinopedia-african" />。この出来事は[[海流]]の変動を呼び、地球規模の[[気候]]形成に影響を与えた<ref name="dinopedia-african" />。 |
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この白亜紀には、アロサウルス類[[:en:allosauroids|(en)]]やスピノサウルス類[[:en:spinosaurids|(en)]]がアフリカを闊歩した<ref name="dinopedia-african" />。特に[[肉食恐竜]]が隆盛を誇り、ティラノサウルス属[[:en:Titanosaurs|(en)]]が[[生態系]]の頂点に立った<ref name="dinopedia-african" />。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、今後の調査が待たれる<ref name="dinopedia-african" />。 |
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=== 先史時代 === |
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[[File:Lucy blackbg.jpg|thumb|150px|[[アウストラロピテクス・アファレンシス]]の[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー]]。この骨は1974年11月24日、[[エチオピア]]の[[アファール盆地]]、アワッシュ渓谷[[:en:Awash Valley|(en)]]で発見された。]] |
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{{Main|アフリカ単一起源説|ミトコンドリア・イブ}} |
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ほとんどの[[古人類学|古人類学者]]は、[[人類]]はアフリカで生まれたという説を採っている<ref name=BBC>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/1058484.stm |publisher= [[BBC]] News |title= Genetic study roots humans in Africa |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.sciencedaily.com/releases/2007/08/070828155004.htm |publisher= Science Daily |title= Migration of Early Humans From Africa Aided |author= Wet Weather |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「イーストサイド説」では、豊かな[[コンゴ盆地]]の[[森林]]から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという<ref name=Kadomura>{{cite web|url= http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=ja&lr=&rlz=1W1GGHP_ja&q=cache:9IVj3rch43wJ:http://www.meijigakuin.ac.jp/~iism/open_lecture/open_lecture08/Kadomurareport.pdf+%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%A3%AE%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7&ct=clnk |title=アフリカの森の変遷‐長期の気候変動から‐|author=門村浩/[[東京都立大学]]名誉教授|publisher=[[明治学院大学]]国際学部付属研究所|accessdate=2011-03-01}}</ref>。 |
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[[スタークフォンテン、スワートクランズ、クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群|南アフリカのヨハネスブルグ北部]]などが人類が初めて住んだ場所と考えられる<ref name=BBC />。20世紀中頃には、[[人類学者]]たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、[[放射年代測定]]から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられる[[アウストラロピテクス・アファレンシス]]<ref>Kimbel, William H. and Yoel Rak and Donald C. Johanson. (2004) ''The Skull of Australopithecus Afarensis'', Oxford University Press US. ISBN 0-19-515706-0.</ref>や紀元前230-140万年頃の[[パラントロプス・ボイセイ]][[:en:Paranthropus boisei|(en)]]<ref>Tudge, Colin. (2002) ''The Variety of Life.'', Oxford University Press. ISBN 0-19-860426-2.</ref>、紀元前190-60万年頃の[[ホモ・エルガステル]]<ref name=Sayre />が人類へ[[進化]]したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、[[国家]]を持たず、現代の[[コイコイ人]]や[[サン人]]のように[[狩猟採集社会]]の集団をつくって生活していた<ref>Ivan van Sertima. (1995) ''Egypt: Child of Africa/S V12 (Ppr)'', Transaction Publishers. pp. 324–325. ISBN 1-56000-792-3.</ref><ref>Mokhtar, G. (1990) ''UNESCO General History of Africa, Vol. II, Abridged Edition: Ancient Africa'', University of California Press. ISBN 0-85255-092-8.</ref><ref>Eyma, A. K. and C. J. Bennett. (2003) ''Delts-Man in Yebu: Occasional Volume of the Egyptologists' Electronic Forum No. 1'', Universal Publishers. p. 210. SBN 1-58112-564-X.</ref>。 |
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アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていた[[サハラ砂漠]]は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともに[[チャド湖]]など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また[[牛]]の牧畜<ref>Diamond, Jared. (1999) "Guns, Germs and Steel: The Fates of Human Societies. New York:Norton, pp.167.</ref>なども行っていた。 |
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しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり<ref name="O'Brien">O'Brien, Patrick K. (General Editor). Oxford Atlas of World History. New York: Oxford University Press, 2005. pp.22–23</ref>、沙漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西<ref name="O'Brien" />や南、[[ナイル川]]流域などに移住した<ref name=Kadomura />。 |
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=== エジプト・地中海文明の発生 === |
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{{Main|アフリカ史}} |
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アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカが[[コプト教]]のエチオピアと[[イスラム教]]のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特な[[アニミズム]]の伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。 |
アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカが[[コプト教]]のエチオピアと[[イスラム教]]のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特な[[アニミズム]]の伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。 |
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[[ファイル:Africa map from Atlas 1648.png|200px|right|thumb|'''アフリカの[[地図]]'''(G. and I. Blaeuによる1648年の地図) [[ポルトガル]]人の[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がインド洋航路を発見した150年後に制作された。海岸線は正確だが、内陸部、特に河川の流路に関する情報が極端に不足していたことが分かる。例えば[[ナイル川]]が南部アフリカに達しており、[[ニジェール川]]の流路は全く異なっている。冒頭の地図と比較されたい。]] |
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=== エジプト・地中海世界 === |
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最初にひらけたのは、[[ナイル川]]流域の[[古代エジプト]]王国であ |
最初にひらけたのは、[[ファラオ]]による支配が始まった[[ナイル川]]流域の[[古代エジプト]]王国であり、紀元前3300年頃の[[文字]]記録が発見されている<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/235724.stm |publisher= [[BBC]] News Sci/Tech |title= Were Egyptians the first scribes? |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。これは世界最古の[[文明]]の一つで.<ref>Hassan, Fekri A. (2002) ''Droughts, Food and Culture'', Springer. p. 17. ISBN 0-306-46755-0.</ref><ref>McGrail, Sean. (2004) ''Boats of the World'', Oxford University Press. p. 48. ISBN 0-19-927186-0.</ref>、紀元前2900年頃、[[メネス|メネス王]]が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれた[[ピラミッド]]によって世界的に知られている。紀元前1000年頃には[[製鉄]]技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がって[[ブラックアフリカ]]北部まで鉄器が使われるようになった<ref>Martin and O'Meara. "Africa, 3rd Ed." Indiana: Indiana University Press, 1995. [http://princetonol.com/groups/iad/lessons/middle/history1.htm#Irontechnology]</ref>。 |
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一方、チュニジアでも[[紀元前800年]]頃に[[フェニキア]]の植民都市として[[カルタゴ]]が築かれ、経済大国となった。[[紀元前146年]]にカルタゴは[[共和制ローマ]]に滅ぼされ、ローマ支配下の[[アフリカ属州]]となった。[[5世紀]]、[[ローマ帝国]]が弱体化し、[[ゲルマン民族]]の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、[[429年]]、カルタゴの故地に[[ヴァンダル王国]]を建設したが、[[地中海世界]]の再統一に燃える[[東ローマ帝国]]によって[[534年]]に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くはなく[[636年]]、[[パレスチナ]]のヤルムク河畔で、日ののぼる勢いの[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]])に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカは[[ウマイヤ朝]]時代にイスラム勢力の支配下に入った。[[アッバース朝]]時代に勢力争いで、[[ハールーン=アッラシード]]に敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、[[フェズ]]に[[イドリース朝]]を開いた。[[9世紀]]以降、アッバース朝カリフは、[[800年]]にチュニジアの[[アグラブ朝]]、[[868年]]にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を[[世襲]]して事実上エジプト独自のイスラム王朝となった[[トゥールーン朝|トゥルーン朝]]、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、[[イフシード朝]]の建国([[935年]])を許すなど分裂傾向を強めた。 |
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一方、チュニジアでも紀元前800年頃に[[フェニキア]]の植民都市として[[カルタゴ]]が築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは[[共和制ローマ]]に滅ぼされ、ローマ支配下の[[アフリカ属州]]となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、[[ゲルマン民族]]の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地に[[ヴァンダル王国]]を建設したが、[[地中海世界]]の再統一に燃える[[東ローマ帝国]]によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くはなく636年、[[パレスチナ]]のヤルムク河畔で、日ののぼる勢いの[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]])に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカは[[ウマイヤ朝]]時代にイスラム勢力の支配下に入った。[[アッバース朝]]時代に勢力争いで、[[ハールーン=アッラシード]]に敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、[[フェズ]]に[[イドリース朝]]を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアの[[アグラブ朝]]、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を[[世襲]]して事実上エジプト独自のイスラム王朝となった[[トゥールーン朝|トゥルーン朝]]、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、[[イフシード朝]]の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。 |
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=== 西アフリカ・北アフリカ === |
=== 西アフリカ・北アフリカ === |
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西アフリカでは、 |
西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる[[土偶]]と[[製鉄]]技術をもった[[ノク文化]]がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀の[[イボ=ウクゥ文化]]、10-13世紀の[[イフェ文化]]、14-18世紀の[[ベニン王国]]が繁栄し、優れた[[青銅]][[製品]]で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトや[[ヌビア]]、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの[[青銅器]]が西アフリカで発掘されている。これは当時から[[サハラ交易]]が行われていた事を示す<ref name="O'Brien" />。この交易を背景に繁栄したのが[[セネガル川]]上流と[[ニジェール川]]上流に4世紀にさかのぼるといわれる[[ガーナ王国]]であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、[[マリ帝国]]がニジェール川上流の[[ニアニ]]を[[首都]]とし湾曲部の[[トンブクトゥ]]を版図に含んで13- 15世紀前半まで繁栄、[[ソンガイ帝国]]が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、[[マリ帝国]]を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西[[歴史的スーダン|スーダン]]を統一する広大な版図を誇った。 |
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一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの[[キャラバン|隊商]]による交易に利害のあった北アフリカ西部、[[マグリブ]]にも[[ベルベル人]]によって11世紀中葉~12世紀中葉に[[ムラービト朝]]、12世紀中葉 |
