ウェス・アンセルド
故人 | |
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ポジション | C |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1946年3月14日 |
没年月日 | 2020年6月2日(74歳没) |
出身地 | ケンタッキー州ルイビル |
身長(現役時) | 201cm (6 ft 7 in) |
体重(現役時) | 111kg (245 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | ルイビル大学 |
ドラフト | 1968年 2位 |
永久欠番 | ウィザーズ 41 |
選手経歴 | |
1968-1981 | ボルティモア/キャピタル/ワシントン・ブレッツ |
指導者経歴 | |
1987-1994 | ワシントン・ブレッツ |
受賞歴 | |
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Stats Basketball-Reference.com | |
ウェスリー・シセル・アンセルド (Westley Sissel Unseld, 1946年3月14日 - 2020年6月2日) はアメリカ合衆国の元バスケットボール選手である。NBAのワシントン・ブレッツのセンターとして1960年代後半から70年代前半にかけて活躍した。リバウンドの獲得に長けており、ゴール下をほぼ支配した。また、引退後はヘッドコーチとしてブレッツを7シーズン率いた。
6フィート7インチの身長ながら(現役引退後、彼は6フィート6インチにも満たないことを明かした。)、自分より背の高いカリーム・アブドゥル=ジャバーなど7フィートの選手達とゴール下で争い、NBAオールスターゲームに5回選出された[1]。
1988年にバスケットボール殿堂入りした。
経歴
[編集]カレッジ時代
[編集]アンセルドは生まれ育った地元ケンタッキー州のセネカ高校で頭角を現し、2度の州チャンピオンシップを制する活躍をする。1965年に卒業すると、ルイビル大学に入学しセンターとしてプレーをした。彼は在学中の3年間カンファレンスのリバウンドリーダーとなり、チームをNCAAトーナメントまで導く。カレッジ時代の成績はトータル得点1,669ポイント(ゲーム平均20.6ポイント)、トータルリバウンド1,551(ゲーム平均18.9リバウンド)を記録している[1]。
NBAプレーヤー時代
[編集]カレッジで目覚しい活躍をしたアンセルドは卒業後1968年のNBAドラフトでボルチモア・ブレッツに1巡目全体2位で指名を受け入団した[1]。それまで1度も勝ち越したことの無かったチームで彼の現役時代の12シーズンでチームは10回勝ち越し、12年連続でプレーオフに出場した[1]。
入団した1年目のシーズン、アンセルドは前年に入団し、最優秀新人賞を獲得したアール・モンロー、得点力の高いガードのケビン・ローアリー、パワーのあるフォワードのガス・ジョンソンと共に活躍、前年ディビジョン6位だったチームは勝ち星を21増やして、57勝25敗で東ディビジョン優勝を果した。アンセルドは平均13.8ポイント、ウィルト・チェンバレンに次ぐNBA2位の18.2リバウンド、2.6アシストを上げ、最優秀新人賞と最優秀選手賞(MVP)を獲得した。両賞を同時に獲得したのはチェンバレンに続いて史上2人目の快挙であった[1]。ジーン・シューヘッドコーチがこの年、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。プレーオフでは準決勝でニューヨーク・ニックスに敗れたものの平均18.8得点、18.5リバウンドをあげた[1]。
1969-70シーズンも平均16.2得点、エルビン・ヘイズに次ぐNBA2位の平均16.7リバウンドをあげた。チームはイースタン・ディビジョン3位となった[1]。
NBAの各チームは、1970-71シーズンに2つのカンファレンスと4つのディビジョンに分けられ、ブレッツは、セントラル・ディビジョンに所属することとなった[1]。カンファレンスファイナルでニックスを倒して念願のNBAファイナル進出を果した[1]。以降、ブレッツはプレーオフの常連チームとなるが、優勝までは手が届かなかった。
入団してから4シーズン連続でNBA2位のリバウンドをあげたアンセルドは、チームがワシントンD.C.に移り、キャピタル・ブレッツと改称、K・C・ジョーンズヘッドコーチが就任した1973-74シーズンは怪我のため26試合に欠場し、平均5.9得点、9.2リバウンドと成績を落とした[1]。
