劉淵

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光文帝 劉淵
初代皇帝
王朝
在位期間 304年10月 - 310年6月
都城 左国城→平陽
姓・諱 劉淵
元海
諡号 光文皇帝
廟号 高祖
太祖(劉曜による)
生年 嘉平3年(251年)?
没年 河瑞2年7月8日
310年8月19日
劉豹
呼延氏
皇后 呼延皇后
張皇后
単皇后
陵墓 永光陵
年号 元熙 : 304年 - 308年
永鳳 : 308年 - 309年
河瑞 : 309年 - 310年

劉 淵(りゅう えん)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の創建者。代に編纂された『晋書』では、高祖李淵諱を避けを用いて劉元海と表記されている。新興(現在の山西省忻州)出身。一説に西河隰城(現在の山西省汾陽)出身ともされる。南匈奴単于を輩出した屠各種攣鞮部の出身で於夫羅の孫、劉豹の嫡子。

生涯[編集]

若き日[編集]

劉淵は幼くして学問を好み、聡明な子であった。7歳のときに母の呼延氏が死ぬと、彼は大きく悲しみ、その様を見て部族の人は感動し、皆劉淵の孝行ぶりを称賛した。当時司空であった王昶は、これを聞くと彼を褒めたたえ、人を派遣して弔問を行った。 崔遊に師事し、漢人の文化に通じ、文武兼備を自負した。人相見の崔懿之公師彧らは、劉淵と会ったとき大変驚いて「この人の出で立ち、容貌は常人のものではないぞ。こんな凄い人を、今まで会ったことがない。」と言った。彼らは劉淵を崇拝して、深く交流するようになった。当時魏の重臣であった王渾とも交流があり、彼は友人と接する時の様に謙虚に劉淵と親交を深め、子の王済を彼と引き合わせた。

洛陽へ入朝[編集]

咸熙年間(264年-265年)、劉淵は人質として洛陽に入ると、司馬昭は彼を厚遇した。

泰始年間(265年-274年)の末、王渾はしばしば司馬炎と会い、劉淵を推薦した。武帝司馬炎は劉淵を召し出すと、言葉を交わし、その人となりを高く評価した。

279年、父の劉豹が死ぬと、朝廷は劉淵に父の役職であった左部帥を代行させた。

289年11月、劉淵は朝廷により北部都尉に任じられた。在任期間中、刑法を厳正に遵守し、あらゆる悪行を禁じた。また、財を重視せず施しを好み、誠意をもって人と交流した。五部匈奴には豪傑が数多くいたが、彼らは次から次へと劉淵の下へ訪れた。また、幽州や冀州の高名な儒学者や学問に励む者も、数多く遠方より劉淵に会いにきた。

290年10月、司馬炎が崩御すると、子の司馬衷が後を継ぎ、外戚楊駿が事実上政権を担った。楊駿は、劉淵を建威将軍、五部大都督に任命し、漢光郷侯に封じた。

300年、匈奴のある部族民が国境外へ逃走を図った為、劉淵は連座して免官になった。しばらくして、成都司馬穎城に駐屯すると、彼は劉淵を自分の配下とし、上表して行寧朔将軍、監五部軍事に任じ、鄴に移らせた。

乱に乗じる[編集]

司馬衷の時代、291年楊駿誅殺を皮切りに、八王の乱と呼ばれる皇族同士の大規模な内乱が勃発した。これに呼応して各地でも反乱が勃発し、強盗略奪も横行した。

劉淵の従祖父である劉宣らは、これを絶好の機会と捉え、晋朝への反乱を目論んで密かに議論を重ね、秘密裏に劉淵を大単于に推戴した。そして、部族の呼延攸を、劉淵のいる鄴へ派遣し、劉宣らの計画を伝達させた。これを聞いた劉淵は、葬儀を理由に故郷に帰ることを司馬穎へ求めたが、拒絶された。そのため、劉淵は呼延攸を先に帰し、劉宣らに五部匈奴と宜陽にいる諸胡人を集結させた。表向きは司馬穎に呼応するための召集だったが、実際は晋朝への反逆の準備であった。

304年、司馬穎は長沙王司馬乂を破ると、自ら皇太弟丞相となった。司馬穎は劉淵を屯騎校尉に任じた。東海王司馬越等は司馬穎討伐を掲げて挙兵し、司馬衷(恵帝)を奉じて蕩陰に軍を進めた。司馬穎は劉淵を輔国将軍、督北城守事とした。司馬穎は敵軍を破ると、司馬衷を鄴へ迎え入れた。そして、劉淵を冠軍将軍に任じ、盧奴伯に封じた。