一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの[[キャラバン|隊商]]による交易に利害のあった北アフリカ西部、[[マグリブ]]にも[[ベルベル人]]によって11世紀中葉~12世紀中葉に[[ムラービト朝]]、12世紀中葉-13世紀頃に[[ムワッヒド朝]]、13-15世紀に[[マリーン朝]]という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。[[ソンガイ帝国]]は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力な[[サアド朝]](サーディ朝)に攻め滅ぼされた。[[イフリーキヤ]]と呼ばれたチュニジアでも、909年にアグラブ朝を倒して、[[ファーティマ朝]]が興ると、926年には西隣の[[イドリース朝]]を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、[[イフシード朝]]を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に遷都(973年)して、[[カリフ]]を称した。西カリフ国と呼ばれた[[イベリア半島]]の[[後ウマイヤ朝]]に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対[[十字軍]]戦争で活躍した[[サラディン]]による[[アイユーブ朝]]、アイユーブ朝のもとで実力をつけたバフリーヤなどの[[マムルーク]]の力によって建国された[[マムルーク朝]]が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立した[[ハフス朝]]があり、これらの強力な王朝のもとで優れた[[イスラム建築]]が多数建設され、町並みが[[世界遺産]]に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年に[[ハフス朝]]が[[オスマン帝国]]によって併合される。 |
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モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国は[[マグリブ]]と呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によっては[[リビア]]や[[モーリタニア]]も含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。 |
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=== 東アフリカ・南アフリカ === |
=== 東アフリカ・南アフリカ === |
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東アフリカの北部にあたる |
東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀に[[コプト教]]を国教とした[[アクスム王国]]が、[[ギリシャ]]、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃に[[ザグウェ朝]]が興り、世界遺産になっている[[ラリベラの岩窟教会群]]が造られた。沿岸部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、[[モガディシオ]]、[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ]]、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、[[モザンビーク]]南部の港町[[ソファラ]]から[[ジンバブエ共和国|ジンバブエ]]の[[ザンベジ川]]流域、[[リンポポ川]]流域にまで及び14-15世紀に[[ショナ人]]による[[モノモタパ王国]]が[[金]]や[[象牙]]の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目される[[グレート・ジンバブエ遺跡]]からは、中国([[宋 (王朝)|宋]]、[[元 (王朝)|元]]、[[明]]代)の青花などの[[陶磁器]]、[[インド]]の[[綿]]製品、[[インドネシア]]の数珠玉、[[ペルシャ]]の[[壺]]などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退すると、[[ロズウィ王国]]が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。 |
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=== 奴隷貿易 === |
=== 奴隷貿易 === |
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[[File:Point du Non Retour1.jpg|thumb|[[ベナン]]のウィダ[[:en:Ouidah|(en)]]にある「戻れない場所[[:en:Point of no return|(en)]]」。奴隷たちはこの門をくぐって船に積まれ、奴隷船は出航した。]] |
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{{Main|奴隷貿易}} |
{{Main|奴隷貿易}} |
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長い間アフリカは、[[奴隷制度]]に蝕まれてきた<ref name=Slavery>{{cite web|url= http://www.britannica.com/blackhistory/article-24157 |publisher= Encyclopædia Britannica |title= Historical survey > Slave societies |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www7.nationalgeographic.com/ngm/data/2001/10/01/html/ft_20011001.6.html |publisher= National Geographic |title= Swahili Coast |author= Robert Caputo |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易[[:en:Arab slave trade|(en)]]は継続して行われ、1800万人がサハラ交易や[[インド洋]]貿易で取引された。[[大航海時代]]を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた<ref name=Recca17>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.17-19、奴隷貿易、アフリカ分割を乗り越えて独立へ]]</ref>。15世紀から19世紀までの500年には[[アメリカ州]]向けの奴隷貿易[[:en:Atlantic slave trade|(en)]]が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された<ref name=Slavery /><ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/1523100.stm |publisher= [[BBC]] News |title= Focus on the slave trade |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref><ref>[http://books.google.com/books?id=5t5ERBlosqUC&pg=PA25&dq=%22muslim+slave+trade%22&sig=XSpyahikSAcJv9wxLcLOJxylVL4 ''Transformations in Slavery: A History of Slavery in Africa''] p 25 by Paul E. Lovejoy</ref>。 |
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1820年代、[[西アフリカ]]は大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における[[奴隷制度廃止運動]]の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部での[[イギリス海軍]]駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊[[:en:West Africa Squadron|(en)]]は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した<ref>{{cite web|url= http://www.bbc.co.uk/devon/content/articles/2007/03/20/abolition_navy_feature.shtml |publisher= [[BBC]] News |title= Sailing against slavery |author= Jo Loosemore |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。 |
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また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「[[ラゴス]]の略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された<ref>{{cite web|url=http://www.pdavis.nl/Background.htm#WAS |title=The West African Squadron and slave trade |publisher=Pdavis.nl |date= |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。この動きに、国力があった[[アシャンティ王国]]、[[ダホメ王国]]、オヨ王国[[:en:Oyo Empire|(en)]]は順応する動きを取り、アシャンティやダホメは[[パーム油]]か[[カカオ]]、ランバー材[[:en:timber|(en)]]や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した<ref>Simon, Julian L. (1995) ''State of Humanity'', Blackwell Publishing. p. 175. ISBN 1-55786-585-X.</ref>。 |
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=== アフリカ分割 === |
=== アフリカ分割 === |
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[[ファイル:Map_of_Africa_from_Encyclopaedia_Britannica_1890.jpg|right|thumb|right|200px|アフリカの地図 [[1890年]]]] |
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[[19世紀]]後半には、[[リベリア]]と[[エチオピア]]を除いて[[ヨーロッパ]]諸国による[[アフリカ分割]]が行われ、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の[[民族紛争]]の原因ともなった。 |
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{{Main|アフリカ分割}} |
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[[19世紀]]後半には、アメリカ開放奴隷が建国した[[リベリア]]と[[第一次エチオピア戦争]]で独立を維持した[[エチオピア]]を除いて、[[ヨーロッパ]]諸国による[[アフリカ分割]]が行われ<ref name=Recca17 />、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の[[民族紛争]]の原因ともなった<ref>[[#地名2000|地名の世界地図 (2000)、第8章、pp.190-193、勝手に線引きされた国境]]</ref>。 |
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=== 脱植民地化 === |
=== 脱植民地化 === |
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{{Main|アフリカの脱植民地化|:en:Decolonization of Africa}} |
{{Main|アフリカの脱植民地化|:en:Decolonization of Africa|アジア・アフリカ諸国の独立年表}} |
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ヨーロッパ列強の[[帝国主義]]は[[第二次世界大戦]]以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年には[[リビア]]が[[イタリア]]から、1956年には[[チュニジア]]と[[モロッコ]]が[[フランス]]から独立を果たした.<ref>[http://books.google.com/books?id=Ltzav890zpIC&pg=PA118&dq=tunisia+morocco+independance+1956&hl=fr&ei=M-AVTafIN4is8QPWosSDBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDIQ6AEwAQ#v=onepage&q&f=false Lucien Bély, ''History of France''. Editions Jean-paul Gisserot. 2001. page 118]</ref>。翌年には[[ガーナ]]が続き)<ref>[http://books.google.com/books?id=87V55ZHppSYC&pg=PA5&dq=ghana+independance+1957&hl=fr&ei=KeMVTfTRMImo8QPe5c2EBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CD4Q6AEwBTgU#v=onepage&q&f=false Ernest Aryeetey, Jane Harrigan and Machiko Nissanke, ''Economic reforms in Ghana : the miracle and the mirage''. Africa World Press. 2000. page 5]</ref>、サブサハラ初の脱植民地を成した。 |
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[[1960年]]のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生し、[[独裁政治]]の発生や内戦などの問題をかかえつつ今日に至っている。→ [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]] |
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[[1960年]]のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが<ref name=Recca17 />、[[独裁政治]]の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、[[新植民地主義]]への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963年5月に発足した[[アフリカ統一機構]](OAU)が、2002年7月9日には発展解消して[[アフリカ連合]]が成立した<ref name=Recca17 />。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している<ref name=Recca17 />。 |
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== 地理 == |
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{{Main|アフリカの地理}} |
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[[ファイル:AfricaCIA-HiRes.jpg|left|thumb|200px|現在のアフリカ]] |
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北は[[地中海]]、西は[[大西洋]]、東は[[インド洋]]および[[紅海]]に面する<ref name=Recca20>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.20-23、アフリカの地形と気候]]</ref>。南端の[[アガラス岬]]で大西洋とインド洋が接する。南北約8000km<ref>Lewin, Evans. (1924) ''Africa'', Clarendon press.</ref>、東西約7400km<ref name=MW>(1998) ''Merriam-Webster's Geographical Dictionary (Index)'', Merriam-Webster. pp. 10–11. ISBN 0-87779-546-0.</ref>。海岸前は総延長26000kmである<ref name=MW />。かつてはスエズ地峡により[[ユーラシア大陸]]とつながっていたが、現在では[[スエズ運河]]が開通して分断され<ref>Drysdale, Alasdair and Gerald H. Blake. (1985) ''The Middle East and North Africa'', Oxford University Press US. ISBN 0-19-503538-0.</ref>、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある.)<ref>{{cite web|url=http://www.nationalgeographic.com/xpeditions/atlas/index.html?Parent=africa&Rootmap=&Mode=d |title=Atlas - Xpeditions @ nationalgeographic.com |publisher=National Geographic Society |year=2003 |accessdate=2011-03-01}}</ref>。 |