チームがワシントン・ブレッツと改称した1974-75シーズンに平均14.8リバウンドをあげて、初のリバウンド王となった。このシーズン、ニューオーリンズ・ジャズ戦では30リバウンドを記録した。チームは60勝22敗でセントラル・ディビジョンチャンピオンとなった。ブレッツ(現ウィザーズ)が60勝をあげたのは、このシーズンのみである[1]。バッファロー・ブレーブスを4勝3敗、ボストン・セルティックスを4勝2敗で破り、4年ぶりに自身2度目のNBAファイナル進出を果したが、リック・バリーを擁するゴールデンステート・ウォリアーズに4連敗で敗れた[1]。
1975-76シーズンはNBA3位の平均13.3リバウンドとリバウンドは減ったものの、シュート成功率56.1%をマークした。チームは48勝34敗でシーズンを終えた。1976-77シーズンも48勝34敗でシーズンを終えたチームは、1977-78シーズンに念願のNBAファイナル制覇を果たした。得点でNBAベスト20に入った選手は1人もいなかったが、平均19.7得点のヘイズ、19.3得点のボブ・ダンドリッジを始めとする6人の選手が平均10得点以上をあげ、アンセルドは、平均7.6得点、NBA10位の11.9リバウンドをあげた[1]。レギュラーシーズンを44勝38敗でディビジョン2位で終えたチームは、アトランタ・ホークス、サンアントニオ・スパーズ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズを破り、NBAファイナルに進出した。ディック・モッタヘッドコーチに率いられたチームは、シアトル・スーパーソニックスを4勝3敗で倒し、チャンピオンリングを獲得した。アンセルドは、プレーオフで平均9.4得点、12.0リバウンドをあげて、ファイナルMVPにも選ばれた[1]。翌1978-79シーズンにも54勝28敗の成績をあげたブレッツはファイナル進出を果すが、レニー・ウィルケンズヘッドコーチのスーパーソニックスに1勝4敗で敗れて2度目の優勝はならなかった[1]。
長年ひざの故障に苦しんだ彼は、1980-81シーズン終了後に現役を引退し、チームのフロントに入った[1]。
70年代に4回NBAファイナルに進み優勝は1回だった。
1988年にバスケットボール殿堂入りを果した。また1996年にはNBAの50周年を記念して選ばれた「NBA偉大な50選手」の一人にも選出された[1]。
2020年6月2日死去[2]。74歳没。
コーチ時代
[編集]ブレッツのフロント入りし、副社長を務めた後、1987-1988シーズン、チームが8勝19敗となったところで、ケビン・ローアリーに代わってヘッドコーチに就任、シーズン残り試合で30勝25敗と勝率5割を超え、チームはアトランティック・ディビジョン2位となりプレーオフにチームを導いた[1]。
しかし、その後はブレッツは低迷期に入っていき、1988-1989シーズンに40勝42敗でプレーオフを逃した後、勝率も年々下がっていき、1992-93シーズンは22勝60敗、1993-94シーズンも24勝58敗でシーズンを終え、1993-94シーズン終了後コーチから退任した[1]。
コーチングキャリア戦績は7シーズンで202勝345敗(勝率36.9%)である[1]。
個人成績
[編集]* | リーグ1位 |
太字 | キャリアハイ |
NBAチャンピオン |
レギュラーシーズン
[編集]Season | Team | GP | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1968-69 | BAL CAP WSB |
82 | 36.2 | .476 | — | .605 | 18.2 | 2.6 | — | — | 13.8 |
1969-70 | 82* | 39.4 | .518 | — | .638 | 16.7 | 3.5 | — | — | 16.2 | |
1970-71 | 74 | 39.2 | .501 | — | .657 | 16.9 | 4.0 | — | — | 14.1 | |
1971-72 | 76 | 41.7 | .498 | — | .629 | 17.6 | 3.7 | — | — | 13.0 | |
1972-73 | 79 | 39.1 | .493 | — | .703 | 15.9 | 4.4 | — | — | 12.5 | |
