汾州 (隋)
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魏晋南北朝時代[編集]
東魏により設置された南汾州を前身とする。北斉により汾州、北周により西汾州と改称された。
隋代[編集]
隋朝が成立すると当初は3郡5県を管轄した。598年(開皇18年)に汾州と改称されている。607年(大業3年)、郡制施行に伴い汾州は文城郡と改称され下部に4県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下表を参照。
隋朝の行政区画変遷 | ||||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | |||
州 | 南汾州 | 汾州 | 郡 | 文城郡 | ||
郡 | 定陽郡 | 伍城郡 | 中陽郡 | 竜泉郡 | 県 | 吉昌県 文城県 伍城県 昌寧県 |
県 | 定陽県 文城県 |
伍城県 平昌県 |
昌寧県 | 大寧県 |
唐代[編集]
618年(武徳元年)、唐により文城郡は南汾州と改められた。634年(貞観8年)、南汾州は慈州と改称された。742年(天宝元年)、慈州は文城郡と改称された。758年(乾元元年)、文城郡は慈州と改称された。慈州は河東道に属し、吉昌・文城・仵城・呂香・昌寧の5県を管轄した[1]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 汾州 - 北周から隋初に設置された州。
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