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大陸北側に世界最大の[[砂漠]]であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部にはパンゲア大陸が[[ゴンドワナ]]・[[ローラシア]]大陸に分裂したときの名残である2000kmの隆起地帯(ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長の[[アフリカ大地溝帯]](東アフリカ地溝帯)が南北に走る<ref name=Hamaguchi>{{cite web|url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/kazan/J/koukai/98/hamaguchi.html |title=第5回公開講座 アフリカの火山・東北の火山 |author=浜口博之|publisher=[[京都大学]]生態学研究センター|accessdate=2011-03-01}}</ref>。この南端にはアフリカ大陸最高峰の[[キリマンジャロ山]](5,895m)があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一[[火山活動]]で形成された<ref name=Hamaguchi />。大地溝帯には複数の[[火山]]や東アフリカ大湖沼群<ref name=Take>{{cite web|url=http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~nokuda/research&education/member.files/Takeyama/21COE.htm |title=安定同位体を用いたダンガニイカ湖シクリッドの食物網の解明|author=武山智博/[[東北大学]]大学院理学研究科教授|publisher=日本火山学会|accessdate=2011-03-01}}</ref>があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にもニアムラギラ山[[:en:Mount Nyamuragira|(en)]]や[[ニーラゴンゴ山]]などの[[活火山]]や<ref name=Hamaguchi />[[ヴィクトリア湖]]などの[[古代湖]]が残る<ref name=Take />。しかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。これも大陸移動が関係しており、アフリカはパンゲア大陸の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる<ref name=Recca20 />。 |
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重要な河川は[[ナイル川]]・[[ザイール川]]・[[ニジェール川]]・[[コンゴ川]]・[[オレンジ川]]などがある。 |
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== 気候 == |
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気候は多様である。ほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部の[[ギニア湾]]沿岸から大陸中部の[[コンゴ盆地]]にかかる[[熱帯雨林]]で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などの[[サバナ (地理)|サバンナ]]地域が広がる。さらに高緯度に向かうと砂漠気候域に入り、北にはサハラ砂漠、南には[[カラハリ砂漠]]が広がる。大陸北端と南端は[[地中海性気候]]域となる<ref name=Recca23>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp23、ときには氷点下を記録する裁く気候]]</ref>。 |
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== 政治 == |
== 政治 == |
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[[File:Ruined tank in Hargeisa, Somaliland.jpg|200px|right|thumb|[[ソマリア]]で放棄された戦車。長期化する[[ソマリア内戦|内戦]]は解決の糸口を見出せない。]] |
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北部のチュニジア、エジプトなどを除き多くの国々は情勢が不安定であり、欧州などに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。至る所で[[内戦]]が勃発しており、政治的に安定している国はごくわずかである。かつての植民地支配の影響などもあり、また、独立後に出来た独裁政権などの残した爪痕が今でも色濃く残っている。ただし、特に北部の国は、情勢が比較的安定している。なお、政治的統合をして、[[新植民地主義]]への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し設立された[[アフリカ連合]]が、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を果たしている。 |
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[[File:Somalis lining up for food.jpg|200px|right|thumb|食糧配給に列をなす[[ソマリア]]の人々。]] |
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アフリカの多くの国々は情勢が不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。政治的に安定している国はごくわずかであり、イギリスの雑誌『[[エコノミスト]]』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。これによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な[[民主主義]]を実現している国は[[モーリシャス]]ただ1国で、15カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な[[独裁体制]]と分析した<ref name=Recca28>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.28-31、紛争によって国を追われる難民]]</ref>。 |
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このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。現在のアフリカ各国の[[国境線]]は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民は纏まりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。しかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は[[汚職]]や主導権争いが絶えなかった。さらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り<ref name=Uchida>{{cite web|url=http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~tetsuta/jeps/no3/uchida.pdf |format=PDF|title=アフリカにおける開発経済学|author=内田しのぶ|publisher=[[香川大学]]経済学部経済政策研究|date= |accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref>、結果的に、かつては「[[アジア・アフリカ会議|AA]]」もしくは[[南北問題]]と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだ[[アジア]]各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る<ref>{{cite web|url= http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2006/08.KATSUMURA.pdf |format=PDF |author=勝村務|publisher=[[筑波学院大学]]紀要|year=2006年 |title=世界経済論の焦点としてのアフリカ|accessdate=2011-03-03|language=日本語}}</ref>。 |
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そのために[[内戦]]や紛争も多く、代表的なものでは1991年からの[[ソマリア内戦]]、1997年からの[[コンゴ内戦]]、2003年からの[[ダルフール紛争]]などが尾を引いている<ref name=Recca28 />。国民の大多数がイスラム教徒であり、比較的に安定した政治を行っていた北アフリカ<ref name=Recca244>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.244-245、第8章 北アフリカ 序文]]</ref>も、2010年に発生した[[2010年-2011年アラブ世界騒乱|アラブ世界動乱]]以来、政権が大きく揺らいでいる。 |
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終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの[[難民]]が発生している。[[国際連合難民高等弁務官事務所]]推計による2009年末のアフリカ難民は約230万人、さらに国内の避難民は約650万人にのぼる<ref name=Recca28 />。また、農村疲弊による人口の都市部集中に伴った[[スラム]]化も進展し、[[モザンビーク]]や[[タンザニア]]などでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている<ref name=Recca28 />。 |
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=== 日本とのかかわり === |
=== 日本とのかかわり === |
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平成15年9月29日、小泉総理大臣の第3回アフリカ開発会議における基調演説においてアフリカの重債務貧困国等に対する総額約30億ドルの円借款債権の放棄を実施することを発表した。国民からは金利の低減・免除ではなくなぜ債権自体を放棄するのか大きな批判が起こった。主に欧米が「アフリカ救済」を前面に出し債権放棄を要求し圧力に屈する形で放棄に至ったため、声の大きい欧米にすぐに迎合し国益を全く考えていないとの指摘が出された。 |
平成15年9月29日、小泉総理大臣の第3回アフリカ開発会議における基調演説においてアフリカの重債務貧困国等に対する総額約30億ドルの円借款債権の放棄を実施することを発表した。国民からは金利の低減・免除ではなくなぜ債権自体を放棄するのか大きな批判が起こった。主に欧米が「アフリカ救済」を前面に出し債権放棄を要求し圧力に屈する形で放棄に至ったため、声の大きい欧米にすぐに迎合し国益を全く考えていないとの指摘が出された。 |
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== 経済 == |
== 経済 == |
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[[ファイル:Joburg top.jpg|thumb|200px|南アフリカ最大の経済都市[[ヨハネスブルグ]]。アフリカを代表する[[世界都市]]の1つである。]] |
[[ファイル:Joburg top.jpg|thumb|200px|南アフリカ最大の経済都市[[ヨハネスブルグ]]。アフリカを代表する[[世界都市]]の1つである。]] |
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[[File:Kobli1.jpg|200px|right|thumb|[[ベニン]]、2008年。農業はアフリカ主要な産業だが、決して経済性は高くない。]] |
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アフリカ最大の経済大国は[[南アフリカ]]である。アフリカ唯一の[[G20]]参加国であり、[[2010年]]には史上初めてアフリカ大陸でサッカーの[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]を開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、[[北部アフリカ]]において影響力の強い国の一つになっている。 |
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[[IMF]]によると、[[2009年]]のアフリカ52ヶ国の合計の[[GDP]]は1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、[[鳥取県]](平成18-19年度<ref>{{cite web|url= http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h19/gaiyou.pdf |format=PDF |publisher= 内閣経済社会総合研究所|title= 平成19年度の県民経済計算について|accessdate=2011-03-03|language=日本語}}</ref>)とほぼ同じ経済規模である<ref>{{cite web|url= http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/02/weodata/index.aspx |publisher= [[国際通貨基金]] |title= IMF: World Economic Outlook Database |accessdate=2011-03-03|language=英語}}</ref>。アフリカ最大の経済大国は[[南アフリカ]]である。アフリカ唯一の[[G20]]参加国であり、[[2010年]]には史上初めてアフリカ大陸でサッカーの[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]を開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、[[北部アフリカ]]において影響力の強い国の一つになっている。 |
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豊富な[[天然資源]]を持ちながら、アフリカは世界で最も貧し発展途上の状態にある。これは、[[エイズ]]や[[マラリア]]など深刻な感染症の蔓延、高い[[腐敗認識指数]]で指摘される政治が[[人権]]の抑圧や経済政策の失策、また国民の低水準な[[リテラシー]]や不得手な[[外交]]、さらに[[ゲリラ]]から大量殺戮まで含まれる[[部族]]間や[[軍隊]]による[[戦闘]]など、さまざまな要因の結果である<ref>Richard Sandbrook, The Politics of Africa's Economic Stagnation, Cambridge University Press, Cambridge, 1985 passim</ref>。[[国際連合]]の2003年度人間開発報告書によると、開発の度合いを示す尺度において調査対象の最低ランク25位(151位から175位)をアフリカの国々が占めた<ref>{{cite web|url= http://hdr.undp.org/ |publisher= [[国際連合]] |title= Human Development Report |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref> |
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[[IMF]]によると、[[2009年]]のアフリカ52ヶ国の合計の[[GDP]]は1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、[[鳥取県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/02/weodata/index.aspx IMF: World Economic Outlook Database]</ref>。 |
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貧困、文盲、栄養失調、不充分な給水体制や衛生管理、病気の蔓延などの悪影響をアフリカに住む多くの人々が受けている。2008年、[[世界銀行]]は国際的な[[貧困率]]の定義を1日当たり所得1USドル未満から1.25USドル未満に引き上げた<ref>{{cite web|url=http://www.csr-magazine.com/knowledge/q_07.html |title=絶対的貧困と相対的貧困|publisher=CSR Magazine |date= |accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref>。サブサハラ諸国では、人口の80.5%が1日当たり2.5USドル未満([[購買力平価説|PPP]])で暮らしており、[[インド]]の85.7%に匹敵する<ref>{{cite web|url= http://siteresources.worldbank.org/JAPANINJAPANESEEXT/Resources/515497-1201490097949/080827_The_Developing_World_is_Poorer_than_we_Thought.pdf |format=PDF|title=The developing world is poorer than we thought, but no less successful in the fight against poverty |publisher=World Bank|accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。 |
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== 地理 == |
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[[ファイル:AfricaCIA-HiRes.jpg|thumb|300pc]] |
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{{Main|アフリカの地理}} |
