村田修一

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村田 修一
横浜ベイスターズ #25
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県糟屋郡篠栗町
生年月日 (1980-12-28) 1980年12月28日(43歳)
身長
体重
177 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手 一塁手
プロ入り 2002年 自由獲得枠
初出場 2003年3月28日(対阪神戦)
年俸 2億6,000万円(2009年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2008年
WBC 2009年(途中離脱)

村田 修一(むらた しゅういち、1980年12月28日 - )は、横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手内野手)。「松坂世代」の一人。2009年からは横浜選手会長に就任する。

来歴・人物

未熟児としてうまれた修一は小学生時代は軟式野球チーム「勢門ベアーズ」に、中学時代は粕屋町のボーイズリーグ「粕屋フェニックス」に所属していた。東福岡高校では投手として甲子園に春夏連続出場を果たした。選抜では横浜高校松坂大輔と投げ合うが敗れ(143km/hのストレートで速球派と呼ばれていた村田だが、それ以降松坂と比較され技巧派と評されるようになった)、夏は古木克明のいた豊田大谷高校に敗れ初戦敗退。高校通算30本塁打。本人いわく「打者にならなければ松坂には勝てない」と考え、日本大学経済学部進学後は打者に転向した。

大学時代は3年秋に井口資仁に並ぶ1シーズン8本塁打を記録し、通算では歴代2位タイの20本塁打を放つなど、東都でも屈指のスラッガーだった。リーグ通算104試合出場、374打数103安打、打率.275、70打点。ベストナイン4回。

上背こそないが、長距離打者としては恵まれた体格から、右方向にも長打を放てる長距離砲である(本人は「右に引っ張る」感覚と表現している。これは左の長距離打者だった掛布雅之が左方向へ長打を放つことを「左に引っ張る」と表現したのと一致している)。入団当初は荒削りな部分が目立ったものの、毎年打率を向上させるなど確実性も備えてきている。

男・村田」を自称し、ファンやマスコミから呼ばれることが多い。

経歴

2003年

ドラフト自由枠で横浜に入団。本職は三塁手だったが同じポジションの古木克明の存在もあり二塁にも挑戦する。6月までは古木が三塁、村田が二塁に落ち着き、古木が外野に回った後半は三塁のレギュラーに定着した。7月に極度の不振で二軍落ちを経験するが、再昇格後の9月に新人としては日本記録となる月間10本塁打を放つなど、104試合で25本塁打を打ち活躍した。しかし9月28日ヤクルト戦で石堂克利から受けた死球で右手尺骨を骨折し、そのままシーズンを終える。

2004年

5番サードで開幕スタメンの座をつかむが、守備での凡ミスや三振の多い打撃など課題が多くあったため、シーズン途中に種田仁内川聖一にレギュラーを奪われ、後半は7番での出場が多かった。三振を減らし出塁率を上げたが、本塁打は大きく減少してしまった。12月8日に入籍。

2005年

開幕からシーズン最後まで主に7番で起用された。打撃不振のため交流戦では7試合で9番サードで先発したこともあった。その5月28日交流戦第1戦の対千葉ロッテ戦で逆転2点タイムリーヒットを放った(後述)。6月22日の対巨人8回戦で内海哲也から初めての満塁ホームランを放つ。

2006年

WBCエキシビション試合で12球団選抜側で出場、日本代表松坂大輔から内角直球を左翼席に運ぶ決勝点となる3ランHRを放った。

開幕当初は7番に座っていたが打撃が好調だったため多村仁の離脱後は5番を任せられる。その後4番を務めていた佐伯貴弘の不振により、6月1日の対ソフトバンク戦でプロ入り初の4番に座り、そのままシーズン最後まで4番の座を譲らなかった。故障者の多いチームの中で打率.266、34本塁打、114打点と獅子奮迅の活躍を見せた。しかし両リーグ最多の153三振を喫してしまうなど粗さも目立った。

日米野球の日本選抜に選ばれ、第4戦(京セラドーム大阪)では全日本の4番に座りタイムリー、第5戦(ヤフードーム)ではジョン・ラッキーからホームランを放つなどまずまずの活躍をみせた。

