アジア・アフリカ会議

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アジア・アフリカ会議(アジア・アフリカかいぎ、Asian-African Conference、AA会議)は、第二次世界大戦後に独立したインドネルー首相、インドネシア大統領スカルノ中華人民共和国首相周恩来エジプト大統領ナセルが中心となって開催を目指した会議の総称。

1955年インドネシアバンドンで第1回が開催されたが、第2回は開催されなかった。そのためバンドン会議がこのAA会議のことをも表す。

概要[編集]

バンドン会議の議場(1955年当時)
参加国
現在(2007年。博物館として使用)

特にその第1回会議をバンドン会議Bandung Conference)、または第1回アジア・アフリカ会議と呼ぶ。参加国はその多くが第二次世界大戦後に、イギリスフランスアメリカオランダなどの帝国主義を標榜する欧米諸国の植民地支配から独立したアジアアフリカの29ヶ国であり、平和五原則を拡張した平和十原則が定められた。

バンドン会議を皮切りに、継続的に開催される予定であったが、中印国境紛争やナセルのアラブ連邦形成の失敗などにより、各国の指導者間の統一が乱れ、1964年に予定されていた第2回会議とそれ以降は開催されなかった。しかし、その精神は1961年9月に開催された第1回非同盟諸国首脳会議に引き継がれたと言える。その後、2005年にバンドン会議50周年記念会議が開催され、今後の定例化が決定された。

バンドン会議開催までの経緯[編集]

第二次世界大戦後、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの欧米の帝国主義国は、日本との戦いに敗北することで自らが放逐され、その後その一部が独立を果たした東南アジア各国の再植民地化を武力をもって行おうとした。また、新たに米ソの冷戦構造がアジア・アフリカに波及したため、第一次インドシナ戦争朝鮮戦争が引き起こされた。

こうした中、1954年に印中首脳会談においてネルーと周恩来が平和五原則を発表し、1954年4月28日5月2日スリランカコロンボで開催されていたコロンボ会議で、アジア・アフリカ会議を開催する構想が生まれた。

コロンボ会議には、アリ・サストロアミンジ(インドネシア首相)、シュリ・バンディット・ジャワーハルラール・ネール(インド首相)、モハマッド・アリ・ジナ(パキスタン首相)、ジョン・コタラーワラ(スリランカ首相)、ウーヌー(ビルマ首相)の5人が出席していた。この会議でインドネシア首相がアジア・アフリカ会議の必要性を表明し、他の4人は検討し、第1段階としてボゴールで1954年12月28日~29日に準備会合を開いた。[1]インド・東南アジアの5ヶ国によるコロンボ会議によりインドシナ戦争の早期停止などが訴えられた。コロンボ会議に参加した5ヶ国は「コロンボ・グループ」と呼ばれる。この会議の議題は次のようなものであった。

  • アジア・アフリカ各国間の協力、相互利益、友好の推進
  • 代表各国関係および社会・政治・文化問題の検討
  • 国家の主権、民族問題、植民地主義などの、アジア・アフリカ諸国にとって特に重要な諸問題の検討
  • 現代における、世界の、特にアジア・アフリカの諸国民の地位と、世界平和の推進のために可能である貢献の検討

これら5ヶ国とエジプトと中華人民共和国が中心となって、翌1955年4月18日にアジア・アフリカ会議の開催を実現させた。これは初の非白人国家だけによる国際会議であるとされる。30カ国が招待されていたが、中部アフリカのローデシアは国内の情勢不安定のために参加できず、29カ国の参加で開催された。

なお、中華人民共和国と敵対関係にあった中華民国大韓民国、さらに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)やモンゴル国は招待されなかった。

バンドン会議における意義[編集]

  1. 反帝国主義、反植民主義、民族自決の精神。
  2. アメリカ西側諸国)、ソビエト連邦東側諸国)のいずれにも属さない第3の立場を貫こうとする基本的指向。これによりいわゆる第三世界の存在を確立。
  3. アメリカ、ソ連の対立を緩和する立場(バランシング・ブロック)を作る契機となった。
  4. 会議において「世界平和と協力の推進に関する宣言」を採択した。

平和十原則[編集]

正式名称は世界平和と協力の推進に関する宣言バンドン十原則(ダサ・シラ・バントン)とも呼ばれる。

  1. 基本的人権と国連憲章の趣旨と原則を尊重
  2. 全ての国の主権と領土保全を尊重
  3. 全ての人類の平等と大小全ての国の平等を承認する
  4. 他国の内政に干渉しない
  5. 国連憲章による単独または集団的な自国防衛権を尊重
  6. 集団的防衛を大国の特定の利益のために利用しない。また他国に圧力を加えない。
  7. 侵略または侵略の脅威・武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立をおかさない。
  8. 国際紛争は平和的手段によって解決
  9. 相互の利益と協力を促進する
  10. 正義と国際義務を尊重

参加国[編集]

※参加国計29ヶ国とコロンボ・グループ(太字)。国旗・国名は当時([1]参照)。

日本からの出席とその反響[編集]

日本は高碕達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を 「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」と語っている。

バンドン会議50周年を記念する首脳会議[編集]

2005年4月22日に行なわれ、今後4年に1度首脳会談を開催(閣僚級会議は2年に1度)を決定した。

アジア・アフリカとラテンアメリカ諸国から各国首脳が参集し、会議への参加国はかつての29カ国から106カ国に増加した。アメリカやイギリス、ロシアやフランスなどの欧米諸国による帝国主義的なグローバリゼーションに対抗しながら、新しいアジア・アフリカの戦略的な連帯に関する宣言を行った。

また直前に発生した中華人民共和国における反日運動に関し、日本の内閣総理大臣小泉純一郎は日本の戦争における歴史認識に関し、1995年8月15日に当時の総理大臣であった村山富市の談話(いわゆる「村山談話」)を引き継ぐ声明を発した。

脚注[編集]

  1. ^ イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 351-356ページ

参考文献[編集]

  • イ・ワヤン・バドリカ著、石井和子監訳、桾沢英雄・菅原由美・田中正臣・山本肇訳『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』明石書店 2008年9月 ISBN 978-4-7503-2842-3
  • 名越二荒之助編著『昭和の戦争記念館第5巻 すべての戦歿者に捧げる』展転社 2002年5月 ISBN-10:4886562132

ISBN-13:978-4886562135  

関連項目[編集]