その後、并州刺史・東嬴公司馬騰と安北将軍王浚も司馬穎を討つために挙兵し、烏桓鮮卑段部がこれに呼応した。劉淵は司馬穎へ、自分が并州へ戻り五部匈奴を説得し、その兵を引き連れて司馬騰・王浚に対抗することを打診した。司馬穎は洛陽に逃走しようと考えていた為一度は渋ったが、劉淵が五部匈奴の精強さを堂々と語り、鄴に留まるよう強く進言した為、その言葉にとても喜んで彼を北単于・参丞相軍事に任じ、并州へ向かうことを許した。

劉淵は左国城に到着すると、劉宣らと合流した。劉淵は彼らから上大単于の称号を授かり、離石に都を定めた。20日の間に、劉淵の下には5万の兵が集結した。

同時期、王浚は将軍の祁弘に鮮卑段部を率いさせ、鄴城へ派遣し、迎え撃ってきた司馬穎軍を打ち破った。恐れた司馬穎は、劉淵の進言を無視して司馬衷を引き連れ洛陽に向かった。司馬穎敗走を知った劉淵は、右於陸王劉景と左独鹿王劉延年らに歩兵・騎兵2万を与えて、鮮卑討伐を命じ司馬穎を救援させた。劉宣らは劉淵へ、大業を成すためには鮮卑・烏桓とは協力すべきであり、司馬穎の為に彼らと争うのは愚策であると固く諫めたため、救援を取りやめた。

漢の建国[編集]

304年10月、左国城に移ると、遠方から劉淵の下に集まった人は、数万にのぼった。ここにおいて劉淵は晋朝からの自立を宣言した。劉淵は、かつて冒頓単于漢王朝と兄弟の契りを結び漢の皇族を妻に娶っていたことから、匈奴と漢氏とは甥の関係であるとし、自らを前漢後漢のみならず蜀漢の後継者と称した。そのため、国号を漢(劉曜の時代に前趙と改称)と定め、漢王朝復興を大義名分として掲げた。そして、南郊に祭壇を設けると漢王に即位し、領内に大赦を下し、年号を元煕と定めた。劉禅を孝懐皇帝と追尊し、漢の高祖(劉邦)以下、三祖五宗の神主を祭った。妻の呼延氏を王后に立て、百官を置き、劉宣を丞相に任じた。また、崔遊を御史大夫に、劉宏を太尉にそれぞれ任じ、他の人にも身分・能力に応じてそれぞれ官位を授けた。

劉淵の自立を知った司馬騰は、将軍の聶玄に命じて、劉淵を攻撃させた。劉淵は大陵でこれを迎え撃ち、大いに破った。司馬騰は劉淵を大いに恐れ、并州の2万戸余りの領民を率いて山東に南下した。劉淵は勝ちに乗じて進出すると、建武将軍の劉曜を派遣して太原泫氏屯留長子、中都を続けざまに陥落させた。

305年、司馬騰は司馬瑜周良石鮮らを派遣し、劉淵を攻撃させた。彼らは、離石の汾城を拠点とした。劉淵は、武牙将軍の劉欽を初めとして六軍を派遣し、司馬瑜らを迎え撃たせた。劉欽は敵軍と四度交戦を行い、全て打ち破ると、軍を整えて凱旋した。

この年、離石は大飢饉に見舞われた為、劉淵は拠点を黎亭に移し、邸閣一帯から食糧をかき集めた。太尉の劉宏、護軍の馬景に離石を守備させ、大司農卜豫に穀物を供給させた。

前将軍の劉景を使持節・征討大都督・大将軍に任じ、并州刺史の劉琨を版橋で迎撃させたが、敗れた。劉琨は晋陽に拠った。

侍中劉殷王育は、漢の将軍を四方に派遣し、劉琨を初めとした諸勢力の鎮圧に当たるよう進言し、劉淵はこれに同意した。

この時期、上郡の四部鮮卑である陸逐延と、氐族酋長単徴と、旧友の王弥および石勒らが、相次いで劉淵に降った。劉淵は、降ってきた全員に官爵を与えた。

308年1月、劉聡らを太行に派遣し、石勒らを東方の趙・魏の地方に派遣した。

7月河東に進出すると太守の路述を戦死させ、ここに拠点を築いた。さらに平陽を攻撃すると、太守の宋抽が郡を捨てて逃走した。続けざまに蒲阪を陥落させると、蒲子へ進出し、これを都とした。河東郡・平陽郡に属する県の砦は全て劉淵の下に帰属した。