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この統計は、サブサハラが1日1.25USドルという貧困の基準を脱することが世界中で非常に難しい地域であることを示し、1981年のデータではこの地域に住む50%(2億人に相当)の人々が相当していたが、1996年には58%まで上昇し、2005年には率は50%となったが人口の絶対数は3.8億人に増加している。貧困層平均所得は1日0.7USドルに過ぎず、2003年の数値は1973年よりも悪化している<ref>{{cite web|url= http://www.un.org/Depts/rcnyo/newsletter/survs/ecasurv2004.doc |format=DOC |title= Economic report on Africa 2004: unlocking Africa’s potential in the global economy}, (Substantive session 28 June-23 July 2004) |publisher=[[国際連合]] |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。 |
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北は[[地中海]]、西は[[大西洋]]、東は[[インド洋]]および[[紅海]]に面する。南端の[[アガラス岬]]で大西洋とインド洋が接する。かつてはスエズ地峡により[[ユーラシア大陸]]とつながっていたが、[[スエズ運河]]の掘削によって陸上では連結していない。 |
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この原因を、外国企業と政府による経済自由化政策の失敗に求めることもあるが、このような外的要因よりも国内政治の失策が大きいという指摘もある<ref>{{cite web|url=http://www.globalpolitician.com/21498-africa-malawi-poverty |title=Neo-Liberalism and the Economic and Political Future of Africa |publisher=Globalpolitician.com |date=2005-12-19 |accessdate=2010-05-18}}</ref><ref>{{cite web|url=http://science.jrank.org/pages/8526/Capitalism-Africa-Neoliberalism-Structural-Adjustment-African-Reaction.html |title=Capitalism – Africa – Neoliberalism, Structural Adjustment, And The African Reaction |publisher=Science.jrank.org |date= |accessdate=2011-03-01}}</ref>。 |
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大陸北側に世界最大の[[砂漠]]である[[サハラ砂漠]]をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部には[[パンゲア大陸]]が[[ゴンドワナ]]・[[ローラシア]]大陸に分裂したときの名残である世界最大長の[[アフリカ大地溝帯]]が南北に走る。これに西側で接して、エチオピア高原などの高地があり、[[ヴィクトリア湖]]などの[[古代湖]]が残る。 |
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1995年から10年間にアフリカは経済成長を続け、2005年の平均成長率は5%に達した。さらに、埋蔵[[石油]]を持ち輸出に振り分けるため掘削に着手した[[アンゴラ]]・[[スーダン]]・[[赤道ギニア]]など数カ国はさらなる成長が見込まれる。さらにアフリカには世界中の[[コバルト]]90%、[[白金]]90%と[[金]]の50%、[[クロム]]98%、タンタライト[[:en:tantalite|(en)]]70%<ref>{{cite web|url= http://allafrica.com/stories/200802070635.html |title= Africa: Developed Countries' Leverage On the Continent |publisher=all Africa .com |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>、[[マンガン]]64%、[[ウラン]]33%<ref>{{cite web|url= http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/africa/article3319909.ece |title= Africa, China's new frontier |publisher= The Times Online |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>が存在すると考えられている。[[コンゴ民主共和国]]には、[[携帯電話]]の製造には欠かせない[[コルタン]]の世界の70%に相当する量があり、[[ダイヤモンド]]も世界の30%以上が同国に存在する<ref>{{cite web|url= http://siteresources.worldbank.org/JAPANINJAPANESEEXT/Resources/515497-1201490097949/08 http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/5209428.stm |title= DR Congo poll crucial for Africa |publisher= [[BBC]] News |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。[[ギニア]]は世界最大の[[ボーキサイト]]供給国である<ref>{{cite web|url= http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/africa/article6871943.ece |title= China tightens grip on Africa with $4.4bn lifeline for Guinea junta |publisher= The Times Online |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。このようにアフリカの経済成長はほとんどが資源提供を背景としたもので、工業や農業の発展ではなく、雇用創出や貧困からの脱却に寄与していない。実際に、2008年にリーマンショックを原因として起こった食糧危機では、1億人が飢餓状態に陥った<ref>{{cite web|url= http://www.strategicforesight.com/african_decade.htm |title= The African Decade? |author= Ilmas Futehally |publisher= Strategic Foresight Group |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。 |
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重要な河川は[[ナイル川]]・[[ザイール川]]・[[ニジェール川]]など。大陸最高峰は[[キリマンジャロ山]](5,895m)。 |
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近年では、[[中華人民共和国]]がアフリカ諸国と強い結びつきを構築し、2007年における中国企業の投資は10億USドルに達した<ref name=Africa>{{cite web|url= http://www.migrationinformation.org/Feature/display.cfm?id=690 |title= China and Africa: Stronger Economic Ties Mean More Migration|author= Malia Politzer |publisher=Migration Information Source |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。 |
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200m未満の平地や低地は少なく9.7%しかない。 |
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鉱業を除けばアフリカの主要産業は農業であり、他国と産業構造が著しく異なる南アフリカを除いた就業人口比は66.1%、輸出比は15.4%(2000年)である。しかしこれらは[[カカオ]]など特定地域の特定産物を除けば農業生産性が高い[[アメリカ合衆国]]等農業先進国との競争には弱く、大半の農産物はアフリカ内部で消費される。しかしながら、1961年から2000年にかけて人口が3倍になったのに対し、穀物は1.35倍程度しか伸長していない。土地の生産性もアジアや南アメリカが大きく伸ばしているのに対し4割以下まで落ち込んでいる。このような状況に陥った要因は、アフリカでは人口増加に対応する農業生産を高める手段をもっぱら耕地面積の拡大に依存した点がある。しかしこれは痩せた土地の利用や少ない水資源の制約等がからみ、充分な効果をあげることができなかったことを物語る<ref name=Uchida />。2010年に[[ハーバード大学]]は、政治さえ安定していてばアフリカは食糧自給が可能との研究結果を発表した<ref>{{cite web|url= http://www.sciencedaily.com/releases/2010/12/101202124337.htm |title= Africa Can Feed Itself in a Generation, Experts Say. |publisher=Science Daily |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。低い農業生産性は、従事者の貧困を招く原因のひとつであり、農業改革を行う技術や人材の育成が望まれる<ref name=Uchida />。 |
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気候は多様である。大陸中央部はほぼ赤道直下に位置し、高温多湿であり、これをはさんでセレンゲティ高原などの[[サバナ (地理)|サバンナ]]地域が広がる。西部の[[ギニア湾]]沿岸から大陸中部の[[コンゴ盆地]]にかけては[[熱帯雨林]]で、大陸南部は[[温暖湿潤気候]]および[[西岸海洋性気候]]である。南アフリカ共和国の南端では[[地中海性気候]]である。 |
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アフリカの農地は、その65%が土壌浸食の被害を受けている<ref>{{cite web|url= http://www.independent.co.uk/news/world/africa/nature-laid-waste-the-destruction-of-africa-844370.html |title= Nature laid waste: The destruction of Africa |publisher= The Independent |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。また、[[国際連合環境計画]] (UNEP) によると、アフリカの[[森林破壊]]は世界平均の2倍の速度で進行している<ref>{{cite web|url= http://www.africanews.com/site/list_messages/18831 |title= Deforestation reaches worrying level – UN |publisher= Africa News |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。報告の中には、西アフリカの約9割が既に破壊されたというものもある<ref>{{cite web|url= http://www.afrol.com/features/10278 |title= Forests and deforestation in Africa – the wasting of an immense resource |publisher= afrol News |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。これはマダガスカルでも同様で、人類が進出してからの2000年で90%以上の原生林が失われた<ref>{{cite web|url= http://www.nationalgeographic.com/wildworld/profiles/terrestrial/at/at0118.html |title= Terrestrial Ecoregions – Madagascar subhumid forests (AT0118) |publisher= National Geographic |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。干ばつや[[灌漑]]などによる環境への影響もあり、[[チャド湖]]は40年前と比較して面積が1/10まで減少した<ref name=Recca28 />。 |
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== 人口統計 == |
== 人口統計 == |
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{{Main|アフリカの人口統計|:en:Demographics of Africa}} |
{{Main|アフリカの人口統計|:en:Demographics of Africa}} |
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[[ファイル:African_language_families_en.svg|right| |
[[ファイル:African_language_families_en.svg|right|200px|thumb|アフリカの語族および主要なアフリカ言語の分布を示す地図。]] |
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[[ファイル:Official LanguagesMap-Africa.png|right| |
[[ファイル:Official LanguagesMap-Africa.png|right|200px|thumb|多くのアフリカ諸国では1つ以上の公用語を話す]] |
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現在、アフリカの人口は爆発的に増え、特にこの40年は顕著である。国によっては人口の半数以上が25歳以下という所もある<ref>{{cite web|url=http://www.overpopulation.org/Africa.html|title=Africa Population Dynamics|accessdate=2011-03-01}}</ref>。総人口は、1950年に2億2100万人だったが、2009年には10億人まで膨れ上がった.<ref>{{cite web|url= http://bioweb.wku.edu/courses/Biol115/wyatt/Population/pop1.htm |publisher= Western Kentucky University |title= The World Balance Population |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.africanews.com/site/Africas_population_now_1_billion/list_messages/26588 |publisher= Africa News |title= Africa's population now 1 billion |author= Kingsley Kobo |accessdate=2011-03-01|language=英語}}</ref>。世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。この人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。大陸全体が[[リカードの罠]]に陥っているとの指摘もある。 |
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現在、アフリカの人口は爆発的に増えている。世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。この人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。大陸全体が[[リカードの罠]]に陥っているとの指摘もある。 |
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一方、特に中南部諸国において[[平均寿命]]の著しい低下が見られる。これは主に[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]の蔓延が原因で、国家予算の半分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現し、大きな社会問題となっている。 |
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特に[[モロッコ]]、[[アルジェリア]]、[[チュニジア]]などの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国は[[マグリブ]]と呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によっては[[リビア]]や[[モーリタニア]]も含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は[[西アフリカ]]に区分される。 |
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=== 民族 === |
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{{Main|アフリカ人}} |
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[[イスラム教]]とともに[[アラブ人]]が入ってくるまでは、[[ベルベル人]]の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。 |
[[イスラム教]]とともに[[アラブ人]]が入ってくるまでは、[[ベルベル人]]の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。 |
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[[1989年]]にマグリブ5か国は、[[ヨーロッパ連合]]にならって経済統合を促進するためにマグリブ連合を結成したが、[[アルジェリア]]情勢の不安定などから地域統合を進めることができず、連合としての活動はあまり見られない。 |
