平野達男
平野 達男 ひらの たつお | |
---|---|
| |
生年月日 | 1954年5月2日(70歳) |
出生地 | 岩手県北上市 |
出身校 |
東京大学農学部 アイオワ州立大学大学院 |
前職 | 国家公務員(農林省・農林水産省) |
所属政党 |
(自由党→) (民主党→) 無所属(新党改革・無所属の会) |
称号 | 修士(アイオワ州立大学) |
公式サイト | 参議院議員 平野たつお公式Webサイト |
選挙区 | 岩手県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 2001年7月30日 - 現職 |
初代 復興大臣 | |
内閣 |
野田第1次改造内閣 野田第2次改造内閣 野田第3次改造内閣 |
在任期間 | 2012年2月10日 - 2012年12月26日 |
東日本大震災総括担当大臣 | |
内閣 |
野田第1次改造内閣 野田第2次改造内閣 野田第3次改造内閣 |
在任期間 | 2012年2月14日 - 2012年12月26日 |
内閣 |
菅第2次改造内閣 野田内閣 野田第1次改造内閣 |
在任期間 | 2011年7月5日 - 2012年2月10日 |
平野 達男(ひらの たつお、1954年5月2日 - )は、日本の政治家、農林水産官僚。参議院議員(3期)。
菅第2次改造内閣・野田内閣・野田第1次改造内閣で内閣府特命担当大臣(防災)を務めたほか、復興大臣(初代)、東日本大震災総括担当大臣(野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣・野田第3次改造内閣)、内閣府副大臣(菅第1次改造内閣・菅第2次改造内閣)、参議院農林水産委員長・予算委員長等を歴任。
来歴
岩手県北上市生まれ[1][2]。岩手県立水沢高等学校[2]理数科[1]、東京大学農学部農業工学科卒業。1977年農林省に入省。なお平野が入省した翌年、農林省は農林水産省に改編された。農水省では本省での勤務の他、直轄土地改良事務所での勤務も経験し、技官を務めた[2]。また出生地である岩手県への出向も経験している[2]。在職中、アイオワ州立大学大学院に留学し、修士号を取得[2]。2001年に農水省を退官。
同年、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で岩手県選挙区から出馬し、初当選。2003年の民由合併により、民主党に入党。2007年の第21回参議院議員通常選挙では同党公認で再選。
2010年、簗瀬進参議院予算委員長が第22回参議院議員通常選挙で落選したため、後任の参議院予算委員長に就任した。同年9月、菅第1次改造内閣で内閣府副大臣に任命される(参議院予算委員長の後任は前田武志)。2011年1月発足の菅第2次改造内閣においても再任された。
同年3月11日に発生した東日本大震災を受け、自身も被災した岩手県選出の国会議員であり、かつ内閣府副大臣の立場から震災対応にあたる。同年7月、「東日本大震災からの復興のための施策を政府一体となって推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣であった内閣府特命担当大臣(防災)の松本龍が、7月3日に被災地を訪れた際宮城県知事村井嘉浩、岩手県知事達増拓也らに対して不適切な発言を行い、辞任(松本本人は「体調不良」を理由に辞意を表明)。後任には内閣官房副長官の仙谷由人や、被災地である宮城県選出の安住淳民主党国会対策委員長らの名前が挙がるも、仙谷、安住らが相次いで固辞したため、内閣府副大臣の平野が昇格する形で、松本の後任に任命された[3]。震災発生以降、宮中では節電に取り組んでおり、皇居宮殿の使用を極力減らす方針を取っていた[4]ため、平野の認証式は皇居宮殿ではなく御所で行われた[5][6]。なお平野の後任の内閣府副大臣には、山口壮が任命された。
野田内閣、野田第1次改造内閣においても防災担当相、東日本大震災復興担当相に再任[7]。
2012年2月10日、復興庁の設置に伴い、初代復興大臣に任命される。復興相就任に伴い防災担当相を退任。2月14日より「東日本大震災総括担当大臣」を兼務[8]し、野田第3次改造内閣まで務める。同年12月の第46回衆議院議員総選挙での民主党大敗を受けて野田佳彦首相は退陣し、平野も復興相を退任した。
