長嶋一茂

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長嶋 一茂
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都大田区
生年月日 (1966-01-26) 1966年1月26日(58歳)
身長
体重
181 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年4月9日
最終出場 1996年5月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

長嶋 一茂(ながしま かずしげ、1966年1月26日 - )は、日本の元プロ野球選手内野手)、タレントスポーツキャスター野球評論家俳優。現在は読売ジャイアンツ野球振興アドバイザー。

東京都大田区田園調布出身。ナガシマ企画所属。血液型B型。父は長嶋茂雄。4人兄弟の長男(第一子)で、弟はレーシングドライバー長島正興、妹はキャスターの長島三奈

来歴・人物

プロ入り前

田園調布中学校群馬県吾妻郡六合村(現:中之条町)にある白根開善学校中等部で中学時代を過ごした(ただし、ごく短期間で退寮)。高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格したが「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現・立教新座高等学校)に進学した。3年生時に甲子園埼玉県予選の準決勝まで進出したが、所沢商業高校にサヨナラ負けを喫した。その後立教大学に進学。立教大学硬式野球部では東京六大学リーグ通算101試合出場、382打数86安打、打率.225、11本塁打、54打点。4年生の時に2季連続ベストナイン(三塁手)に選ばれた。高校・大学の一年後輩に矢作公一がいる。

1987年のドラフト会議ヤクルト大洋の2球団が1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得。後に契約金8000万円、年俸840万円(金額は推定)で入団合意した[1]。ドラフト前日まで巨人も1位指名を検討したものの結局回避した[2]。当時ヤクルトの監督だった関根潤三は著書の中で「一茂のドラフト指名は僕の意向が強く働いた。六大学リーグでプレーする一茂を見に行って粗削りだけどものはいい。こりゃ素晴らしいプレーヤーになると思った」と記している[3]

ヤクルト時代

1988年、プロ初安打をホームラン神宮球場での巨人戦、ビル・ガリクソン投手から)で飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。

野村克也がヤクルト監督就任した1990年は出場機会が減少。野村は「ウチのお荷物。親父(茂雄)も俺が嫌いだから、恐らく家で親父の前で俺の悪口ばかり言ってただろう」といったことを語っていた[4]1991年は、6月初旬からスタメンで起用されると、6月9日の広島戦では3安打5打点の活躍をし、その試合を皮切りにチームが球団新記録の12連勝をした。この12試合中の長嶋の成績は、打率.282、2本塁打14打点OPS.934と、まずまずの成績を残し、ついに開花したと言われた。しかし、13連勝を狙った6月26日の巨人戦では、3点リードの9回裏にまずい守備を連発して逆転サヨナラ負けを喫したため、スポーツ紙では、長嶋に始まり長嶋で終わった12連勝と呼ばれた。

1992年は、マイナーリーグ1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学したため出場機会がなく、チームの14年ぶりの優勝には貢献できなかった。後に「報道ステーション」2008年5月27日放送分(テレビ朝日)の中で一茂は野村と対談、「お前(ミーティング中に)漫画描いてたじゃないか」と冗談混じりながら当時の行動について指摘されている。また関根は「しかし結局選手として大成させられなかった。今でももう少し育てようがあったんじゃねぇかって思う。例えば僕のそばに置いてもっとシゴいたほうが良かったかもしれない。バッティングコーチも長嶋茂雄の息子だって言うんで遠慮あっただろう。それも含めて一茂を一人前にできなかったのは僕の責任。中途半端な育て方しかできなかった。」と記している[5]

巨人時代

1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。開幕スタメンを勝ち取る。同年の古巣ヤクルト戦では、原辰徳との守備交代で、「4番、サード長嶋」がコールされた。