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なお、欧米や[[日本]]で「[[モロッコ]]」と呼ばれる国の[[アラビア語]]による正式な国名はアル=マムラカ・アル=マグリビーヤ(al-Mamlaka al-Maghribiya, マグリビーヤは[[マグリブ]]の形容詞形)といい、直訳すれば「マグリブ(日の没する地)の王国」という意味にあたる。 |
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=== 民族 === |
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{{Main|アフリカ人|:en:African people}} |
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=== 言語 === |
=== 言語 === |
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{{Main|アフリカの言語|:en:Languages of Africa}} |
{{Main|アフリカの言語|:en:Languages of Africa}} |
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アフリカは[[言語]]の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を持つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。また、同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに[[公用語]]と状況に応じて使い分けられる垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている。<ref>{{cite web|url= http://gcoe.hus.osaka-u.ac.jp/kaji.pdf |format=PDF|author=梶茂樹/[[京都大学]]大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授|publisher=[[大阪大学]]グローバルCOEプログラム |title=共生社会を生きるアフリカの言語と社会|accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref> |
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=== 宗教 === |
=== 宗教 === |
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{{Main|アフリカの宗教|:en:Religion in Africa}} |
{{Main|アフリカの宗教|:en:Religion in Africa}} |
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アフリカには、過去からの土着宗教と、[[イスラム教]][[スンナ派]]、[[キリスト教]]の[[ローマ・カトリック]]、[[プロテスタント]]の各派が分布している。伝統的な土着宗教は、[[祖霊信仰]]や[[自然崇拝]]に加え、サブサハラでは[[創造神]]の概念も存在する<ref name=Recca84>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.84-85、アフリカ宗教分布MAP]]</ref>。また、[[呪術]]信仰も根強く、これを担う[[シャーマニズム]]も健在である<ref name=Recca86>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、p.86、シャーマンと呪術]]</ref>。 |
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[[世界宗教]]のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当たり、これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ人の進出によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によって再びローマ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた<ref name=Recca84 />。イスラム教スンナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイル川に沿ったアラブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝播の3つがある<ref name=Recca84 />。プロテスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部が主流となった。南アフリカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特色は[[聖書中心主義]]があり、また[[ペンテコステ派]]と土着宗教が融合した精霊教会という形態も存在する<ref name=Recca84 />。 |
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=== 教育 === |
=== 教育 === |
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{{Main|アフリカの教育|:en:Education in Africa}} |
{{Main|アフリカの教育|:en:Education in Africa}} |
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アフリカの[[教育]]は世界の中で未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で[[就学率]]が低い。学校は基礎設備に欠き、[[アフリカの大学]]は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国に移住する為の不足が問題。 |
アフリカの[[教育]]は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で[[就学率]]が低い。学校は基礎設備に欠き、[[アフリカの大学]]は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国に移住する為の不足が問題となっている。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]2000年の調査「Regional overview on sub-Saharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった<ref>{{cite web|url= http://www.unesco.org/education/efa_report/zoom_regions_pdf/ssafrica.pdf |format=PDF |publisher=[[国際連合教育科学文化機関]] |title= Regional overview on sub-Saharan Africa |accessdate=2011-03-01|pages=1|chapter=Universal primary education: still a long way to go, especially for girls|language=英語}}</ref>。 |
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アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低い。これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児放棄や犯罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている<ref name=Uchida />。 |
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[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[2000年]]の調査 "Regional overview on sub-Saharan Africa" では児童就学率は58%だった。 |
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==== 運動 ==== |
==== 運動 ==== |
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* [[アフリカ開発のための新パートナーシップ|NEPAD]]'s [[NEPAD E-School program|E-school program]], [[インターネット]]・[[コンピュータ]]設備を大陸全学校に備える事を目的としている。 |
* [[アフリカ開発のための新パートナーシップ|NEPAD]]'s [[NEPAD E-School program|E-school program]], [[インターネット]]・[[コンピュータ]]設備を大陸全学校に備える事を目的としている<ref>{{cite web|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ticad/new_afi.html |title=アフリカ開発のための新パートナーシップ|publisher=[[外務省]] |accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref>。 |
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* [[ブリティッシュ・エアウェイズ]] は[[国際連合児童基金|ユニセフ]]と共に "Change for Good in Africa" プロジェクトとして、 モデルスクール・Kuje Science Primary Schoolを[[ナイジェリア]]に建てた([[2002年]])。 |
* [[ブリティッシュ・エアウェイズ]] は[[国際連合児童基金|ユニセフ]]と共に "Change for Good in Africa" プロジェクトとして、 モデルスクール・Kuje Science Primary Schoolを[[ナイジェリア]]に建てた([[2002年]])<ref>{{cite web|url=http://website.informer.com/change+for+good+in+africa |title=Web sites related to change for good in africa|publisher=website.informer.com |accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref>。 |
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=== 保健 === |
=== 保健 === |
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[[ファイル:Starved girl.jpg|150px|right|thumb|[[ナイジェリア]]救援キャンプの少女。栄養失調から来る[[クワシオルコル]]の症状が見られる。1960年代に撮影された。]] |
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アフリカは栄養・医療・衛生面でさまざまな問題を抱えている。2008年度世界の栄養不足率が高い10位(同率があり12カ国)は[[ハイチ]]を除いてアフリカ諸国に占められ、、1位の[[コンゴ民主共和国]]は76%の国民が相当する<ref group="2-">The State of Food Insecurity in the World 2008</ref>。このような環境は乳幼児にも悪影響を及ぼし、サブサハラ全体で5歳未満の死亡率は15-20%で推移している。これも、[[下痢]]や[[はしか]]など医療環境が整っていれば助かるものだが、[[世界保健機関]] (WHO)が定める最低医療体制である人口10万人あたりの[[医師]]20人・[[看護師]]100人・その他医療従事者228人という基準を満たすサブサハラの国は南アフリカのみである(2007年度)<ref name=Recca26>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.26-28、不足する医療と増加するHIV感染者]]</ref>。 |
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{{Main|アフリカのHIV/AIDS|:en:HIV/AIDS in Africa}} |
{{Main|アフリカのHIV/AIDS|:en:HIV/AIDS in Africa}} |
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また、[[後天性免疫不全症候群]](エイズ)の蔓延も大きな問題となっており<ref name=Recca26 />、国家予算の半分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現ている。特にサブサハラではひどく、15歳以上の感染率はスワジランドでは26.1%、ボツナワでは23.9%にのぼる(2008年<ref group="2-">2008 Report on the global AIDS epidemic</ref>)。感染者数最大は医療体制が比較的充実している南アフリカの570万人である。世界中のエイズ感染者のうち2/3がサブサハラに集中している<ref name=Recca26 />。この蔓延には女性の社会的地位が低いことも一因であり、[[レイプ]]の多発や[[一夫多妻制]]などが影響していると考えられ、実際に感染率は女性の方が軒並み高い<ref name=Recca26 />。これらの要因から中南部諸国における[[平均寿命]]は著しく低下し、、10カ国以上で50歳を下回っている<ref name=Recca26 />。 |
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== 文化 == |
== 文化 == |
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=== 食文化 === |
=== 食文化 === |
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[[File:Ugali and cabbage.jpg|200px|right|thumb|[[ウガリ]]]] |
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{{Main|アフリカ料理|:en:African cuisine}} |
{{Main|アフリカ料理|:en:African cuisine}} |
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アフリカの食文化は、[[狩猟民族]]的特長が強い。すなわち、肉やイモ類などをそれぞれ単一で料理し、複数の食材を混ぜて調理することは少ない<ref name=Recca240>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.240-241、アフリカ料理MAP]]</ref>。また、[[米]]を除く[[穀類]]のほとんどを挽いて[[粉食]]する点も特徴である。この代表が、イネ科穀物の粉を用いる西アフリカの「トー」や東アフリカの「[[ウガリ]]」である<ref name=Recca240 />。 |
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[[酒]]では西部から中央部で作られる[[ヤシ酒]]、熱帯地方のバナナ酒などの特色がある。トウモロコシ類から[[ビール]]、もろみやバナナ酒から[[蒸留酒]]も造られる。[[ワイン]]醸造も行われ、現代では南アフリカが盛んな地域に当る<ref name=Recca240 />。 |
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=== 文学 === |
=== 文学 === |
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=== 音楽 === |
=== 音楽 === |
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[[File:Ke-Nako Music-Performance Vienna2008c.jpg|150px|right|thumb|2010年、南アフリカでドラムを演奏する男性。]] |
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{{Main|アフリカ音楽|:en:Music of Africa}} |
{{Main|アフリカ音楽|:en:Music of Africa}} |
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特にサブサハラのアフリカ音楽は儀礼と結びつきが強く、[[ダンス]]に伴って演奏される。[[体鳴楽器]]や[[膜鳴楽器]]は独自のものが多様に存在し、前者では[[ラメラフォーン]]や[[コラ (楽器)|コラ]]、後者では様々な[[太鼓|ドラム]]が知られる。中には伝達手段に用いられる[[トーキングドラム]]などもある<ref name=Recca142>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、p.142、アフリカ音楽と楽器]]</ref>。 |
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=== 美術 === |
=== 美術 === |
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{{Main|アフリカ美術}} |
{{Main|アフリカ美術}} |
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アフリカ美術のうち、古代文明を築いたエジプトは独自の美術体系を発達させた。神聖文字と組み合わせた形式の連続性は、やはり独自の形式である[[ピラミッド]]や[[[寺院]]および墳墓などのエジプト建築と組み合わされ、壁画や彫刻類、そして[[ツタンカーメン]]に代表される[[棺]]などで複雑かつ華麗な体系を持った。この芸術の系統は、紀元前30年にローマによる征服を受けて途絶えた<ref>[[#アルテ1999|アルテ (1999)、pp.42-45、第二章 美術史の時代区分と領域 Ⅱ.先史時代と古代 1.エジプト芸術]]</ref>。 |
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サフサハラの芸術は[[民俗学]]と[[美術史]]の両面から論じられるが、その分析は未だ途上にある。大きな特徴は多様な[[造形]]分野であるが、これは美術品として単独で成り立つものではなく、生活および宗教と深く関連している。[[木材]]を好んで用い、[[仮面]]など身体装飾や[[彫刻]]など、また宗教や祭祀用道具および日用品なども彩色されたものなど種類も多い。その一方で[[建築]]分野ではあまり見るべきものがない<ref>[[#アルテ1999|アルテ (1999)、pp.80-82、第二章 美術史の時代区分と領域 Ⅳ.非西欧の緒芸術 4.アメリカ、アフリカ、オセアニアの各大陸の芸術]]</ref> |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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* {{MUS}} ([[ポートルイス]]) 英語、フランス語 |
