竹原慎二

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竹原 慎二
基本情報
本名 竹原 慎二
通称 たけ
階級 ミドル級
身長 186cm
リーチ 187cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1972-01-25) 1972年1月25日(52歳)
出身地 広島県安芸郡府中町
スタイルボクサーファイター
プロボクシング戦績
総試合数 25
勝ち 24
KO勝ち 18
敗け 1
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竹原 慎二(たけはら しんじ、1972年1月25日 - )は、日本の元プロボクサー、現在はタレント、株式会社カンピオーネ代表取締役社長、竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム会長。所属事務所はオーバーレコード/太田プロダクション広島県安芸郡府中町出身。身長186cm、体重86kg、血液型A型。第20代WBA世界ミドル級王者。

1995年に、日本人で初めてミドル級世界王座に挑戦し、獲得した[1]。また、東洋人としてはセフェリノ・ガルシアフィリピン)以来46年ぶり2人目の世界ミドル級王者となった。

来歴

プロデビュー前

中学時代は柔道部に在籍し、団体戦で県大会優勝を経験。その一方で、喧嘩にも明け暮れ、地元では「広島の粗大ゴミ」と呼ばれていた。中学卒業後、高校に進学せず(地元の高校入試を複数校受験したがいずれも不合格)、就職するも仕事は長続きせず、様々な職業を転々とした。1988年9月9日にプロボクサーを目指して上京。

当時、協栄ボクシングジムに間借りしていた沖ボクシングジムに入門する。上京後は内装の会社に就職。ボクシングで生計が立つまで同社で働いた。同社社長には非常に感謝しており、世界チャンピオン獲得時にも社長をリング内に上げている。

プロボクサー時代

1989年5月15日の但野正雄戦でプロデビュー。4回KO勝ちを収め、デビュー戦を白星で飾る。平山起代治に2度連続でKO勝ちし、北田義治を1RKOで下すと、同年12月23日の東日本新人王決定戦に出場。ビニー・マーチンを6R判定で下し、第46代東日本ミドル級新人王になる。翌1990年2月18日に、徳田晴久を2RKOで下し第36代全日本ミドル級新人王になる。同年11月26日には朴健洙(韓国)を相手に初国際戦を経験し、1RKO勝ちする。

日本王座獲得

1991年10月28日、王者・西條岳人に7RKO勝ちし第41代日本ミドル級王者になる。後に東洋太平洋ライトヘビー級王者になる寺地永を2RKOで下し初防衛を果たすと、真田雄一(西澤ヨシノリ)とビニー・マーチンそれぞれを10R判定で下し、3度の防衛を果たして王座を返上した。

東洋太平洋王座獲得

1993年5月24日、李成天(韓国)に12RKO勝ちし東洋太平洋ミドル級王座を獲得。同年11月22日にニコ・トリリ(インドネシア)を6RTKOで倒して初防衛を果たしたのを皮切りに、1度のノンタイトル戦を挟んで6度王座を防衛した。95年9月12日に6度目の防衛戦で李成天と再戦を行った。8Rに左フックの相打ちでダブルノックダウンがあったが竹原が3-0の判定で防衛した。

世界王座獲得

1995年12月19日、無敗のまま24戦目で世界初挑戦。後楽園ホールでWBA世界ミドル級王者ホルヘ・カストロアルゼンチン)に挑んだ。前評判では100戦を超える王者が圧倒的有利。竹原の王座奪取の期待が薄かった事情もあり、テレビ中継もそれまで竹原を支援してきたTBSではなくテレビ東京が関東ローカルで深夜に録画放映。

試合は3回、竹原が左ボディブローでこれまでダウン経験のない王者からダウンを奪う。ダウンから立ち上がった後は一進一退の攻防が続き、終始打ちつ打たれつの激戦が展開されたまま試合は終了。判定の結果、3-0で竹原が勝利し、日本人初の世界ミドル級王者となった。

世界王座初防衛戦

1996年6月24日、初防衛戦。横浜アリーナでランキング1位ウィリアム・ジョッピー米国)との指名試合に臨む。この興行ではジョッピーと契約する世界的プロモータードン・キングも会場を訪れた。テレビ中継もテレビ東京がゴールデンタイムに全国ネットで生中継。

試合は初回、挑戦者の右をまともに浴びた王者が手をキャンバスに付くダウン。その後も出色のスピードを誇るジョッピーに終始ペースを握られる。迎えた9回、挑戦者が連打で王者をコーナーに追い詰めたところでレフェリーストップ。6か月で世界王座から陥落した。

試合後、一時は再起に向け練習を再開するも、その後網膜剥離が判明。引退を余儀なくされた[1]