1994年は、レギュラーシーズンは46試合に出場したが、日本シリーズはベンチメンバーのみであり、試合に出場する事は無かった。

1995年は右ひじの故障で一軍出場はゼロに終わると、1996年は当時の守備コーチ土井正三からバント練習を厳しく指導されたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、球団から罰金50万円と二軍降格に加え、出場停止処分を受けた。同年オフ、父・茂雄から「一茂、残念だけどお前は来年の戦力構想に入っていない」と戦力外通告を受けた。その後、広島近鉄オリックス日本ハムが獲得の意向を見せたが、「これ以上迷惑をかけたくない」と発言し、現役を引退。引退について父・茂雄は「プロの世界だって1年限りの世界ですから」と発言した(「監督と選手の関係から親子の関係に戻ろう」とも発言していた)。

引退後

引退後は個人事務所「ナガシマ企画」を設立し、芸能人に転身。戦力外を通告される年、偶然明石家さんまとゴルフをする機会があった[6]。まさか引退がつきつけられるとは思ってもみなかった一茂はさんまからその時に「辞めたら俺がやってる番組全部来いや」と言われても真剣に受けとめることができなかったが、現役を退いた後、その言葉通りさんまのすべてのレギュラー番組で出演オファーを受け、出演した[6]。さんまの事を大恩人と語っている[6]。またスポーツキャスターとなり、1997年1999年フジテレビの『プロ野球ニュース』(週末)、2000年2002年日本テレビの『独占!!スポーツ情報』(のちの『THE独占サンデー』)の司会を担当した。プロ野球ニュース担当時代には当時流行していたサントリーボスのCMのパロディーで「親が凄いと子供も凄いんだよな、な。」と問いかけられて「なに。」と答えるという自虐ネタを演じたこともあった。

2002年から2年間に渡ってNHKのインタビュー番組『わたしはあきらめない!』の聞き手役も務めた。

1996年以来自律神経失調症過呼吸の経験があり、プロ野球選手として活躍していたころバッターボックスに立てなくなったこと、また現在も同病に悩まされることがあることを自著にて告白している[7]

スポーツキャスターと並行して俳優業も行い、2000年は『NHK朝の連続テレビ小説オードリー』に出演し(時代劇の剣士役)、俳優としての地歩を固める。2002年は映画『ミスター・ルーキー』(日本アカデミー賞新人賞受賞)、2005年には『男たちの大和/YAMATO』、2004年は、TBSの『サラリーマン金太郎4[8]テレビ朝日の『逮捕しちゃうぞ』、2005年の『NHK大河ドラマ義経』等に出演。

極真カラテの有段者であり、数見肇百人組手の40人目の対戦者を務めたこともある。その経験から、フジテレビK-1中継の司会を務めている。

さんまのSUPERからくりTV』(TBS)ではレギュラー解答者のほか、『知識の泉』のコーナーに出演。西村知美松嶋尚美浅田美代子らと共に天然ボケを活かし爆笑トークを展開する。2004年、『さんまのSUPERからくりTV』の中で打倒・松岡修造を目的にさんまらによって結成された『からくりテニス同好会』のメンバーになる。同番組には特に思い入れが強いようで、バラエティのイロハをそこで教わったという[6]。さんまに時には収録中に怒られることもあり、最も激怒されたのが収録中寝たこと[6]

2004年4月、田中律子磯野貴理子とともにTBSのお昼の生放送番組『はぴひる!』の司会を務める。6月6日、アテネオリンピック聖火ランナーを務める。同年、日本テレビのアテネオリンピック中継のキャスターに選ばれた。また、2004年6月16日に双子の女児が誕生した。父の茂雄にとっては待望の初孫である。このことは本人が司会を務めるお昼のテレビ番組の中で本人の口により発表された。

2005年1月1日より当時球団会長渡邉恒雄の推薦で読売新聞グループ本社社長室付けスポーツアドバイザー、並びに巨人球団代表特別補佐(アドバイザー)として招聘され、2011年1月1日まで務め、同日付で野球振興アドバイザーに就任した[9]。スポーツキャスターや芸能活動は継続する。