2007年

全試合に4番サードでスタメン出場。2年連続30本塁打100打点を達成。打率・出塁率を前年より上昇、三振数を減少させた。重いバットの使用(後述)の効果もあり、後半戦だけで23本もの本塁打を量産し、8月終了時点で8本差をつけられていたタイロン・ウッズを抜き去り、アーロン・ガイエルと1本差の36本塁打で、初タイトルとなる本塁打王を獲得した。

12月に開催された北京オリンピックアジア予選を兼ねたアジア野球選手権大会に日本代表として出場した。この時は背番号「25」を新井貴浩に譲り、自らは生年でもある「55」をつけてプレーした。

2008年

昨年に引き続き開幕から4番サードで出場。春先は不調だったが5月から調子を上げ、7月中には30本塁打に到達した。3年連続の30本塁打達成は球団史上初である。前半戦終了時点で本塁打数、長打率でリーグトップに立つなどの活躍により、北京オリンピック野球日本代表に選出された。9月14日、オリンピック招集などの影響でいくつかの試合を欠場しつつも、自身初のシーズン40本塁打に到達。最終的に本塁打数を球団新記録となる46まで伸ばし、アレックス・ラミレス巨人)と昨年のガイエルの時と同じように1本差で2年連続の本塁打王のタイトルを獲得した。初の3割を記録した。セ・リーグにおいて日本人打者が2年連続で本塁打王を獲得したのは、1990年・1991年の落合博満以来である。

2009年

2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、初試合の中国戦で3回裏、一点を先制した後の2死2塁でチームの流れをよくする2ランホームランを放つ。その2日後に行われた韓国戦は4番サードで出場。2回表、北京五輪で苦しめられた金廣鉉投手から雪辱の2試合連続となる3ランホームランを放つ。その後も調子が安定しキューバ戦でも打点を挙げるが、第2ラウンドの順位決定戦での韓国戦、2打席目でヒットを打ち一塁を回ろうとした時に、右足太もも裏の肉離れを起こしてしまい負傷退場。決勝の地ロサンゼルスに向かうことができず、無念の途中帰国となった。WBCでの成績は打率.320、2本塁打、7打点だった。その後、日本代表がWBC優勝を果たすと、グラウンドでの全員の記念撮影の後でチームメイトの内川聖一が優勝トロフィーに村田の背番号である25の日本代表ユニホームを被せて持ち上げてみせた。3月25日、成田でおこなわれた日本代表帰国会見の席で代表に再合流、その席で原監督から他選手に遅れて金メダルを授与される。

帰国後の検査で肉離れは全治6週間と診断され、開幕を二軍で迎えた。一軍復帰は5月以降とされていたが、驚異的な回復力を発揮し、開幕から約2週間後の4月15日にはイースタン・リーグの対ロッテ戦に4番DHで出場し実戦復帰を果たす。復帰後の第1打席では本塁打も放っている。その後二軍戦で守備にも就くなどし、4月21日に一軍登録された。

