パトリック・ユーイング

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パトリック・ユーイング
Patrick Ewing
Patrick Ewing.png
2018年のユーイング
ジョージタウン・ホヤズ HC
役職 ヘッドコーチ
所属リーグ ビッグ・イースト・カンファレンス
基本情報
愛称 キングコング
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1962-08-05) 1962年8月5日(60歳)
出身地 ジャマイカの旗 ジャマイカ
サリー郡キングストン
身長(現役時) 213cm (7 ft 0 in)
体重(現役時) 109kg (240 lb)
キャリア情報
高校 ケンブリッジ・リンジ&ラテン英語版
大学 ジョージタウン大学
NBAドラフト 1985年 / 1巡目 / 全体1位[1]
プロ選手期間 1985年–2002年
ポジション C
背番号歴 33, 6
永久欠番 ニックス  33 
指導者期間 2002年–現在
経歴
選手時代:
19852000ニューヨーク・ニックス
2000–2001シアトル・スーパーソニックス
2001–2002オーランド・マジック
コーチ時代:
2002–2003ワシントン・ウィザーズ (AC)
20032007ヒューストン・ロケッツ (AC)
20072012オーランド・マジック (AC)
20132017シャーロット・ボブキャッツ/ホーネッツ (AC)
2017–ジョージタウン大学
受賞歴

選手時代


監督時代

  • Big Eastトーナメントチャンピオン (2021)
NBA通算成績
得点数 24,815 (21.0 ppg)
リバウンド数 11,617 (9.8 rpg)
ブロック数 2,894 (2.4 bpg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
バスケットボール殿堂入り選手 (詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2012年)
代表歴
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 1984, 1992
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オリンピック
1984 ロサンゼルス バスケットボール
1992 バルセロナ バスケットボール

パトリック・アロイシャス・ユーイングPatrick Aloysius Ewing , 1962年8月5日 - )は、ジャマイカキングストン出身の元プロバスケットボール選手。NBAニューヨーク・ニックスなどで活躍した。ポジションはセンター。リーグを代表するセンタープレイヤーの一人として現役時代を過ごした。1984年1992年オリンピック金メダリスト。1996年にはNBA50周年を記念した「50人の偉大な選手」に選ばれるなど、歴史に名を残す名選手と考えられているが、所属チームの優勝経験がないまま2002年に引退した。2008年殿堂入り。

大学時代まで[編集]

ジャマイカのキングストンに生まれ、12歳のときに家族とともにアメリカマサチューセッツ州ケンブリッジに移る。本人は移住当初アメリカでの生活になかなか馴染めなかったと述懐している。

少年時代から長身であり、中学時代にバスケットボールを始めている。高校時代には名の知れた選手になっており、様々な大学から勧誘を受けジョージタウン大学進学を決意する。

ジョン・トンプソン監督が率いるチームでユーイングは華々しい活躍を見せ、特にディフェンスでの評価が高かった。ジョージタウン大は1983年から3年連続でNCAAの準決勝に進み、1984年にはアキーム・オラジュワンを擁するヒューストン大学を破り優勝、ユーイングはトーナメントの最優秀選手に選ばれた。1985年にはネイスミス賞を受賞。

大学界で最も優秀な選手の一人だったユーイングは、1984年ロサンゼルスオリンピックにアメリカ代表として出場(この頃にはアメリカに帰化していた)、金メダルを獲得した。

現役時代[編集]

キャリア初期[編集]

1985年に教養の学位(Bachelor of Arts)を取り大学を卒業、ドラフト全体1位でニューヨーク・ニックスに指名された。以後キャリアのほとんどをニックスで過ごす。

最初のシーズンは怪我で50試合の出場にとどまったが、1試合平均20得点、9リバウンドをあげルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞。以後シーズンごとに少しずつ成績を伸ばしていき、1988年からはオールNBAセカンドチームに、平均28.6得点、10.9リバウンドをあげた1990年にはオールNBAファーストチームに選出された。

ニックスは1987年に就任したリック・ピティーノのもと勝ち星を増やしていったが、ようやく出場した1988年のプレイオフでは1回戦でボストン・セルティックスに1勝3敗で敗退、翌シーズンはシカゴ・ブルズに2勝4敗で敗れている。