2006年三菱UFJ信託銀行のCMに父・茂雄との親子共演を果たした。

2013年クラシアンのCMにイメージキャラクターとして抜擢された。

エピソード

プロ入り前

  • 生まれながらの立教ボーイと思われがちだが、立教に入学したのは高校からである。
  • 小学生の頃、神宮球場でのヤクルト-巨人戦を父・茂雄と一緒に見に行ったのだが、茂雄は連れてきた一茂を球場に置き去りにして帰ってしまう。家に帰って妻に言われて気が付いたのだという。茂雄は慌てて神宮球場に電話をしたところ、一茂は審判室に保護されていた。
  • 父・茂雄の引退試合(1974年10月14日の巨人-中日ドラゴンズ戦)を一切観ていない。茂雄は一茂に引退するとは告げずに「始球式をやってみないか」と持ちかけたが、父の引退試合だとは知らない一茂は「恥ずかしい」と拒否し、当日は歯科医にかかっていた。治療中に歯科助手の女性から聞かされるまで、父の引退を知らなかった[10]
  • 父・茂雄が、巨人の第1次監督就任時には背番号90を付けていたが、一茂の「背番号3・3番打者・サード(三塁手)」で足して9という発言がもとになっている。
  • 高校時代は野球一筋であり、全く勉強せず、カンニングも頻繁に行っていた。「ボクも基本的に期末とか中間はカンニングしましたからね。だって、野球ばっかりやってたから試験勉強やる時間ないもん、オレ」とテレビで告白、「みなさん1度もカンニングやったことないんですか、って?」と問いかけてもいる[11]
  • 大学時代、野球部の主将にカップラーメンを作れと渡されたが、作り方が分からず、水の状態から茹でたことがある。

プロ選手時代

  • ヤクルト時代に志願して落合博満と自主トレを行なった際、長嶋家より差し入れとして銀座千疋屋のメロンが届く。一茂がそのメロンを二つ割りにして種を取り、ブランデーを注いで一気に食べる姿を見た落合夫妻は、「子供はこのようにのびのびと育てなきゃいけない」と話し合ったと、落合信子がインタビューで語っている。
  • プロ初ホームランは、実はまぐれ当たりであり、自身の著書「三流」では「入団直後からプロのスピードについて行けず、どうしようかと思った」と書かれている。
  • 達川光男がプロ初ホームランを見て、試合中打席に入った一茂に「あそこのコース得意なんか?それなら、1回同じコース投げさせてみようかのお」と言い、本当に投手にそのコースを投げさせた。すると一茂はホームラン性の大ファウルを放ち、肝を冷やしている達川に「もう1回お願いしますよ」と無邪気にせがんだ。達川は平静を装いつつ「1回言うたら1回じゃ」と一喝し、以来そのコースは一茂に対して封印したという。
  • 1988年のシーズンオフに「プロ野球ニュース」で「がんばれカズシゲ」というコーナーがあった。
  • 甲子園球場での阪神戦で、味方の許した大量リードに呆れた阪神ファンから、阪神のヒッティングマーチで応援されたことがある。なお、一茂は2002年公開の映画『ミスター・ルーキー』で主人公の阪神タイガース選手役を演じている。
  • 1991年のある試合で変化球をホームランにして放った際、野村克也に褒められた後、「次は直球を(慎重に)狙え」とアドバイスされたが、次の打席では直球を強振し、空振り三振に終わった。その事を現役引退後に野村との対談で話した際「お前は褒めるとろくなことがない」と言われた。
  • コーチとの確執も多く、ヤクルト時代は当時監督の野村のチーム方針に全く順応しなかったため、コーチ陣との軋轢がひどくなり、巨人在籍時は怠惰な生活を送っていたこともあって、堀内恒夫から激怒され、河村健一郎からは「次まともにやらないんだったら辞めろ!」と激しく叱責を受けていた。しかし暴言を吐かれた土井正三は「あいつの性格ならああいうことも言いかねない」と怒りを露にしなかった。
  • 1992年に野球留学をしていた際、彼のさまざまな世話をしていたアイク生原が死去。山本昌らと共に葬儀に参列した。
  • 1993年4月23日の阪神-巨人戦で仲田幸司投手からセ・リーグ通算3万号となる記念本塁打を放つ。
  • 1994年5月18日の巨人-広島戦で当時のチームメイトである槙原寛己完全試合を達成した際(槙原寛己の完全試合)は三塁を守っており、真っ先に彼に抱きついた。
  • ヤクルト時代は池山隆寛と仲が良く、シーズンオフのバラエティ番組では、池山と一茂のやり取りが放送されていた。
  • 元首相の森喜朗がオーナーの桑原潤になぜ一茂を巨人に出したのか聞いたところ、「もうせいせいした。実際は使い物にならなかったがプロ野球の大選手のご子息だから、そう無下に扱うわけにもいかないので、もうまいってた。その時に、ジャイアンツから、どういうわけか一茂をくれないかと言ってきたんで、もう熨斗を付けて差し上げました」と答えたという。また、森によると一茂の移籍と松井秀喜の入団が重なっており、同じ三塁手として松井へのあてつけではないかと推測している(森は松井の後援会名誉会長を務めている)[12]
  • ドカベン』などの野球漫画の第一人者である水島新司が1987年から連載していた『虹を呼ぶ男』では、舞台となっていたヤクルトに偶然一茂が入団したため、主人公のライバルとして劇中に登場する事になったが、現実の一茂の不振もあって人気は低迷し、後に相撲漫画に路線変更する事態となっている。