民主党下野後も、2013年の第23回参議院議員通常選挙に民主党公認で出馬する意向を示していたが、同年3月30日、地元・岩手県で開かれた民主党岩手県総支部連合会における会合で、民主党を離党し無所属で参院選に出馬する意向を表明[9]。民主党に離党届を提出したが、民主党は平野の離党届を受理せず除籍(除名)する方針を固め[10]、4月16日の民主党常任幹事会で平野の除籍が決定。4月23日、参議院の会派「民主党・新緑風会」からも離脱した[11]。第23回参議院議員通常選挙では、岩手県選挙区には平野を含む過去最多の6人が立候補し、古巣の民主党や自由民主党、小沢一郎が代表を務める生活の党も候補者を擁立したが、民主党の一部の地方議員からも支援を受けた平野が他の5候補を破り、3選[12]。
同年7月24日、参議院会派「新党改革」に入会。平野の入会に伴い、同会派は名称を「新党改革・無所属の会」に改めた[13]。
2015年4月、同年に行われる岩手県知事選挙への立候補を表明。しかし8月、「県政ではなく国の安全保障法制の在り方が争点になり、政党間の争いになった。私の本意と大きくかけ離れた状況だ」と述べ出馬を撤回、断念した[14]。
政策
2013年参院選 毎日新聞候補者アンケートによると
- 憲法9条の改正に賛成し、自衛隊の役割や限界を明記すべき。
- 集団的自衛権の行使容認をすべき。
- 靖国神社に総理や閣僚が参拝すべきでない。
- 解雇の金銭解決制度に反対。
- 原発は当面必要だが、将来的に廃止すべきとしている。[15]
人物
- 国際総合武道教育連盟空手道牙城會館にて名誉顧問を務める[16]。
- 小沢一郎が党首を務めていた自由党出身ではあるが、民主党在籍時は玄葉光一郎が会長を務める「日本のグランド・デザイン」研究会に所属していた。2011年7月11日、党員資格停止処分を受けている小沢について「(震災の復興に)活用することが国難を乗り切る上でプラスと判断されるなら、党内事情は一時棚上げ、取り消しは当然あってしかるべきだ」と述べた[17]。一方で菅第2次改造内閣の閣僚であった平野は、2011年民主党代表選挙では小沢の支持する海江田万里経済産業大臣ではなく、菅直人首相が支持する野田佳彦財務大臣を支持した[18]。
- TPPについて、2011年7月14日のインタビューで「基本的には参加すべきだ」とした上で「国難の状況下で、TPPは国論を二分する。いまは復旧・復興に重点を置くのはやむをえないと思う」と述べた[19]。
- 2011年10月18日に開かれた民主党参議院議員らの研修会にて、「ここの高さに逃げていれば大丈夫だと言ってみんなで20-30人そこで集まっててそこに津波が来てのみ込まれた方々もいます。逆に、私の高校の同級生みたいに逃げなかったバカな奴もいます。彼は亡くなりましたけれども。バカな奴って今言ってもしようがないんですけどね」と発言[20]。この発言に対し野党から被災者への配慮に欠けるとの指摘があり、同日夜の記者会見で「字面にすると、逃げなかった人はバカだみたいな報道になっているが、普段から防災教育を受けて逃げた例もある。なぜ逃げなかったのか。それも今回の重要な検証の課題であり次の震災にしっかり備えるということを言いたかったが、あの瞬間だけその同級生への個人的な思いが重なってああいう表現になった。不快な思いされたのなら本意ではないし、その表現の稚拙さをおわび申し上げたい。」と釈明した[21][22]。
- 2011年3月の東日本大震災に伴い発生した福島第一原子力発電所事故に関連して、原子力委員会の専門委員を務める青山繁晴が4月22日に現場で取材を行った。その後、青山は内閣府の官僚から電話で、「なぜ、こんなことをしたのか」と問いただされた。青山が許可を得ている旨を述べて反論すると、官僚が謝罪して一旦収まったが、数日後、同じ官僚から「内閣府の原子力委員会担当の副大臣(平野)がお怒りだ」と電話があり、代わって電話に出た平野に青山が法的根拠と権限を問うたところ、平野は「権限はない。ただ副大臣として聞いておきたいから聞いている」と答え、青山が「法的根拠も権限もなく役人を使って圧力をかける。強権的だ」と非難すると、平野は「ご不快ならおわびするが東電には話を聞く」と話し、青山が「このやり取りはすべて明らかにする」と述べると、平野は「何でもやってくれ」と応じたという。また青山は、平野を含む首相官邸側から警察に対し、自身を逮捕するよう圧力がかけられたと話している[23]。
年譜
- 1954年5月2日 - 岩手県北上市に生まれる[24]。
- 1967年3月 - 北上市立黒沢尻西小学校卒業。
- 1970年3月 - 北上市立北上中学校卒業。
- 1973年3月 - 岩手県立水沢高等学校卒業。
- 1977年3月 - 東京大学農学部卒業。
- 1977年4月 - 農林省入省。
- 1982年
- 1994年4月 - 岩手県農地建設課長。
- 1995年4月 - 岩手県農地計画課長。
- 1997年4月 - 農林水産省関東農政局建設部設計課長。