9月、王弥と石勒に鄴攻略を命じると、恐れた和郁は城を捨てて逃走した。晋朝は漢軍を阻む為、豫州刺史裴憲を白馬へ、車騎将軍王堪を東燕へ、平北将軍曹武を大陽へ派遣して劉淵に備えさせた。

10月、劉淵は皇帝を名乗った。領内に大赦を下し、年号を永鳳と改元した。

11月、長男の劉和を大将軍、三男の劉聡を車騎将軍、養子の劉曜を龍驤大将軍とした。

12月、大将軍劉和大司馬・梁王とし、尚書令劉歓楽大司徒・陳留王とし、御史大夫呼延翼大司空・雁門郡公とし、宗室はみな郡県王に封じ、異姓でも功績が大きい者はそれぞれ郡県公侯に封じた。

309年1月、太史令宣于修之からの進言を受け、平陽に遷都した。

有る人が汾水の中から、玉璽を拾った。玉璽には、「有新保之(新朝がこれを保つ)」と書いており、おそらく王莽の時代の玉璽だと思われた。拾った人は、その玉璽に「淵海光」の3字を追加し、劉淵に送った。劉淵は、この玉璽を吉兆であるとして、大赦を下し、河瑞と改元した。

3月、晋の左積弩将軍朱誕が漢へ亡命してきた。彼は洛陽がいかに脆弱であるかを語り、劉淵に攻撃を勧めた。そこで劉淵は、朱誕を前鋒都督、滅晋将軍劉景を大都督とし、黎陽を攻撃させた。劉景らは黎陽を撃破し、更に進撃して、延津において王堪を撃ち破った。この時、劉景は三万任余りの男女を河へ投げ込んで殺した。これを聞いた劉淵は激怒し、「劉景はどんな顔をして私に会うつもりなのか。こんな無体な行いは天が許さぬであろう。我が滅ぼすのは司馬氏だけである。民百姓に一体何の罪があるというのか。」と言い、 劉景を平虜将軍に降格させた。

王弥を侍中、都督青・徐・兗・豫・荊・揚六州諸軍事・征夷大将軍に任命し、楚王の劉聡、前鋒都督の石勒と共に壺関を攻撃させた。并州刺史の劉琨は救援軍を派遣したが、劉聡と石勒に撃破され、皆殺しとなった。司馬越は、淮南内史の王昿と将軍の施融曹超を派遣して劉聡軍を防がせた。劉聡は長平で敵軍と戦い、王昿を撃退し、施融、曹超を戦死させた。

5月、劉裕を斉王に封じ、劉隆を魯王に封じた。

洛陽侵攻と最期[編集]

8月劉聡と王弥に晋の都洛陽攻略を命じ、劉曜と趙固らに後詰をさせた。劉聡らは、東海王司馬越が派遣した平北将軍曹武らを破り、続けざまに平昌公司馬模が派遣した淳于定らも撃退したが、弘農太守垣延の夜襲を受け、大敗して帰還した。劉淵は、白服(喪服)を着て劉聡を迎えた。

10月、劉淵は再び洛陽攻略の軍を起こした。劉聡と王弥に、劉曜・劉景らを初めとして精兵5万を率いさせ、呼延翼に歩兵を率いて後続させた。劉聡らは河南で晋軍を打ち破るが、護軍の賈胤の夜襲を受けて南へ軍を戻し、洛水に陣営を築いた。その後、宣陽門に進駐すると、劉曜・王弥・劉景に洛陽の各門から攻勢をかけさせたが、司馬越の参軍孫詢丘光楼裒らに大敗を喫した。劉淵は、黄門郎傅詢を劉聡の下へ派遣し、軍を帰還させた。

12月、劉歓楽を太傅に、劉聡を大司徒に、劉延年を大司空に、劉洋を大司馬にそれぞれ任じ、領内に大赦を下した。曲陽王の劉賢と征北大将軍の劉霊、安北将軍の趙固、平北将軍の王桑を内黄へ派遣して屯営させた。