引退後

  • 2004年3月に、父・茂雄が脳梗塞で倒れた際、長嶋邸に押しかけるマスコミへの対応を受け持ち、茂雄の容態について定期的に報告をした。茂雄が当時就任していたアテネオリンピック野球日本代表監督として指揮を執れる状態ではないことを説明し、茂雄の魂だけはアテネに連れていきたいと、大きな日の丸に背番号である3の文字を父に書かせ代表に託した。
  • 2011年9月9日のテレビ朝日系列で放送された番組、モーニングバードにてなでしこジャパンの話題が続いたなかで、「もう『なでしこ』はいいじゃないですか。野球の話しましょうよ」と投げやり気味に話していたが、2012年ロンドン五輪での「なでしこジャパン引き分け騒動」では、「これは戦略の範疇です。戦意があるかどうかは審判が感じたこと。サッカーの場合は、引き分けでモチベーションが高くなる。また、移動がないというのは選手にとって大きい」[13] と、サッカーファンやスポーツ関係者以外に理解がしにくい『戦略的ドロー』の重要性の説明に徹した。
  • この他にも「僕も現役時代にドーピングをしていた」「サッカー日本代表の試合、特にW杯のときは負けろ!って常に思ってた。ドーハで日本代表がW杯行きを逃したとき、野球関係者は心から喜んだ」などと率直に発言し、物議を醸したこともあった[14]
  • 大道典嘉との対談で、「俺もプライドとか捨てて、バットを短く持てばよかった」と語った。
  • リップクリームを常に所持しており、匂いを吸うことで落ち着く。
  • ワインコレクター。
  • 引退後、格闘技に挑戦し得意だったことから「俺はボールを使うスポーツはダメなんだ」と発言している。
  • 父・長嶋茂雄の記念品、愛用品を無断でコレクターの資産家に大量に売却したのではないかという疑惑が複数の週刊誌で報じられたこともある。(週刊ポスト 2009年12月25日号、週刊文春 2009年12月24日号など)これには否定しており、出版社を訴えた。
  • 昭和40年生まれで結成された「40年会」の一員(彼以外の会員に加藤伸一古田敦也紀藤真琴村上隆行池山隆寛香田勲男八木裕吉井理人水野雄仁らがいる)。
  • 実母の長嶋亜希子が亡くなる直前、共に食事をしていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1988 ヤクルト 88 206 187 14 38 9 1 4 61 22 3 1 0 1 17 0 1 59 5 .203 .272 .326 .598
1989 69 163 156 12 39 7 1 4 60 15 1 0 0 1 6 0 0 29 6 .250 .276 .385 .661
1990 35 57 54 6 9 2 1 1 16 6 0 0 0 0 3 0 0 15 1 .167 .211 .296 .507
1991 67 172 149 12 33 8 2 4 57 18 1 0 0 1 21 2 1 44 6 .221 .320 .383 .703
1993 巨人 56 153 134 12 29 6 1 1 40 12 3 5 0 2 17 0 0 42 7 .216 .301 .299 .600
1994 46 32 29 5 5 1 0 1 10 1 0 0 0 0 3 1 0 7 4 .172 .250 .310 .560
1996 23 60 56 4 8 2 0 3 20 8 0 1 0 0 3 0 1 19 2 .143 .200 .339 .522
通算:7年 384 843 765 65 161 35 6 18 262 82 8 7 0 5 70 3 3 215 31 .210 .276 .342 .618