* {{MUS}} ([[ポートルイス]]) 英語、フランス語 |
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* {{LSO}} ([[マセル]]) 英語 |
* {{LSO}} ([[マセル]]) 英語 |
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=== 独立国以外の地域 === |
=== 独立国以外の地域 === |
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=== 消滅した国 === |
=== 消滅した国 === |
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* [[ファイル:Flag of Biafra.svg|22x20px]] [[ビアフラ共和国]] |
* [[ファイル:Flag of Biafra.svg|22x20px]] [[ビアフラ共和国]] |
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== アフリカと「黒」 == |
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肌が黒い人類、いわゆる[[ネグロイド]]の存在が他の文明に初めて記録されたのは、7世紀に北部アフリカを支配下に置いたアラブ人が、ナイル川を遡ってサハラ砂漠以南に到達したことに始まる。以後、アフリカの地名にはこの肌の色を語源として名づけられた所もあり、現在の国名に受け継がれているものもある。[[スーダン]]は、かつてのイギリス領やフランス領を含めるとアフリカ大陸の1/3を占める広大な土地を意味したが、これはアラビア語が意味する「黒い人」が語源である。このフランス領スーダンから独立した[[モーリタニア]]は[[ムーア人]]の国という意味だが、このムーアも古代ギリシア語のmauros(肌が黒い人々)を語源とする。[[ギニア]]も現在の領土よりも広い地域を指す言葉だったが、これも[[ベルベル人]]の言葉で「黒い人の土地」を意味した。[[エチオピア]]もギリシア語の「aitos(日焼けした)」+「ops(顔)」+「ia(地名接尾語)」の合成語であり、やはり古代ギリシア人にとってサハラ砂漠より南の土地を包括的に示す言葉だった。[[ソマリア]]は[[アムハラ語]]で「ゾムマ(家畜を持つ人)」という説の他に、[[ヌビア]]地方の言葉で「黒い人の国」という意味だという説もある。<ref>[[#地名2000|地名の世界地図 (2000)、第8章、pp.186-188、黒い人の国]]</ref> |
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== 地域機構 == |
== 地域機構 == |
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[[File:RECs of the AEC.png|thumb|200px|right|アフリカの経済共同体[[:en:African Economic Community|(en)]]]] |
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* [[アフリカ連合]] (AU) |
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* [[ |
*AU:African Union([[アフリカ連合]]) |
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:53国と地域が加盟。地域機関としては世界最大。本部:エチオピア、[[アジスアベバ]]。旧アフリカ統一機構(OAU、1963年5月設立)を改組し2002年7月に設立<ref name=AIPPI>{{cite web|url= http://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/chousa/pdf/zaisanken_kouhyou/h20_report_02.pdf |format=PDF|title= アフリカ諸国における産業財産権の保護・活用状況、及びアフリカ諸国への知財分野におけるキャパシティビルディング支援のあり方に関する調査研究報告書|publisher=社団法人 日本国際知的財産保護協会|accessdate=2011-03-01|language=日本語}}</ref>。 |
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* [[南部アフリカ開発共同体]] (SADC) |
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*ADB([[アフリカ開発銀行]]) |
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*CEEAC/ECCAS:Communauté Économique des États de L’Afrique Centrale(中部アフリカ諸国経済共同体) |
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* [[アラブ・マグレブ連合]] |
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:中部アフリカ域の11カ国が加盟。本部:[[ガボン]]、[[リーブルヴィル]]。1981年12月に設立<ref name=AIPPI />。 |
|||
*CEMAC:Communate Economique et Monetaire de L'Afrique Centarale(中央アフリカ経済通貨共同体) |
|||
:中部アフリカ域の6カ国が加盟。1996年7月に設立<ref name=AIPPI />。 |
|||
*CEN-SAD/COMESSA:Community of Sahel-Saharan States(サヘル・サハラ諸国国家共同体) |
|||
:北部および中部アフリカ域の28国が加盟。本部:リビア、[[トリポリ]] <ref name=AIPPI />。 |
|||
*COMESA::Common Market for Eastern and Southern Africa(東・南アフリカ市場共同体) |
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:東および中央アフリカ19カ国が加盟。1981年発足の国際交易圏を改組し1994年に発足。2000年から自由貿易圏となる。事務局:ザンビア、[[ルサカ]] <ref name=AIPPI />。 |
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*EAC:East African Community(東アフリカ共同体) |
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:東アフリカ域の5カ国が加盟。本部:[[タンザニア]]、[[アルーシャ]]。1970年代の東アフリカ共同体が1978年に消滅後、2001年に3カ国で再発足し、2007年に2カ国が加わり現在に至る<ref name=AIPPI />。 |
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*ECOWAS:Economic Community of West African States([[西アフリカ諸国経済共同体]]) |
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:西アフリカ域の15カ国が加盟。経済統合を目的とする<ref name=AIPPI />。 |
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*IGAD:Intergovernmental Authority on Development in Eastern Africa(政府間開発機構) |
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:東アフリカ域の7カ国が加盟<ref name=AIPPI />。 |
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*SACU:Southern Africa Customs Union(南部アフリカ関税同盟) |
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:南アフリカ域の5カ国が加盟。1910年に旧イギリス連邦国間で締結された、関税同盟としては世界初の組織<ref name=AIPPI />。 |
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*SADC:Southern African Development Community([[南部アフリカ開発共同体]]) |
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:南アフリカ域の15カ国が加盟。事務局:[[ボツワナ]]、[[ハボロネ]]。[[アパルトヘイト]]政策当時の[[南アフリカ]]から経済的自立をめざして1980年に発足。1992年に民主化した南アフリカも加わり、現在の組織に改組<ref name=AIPPI />。 |
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*UEMOA:Union Economique et Monétaire Ouest Africaine(西アフリカ経済通貨同盟) |
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:西アフリカ域の8カ国が加盟<ref name=AIPPI />。 |
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*UMA/AMU:Union of the Arab Maghreb([[アラブ・マグレブ連合]]) |
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:北アフリカ域の[[マグリブ]]地区5カ国が加盟。本部:モロッコ、[[ラバト]]。1989年に経済協力を目的に設立<ref name=AIPPI />。 |
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== 関連項目 == |
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* [[ネグロイド|黒人]] |
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* [[アフリカ系アメリカ人]] |
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* [[ベルベル人]] |
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* [[アフリカ合衆国]] |
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* [[アフリカ (小惑星)]](アフリカに因んで命名された小惑星) |
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== 参考文献 == |
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*{{cite book|和書|title=「アフリカ53国」のすべて|author=監修:平野克己、編:株式会社レッカ社|publisher=[[PHP文庫]]|edition=第1刷|year=2011年|isbn=978-4-569-67581-7|ref=レッカ2011}} |
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*{{cite book|和書|title=地名の世界地図|author=編:21世紀研究会|publisher=[[文春新書]]|edition=第1刷|year=2000年|isbn=4-16-660147-4|ref=地名2000}} |
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*{{cite book|和書|title=美術史入門|author=グザヴィエ・バラル・イ・アルテ|translator=吉岡健二郎、上村博|publisher=[[白水社]]|edition=第5刷|oriyear=1999年|year=2009年|isbn=978-4-560-05821-3|ref=アルテ1999}} |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
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2011年3月4日 (金) 15:22時点における版
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面積 | 30,221,532 km² |
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人口 | 1,000,010,000[1] (2005, 2位) |
人口密度 | 30.51/km² |
住民の呼称 | アフリカ人 |
国数 | 55[注 1] |
保護領 |
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標準時 | UTC-1 ~ UTC+4 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6d/Africa_satellite_plane.jpg/200px-Africa_satellite_plane.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0c/Topography_of_africa.jpg/200px-Topography_of_africa.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/Africa-regions.png/200px-Africa-regions.png)
アフリカ(Africa、阿弗利加)[2]は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ[2]。
概要
地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある[3]。面積は3,020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが.[4]、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。現在は53の独立国によって形成されている。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である[5]。
アフリカ、特に東アフリカは人類の発祥の地と言われ、エチオピアからは20万年前のホモ・サピエンスの化石が発見されている.[6]。サハラ砂漠以南のアフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒の大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際には古代から文明があった。
アフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、この北側を「ホワイトアフリカ」、南側を「ブラックアフリカ」[7]あるいは「サブサハラ」と呼び分ける場合もある。また、北アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アフリカに分ける区分もある。
語源
単語「アフリカ」の語源は、現在のチュニジアに当るカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム語族を指した「Afri」(アフリ)と推測される。この言葉はフェニキア語の「afar」(dust)から来たものと解釈されていたが、1981年には住人が棲んだ洞窟を指すベルベル語の「ifri」が転じたものという仮説が提示された[8]。ただし、これら「afar」[8]「ifri」「Afri」は現在のモロッコやアルジェリアおよびリビア(ベルベル人に一派が住んだトリポリタニア)のみを指していた[9]。ローマ時代、この地にリビア沿岸部を含んだ地域がアフリカ属州になると、 ローマ語で「国」や「土地」を表す接尾辞「-ca」が付属し「アフリカ」という用語が生じた[10]。
他にも、古代から伝わる用語「アフリカ」の起源には、様々な仮説が提唱された。
- 1世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスは、旧約聖書25章4に登場するアブラハムの孫エフェル(Epher)に因み、彼の子孫がリビアを征服した故事に端を発すると主張した。
- イシドールスは『語源(XIV.5.2)』にて、ラテン語の「aprica (sunny)」に因むと述べた。
- 歴史家レオ・アフリカヌス(1488年 - 1554年)は、ギリシア語の「phrike (φρίκη)」(「寒い」または「怖い」の意)に欠性辞のαを意味する「a-」が付属し、寒さが無いところを意味する「aphrike (Αφρική)」となった主張した。
- ジェラルド・マッセイen:Gerald Masseyは1881年に、エジプト語の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。それによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。この「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。エジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する[11]。
- Michèle Fruytは1976年発表の『Revue de Philologie』(50章、pp.221-238)で、ウンブリア語に起源を持つラテン語の「africus (south wind、南風)」との関係を示唆し、元々の意味は「湿気を含んだ風」だと述べた。
アイルランド語の女性名 Aifric は Africa と英語化されるが、地名とは関係が無い。
歴史
アフリカの形成
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Massospondylus_BW.jpg/150px-Massospondylus_BW.jpg)
中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した[12]。その状況下で、獣脚類や竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀終わり頃まで繁殖していた。これらの化石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる[12]。三畳紀とジュラ紀を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない[12]。