エピソード

  • アンチ巨人である(後述の発言により)。
  • ヒーローインタビューが特徴的。独特な口調(そーっすねー等)でしゃべるため、「村田節」と親しむファンが多い。通算100号ホームランを打った2007年4月10日のヒーローインタビューではバカリズムのギャグ・トツギーノを何故か突然発言。滑ってしまった。
  • 福岡ソフトバンクホークスに所属していた大野隆治とは高校、大学ともにチームメイトで高校時代はバッテリーを組んでいた(村田が捕手で大野が投手をやっていた時期もある)。
  • 前述のように不振で9番サードでの先発となった2005年5月28日の対千葉ロッテ戦の試合前、牛島和彦監督(当時)に「9番の次の打順は何だ?」と聞かれた村田は「1番です」と答えるが、牛島に「アホか!次は無いんじゃ!!」と言われてしまう。これに発奮した村田はこの試合で決勝ツーランホームランを放ち、「生死を賭けて打ちました」とコメントしている。言った牛島本人は試合後に「ずっと9番にしておこうかな」と皮肉を交えつつ村田を絶賛している。
  • 高校日本代表に投手として選ばれ、アジア最優秀防御率(0.00)を獲得している。
  • チームメイトで東福岡高校の後輩でもある吉村裕基と仲がいい。
  • 実況パワフルプロ野球がお気に入り。ただしゲーム中の自分の守備力が低いのが不満なようで、サクセスモード(選手作成モード)で守備力を高めにして作り直した。また、吉村からゲーム内で動かない村田に対し「動け!デブ!」と言われショックを受けたこともある。
  • 2007年の10月4日鈴木健の引退試合で、鈴木健が横山道哉から打った13球目、平凡なサードファールフライだったが、わざと捕球しなかった。この時、球場全体からヤクルトファン、横浜ファン問わず大きな歓声が起きた。結果鈴木健はセンター前ヒットを放ち、有終の美を飾った。多くのスポーツ紙では「粋なプレー」「村田の配慮」と書かれ村田に対する賛辞を送っている一方、如何に引退試合とはいえそのプレーはあまりにも緩慢であり、失礼であると、10月7日にTBSの「サンデーモーニング」内で大沢啓二張本勲からはもとより、横浜ファンで政治評論家の浅井信雄からも批判された。
  • 同年10月6日の佐々岡真司の地元広島市民球場での現役最後の広島での登板で本塁打を放っている。このような引退選手の記念のような試合では三振するのが通例となっているため、村田は引退セレモニーで球場を一周した佐々岡を出迎えると真っ先に頭を下げ謝罪、試合後に「打って辛いホームランは今日が初めて」と涙をこぼした。
    • ホームランとなった背景には、この打席での佐々岡はボールが先行し、1ストライク3ボールの状態で佐々岡が投じた球がボール球だったため、「フォアボールで現役を終わらせるのは忍びない」と村田がバットを振った結果である(村田は広島側から「真剣勝負だから打ってもらって構わない」と言われていたことを明かした)しかし、打たれた側の佐々岡は村田の謝罪に対し「吹っ切れた。気持ち良かったよ」と笑顔で答え、肩を叩いて激励した。結果的にこの本塁打により、本塁打王争い単独トップとなり、自身初の本塁打王のタイトルを獲得した。村田はシーズン後「佐々岡さんの為にも、カープファンの為にも、絶対タイトルを獲ってやると心に誓っていました」と、この佐々岡の一件がひとつの転機であった事を語っている。
  • 過去に「自分はお金で動くほどヤワな男ではないです」「だいたい自分は巨人が嫌いです」と発言したことがある。
    • 村田には巨人からの指名話もあったが、下位指名であるために一番に獲得を表明した横浜を選んだ。これに対して日大野球部監督鈴木博識に「お金にこだわることも決して悪いことではないぞ」と言われた際に反論した。[1]
  • 北京オリンピックアジア予選を兼ねた第24回アジア野球選手権大会で優勝が決まる直前、村田はベンチの横にいた荒木雅博に「実は今まで胴上げに参加したことがなく、今後もチームじゃ優勝できなさそうだから、先にグラウンドに飛び出させて下さい」と懇願し、荒木はそれを譲ったものの、(未経験ゆえに)飛び出すタイミングを読み間違ってしまい4番目に飛び出す結果になってしまった(荒木が「サンデードラゴンズ」の企画で語ったものによる)。
  • 北京五輪では23打数2安打、打率0.087、五輪打率ランキングでは55/58位と精彩を欠いた。これは風邪で眼球の水分調節が狂い、一時的に眼の反応速度が鈍っていたためとされている。五輪終了後、明らかに不調であった村田を使い続けた星野仙一五輪代表監督に批判が噴出した。
  • 自身のブログにまだ幼い息子の姿を頻繁に掲載している。息子は出生の際予定より3ヶ月早く超未熟児で生まれてしまったため、生まれてからしばらく生死をさまよう状態が続き入院生活を送っていた。現在は元気に生活をしているが、当時を知る人やファンに見てもらうためと、同じ境遇にあった人に少しでも励みになればいいとの考えから、元気に成長している愛息の姿をブログに掲載しているものである。
  • 2007年の後半戦から950~960グラムの重いバットを使用している。これは2007年は打率こそ安定していたが本塁打が前半戦終了時点で13本と伸び悩んでいたことからである。重いバットで軽く振りぬくことを心がければより飛距離が伸びるのではないかと本人いわく「安易な考え」で実行してみたところ、見事に効果が出て本塁打王のタイトルを獲得することができた。
  • プロ入り初盗塁はホームスチールである。
  • 非常に研究熱心な選手で、スコアラーからもらったビデオや試合中継を録画したDVD等で対戦相手の投手のピッチングから自分の打撃フォーム、相手投手と自分が戦った時の映像での研究を常に行っている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2003 横浜 104 373 330 48 74 11 0 25 160 56 3 3 3 2 26 0 12 111 6 .224 .303 .485 .788
2004 116 369 326 43 79 17 0 15 141 38 2 3 0 2 30 1 11 84 10 .242 .325 .433 .758
2005 136 539 477 60 120 32 2 24 228 82 1 1 3 4 44 6 11 124 15 .252 326 .478 .804
2006 145 611 545 83 145 30 3 34 283 114 1 0 4 10 39 0 13 153 11 .266 .325 .519 .844
2007 144 615 526 94 151 30 1 36 291 101 1 1 0 9 65 7 15 117 14 .287 .376 .553 .929
2008 132 554 489 89 158 25 2 46 325 114 0 1 0 3 55 2 7 113 10 .323 .397 .665 1.062
通算:6年 777 3061 2693 417 727 145 8 180 1428 505 8 9 10 30 259 16 69 702 66 .270 .346 .530 .876
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