1973-74 | 56 | 30.8 | .438 | — | .655 | 9.2 | 2.8 | 1.0 | .3 | 5.9 | |
1974-75 | 73 | 39.8 | .502 | — | .685 | 14.8* | 4.1 | 1.6 | .9 | 9.2 | |
1975-76 | 78 | 37.5 | .561* | — | .585 | 13.3 | 5.2 | 1.1 | .8 | 9.6 | |
1976-77 | 82 | 34.9 | .490 | — | .602 | 10.7 | 4.4 | 1.1 | .5 | 7.8 | |
1977-78 | 80 | 33.1 | .523 | — | .538 | 11.9 | 4.1 | 1.2 | .6 | 7.6 | |
1978-79 | 77 | 31.2 | .577 | — | .643 | 10.8 | 4.1 | .9 | .5 | 10.9 | |
1979-80 | 82 | 36.3 | .513 | .500 | .665 | 13.3 | 4.5 | .8 | .7 | 9.7 | |
1980-81 | 63 | 32.3 | .524 | .500 | .640 | 10.7 | 2.7 | .8 | .6 | 8.0 | |
Career | 984 | 36.4 | .509 | .500 | .633 | 14.0 | 3.9 | 1.1 | .6 | 10.8 | |
All-Star | 5 | 15.4 | .500 | — | .600 | 7.2 | 1.2 | .4 | .0 | 6.2 |
プレーオフ
[編集]Year | Team | GP | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | BAL CAP WSB |
4 | 41.3 | .526 | — | .789 | 18.5 | 1.3 | — | — | 18.8 |
1970 | 7 | 41.3 | .414 | — | .789 | 23.6* | 3.4 | — | — | 10.4 | |
1971 | 18 | 42.2 | .462 | — | .568 | 18.8 | 3.8 | — | — | 13.2 | |
1972 | 6 | 44.3 | .492 | — | .526 | 12.5 | 4.2 | — | — | 12.3 | |
1973 | 5 | 40.2 | .417 | — | .474 | 15.2 | 3.4 | — | — | 9.8 | |
1974 | 7 | 42.4 | .492 | — | .600 | 12.1 | 3.9 | .6 | .1 | 10.1 | |
1975 | 17 | 43.2 | .546 | — | .656 | 16.2 | 3.8 | .9 | 1.2 | 10.7 | |
1976 | 7 | 44.3 | .462 | — | .542 | 12.1 | 4.0 | .9 | .6 | 7.0 | |
1977 | 9 | 40.9 | .556 | — | .583 | 11.7 | 4.9 | .9 | .7 | 7.4 | |
1978 | 18 | 37.6 | .530 | — | .587 | 12.0 | 4.4 | .9 | .4 | 9.4 | |
1979 | 19 | 38.7 | .494 | — | .609 | 13.3 | 3.4 | .9 | .7 | 10.3 | |
1980 | 2 | 43.5 | .500 | .000 | .667 | 14.0 | 3.5 | .0 | 1.5 | 9.0 | |
Career | 119 | 41.1 | .493 | .000 | .608 | 14.9 | 3.8 | .8 | .7 | 10.6 |
記録
[編集]- 通算リバウンド:13,769(史上13位)
- 平均リバウンド:14.0(史上6位)
- プレーオフ通算リバウンド:1,777(史上8位)
- プレーオフ平均リバウンド:14.9(史上3位)
ワシントン・ウィザーズのフランチャイズ記録
[編集]- 出場試合:984(1位)
- 得点:10,624(5位)
- リバウンド:13,769(1位)
- アシスト:3,822(2位)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 NBA、Basketball-Reference、ESPN、RealGM
- NBA公式サイトよりNBA史上50人の偉大な選手