- 1999年4月 - 農林水産省構造改善局建設部設計課国営事業調査官。
- 2000年4月 - 農林水産省構造改善局建設部設計課技術調査官。東京大学農学部講師。岩手大学農学部大学院講師。
- 2001年
- 1月 - 農林水産省農村振興局整備部設計課技術調査官。
- 4月 - 農林水産省退職。
- 7月 - 第19回参議院議員通常選挙に岩手県選挙区から自由党公認で出馬し初当選。
- 2003年9月 - 民主党に入党。
- 2007年7月 - 第21回参議院議員通常選挙では国民新党の推薦も受け、民主党公認で岩手県選挙区から出馬し再選。
- 2009年1月 - 参議院農林水産委員長に就任。
- 2010年
- 7月 - 第22回参議院議員通常選挙で落選した簗瀬進の後任の参議院予算委員長に就任。
- 9月 - 菅第1次改造内閣で内閣府副大臣に就任。
- 2011年
- 7月 - 松本龍の辞任に伴い内閣府特命担当大臣(防災)に任命され、初入閣。
- 2012年
- 2013年
- 3月 - 民主党に離党届を提出(受理されず、除籍処分が下された)。
- 7月 - 第23回参議院議員通常選挙に無所属で岩手県選挙区から出馬し3選。
脚注
- ^ a b 「プロフィール」『プロフィール』。
- ^ a b c d e 「経歴」『プロフィール』。
- ^ 「人事異動」『官報』5592号、国立印刷局、2011年7月7日、8面。
- ^ 「皇居と御所、計画停電に合わせ電力使用取り止め」『皇居と御所、計画停電に合わせ電力使用取り止め : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞、2011年3月14日。
- ^ 「認証式を初めて御所で実施」『認証式を初めて御所で実施 - MSN産経ニュース』産経デジタル、2011年7月5日。
- ^ 真鍋光之「認証官任命式:平野復興相、山口副内閣相――節電対策、御所で」『認証官任命式:平野復興相、山口副内閣相 節電対策、御所で - 毎日jp(毎日新聞)』毎日新聞社、2011年7月6日。
- ^ 「人事異動」『官報』号外特43号、国立印刷局、2011年9月2日、1面。
- ^ 野田首相、平野氏を「震災総括担当」に任命 防災強化へ教訓まとめる 産経新聞 2012年2月14日閲覧
- ^ 平野・前復興相、民主離党し無所属で参院選出馬 読売新聞 2013年3月30日閲覧
- ^ 民主、平野氏を除籍=海江田氏「強い憤り」 共同通信 2013年4月2日閲覧
- ^ 川崎、平野氏が民主会派離脱 時事通信 2013年4月23日閲覧
- ^ 参院選・岩手 平野氏「小沢王国」に風穴 産経新聞 2013年7月22日。
- ^ 平野氏、参院会派入り 新党改革・無所属の会に 岩手日報 2013年7月25日。
- ^ “平野元復興相、岩手知事選への出馬断念”. 2015年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月8日閲覧。
- ^ 2013参院選 毎日新聞候補者アンケート
- ^ 「空手道牙城會館――役員の紹介」『役員紹介|空手道牙城會館』空手道牙城會館。
- ^ asahi.com2011年7月11日
- ^ 日本経済新聞 2011年9月3日朝刊
- ^ asahi.com2011年7月15日
- ^ 【平野復興相発言】平野氏の発言要旨 - MSN産経ニュース2011年10月18日。ただし記事中の発言内容は実際の音声とやや異なる
- ^ 産経ニュース2011年10月18日
- ^ [1] 日刊スポーツ 平野復興担当相亡くなった友思うあまり… 2011年10月18日
- ^ “平野新大臣も超ゴーマン!!福島原発に行った有名識者を「逮捕しろ」”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2011年7月8日) 2013年8月9日閲覧。
- ^ 黒沢尻町を中心とした町村合併による北上市発足(1954年4月1日)から間もないころである。
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 (創設) |
復興大臣 初代:2012年 |
次代 根本匠 |
先代 松本龍 |
特命担当大臣(防災) 第19・20代:2011年 - 2012年 |
次代 中川正春 |
先代 大島敦・平岡秀夫・大塚耕平 |
内閣府副大臣 東祥三・末松義規と共同 2010年 - 2011年 |
次代 東祥三・山口壮・末松義規 |
議会 | ||
先代 簗瀬進 |
参議院予算委員長 2010年 |
次代 前田武志 |
先代 郡司彰 |
参議院農林水産委員長 2009年 |
次代 小川敏夫 |