初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なった状態が多く、南で多く見つかる。しかし化石層の発掘は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく[12]。ジュラ紀には、アフリカでは竜脚下目や鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた[12]。中期の研究はあまり進んでいない[12]。後期も発掘は遅れている[12]が、数少ない例外に当るタンザニアのテンダグル層(en)では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層(en)の古生物学的様相(en)と非常に近似したところが見られた[12]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2c/Spinosaurus_BW2.png/200px-Spinosaurus_BW2.png)
1億6千-1億5千年前の中生代中頃、ゴンドワナ大陸には後のインド亜大陸とマダガスカルが繋がっていた。そのため、マダガスカルからはアベリサウルス(en)やティタノサウルス上科(en)の化石が発見される[12]。 その後、白亜紀初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期にはこの2つの陸塊も別れて現在に至る[12]。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア大陸そのものの変化は進行し、白亜紀後期の始まり頃には南アメリカがアフリカから分離し、南大西洋が形成された[12]。この出来事は海流の変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた[12]。
この白亜紀には、アロサウルス類(en)やスピノサウルス類(en)がアフリカを闊歩した[12]。特に肉食恐竜が隆盛を誇り、ティラノサウルス属(en)が生態系の頂点に立った[12]。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、今後の調査が待たれる[12]。
先史時代
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Lucy_blackbg.jpg/150px-Lucy_blackbg.jpg)
ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている[13][14]。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「イーストサイド説」では、豊かなコンゴ盆地の森林から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという[15]。
南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる[13]。20世紀中頃には、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシス[16]や紀元前230-140万年頃のパラントロプス・ボイセイ(en)[17]、紀元前190-60万年頃のホモ・エルガステル[4]が人類へ進化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、現代のコイコイ人やサン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた[18][19][20]。
アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また牛の牧畜[21]なども行っていた。
しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり[22]、沙漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西[22]や南、ナイル川流域などに移住した[15]。
エジプト・地中海文明の発生
アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト教のエチオピアとイスラム教のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Africa_map_from_Atlas_1648.png/200px-Africa_map_from_Atlas_1648.png)
最初にひらけたのは、ファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見されている[23]。これは世界最古の文明の一つで.[24][25]、紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピラミッドによって世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった[26]。
一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和制ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くはなく636年、パレスチナのヤルムク河畔で、日ののぼる勢いのイスラム帝国(正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズにイドリース朝を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。
西アフリカ・北アフリカ
西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のイボ=ウクゥ文化、10-13世紀のイフェ文化、14-18世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す[22]。この交易を背景に繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニを首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13- 15世紀前半まで繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。
一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉~12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤと呼ばれたチュニジアでも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島の後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、アイユーブ朝のもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝がオスマン帝国によって併合される。
モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。
東アフリカ・南アフリカ
東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト教を国教としたアクスム王国が、ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオ、キルワ、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南部の港町ソファラからジンバブエのザンベジ川流域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王国が金や象牙の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ遺跡からは、中国(宋、元、明代)の青花などの陶磁器、インドの綿製品、インドネシアの数珠玉、ペルシャの壺などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退すると、ロズウィ王国が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。
奴隷貿易
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Point_du_Non_Retour1.jpg/220px-Point_du_Non_Retour1.jpg)
長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた[27][28]。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易(en)は継続して行われ、1800万人がサハラ交易やインド洋貿易で取引された。大航海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた[29]。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ州向けの奴隷貿易(en)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された[27][30][31]。
1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(en)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した[32]。
また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された[33]。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダホメ王国、オヨ王国(en)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油かカカオ、ランバー材(en)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した[34]。
アフリカ分割
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Map_of_Africa_from_Encyclopaedia_Britannica_1890.jpg/200px-Map_of_Africa_from_Encyclopaedia_Britannica_1890.jpg)
19世紀後半には、アメリカ開放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ[29]、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛争の原因ともなった[35]。
脱植民地化
ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年にはリビアがイタリアから、1956年にはチュニジアとモロッコがフランスから独立を果たした.[36]。翌年にはガーナが続き)[37]、サブサハラ初の脱植民地を成した。
1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが[29]、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合が成立した[29]。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している[29]。
地理
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3a/AfricaCIA-HiRes.jpg/200px-AfricaCIA-HiRes.jpg)
北は地中海、西は大西洋、東はインド洋および紅海に面する[38]。南端のアガラス岬で大西洋とインド洋が接する。南北約8000km[39]、東西約7400km[40]。海岸前は総延長26000kmである[40]。かつてはスエズ地峡によりユーラシア大陸とつながっていたが、現在ではスエズ運河が開通して分断され[41]、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある.)[42]。
大陸北側に世界最大の砂漠であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部にはパンゲア大陸がゴンドワナ・ローラシア大陸に分裂したときの名残である2000kmの隆起地帯(ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長のアフリカ大地溝帯(東アフリカ地溝帯)が南北に走る[43]。この南端にはアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山(5,895m)があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一火山活動で形成された[43]。大地溝帯には複数の火山や東アフリカ大湖沼群[44]があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にもニアムラギラ山(en)やニーラゴンゴ山などの活火山や[43]ヴィクトリア湖などの古代湖が残る[44]。しかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。これも大陸移動が関係しており、アフリカはパンゲア大陸の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる[38]。
重要な河川はナイル川・ザイール川・ニジェール川・コンゴ川・オレンジ川などがある。
気候
気候は多様である。ほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部のギニア湾沿岸から大陸中部のコンゴ盆地にかかる熱帯雨林で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などのサバンナ地域が広がる。さらに高緯度に向かうと砂漠気候域に入り、北にはサハラ砂漠、南にはカラハリ砂漠が広がる。大陸北端と南端は地中海性気候域となる[45]。
政治
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Ruined_tank_in_Hargeisa%2C_Somaliland.jpg/200px-Ruined_tank_in_Hargeisa%2C_Somaliland.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d8/Somalis_lining_up_for_food.jpg/200px-Somalis_lining_up_for_food.jpg)
アフリカの多くの国々は情勢が不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。政治的に安定している国はごくわずかであり、イギリスの雑誌『エコノミスト』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。これによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な民主主義を実現している国はモーリシャスただ1国で、15カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な独裁体制と分析した[46]。
このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。現在のアフリカ各国の国境線は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民は纏まりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。しかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は汚職や主導権争いが絶えなかった。さらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り[47]、結果的に、かつては「AA」もしくは南北問題と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだアジア各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る[48]。
そのために内戦や紛争も多く、代表的なものでは1991年からのソマリア内戦、1997年からのコンゴ内戦、2003年からのダルフール紛争などが尾を引いている[46]。国民の大多数がイスラム教徒であり、比較的に安定した政治を行っていた北アフリカ[49]も、2010年に発生したアラブ世界動乱以来、政権が大きく揺らいでいる。
終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの難民が発生している。国際連合難民高等弁務官事務所推計による2009年末のアフリカ難民は約230万人、さらに国内の避難民は約650万人にのぼる[46]。また、農村疲弊による人口の都市部集中に伴ったスラム化も進展し、モザンビークやタンザニアなどでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている[46]。
日本とのかかわり
平成15年9月29日、小泉総理大臣の第3回アフリカ開発会議における基調演説においてアフリカの重債務貧困国等に対する総額約30億ドルの円借款債権の放棄を実施することを発表した。国民からは金利の低減・免除ではなくなぜ債権自体を放棄するのか大きな批判が起こった。主に欧米が「アフリカ救済」を前面に出し債権放棄を要求し圧力に屈する形で放棄に至ったため、声の大きい欧米にすぐに迎合し国益を全く考えていないとの指摘が出された。 アフリカ諸国への債権放棄を主張する中心国の一つの英国は僅か1000万ドルしか債権を保有していないことが明らかになった。
経済
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IMFによると、2009年のアフリカ52ヶ国の合計のGDPは1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、鳥取県(平成18-19年度[50])とほぼ同じ経済規模である[51]。アフリカ最大の経済大国は南アフリカである。アフリカ唯一のG20参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーのワールドカップを開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、北部アフリカにおいて影響力の強い国の一つになっている。
豊富な天然資源を持ちながら、アフリカは世界で最も貧し発展途上の状態にある。これは、エイズやマラリアなど深刻な感染症の蔓延、高い腐敗認識指数で指摘される政治が人権の抑圧や経済政策の失策、また国民の低水準なリテラシーや不得手な外交、さらにゲリラから大量殺戮まで含まれる部族間や軍隊による戦闘など、さまざまな要因の結果である[52]。国際連合の2003年度人間開発報告書によると、開発の度合いを示す尺度において調査対象の最低ランク25位(151位から175位)をアフリカの国々が占めた[53]
