定襄郡

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定襄郡(ていじょう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区フフホト市一帯に設置された。

概要[編集]

漢の高祖のとき、雲中郡を分割して、定襄郡が置かれた。定襄郡は并州に属し、成楽桐過都武武進襄陰武皋安陶武成武要定襄復陸の12県を管轄した。王莽のとき、得降郡と改称された[1]

後漢が建てられると、定襄郡の称にもどされた。定襄郡は善無・桐過・武成・駱・中陵の5県を管轄した[2]

215年(後漢の建安20年)、曹操が雲中・定襄・五原朔方の4郡を県と改め、4県を管轄する新興郡を立てた[3]

恵帝のとき、新興郡は晋昌郡と改称された。304年永興元年)、劉淵が漢王を称して自立すると、并州全域を漢(後の前趙)が掌握した。劉曜が都を長安に移すと、平陽以東の地は石勒に掌握され、朔方に朔州が置かれた[4]

585年開皇5年)、雲州総管府が置かれた。605年大業元年)、総管府が廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、雲州は定襄郡と改称された。大利1県を管轄した[5]

621年武徳4年)、唐が劉武周を平定すると、定襄郡は廃止され、朔州に編入された。いっぽう隋の楼煩郡秀容県を前身とする忻州があり、この忻州が742年天宝元年)に定襄郡と改称された。758年乾元元年)、定襄郡は忻州と改称され、定襄郡の呼称は姿を消した[6]

脚注[編集]

  1. ^ 『漢書』地理志下
  2. ^ 『後漢書』郡国志五
  3. ^ 三国志』魏書武帝紀
  4. ^ 『晋書』地理志上
  5. ^ 隋書』地理志中
  6. ^ 旧唐書』地理志二