310年1月、妻の単氏を皇后に立て、劉和を皇太子とし、劉乂を北海王とした。

7月、劉聡・劉曜・石勒・趙国を河内に派遣し、太守の裴整を包囲した。晋朝は救援軍を派遣したが、石勒と王桑がこれを撃退すると、河内の住民は裴整を捕らえて降伏してきた。劉淵は、裴整を尚書左丞に抜擢した。

同月、劉淵は病床に伏すようになった。後事を託す準備として、劉歓楽を太宰に、劉洋を太傅に、呼延年太保に、劉聡を大司馬・大単于・録尚書事にした。平陽西部に単于台を置き、劉裕を大司徒にした。

劉淵の病がいよいよ重くなってくると、劉歓楽と劉洋らを禁中に呼び出し、遺詔を与えて朝政を補佐するよう命じた。

8月、劉淵はこの世を去った。在位すること6年であった。大志を抱き、寛容で英傑だったという。子の劉和が位を継いだ。 9月、劉淵は光文皇帝とされ、永光陵に葬られ廟号を高祖と号した。

人物[編集]

  • 生涯の項にも記したとおり、幼少時より学問を好み、『春秋左氏伝』『孫子』『呉子』は諳んじるほどであった。『史記』『漢書』やその他諸々の書物で読んだことのないものはなかった。かつて同じ崔游門下の朱紀・范隆に向けて「随何陸賈には学問があっても武功が無く、絳侯(周勃)や潁陰侯(灌嬰)には武勇があっても学問が無かった。だから随何・陸賈は高祖に仕えたが侯に封ぜられる活躍はできず、絳侯・潁陰侯は太宗に仕えたが人民を教導するような事はできなかった。いずれしても惜しいことだ」と言った。そしてそれを自らの教訓とし、武芸の稽古にも励んだ。そのため、よく強弓を引いて百発百中となった[1]
  • 長じて身の丈8尺4寸(約193センチ)の長身となり、腕力においても敵う者が無いほどになったという。
  • 鬚が3尺(約70センチ)余りで、真ん中に赤く細い毛が3本あり、その3本だけが3尺6寸(約83センチ)と、他より長かった。
  • 従弟で劉淵の妻の弟に当たる呼延攸は、漢の元勲の一人である呼延翼の子であるが、劉淵はその無能で俗的な人格を忌み嫌い、決して要職に就けなかったという。ところが、後を継いだ劉和は呼延攸と仲が良く、彼を太尉に就けて、その進言で異母弟の劉聡らを粛清しようとしたので、身の破滅を迎えたという。果たして劉淵が懸念した通り、呼延攸は政治家としては無能だった。

不遇の半生[編集]