続く2シーズンはチーム成績が振るわなかったが、この時期を前後してニックスは1990年代にチームの中核となる選手を獲得している。1987年にはドラフトでポイントガードマーク・ジャクソンを指名、1988年には屈強なディフェンダーのチャールズ・オークレーを獲得し、1990年には起爆剤的なムードメーカージョン・スタークスCBAから拾い上げている。

キャリア中期[編集]

1995年頃のユーイング

1991年パット・ライリーが監督に就任。これを機に、ニックスは次第にリーグを代表する強豪に成長していくことになる。1980年代ロサンゼルス・レイカーズの華やかな「ショータイム」を演出したライリーは、ニックスを全く正反対の志向を持つチームに育て上げる。ライリーのニックスは、地味で時には激しいディフェンスで他チームを苦しめた。

しかしプレイオフではマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズを追い詰めるものの倒すには至らず、3年連続でブルズに敗れている。

ジョーダンが引退した1994年のプレイオフでは、ユーイングとニックスにようやくチャンスが訪れる。カンファレンス・セミファイナルではスコッティ・ピッペン率いるブルズを第7戦で下し、続くカンファレンス・ファイナルではレジー・ミラーリック・スミッツらに苦しめられながらもインディアナ・ペイサーズを7戦で退ける。

ニックスは約20年ぶりにNBAファイナルに進出、1973年以来の優勝を狙うこととなった。対戦相手はヒューストン・ロケッツで、チームのエースは大学時代のライバルアキーム・オラジュワンだった。シリーズは両チームとも100点を超えることのないディフェンシブな展開となり、最終の第7戦までもつれ込んだ。スタークスの乱調もあってニックスは最終戦を落とし、ユーイングは生涯最大のチャンスを逃してしまう。

1994-95シーズンのプレイオフ、ニックスはカンファレンス・セミファイナルでインディアナ・ペイサーズに敗れ、優勝への道を閉ざされる。このシーズンが終わると、ライリー監督はチームを去った。

続く1995-96シーズンよりニックスはジェフ・ヴァン・ガンディー監督の時代に入る。その後数シーズンの間ユーイングはリーグを代表する選手であり続け、チームも何度かカンファレンス・セミファイナルまで到達するものの、優勝を伺うには至らなかった。

キャリア末期[編集]

1990年代末期に近づくと、30代後半に入っていたユーイングは徐々に衰えを見せ始め、怪我も多くなっていく。チームは新たに加わったアラン・ヒューストンマーカス・キャンビーラトレル・スプリーウェルなど走力のある選手が中核を占めるようになった。

ロックアウトで短縮された1998-99シーズン、ニックスはカンファレンス8位であり辛うじてのプレイオフ進出だった。ところが、ラトレル・スプリーウェルらが奮起し、大方の予想に反してトーナメントを勝ち進み、ニックスは再びNBAファイナルに進出する。しかしこの時2度目のチャンスを迎えたはずのユーイングは足首の負傷により戦列を離れていた。

このプレイオフの期間中、マスコミはユーイングに対して批判を行うようになっていた。ユーイングがいない時の方がチームは走るゲームを展開できるようになり、それがプレイオフを勝ち上がった要因というものだった。NBAファイナルはティム・ダンカンが頭角を現してきたサンアントニオ・スパーズがニックスを4勝1敗で下し、優勝を決めた。

怪我と年齢により個人成績が下がっていたユーイングを、ニックスは2000年についにトレードに出した。シアトル・スーパーソニックスでは1試合平均26分、翌シーズンのオーランド・マジックでは平均13分出場。マジックでのシーズン終了後、ユーイングは引退し17年の選手生活を終えた。

プレースタイルと業績[編集]

大学時代のユーイングはディフェンスが優れた選手として知られていた。プロ入りすると、ユーイングは得点でも優れた面を見せるようになった。ゴール下に強いだけでなく、ユーイングはジャンプショットが巧みな選手でもあり、中距離からのシュートは高確率で沈めた。そして、長身選手にしてはフリースローも上手で、オラジュワンやロビンソンなど同年代を活躍したビッグマン達と共に優秀なスコアラーの一人であった。

