学校法人桐蔭学園
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学校法人桐蔭学園(がっこうほうじんとういんがくえん)は、1964年(昭和39年)に「真のエリートの育成」を目指し創立された学校法人で、幼稚園から大学・大学院を擁する巨大総合学園である。横浜市青葉区鉄町に広大な敷地のキャンパスを所有し、ドイツにはドイツ桐蔭学園を所有している。また、関連法人として横浜総合病院(総合病院)も有している。
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[編集] 概要
- 幼稚部(2年保育)・小学部・中学校・高等学校・中等教育学校・大学(法学部、及び法科大学院、医用工学部などを設置)が設置されている。中学校および高等学校は男女別学制、中等教育学校は男子校、幼稚部・小学部・大学・法科大学院は男女共学制を敷いている。なお、かつて存在していた桐蔭学園工業高等専門学校は男子校であった。
- 学園創立者・初代理事長は、三菱化成工業(現三菱化学)社長、茗渓会会長、茗渓学園理事長、科学技術学園理事長なども務めた柴田周吉。柴田周吉理事長のもとで桐蔭学園の理事会の監事をしていた長男・柴田矩雄が1977年3月に死去し、後任監事として次男の柴田紘次が就任したが、1982年10月2日に柴田周吉理事長が亡くなった後、鵜川昇が学園創立以来の理事を一掃し、理事長と校長の両ポストに就いて学園長と称するようになり権力の集中を図った。また鵜川は後に、柴田と同様、茗渓会会長、茗渓学園理事長にも就任している。鵜川には、『一流校合格への父親学』など、いくつかの著書がある。2007年11月27日、多臓器不全のため横浜総合病院にて逝去。
- 2007年12月8日の理事会において、学園創立以来の教諭であり、1971年に硬式野球部が全国優勝したときの責任教諭であった榊原滋が第3代の理事長に就任、中学・高校・中等教育学校の校長も兼ねる。
[編集] 沿革
- 1964年4月:学校法人桐蔭学園設立。桐蔭学園高等学校開設。
- 1966年4月:桐蔭学園中学校開設。
- 1967年4月:桐蔭学園小学校(現桐蔭学園小学部)開設。
- 1969年4月:桐蔭学園幼稚園(現桐蔭学園幼稚部)開設。
- 1971年4月:桐蔭学園高等学校に理数科を開設。
- 1981年4月:桐蔭学園中学校・高等学校に女子部を開設(女子部は普通科のみ)。
- 1988年4月:桐蔭学園横浜大学(現桐蔭横浜大学)工学部開設。桐蔭学園工業高等専門学校の学生募集を中止。
- 1991年11月:桐蔭学園工業高等専門学校廃止。
- 1992年4月:ドイツ桐蔭学園(中等部・高等部)開設。桐蔭学園横浜大学大学院工学研究科修士課程開設。
- 1997年4月:桐蔭学園横浜大学を桐蔭横浜大学に改称。同大大学院法学研究科修士課程開設。
- 2001年4月:桐蔭学園中等教育学校開設。
[編集] 校章・学園歌
[編集] 校章
桐蔭学園の校章は、「五三の桐」である。 桐には瑞鳥・鳳凰が宿るとされ、鳳凰が千里万里を天翔る前に、その力を養うのが桐樹の蔭である。 これは、歴代理事長の母校である、旧制東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)にちなんだ校章となっている。 創立者であり初代理事長である柴田周吉や、2代目理事長である鵜川昇は、茗渓会(現・筑波大学同窓会)の会長を務めた。
[編集] 学園歌
鵜川昇が東京高等師範学校の先輩であり人間探求派の俳人として知られる加藤楸邨に作詞を依頼して作られた。学園内のそれぞれの学校の校歌は学園歌と称し、1970年に制定された。ちなみに校歌には学校名が入っていない。作曲は、鵜川昇教え子の荒川よう。
学園歌
1 春
2 夏
3 秋
4 冬
[編集] 交通
- 電車・バス
[編集] キャンパス
- 建築家の丹下健三、稲塚二郎、栗生明などが設計を手掛けた。
- キャンパス中央には、1,700席以上を誇る芸術ホール、鵜川メモリアルホール(旧称:桐蔭メモリアルホール)を有している。ここは、音楽、演劇、映画、講演など各種の催事に対応できる多目的ホールで、学園内で生徒たちが、世界一流の芸術・文化にじかに接することができる。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、NHK交響楽団等の演奏会も開催された。
- 大学が管理するメモリアルアカデミウムには、横浜地方裁判所特号法廷(陪審法廷)が移築、復元、保存されており、この法廷を中心にミュージアム、ライブラリー、ホール、インフォメーションなどの諸施設がある。
- 鉄町のキャンパス以外には、東京都港区六本木の六本木ヒルズ森タワー内に「桐蔭学園東京教育センター」を、横浜市青葉区荏田西に「桐蔭生涯学習センター」を有している。