劉淵が洛陽にいた頃、その血筋と彼自身の才覚故に、常に周囲の重臣達から警戒され、生命の危機に瀕していた。

  • まだが健在だった頃、司馬炎は王済に「劉淵は容姿端麗で才能にあふれている。春秋由余や前漢の金日磾でも、劉淵には及ばない。」と言った。王済は「劉淵の容姿や才能が優れているのは、陛下の仰るとおりです。しかし劉淵の文武の才は、由余や金日磾と比較するようなものではありません。もし劉淵に東南方面の軍事一切をお任せになるならば、呉郡や会稽郡はたちまち帰順し、呉を平定に赴く必要すらなくなるでしょう。」と答えた。司馬炎は、王済の意見を支持した。しかし、孔恂楊珧は、進み出て「臣が劉淵の才覚を見たところ、おそらく他に並ぶものはいないでしょう。もし陛下が彼に兵権を与えれば、孫呉を平定した後、転進して北に軍を向けるやもしれません。彼は胡族であり、胸のうちに、必ず異心があります。ですから臣は、ひそかに陛下のために、この件について憂慮しております。彼に長江の要害に拠るような機会を与えてはなりません。」と言った。その為、司馬炎は黙り込んでしまった。
  • 270年から278年にかけて、鮮卑の禿髪樹機能が西晋に対し大規模な反乱を起こし、秦州涼州を席巻した、司馬炎は朝議において、誰に平定を任せるべきか意見を集めた。李喜は「陛下がもし五部匈奴を動員し、劉淵に将軍号を与えて、西に進軍させれば、たちまち平定することでょう。」と言った。だが、孔恂は「李公(李喜)の進言は、憂いを完全に取り除くものとは言えません。」と反論した。李憙は怒り、「匈奴の勇猛さと劉淵の用兵の巧みさをもって陛下の威を広めれば、どうして滅ぼせないことがあるのか。」と言った。孔恂が「もし劉淵が涼州を平定して、禿髪樹機能を斬ったとしても、涼州に劉淵という新たな難が起きるだけです。龍が雲雨を得れば、もう池の中に潜んだりはしないでしょう。」と答えた。結局司馬炎は、劉淵に涼州平定を命じるのを諦めた。
  • 劉淵は名門貴族の王弥と仲が良く、彼が洛陽から故郷の山東に帰るとき、九曲の川岸まで見送りに行った。劉淵は涙を流して王弥に「王渾や李憙は、同郷のよしみで私の事を称賛し、朝廷に推挙してくれる。だが、それによって一部の人に、陛下の前で私を讒言する(貶める)機会を与えてしまっている。これは私の本意ではなく、むしろ立場を危うくしているだけだ。それに私は元から官位などに興味はないのだ。私が本音を話せるのはあなただけだ。私は恐らく洛陽で誅殺されるだろう。あなたと会うのも、これが最後であろうな。」と話した。劉淵は感情が昂ぶって酒を飲み、憤り嘆いた。その声は高く響き、同席していた人は、皆涙を堪え切れなかったという。当時九曲に駐屯していた斉王司馬攸は、この一件を伝え聞くと、人を派遣して劉淵を観察させた。そして、彼の様子を確認すると、兄の司馬炎に「劉淵を除かなければ、并州が久しく安寧のままではないでしょう」と忠告した。しかし、王渾は進み出て「劉淵は徳に優れる人物です。私は、陛下の為にはっきりと申します。この晋国は、誠を用いて少数民族を従え、徳を用いて遠方の民を帰属させております。劉淵は匈奴を代表して来朝しているのです。その劉淵を、もしあらぬ疑いをかけて殺してしまえば、晋朝の恩徳が広まることなどありましょうか。」と反論した。司馬炎は王渾に深く同意した。

逸話[編集]

魏の嘉平年間(249年254年)、劉豹の妻呼延氏は龍門で子宝が授かるように祈っていると、頭には2本の角がある1匹の大きな魚が突然現れた。その魚は鱗を躍らせながら祭壇に上ると、しばらくして去った。 は、皆このことを「これは吉兆です。」と言った。 その夜、呼延氏は不思議な夢を見た。昼間に目撃した魚が人に変わり、左手には鶏卵の半分程の大きさの光る物を持ち、呼延氏にそれを渡して 「これは日の精である。これを飲めば、優れた価値のある子を産むことが出来るだろう。」と言った。 目が覚めた呼延氏は、劉豹に夢の話をした。すると劉豹は 「良い夢を見たな。私がかつて邯鄲にいる張冏の母司徒氏の下に行った時、彼女はひとつの予言をした。私の子孫は高貴な身分となり、3代のうちに必ず大いに栄えると。お前の夢はこれと合致する。」と言った。 それから13ヶ月後、劉淵が生まれると、左手には「淵」という紋様が浮き出ていた為、それをもって名前を付けた。

関連項目[編集]

  • 三国志平話 - 三国志演義の原型となった、代の小説。作中において劉淵は漢王朝の末裔とされ、劉淵が天下を取り漢朝が復興したというハッピーエンドで話が終わる。
  • 続三国演義 - 別称「三国志後伝」。明代の小説。著者は酉陽野史。劉淵は劉禅の第七子劉璩が名を変えた姿という設定。基本的な流れは三国志平話と同様で、劉淵は蜀の名将の子孫たちと共に晋を打ち倒すというもの。
  • 後三国石珠演義 - 清代の小説。石珠という女性が劉弘祖と協力し趙を建国。晋を滅ぼすべく戦うという内容。劉弘祖のモデルが劉淵とされる。妖術・方術使いが大量に登場する等、ファンタジー色が非常に強い。

宗室[編集]

后妃[編集]

子女[編集]

関連人物[編集]

『晋書』に基づく。晋・後趙の人物は除く。

従子・族子
従曾祖父
従祖父
従父・族父
従兄弟・族兄弟
族子 劉曜の子
弟3子 劉聡の妻
呼延一族
劉氏外戚
配下

参考文献[編集]

  1. ^ 晋書·巻101·載記第1による