また、ユーイングはニューヨーク・ニックスが久しぶりに得たスーパースター級の選手だった。ニックスを1970年代初期以来のNBAファイナル進出に導いたのみならず、得点、リバウンド、スティールブロックなどでニックス歴代最高の記録を持っている。ニックス在籍時には批判も多く受けたユーイングではあるが、ユーイング退団後はチームも低迷。ファンやメディアもユーイングの実力を再認識し、トレードにより他チームの選手になっても、ニューヨークを訪れると会場のファンはユーイングを大歓迎した。

2003年2月にユーイングの背番号33がニックスの永久欠番になった時にも、ファンは大歓声でユーイングを迎えた。

生涯通算得点は24,815点、リバウンドは11,607本、ブロックは2,894本。1994年のNBAファイナルでは、ファイナル記録となる通算30ブロックをあげている。

1992年には、ドリームチームの一員としてバルセロナオリンピックに参加、2つめの金メダルを獲得している。

個人成績[編集]

略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック  PPG  平均得点  太字  キャリアハイ

レギュラーシーズン[編集]

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1985–86 NYK 50 50 35.4 .474 .000 .739 9.0 2.0 1.1 2.1 20.0
1986–87 63 63 35.0 .503 .000 .713 8.8 1.7 1.4 2.3 21.5
1987–88 82 82 31.0 .555 .000 .716 8.2 1.5 1.3 3.0 23.2
1988–89 80 80 36.2 .567 .000 .746 9.3 2.4 1.5 3.5 22.7
1989–90 82 82 38.6 .551 .250 .775 10.9 2.2 1.0 4.0 28.6
1990–91 81 81 38.3 .514 .000 .745 11.2 3.0 1.0 3.2 26.6
1991–92 82 82 38.4 .522 .167 .738 11.2 1.9 1.1 3.0 24.0
1992–93 81 81 37.1 .503 .143 .719 12.1 1.9 0.9 2.0 24.2
1993–94 79 79 37.6 .496 .286 .765 11.2 2.3 1.1 2.7 24.5
1994–95 79 79 37.0 .503 .286 .750 11.0 2.7 0.9 2.0 23.9
1995–96 76 76 36.6 .466 .143 .761 10.6 2.1 0.9 2.4 22.5
1996–97 78 78 37.0 .488 .222 .754 10.7 2.0 0.9 2.4 22.4
1997–98 26 26 32.6 .504 .000 .720 10.2 1.1 0.6 2.2 20.8
1998–99 38 38 34.2 .435 .000 .706 9.9 1.1 0.8 2.6 17.3
1999–2000 62 62 32.8 .435 .000 .731 9.7 0.9 0.6 1.4 15.0
2000–01 SEA 79 79 26.7 .430 .000 .685 7.4 1.2 0.7 1.2 9.6
2001–02 ORL 65 4 13.9 .444 .000 .701 4.0 0.5 0.3 0.7 6.0
通算 1,183 1,122 34.3 .504 .152 .740 9.8 1.9 1.0 2.5 21.0
オールスター 9 3 17.8 .537 .000 .692 6.7 0.8 1.2 1.8 11.8

プレーオフ[編集]

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1988 NYK 4 4 38.3 .491 .000 .864 12.8 2.5 1.5 3.3* 18.8
1989 9 9 37.8 .486 .750 10.0 2.2 1.0 2.0 19.9
1990 10 10 39.5 .521 .500 .820 10.5 3.1 1.3 2.0 29.4
1991 3 3 36.7 .400 .778 10.0 2.0 0.3 1.7 16.7
1992 12 12 40.2 .456 .000 .740 11.1 2.3 0.6 2.6 22.7
1993 15 15 40.3 .512 1.000 .638 10.9 2.4 1.1 2.1 25.5
1994 25 25 41.3 .437 .364 .740 11.7 2.6 1.3 3.0 21.9
1995 11 11 36.3 .513 .333 .686 9.6 2.5 0.5 2.3 19.0
1996 8 8 41.0 .474 .500 .651 10.6 1.9 0.1 3.1* 21.5
1997 9 9 39.7 .527 .000 .643 10.6 1.9 0.3 2.4 22.6
1998 4 4 33.0 .357 .593 8.0 1.3 0.8 1.3 14.0
1999 11 11 31.5 .430 .593 8.7 0.5 0.6 0.7 13.1
2000 14 14 32.9 .418 .697 9.5 0.4 1.1 1.4 14.6
2002 ORL 4 0 16.8 .320 .000 .588 5.5 1.0 0.3 1.0 6.5
通算 139 135 37.5 .469 .348 .718 10.3 2.0 0.9 2.2 20.2