記録

背番号

  • 3 (1988年 - 1992年)
  • 36 (1993年 - 1996年)

著書

  • 『三流』(幻冬舎文庫:2002年4月25日、構成・文 石川拓治)
  • 『乗るのが怖い 私のパニック障害克服法』(幻冬舎:2010年11月)

出演

報道・情報・スポーツ

バラエティー

ドラマ

映画

CM

  • クラシアン
  • 太田胃散
  • 明治製菓
  • 三菱UFJ信託銀行 『キャッチボール篇』 『会話篇』 (父の茂雄と共演。)
  • 全日本空輸 『ノックで中国篇』 『記者会見篇』 『試合篇』 『チャレンジ篇』
  • 三菱自動車工業 (ミツビシミテカラ『宣言篇』以降、すべてのCMの最後のシーンに登場するようになった。) (2006年9月14日 - )
    • 『SUV告知篇』 (2007年4月3日 - )
  • 理研ハウス

受賞歴

脚注

  1. ^ 朝日新聞、1987年11月23日付朝刊 (14版、20面)
  2. ^ 1987年(昭62) 長嶋一茂、幻の巨人1位指名-スポニチ
  3. ^ 関根潤三著、いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、ベースボール・マガジン社、2012年、P144
  4. ^ ノムさんが監督時代を暴露、「社長に無理をお願いして獲って貰った」”. livedoorNEWS (2011年10月25日). 2016年3月18日閲覧。
  5. ^ いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、P145
  6. ^ a b c d e 長嶋一茂、明石家さんまの"大恩人"秘話語る「辞めたら俺の番組全部来い」 マイナビニュース2015年1月25日
  7. ^ 自著『乗るのが怖い 私のパニック障害克服法』 - 「第1章 私のパニック・ヒストリー」より。
  8. ^ 当初、サラリーマン金太郎の原作者本宮ひろ志から主役の矢島金太郎役のオファーを受けたがスケジュールの都合で実現しなかった、後にパート4で金太郎のライバル役で出演に至った。
  9. ^ “【巨人】一茂氏、野球振興アドバイザーに” (日本語). 日刊スポーツ. (2011年1月5日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20110105-721110.html 2012年3月17日閲覧。 
  10. ^ 【私の失敗(2)】長嶋一茂、伝説の名言には立ち会わず…引退を歯医者で知る SANSPO.COM 2016年1月20日
  11. ^ 長嶋一茂「カンニングやった。野球ばっかりだったから、オレ」 J-CASTテレビウォッチ 2011年3月4日
  12. ^ 森喜朗×田原総一朗「松井秀喜との秘話、そしてアフリカ外交より地元が大事な外務大臣」
  13. ^ [1]
  14. ^ “バカ息子の代表”長嶋一茂コメンテーターに呆れる声多数! トーク番組を我がものに……”. livedoorNEWS (2015年11月9日). 2016年3月18日閲覧。
  15. ^ 2011年2月21日日テレG+「巨人軍沖縄キャンプ中継」の解説に出演した際「日本テレビ解説者」という肩書きで登場しており、東京ドーム中心の主管数試合で解説する予定である
  16. ^ 長嶋一茂 実は映画少年だった、“結婚促進映画”製作 6月公開”. Sponichi Annex (2015年5月15日). 2015年5月15日閲覧。

関連項目