引退後

協栄ジム初代会長金平正紀には同郷のよしみで可愛がられ、引退後も金平からK-1日本IBFでの再起を打診されたが悩んだ末に辞退。

引退後芸能界入りし、タレント活動を始めるが初めの頃は仕事に恵まれず、日焼けサロンなどのアルバイトで生計を立てていた。

2000年TBSバラエティ番組ガチンコ!』のメイン企画『ファイトクラブ』にコーチとして参加した。同企画は若者をプロボクサーに育て上げるというもので、約3年間続いた。竹原は彼らにスパルタ指導を行い、その間に12人の参加者がプロテストに合格。 その中に俳優、斉藤一平もプロボクサーになった。同年に、『ガチンコ!』での発言「お前ら弱い世界じゃ強いじゃろうが、強い世界じゃ下の下じゃ(ゲのゲじゃ)」を歌詞に入れたラップCD『下の下のゲットー』を通信販売。

2001年2月ガッツファイティングにて当時の日本ミドル級王者鈴木悟スパーリング含む引退セレモニーを行った。

2002年7月1日、元WBA世界スーパーフェザー級、同世界ライト級王者の畑山隆則とともに、東京都新宿区にT&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムを開く。

2002年、健康と美容のコンセプトブランド「30upDIET」を立ち上げサプリメントを発表。その後、2004年のサウナスーツ、2005年の付加価値ウォーキングシューズ「マッスルトレーナー」がTVの通販番組を中心に大ヒット商品となっている。同時にボクサフィットネスの動きを採用したダイエットエクササイズのビデオ、DVDを発行し、元アスリートとしてのノウハウも提供。また、地元広島名物つけめん店「みんみん」とコラボレートし、こんにゃくを利用したダイエット用食品『激辛つけ麺』の開発にも携わるなど、経験を活かした商品開発でビジネスマンとしても活躍している。

2005年1月21日、テレビドラマ『特命係長 只野仁』にヤクザ役でゲスト出演。主役の只野役の高橋克典と1対1の対決シーンを演じた。同年3月には、青森山田高等学校通信課程を卒業。

現在は存在しないが、2006年1月31日まで大田区池上通りでイタリアンレストラン『カンピオーネ』を経営していた。同年、Yahoo! JAPAN内のウェブマガジン「月刊チャージャー」に『竹原慎二のボコボコ相談室』の連載を開始。50 - 60万アクセスを記録する。相談室の名に似つかわしくない極めて辛辣な回答が人気を集める一方でいじめなどに関して過激な発言もあり[2]、掲示板などで度々物議を醸していた。

2006年10月から2007年3月までサンテレビで放送された音楽番組『VIVA!温故知新』でパーソナリティを務めた。また『週刊ヤングサンデー』で連載された「タナトス 〜むしけらの拳〜」(作画:落合裕介)の原案を手がけ、後に映画化される。映画「タナトス」には俳優斉藤一平も出演している。

2007年3月29日から、竹原慎二オフィシャルブログを開始。アメーバブログの有名人アクセスランキングでは開始5日目にしてTOP10入りを果たした。 締めの語句に「じゃあの。」と付けるのが定例となっており、一時2ちゃんねるなどの電子掲示板を中心に「じゃあの。」がインターネットミームとして流行した。

2014年、前年から血尿などの体調不良があり精密検査を受けた結果、膀胱癌が判明。リンパ節への転移も見付かるほど病状が悪化していたが、手術抗がん剤などの治療を経て、現在は通院を続けながら経過観察中。その様子が11月21日・TBS系で放送の「爆報! THE フライデー」で紹介された[3]