貧困、文盲、栄養失調、不充分な給水体制や衛生管理、病気の蔓延などの悪影響をアフリカに住む多くの人々が受けている。2008年、世界銀行は国際的な貧困率の定義を1日当たり所得1USドル未満から1.25USドル未満に引き上げた[54]。サブサハラ諸国では、人口の80.5%が1日当たり2.5USドル未満(PPP)で暮らしており、インドの85.7%に匹敵する[55]。
この統計は、サブサハラが1日1.25USドルという貧困の基準を脱することが世界中で非常に難しい地域であることを示し、1981年のデータではこの地域に住む50%(2億人に相当)の人々が相当していたが、1996年には58%まで上昇し、2005年には率は50%となったが人口の絶対数は3.8億人に増加している。貧困層平均所得は1日0.7USドルに過ぎず、2003年の数値は1973年よりも悪化している[56]。
この原因を、外国企業と政府による経済自由化政策の失敗に求めることもあるが、このような外的要因よりも国内政治の失策が大きいという指摘もある[57][58]。
1995年から10年間にアフリカは経済成長を続け、2005年の平均成長率は5%に達した。さらに、埋蔵石油を持ち輸出に振り分けるため掘削に着手したアンゴラ・スーダン・赤道ギニアなど数カ国はさらなる成長が見込まれる。さらにアフリカには世界中のコバルト90%、白金90%と金の50%、クロム98%、タンタライト(en)70%[59]、マンガン64%、ウラン33%[60]が存在すると考えられている。コンゴ民主共和国には、携帯電話の製造には欠かせないコルタンの世界の70%に相当する量があり、ダイヤモンドも世界の30%以上が同国に存在する[61]。ギニアは世界最大のボーキサイト供給国である[62]。このようにアフリカの経済成長はほとんどが資源提供を背景としたもので、工業や農業の発展ではなく、雇用創出や貧困からの脱却に寄与していない。実際に、2008年にリーマンショックを原因として起こった食糧危機では、1億人が飢餓状態に陥った[63]。
近年では、中華人民共和国がアフリカ諸国と強い結びつきを構築し、2007年における中国企業の投資は10億USドルに達した[64]。
鉱業を除けばアフリカの主要産業は農業であり、他国と産業構造が著しく異なる南アフリカを除いた就業人口比は66.1%、輸出比は15.4%(2000年)である。しかしこれらはカカオなど特定地域の特定産物を除けば農業生産性が高いアメリカ合衆国等農業先進国との競争には弱く、大半の農産物はアフリカ内部で消費される。しかしながら、1961年から2000年にかけて人口が3倍になったのに対し、穀物は1.35倍程度しか伸長していない。土地の生産性もアジアや南アメリカが大きく伸ばしているのに対し4割以下まで落ち込んでいる。このような状況に陥った要因は、アフリカでは人口増加に対応する農業生産を高める手段をもっぱら耕地面積の拡大に依存した点がある。しかしこれは痩せた土地の利用や少ない水資源の制約等がからみ、充分な効果をあげることができなかったことを物語る[47]。2010年にハーバード大学は、政治さえ安定していてばアフリカは食糧自給が可能との研究結果を発表した[65]。低い農業生産性は、従事者の貧困を招く原因のひとつであり、農業改革を行う技術や人材の育成が望まれる[47]。
アフリカの農地は、その65%が土壌浸食の被害を受けている[66]。また、国際連合環境計画 (UNEP) によると、アフリカの森林破壊は世界平均の2倍の速度で進行している[67]。報告の中には、西アフリカの約9割が既に破壊されたというものもある[68]。これはマダガスカルでも同様で、人類が進出してからの2000年で90%以上の原生林が失われた[69]。干ばつや灌漑などによる環境への影響もあり、チャド湖は40年前と比較して面積が1/10まで減少した[46]。
人口統計
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現在、アフリカの人口は爆発的に増え、特にこの40年は顕著である。国によっては人口の半数以上が25歳以下という所もある[70]。総人口は、1950年に2億2100万人だったが、2009年には10億人まで膨れ上がった.[71][72]。世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。この人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。大陸全体がリカードの罠に陥っているとの指摘もある。
民族
イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。
言語
アフリカは言語の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を持つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。また、同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに公用語と状況に応じて使い分けられる垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている。[73]
宗教
アフリカには、過去からの土着宗教と、イスラム教スンナ派、キリスト教のローマ・カトリック、プロテスタントの各派が分布している。伝統的な土着宗教は、祖霊信仰や自然崇拝に加え、サブサハラでは創造神の概念も存在する[74]。また、呪術信仰も根強く、これを担うシャーマニズムも健在である[75]。
世界宗教のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当たり、これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ人の進出によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によって再びローマ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた[74]。イスラム教スンナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイル川に沿ったアラブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝播の3つがある[74]。プロテスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部が主流となった。南アフリカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特色は聖書中心主義があり、またペンテコステ派と土着宗教が融合した精霊教会という形態も存在する[74]。
教育
アフリカの教育は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で就学率が低い。学校は基礎設備に欠き、アフリカの大学は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国に移住する為の不足が問題となっている。ユネスコ2000年の調査「Regional overview on sub-Saharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった[76]。
アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低い。これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児放棄や犯罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている[47]。
運動
- NEPAD's E-school program, インターネット・コンピュータ設備を大陸全学校に備える事を目的としている[77]。
- ブリティッシュ・エアウェイズ はユニセフと共に "Change for Good in Africa" プロジェクトとして、 モデルスクール・Kuje Science Primary Schoolをナイジェリアに建てた(2002年)[78]。
保健
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アフリカは栄養・医療・衛生面でさまざまな問題を抱えている。2008年度世界の栄養不足率が高い10位(同率があり12カ国)はハイチを除いてアフリカ諸国に占められ、、1位のコンゴ民主共和国は76%の国民が相当する[2- 1]。このような環境は乳幼児にも悪影響を及ぼし、サブサハラ全体で5歳未満の死亡率は15-20%で推移している。これも、下痢やはしかなど医療環境が整っていれば助かるものだが、世界保健機関 (WHO)が定める最低医療体制である人口10万人あたりの医師20人・看護師100人・その他医療従事者228人という基準を満たすサブサハラの国は南アフリカのみである(2007年度)[79]。
また、後天性免疫不全症候群(エイズ)の蔓延も大きな問題となっており[79]、国家予算の半分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現ている。特にサブサハラではひどく、15歳以上の感染率はスワジランドでは26.1%、ボツナワでは23.9%にのぼる(2008年[2- 2])。感染者数最大は医療体制が比較的充実している南アフリカの570万人である。世界中のエイズ感染者のうち2/3がサブサハラに集中している[79]。この蔓延には女性の社会的地位が低いことも一因であり、レイプの多発や一夫多妻制などが影響していると考えられ、実際に感染率は女性の方が軒並み高い[79]。これらの要因から中南部諸国における平均寿命は著しく低下し、、10カ国以上で50歳を下回っている[79]。
文化
エジプトからモロッコまでの北アフリカ諸国は、アラブ文化と関わりを持つ人々がいる。
食文化
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アフリカの食文化は、狩猟民族的特長が強い。すなわち、肉やイモ類などをそれぞれ単一で料理し、複数の食材を混ぜて調理することは少ない[80]。また、米を除く穀類のほとんどを挽いて粉食する点も特徴である。この代表が、イネ科穀物の粉を用いる西アフリカの「トー」や東アフリカの「ウガリ」である[80]。
酒では西部から中央部で作られるヤシ酒、熱帯地方のバナナ酒などの特色がある。トウモロコシ類からビール、もろみやバナナ酒から蒸留酒も造られる。ワイン醸造も行われ、現代では南アフリカが盛んな地域に当る[80]。
文学
哲学
音楽
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特にサブサハラのアフリカ音楽は儀礼と結びつきが強く、ダンスに伴って演奏される。体鳴楽器や膜鳴楽器は独自のものが多様に存在し、前者ではラメラフォーンやコラ、後者では様々なドラムが知られる。中には伝達手段に用いられるトーキングドラムなどもある[81]。
美術
アフリカ美術のうち、古代文明を築いたエジプトは独自の美術体系を発達させた。神聖文字と組み合わせた形式の連続性は、やはり独自の形式であるピラミッドや[[[寺院]]および墳墓などのエジプト建築と組み合わされ、壁画や彫刻類、そしてツタンカーメンに代表される棺などで複雑かつ華麗な体系を持った。この芸術の系統は、紀元前30年にローマによる征服を受けて途絶えた[82]。
サフサハラの芸術は民俗学と美術史の両面から論じられるが、その分析は未だ途上にある。大きな特徴は多様な造形分野であるが、これは美術品として単独で成り立つものではなく、生活および宗教と深く関連している。木材を好んで用い、仮面など身体装飾や彫刻など、また宗教や祭祀用道具および日用品なども彩色されたものなど種類も多い。その一方で建築分野ではあまり見るべきものがない[83]
映画
アフリカの国
北アフリカ
アルジェリア (阿爾及利亜、アルジェ) アラビア語、フランス語
エジプト (埃及、カイロ) アラビア語
スーダン (蘇丹、ハルツーム) アラビア語、英語
チュニジア (突尼斯、チュニス) アラビア語、フランス語
モロッコ (摩洛哥、ラバト) アラビア語、フランス語、スペイン語
リビア (利比亜、トリポリ) アラビア語
西アフリカ
ガーナ (迦納、アクラ) 英語
カーボベルデ (仏得角、プライア) ポルトガル語
ガンビア (岡比亜、バンジュール) 英語
ギニア (奇尼亜、幾内亜、コナクリ) フランス語
ギニアビサウ (幾内亜比索、ビサウ) ポルトガル語
コートジボワール (象牙海岸、ヤムスクロ)、(アビジャン) フランス語
シエラレオネ (獅子山、フリータウン) 英語
セネガル (塞内加爾、ダカール) フランス語
トーゴ (多哥、ロメ) フランス語
ナイジェリア (奈及利亜、アブジャ) 英語
ニジェール (尼日、ニアメ) フランス語
ブルキナファソ (布吉納法索、ワガドゥグー) フランス語
ベナン (貝南、ポルトノボ) フランス語
マリ (馬利、バマコ) フランス語
モーリタニア (毛利塔尼亜、ヌアクショット)アラビア語、フランス語
リベリア (利比里亜、モンロビア) 英語
中部アフリカ
ガボン (加蓬、リーブルヴィル) フランス語
カメルーン (喀麥隆、ヤウンデ) フランス語、英語
コンゴ共和国 (剛果、ブラザヴィル) フランス語
コンゴ民主共和国 (剛果民主、キンシャサ) フランス語
サントメ・プリンシペ (聖多美普林西比、サントメ) ポルトガル語
赤道ギニア (赤道幾内亜、マラボ) スペイン語、フランス語、ポルトガル語
チャド (乍得、ンジャメナ) フランス語
中央アフリカ (中阿、バンギ) フランス語
東アフリカ
ウガンダ (カンパラ) 英語、スワヒリ語
エチオピア (アディスアベバ)アムハラ語
エリトリア (アスマラ) ティグリニャ語、アラビア語
ケニア (ナイロビ) 英語、スワヒリ語
コモロ連合 (モロニ) フランス語
ジブチ (ジブチ市) フランス語
セーシェル (ヴィクトリア) 英語、フランス語
ソマリア (モガディシュ)ソマリ語、アラビア語
タンザニア (ダルエスサラームおよびドドマ) 英語、スワヒリ語
ブルンジ (ブジュンブラ) フランス語
ルワンダ (キガリ) フランス語
マダガスカル (アンタナナリボ) フランス語
モザンビーク (マプート) ポルトガル語
南部アフリカ
アンゴラ (ルアンダ) ポルトガル語
ザンビア (ルサカ) 英語
ジンバブエ (ハラレ) 英語
エスワティニ (ムババーネ) 英語
ナミビア (ウィントフック) 英語、アフリカーンス語
ボツワナ (ハボローネ) 英語
マラウイ (リロングウェ) 英語
南アフリカ共和国 (プレトリア)、(ケープタウン)、(ブルームフォンテイン) 英語、アフリカーンス語他
モーリシャス (ポートルイス) 英語、フランス語
レソト (マセル) 英語
独立国以外の地域
イギリス領
フランス領
マヨット Mayotte (海外領土)
レユニオン Réunion (海外県)(グロリオソ島 Glorioso Is.、トロメリン島 Tromelin Is.、ファン・デ・ノヴァ島 Juan de Nova Is.などを含む)
スペイン領
その他
消滅した国
アフリカと「黒」
肌が黒い人類、いわゆるネグロイドの存在が他の文明に初めて記録されたのは、7世紀に北部アフリカを支配下に置いたアラブ人が、ナイル川を遡ってサハラ砂漠以南に到達したことに始まる。以後、アフリカの地名にはこの肌の色を語源として名づけられた所もあり、現在の国名に受け継がれているものもある。スーダンは、かつてのイギリス領やフランス領を含めるとアフリカ大陸の1/3を占める広大な土地を意味したが、これはアラビア語が意味する「黒い人」が語源である。このフランス領スーダンから独立したモーリタニアはムーア人の国という意味だが、このムーアも古代ギリシア語のmauros(肌が黒い人々)を語源とする。ギニアも現在の領土よりも広い地域を指す言葉だったが、これもベルベル人の言葉で「黒い人の土地」を意味した。エチオピアもギリシア語の「aitos(日焼けした)」+「ops(顔)」+「ia(地名接尾語)」の合成語であり、やはり古代ギリシア人にとってサハラ砂漠より南の土地を包括的に示す言葉だった。ソマリアはアムハラ語で「ゾムマ(家畜を持つ人)」という説の他に、ヌビア地方の言葉で「黒い人の国」という意味だという説もある。[84]
地域機構
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/RECs_of_the_AEC.png/200px-RECs_of_the_AEC.png)
- AU:African Union(アフリカ連合)
- ADB(アフリカ開発銀行)
- CEEAC/ECCAS:Communauté Économique des États de L’Afrique Centrale(中部アフリカ諸国経済共同体)
- CEMAC:Communate Economique et Monetaire de L'Afrique Centarale(中央アフリカ経済通貨共同体)
- 中部アフリカ域の6カ国が加盟。1996年7月に設立[85]。
- CEN-SAD/COMESSA:Community of Sahel-Saharan States(サヘル・サハラ諸国国家共同体)
- COMESA::Common Market for Eastern and Southern Africa(東・南アフリカ市場共同体)
- EAC:East African Community(東アフリカ共同体)
- ECOWAS:Economic Community of West African States(西アフリカ諸国経済共同体)
- 西アフリカ域の15カ国が加盟。経済統合を目的とする[85]。
- IGAD:Intergovernmental Authority on Development in Eastern Africa(政府間開発機構)
- 東アフリカ域の7カ国が加盟[85]。
- SACU:Southern Africa Customs Union(南部アフリカ関税同盟)
- 南アフリカ域の5カ国が加盟。1910年に旧イギリス連邦国間で締結された、関税同盟としては世界初の組織[85]。
- SADC:Southern African Development Community(南部アフリカ開発共同体)
- 南アフリカ域の15カ国が加盟。事務局:ボツワナ、ハボロネ。アパルトヘイト政策当時の南アフリカから経済的自立をめざして1980年に発足。1992年に民主化した南アフリカも加わり、現在の組織に改組[85]。
- UEMOA:Union Economique et Monétaire Ouest Africaine(西アフリカ経済通貨同盟)
- 西アフリカ域の8カ国が加盟[85]。
- UMA/AMU:Union of the Arab Maghreb(アラブ・マグレブ連合)
関連項目
- アフリカ系アメリカ人
- アフリカ合衆国
- アフリカ (小惑星)(アフリカに因んで命名された小惑星)
参考文献
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- 編:21世紀研究会『地名の世界地図』(第1刷)文春新書、2000。ISBN 4-16-660147-4。
- グザヴィエ・バラル・イ・アルテ 著、吉岡健二郎、上村博 訳『美術史入門』(第5刷)白水社、2009。ISBN 978-4-560-05821-3。
脚注
注釈
脚注
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脚注2
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外部リンク
教育
- PEA Portal Education Africa
- Open Directory Project - アフリカの教育 directory category
- Yahoo! - アフリカの教育 directory category
- Africa's best and oldest schools
- Unesco Regional overview on sub-Saharan Africa (.pdf)
- SOS Schools in Africa
- eLearning Africa
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