エディ・カリー

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エディ・カリー
Eddy Curry Jr.
Eddycurry2.JPG
名前
本名 Eddy Curry Jr.
愛称 "Eddy Picante", "The Spice"
ラテン文字 Eddy Curry Jr.
基本情報
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1982年12月5日(31歳)
出身地 イリノイ州ハーベイ
身長 211cm
体重 130kg
選手情報
ポジション センター
ドラフト 2001年 4位
経歴
2001-2005
2005-2011
2011
2011-2012
2012
シカゴ・ブルズ
ニューヨーク・ニックス
ミネソタ・ティンバーウルブズ
マイアミ・ヒート
ダラス・マーベリックス

エディ・カリーEddy Curry Jr., 1982年12月5日 - )は、アメリカ合衆国バスケットボール選手。身長211cm、体重130kg。ポジションはセンターイリノイ州ハーベイ出身。

経歴[編集]

少年時代は体操競技選手になることを夢見ていた。ソーンウッド高校を卒業後、カレッジには進まず2001年のNBAドラフトシカゴ・ブルズから1巡目4位指名でNBA入り。同じく高卒で同じ年にブルズに入団したタイソン・チャンドラーと共に将来を嘱望され、ブルズの伝説的スター、マイケル・ジョーダンの背番号「23」にあやかって、カリーは「2」、チャンドラーは「3」の背番号を付けていた。技術は未熟ながらも大柄な体格を活かし、ゴール下では抜群の得点力を発揮。2年目の2002-2003シーズンにはフィールドゴール成功率はリーグトップの58.5パーセントを記録した。2004-05シーズンにはブルズのジョーダン時代以来のプレイオフ進出に貢献するが、2005年3月に不整脈が発覚し、以降シーズン終了までの13試合を欠場。プレイオフも全て欠場し、チームは彼の不在もあってプレイオフ1回戦で敗退した。FAとなっていたカリーに、ブルズは契約のためにも遺伝子検査を要求。検査で異常が見つかり、引退を余儀なくされた場合には、ブルズは毎年40万ドルを50年間支払う意向だったが、カリーは検査を拒否したため、ブルズはカリーの放出を決断した。健康上の不安を抱えるカリーのトレードは難航したが、ニューヨーク・ニックスとの間でカリーを含む5選手が絡んだトレードが成立した。

ニックスでは当時ヘッドコーチであったラリー・ブラウンとの間でチームのエースであったステフォン・マーブリーと共に軋轢が生じ、チーム成績は低迷を極めた。2006-2007シーズンにはゼネラルマネージャーからヘッドコーチに就任したアイザイア・トーマス体制のもと、カリーはチームのリーディングスコアラーとして活躍したが、プレイオフ進出は逃した。翌2007-08シーズンにはニックスが新たに獲得したザック・ランドルフとのコンビが注目を集めたが、上手く共存できず成績は大きく後退。

2008-09シーズンは体重超過や故障などでシーズンをほぼ全休。私生活では元運転手から同性愛を求められたとして訴えられ、また22万ドルの借金でマンションを差し押さえられ、さらに元恋人とその娘が殺害されるという事件(殺害された娘はカリーの子供ではないが、カリーと元恋人との間に生まれた当時3歳の息子は事件現場に居合わせた。容疑者は元恋人の弁護士)も起こり、公私ともに厳しい状況に追いやられている。

2011年2月22日、コーリー・ブリュワーとの交換トレードにより、アンソニー・ランドルフと共に、ミネソタ・ティンバーウルブズへ移籍したが、すぐに解雇された。同年12月にマイアミ・ヒートと契約し、チャンピオンリングを得たが、FAに伴い事実上の戦力外となり、2012年10月トレーニング・キャンプ時にスパーズと契約したがチームには合流せず、最終的にダラス・マーベリックスに移籍した。

プレイスタイル[編集]

最大の武器であるフックショットのみで現在の地位を築いた。幅のある巨体はパワーに優れ、ゴール下では抜群の決定力を誇るが、「一度預けたボールは二度と返ってこない」と評されるように、パスアウトという考えは持っていない。また、体格の割にブロックやリバウンドは少なく、ディフェンスへの意識も低い。

外部リンク[編集]