2015年よりジム運営・タレント活動を本格的に再開し、現在に至る。

戦績

  • プロボクシング: 25戦 24勝 18KO 1敗
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1989年5月15日 勝利 4R KO 但野正雄 日本の旗 日本(宮田) プロデビュー戦
2 1989年7月17日 勝利 2R KO 平山起代治 日本の旗 日本(金子) 1989年東日本ミドル級新人トーナメント予選
3 1989年9月18日 勝利 1R KO 平山起代治 日本の旗 日本(金子)
4 1989年11月10日 勝利 1R KO 北田義浩 日本の旗 日本(ヨネクラ)
5 1989年12月23日 勝利 6R 判定 ビニー・マーチン ガーナの旗 ガーナ(角海老宝石) 1989年東日本ミドル級新人トーナメント決勝戦
6 1990年2月18日 勝利 2R KO 徳田晴久 日本の旗 日本(JA加古川) 1989年全日本ミドル級新人王決定戦
7 1990年7月30日 勝利 10R TKO 横崎哲 日本の旗 日本(オサム)
8 1990年11月26日 勝利 1R KO 朴健洙 大韓民国の旗 韓国
9 1991年2月18日 勝利 1R TKO 鈴木智男 日本の旗 日本(宇都宮)
10 1991年7月15日 勝利 4R KO 柏原二郎 日本の旗 日本(姫路木下)
11 1991年10月28日 勝利 7R KO 西條岳人 日本の旗 日本(サカエ) 日本ミドル級タイトルマッチ
12 1992年2月17日 勝利 2R 2:47 KO 寺地永 日本の旗 日本(陽光アダチ) 日本王座防衛1
13 1992年5月17日 勝利 10R 判定 真田雄一 日本の旗 日本(ヨネクラ) 日本王座防衛2
14 1992年8月17日 勝利 10R 判定3-0 ビニー・マーチン ガーナの旗 ガーナ(角海老宝石) 日本王座防衛3
15 1993年2月15日 勝利 5R KO 横崎哲角 日本の旗 日本(オサム)
16 1993年5月24日 勝利 12R 2:38 KO 李成天 大韓民国の旗 韓国 OPBF東洋太平洋ミドル級王座決定戦
17 1993年11月22日 勝利 6R TKO ニコ・トリリ インドネシアの旗 インドネシア OPBF防衛1
18 1994年2月21日 勝利 1R 1:52 KO ノリ・デ・グイア フィリピンの旗 フィリピン
19 1994年6月12日 勝利 7R TKO アレックス・トゥイ オーストラリアの旗 オーストラリア OPBF防衛2
20 1994年9月18日 勝利 12R 判定 李鉉植 大韓民国の旗 韓国 OPBF防衛3
21 1994年12月19日 勝利 7R KO クレイグ・トロッター オーストラリアの旗 オーストラリア OPBF防衛4
22 1995年4月17日 勝利 1R KO 朴永基 大韓民国の旗 韓国 OPBF防衛5
23 1995年9月12日 勝利 12R 判定 李成天 大韓民国の旗 韓国 OPBF防衛6
24 1995年12月19日 勝利 12R 判定3-0 ホルヘ・カストロ アルゼンチンの旗 アルゼンチン WBA世界ミドル級タイトルマッチ
25 1996年6月24日 敗北 9R 2:29 TKO ウィリアム・ジョッピー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBA王座陥落
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逸話

  • ボクシングを始めた理由は、最初からボクシングをやりたかった訳では無く、ボクシングジムを経営している父が当時札付きの不良と呼ばれていた竹原の素行に見兼ねて無理矢理ボクシングを始めさせた事である。
  • 上京するにあたり、当時所属していた暴走族の集会で「今日で抜ける」「ボクシングのために上京する」と宣言し筋を通した。
  • 引退後の25歳で結婚。現在は2人の子を持つ父親でもある。
  • 実父の竹原三郎は広島でボクシングジムを、実母は焼肉店三甲を経営している。
  • 通った府中小学校は宇梶剛士(2年まで)、吉川晃司の出身校でもある[4]。小・中学校と柔道部に所属。喧嘩では柔道技をかなり使ったと語っている。
  • プロデビュー前、後に世界王座初防衛戦を戦う横浜アリーナの内装工事に携わったことがあった。
  • 大の犬好きで、現役時代はペットショップで犬を見てから試合会場に向かっていた。現在も犬を2匹飼っている。
  • 竹原からタイトルを奪ったウィリアム・ジョッピーは、その後、返り咲きを含めて約7年間、同王座に関わり続けた。フェリックス・トリニダード戦前には、「竹原のパンチがこれまで一番強かった。竹原に勝ってトリニダードに負けるはずがない」と語っている。
  • ガチンコ!』のプロデューサー、合田隆信はボクサー時代の竹原を知らなかった。ボクシング名鑑で「広島出身」が目に入り、「広島=恐い」とイメージして、実際に会ってやはり恐かったため、竹原のコーチ就任が決まったという。
  • 『ガチンコ!』は、演出の過剰さから「やらせではないか?」と指摘され、週刊誌が竹原の尻ポケットに台本が入っている写真を掲載し、番組内でボクシングを習っていた一部の生徒がやらせであると証言している。しかし、竹原および制作者側は「やらせは一切なかった」と口頭で反論している。
  • 吉川晃司のことをアニキと呼んでいる[5]
  • 自らプロデュースしている商品ブランド「30upDIET」のQVC通販で1日にして20,000個以上の販売を記録。
  • 中学校の頃から名字の竹原にちなんで「竹バカ(たけばか)」と呼ばれていた。
  • 現役時代は池上本門寺の96段の階段を駆け上がるなどの練習も行った。また、現在は毎年節分の日に池上本門寺で豆まきを行っている。
  • チバテレビで見られる千葉ローカルの地元の不動産店「かまとり住宅」のCM出演をしている。
  • 現在有吉AKB共和国で不定期に放送されているガチンコAKBクラブ(ガチンコファイトクラブのパロディ)でコーチを演じている。

脚注

関連項目

外部リンク

前王者
ホルヘ・カストロ
第20代WBA世界ミドル級王者

1995年12月19日 - 1996年6月24日

次王者
ウィリアム・ジョッピー