キャリアハイ[編集]

カテゴリ 記録 所属チーム 対戦相手 日付
得点 51 ニューヨーク・ニックス vs. ボストン・セルティックス 1990
フィールドゴール成功数 22 ニューヨーク・ニックス vs. シャーロット・ホーネッツ 1990年12月1日
フィールドゴール試投数 37 ニューヨーク・ニックス at サンアントニオ・スパーズ 1991年3月26日
3ポイント成功数 1 ニューヨーク・ニックス 同率19チーム
3ポイント試投数 3 ニューヨーク・ニックス 同率2チーム
フリースロー成功数 18 ニューヨーク・ニックス vs. インディアナ・ペイサーズ 1991年1月10日
フリースロー試投数 23 ニューヨーク・ニックス 同率2チーム
オフェンスリバウンド 11 ニューヨーク・ニックス vs. ミルウォーキー・バックス 1996年2月20日
ディフェンスリバウンド 22 ニューヨーク・ニックス vs. マイアミ・ヒート 1992年12月19日
トータルリバウンド 26 ニューヨーク・ニックス vs. マイアミ・ヒート 1992年12月19日
アシスト 11 ニューヨーク・ニックス vs. シャーロット・ホーネッツ 1996年4月19日
スティール 5 ニューヨーク・ニックス 同率4チーム
ブロック 9 ニューヨーク・ニックス 同率4チーム
出場時間 54分 ニューヨーク・ニックス at アトランタ・ホークス 1991年12月7日

その他[編集]

  • 選手会会長
1997年から4年間、ユーイングは選手協会の会長であり、NBA選手を代表する立場にあった。1998-99シーズンには、選手協会とチームのオーナー側との間の労使関係(主に年俸について)の話し合いが決着に至らず、チーム側が選手を施設から閉め出すというロックアウトがNBA史上初めて現実のものとなった。シーズン開幕の時期から4か月遅れの1999年2月にようやく両者は妥協に至り、50試合のシーズンを行うという異例の事態となった。
  • 人柄
ユーイングは滅多にマスコミのインタビューを受けない選手だった。また喫煙する人をあからさまに避けることもよくあったという。
一方で気前の良い面もあった。1992年のオリンピック前の時期には、ともに怪我で練習を休んでいたラリー・バードやたまたま近くにいた見知らぬ人に対し、突然高価な飲食物を奢ったというエピソードもある。
また、NBAシーズン開幕直前にはニックスの「優勝宣言」をするのも彼の例年の習慣だった。
大学の後輩であるアロンゾ・モーニングが腎臓疾患にかかった時、臓器提供に名乗りを上げたことがある。
  • CM
日本の進研ゼミ(ベネッセコーポレーション)のCMに出演。中学生時代の田臥勇太と共演した。
  • 引退後
引退後のユーイングは監督業の道を歩んでいる。2002年に引退すると、ユーイングはワシントン・ウィザーズでアシスタント・コーチの職に就いた。その後はヒューストン・ロケッツに移り、姚明の指導に当たった。その後もオーランド・マジックで主にドワイト・ハワードの指導に当たるなど同様の仕事を続けた。2013年から4年間はシャーロット・ホーネッツのコーチを務めた。2017年4月4日、母校ジョージタウン大学のヘッドコーチ就任が発表された。
  • ジュニア
息子であるパトリック・ユーイング・ジュニアもバスケットボールプレイヤーである。父と同じジョージタウン大学のバスケットボールチームで父の了承を得て父と同じ背番号33をつけてプレーした。そして2008-2009シーズンより父と同じニックスに入団している。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

外部リンク[編集]