年度 三塁 二塁 一塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2003 41 24 46 6 0 .921 65 129 191 8 41 .976 -
2004 90 50 148 11 11 .947 - 1 1 0 0 0 1.000
2005 136 83 245 14 20 .956 - -
2006 145 94 251 15 16 .958 - -
2007 143 80 249 18 10 .948 - -
2008 132 88 267 16 27 .957 - -
通算 687 405 1204 80 84 .953 65 129 191 8 41 .976 1 1 0 0 0 1.000

タイトル

表彰

記録

  • 初出場 - 2003年3月28日対阪神戦。
  • 初安打 - 2003年4月1日対巨人戦で桑田真澄投手から。
  • 初本塁打 - 2003年4月2日対巨人戦で高橋尚成投手から。
  • 初盗塁 - 2003年5月7日対広島戦で重盗でのホームスチール。
  • サヨナラタイムリー - 2005年5月6日対ロッテ戦で小林雅英投手からレフト前タイムリーヒット。(交流戦初戦)
  • サヨナラホームラン - 2006年6月9日対オリックス戦で萩原淳投手から延長10回に。
    • 2006年6月30日対ヤクルト戦で木田優夫投手から延長11回に。
    • 2008年6月21日対西武戦でグラマン投手から延長10回に。
  • 3打席連続本塁打 - 2008年6月21日~23日の西武戦で記録(帆足・グラマン・石井一投手から)
    • 2008年9月13日~14日の中日戦で記録。(斉藤・山内投手から)
  • 5試合連続本塁打 - 2008年7月15日~19日(15日~17日広島戦、18、19日巨人戦)に記録
  • オールスター戦出場 - 2006年、2008年
  • 通算100本塁打 - 2007年4月10日対東京ヤクルト戦で石川雅規投手から。
  • 通算150本塁打 - 2008年6月9日対日本ハムファイターズ戦でライアン・グリン投手から。
  • 新人月間最多本塁打 10本(2003年9月)
  • セリーグ史上26人目の1イニング2三振(2004年8月21日中日戦)

アマチュア時代の戦績・記録

脚注

  1. ^ Sports network Japan ドラフト制度の舞台裏

関連項目

外部リンク

先代
T.ウッズ
セ・リーグ本塁打王
2007年2008年
次代
-