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吉井理人

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吉井 理人
北海道日本ハムファイターズ コーチ #81
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町
生年月日 (1965-04-20) 1965年4月20日(59歳)
身長
体重
188 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1985年9月16日
MLB / 1998年4月5日
最終出場 NPB / 2007年9月21日
MLB / 2002年9月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手投手)。

現在は北海道日本ハムファイターズ一軍投手コーチ。

経歴

プロ入り前

高校までを和歌山県で過ごす。東尾修(元西武ライオンズ監督)とは卒業した小学校・中学校・高校が同じで、吉井は東尾と同じ背番号21を希望することが多かった。

県立箕島高校時代は甲子園に2回出場(1982年第54回選抜大会1983年第65回選手権大会)。1983年秋のプロ野球ドラフト会議近鉄バファローズからの2位指名を受け入団。

プロ入り後

1年目は二軍で過ごし、2年目の1985年に一軍初登板、4年目に初勝利を挙げた。5年目の1988年抑え投手として活躍し、10勝24セーブ最優秀救援投手のタイトルを獲得、「10.19」でも登板した。翌1989年にも5勝20セーブの好成績を残した。1993年からは先発投手に転向した。

1995年西村龍次とのトレードヤクルトスワローズに移籍。ヤクルトでは先発陣の一角として活躍し、初めて規定投球回に到達、優勝に貢献した。8月6日の広島東洋カープ戦(明治神宮野球場)では、試合開始早々に天候が悪化し、雷鳴が轟き稲妻が走り始めた。すると突然吉井の制球が乱れ始めて四球を連発。結局3回途中8失点でノックアウト、試合も4-15で大敗した。このシーズン、吉井はそれまでセ・リーグで最も与四死球が少ない投手だった。試合後野村克也監督は「(吉井は)雷が怖いって言うんだよ」と報道陣に語っている。また野村はマネージャーに「今度から吉井の登板する日は雷注意報が出ているか俺に報告しろ」と言った、という話もある。

1997年8月5日の読売ジャイアンツ戦(大阪ドーム)の3回裏に、バックネット裏にいたと思われる観客がレーザーポインターによると思われる光線を登板中の吉井の顔面に照射した。眼に光線を受けた吉井はすぐさまマウンドを下りバックネット裏を指して抗議。犯人・狙った意図は未だ不明である。この年まで3年連続で二桁勝利を記録。

1997年オフにFA権を行使。団野村を代理人とし、中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ西武ライオンズなど国内の球団からの誘いを断りニューヨーク・メッツと1年20万ドル+出来高で契約。

メジャーリーグ時代

ニューヨーク・メッツ

1998年4月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板初先発を果たし、7回を3安打無失点でメジャー初勝利を挙げる。5月21日のシンシナティ・レッズ戦では9安打3四球ながら1失点に抑え、野茂英雄に次ぎ日本人メジャーリーガー史上2人目の完投勝利を挙げ、前半戦を16試合の先発で4勝4敗、防御率3.42、WHIP1.29の成績で折り返す。8月には背番号を日本時代と同じ21に変更。6日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では捕手のマイク・ピアッツァと配球を巡って口論になったが、その後は一緒に食事に出かけるほどに仲が良くなった[1]。しかし後半戦は13試合の先発で2勝4敗、防御率4.52、WHIP1.25の成績を喫した。11月12日には2年500万ドルでメッツと再契約。

1999年は右ひざ痛にも悩まされ、前半戦は17試合の登板で6勝7敗、防御率5.02、WHIP1.40の成績を喫する。しかし8月には2勝1敗。防御率2.51、WHIP0.80と好投しチームの月間最優秀投手に選ばれ、9月5日のコロラド・ロッキーズ戦では10勝目をマーク。8月以降は2試合のリリーフ登板を含む11試合に登板し5勝1敗、防御率2.31、WHIP0.96と復調し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第1戦では日本人メジャーリーガー初のポストシーズン開幕投手となりランディ・ジョンソンと投げ合う。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦でも先発しグレッグ・マダックスと投げ合った。

コロラド・ロッキーズ

2000年1月14日にトレードでコロラド・ロッキーズに移籍。4月26日のパイレーツ戦で日本人メジャーリーガー史上2人目の本塁打を放つ。6月には3連勝も記録したが、前半戦は17試合の登板で4勝9敗、防御率5.55、WHIP1.47の成績を喫する。9月3日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で日本人メジャーリーガー史上2人目の通算500投球回に到達したが、結局後半戦も12試合の登板で2勝6敗、防御率6.32、WHIP1.58と調子を取り戻せず28日に右腕上腕の手術を受けシーズンを終了。

モントリオール・エクスポズ

2001年スプリングトレーニングで解雇され、4月13日にモントリオール・エクスポズと1年30万ドルで契約。先発とロングリリーフを兼任し、4月16日のメッツ戦では新庄剛志と対戦し遊ゴロに仕留め、この試合以降16回2/3連続無失点と好調を続けた。6月8日のメッツ戦では故障した伊良部秀輝に代わって先発し6回0/3を2失点に抑えたが打線の援護がなく敗戦。8月8日のヒューストン・アストロズ戦では延長10回から登板し2ヶ月ぶりの勝利となる日米通算100勝を挙げた。先発では11試合の登板で2勝7敗、防御率5.56、WHIP1.56。リリーフでは31試合の登板で2勝0敗、防御率4.03、WHIP1.15の成績を残した。12月21日には1年30万ドルでエクスポズと再契約。

2002年のスプリングトレーニングでは最速92mph(約148km/h)を計時するなど好調を見せ開幕から先発として起用される。4月16日のシカゴ・カブス戦で5回3安打1失点の投球で日本人メジャーリーグ史上3人目の通算30勝に到達。しかし21日のメッツ戦で3回2/3を7安打3失点と打ち込まれ先発ローテーションから外れる。6月11日のデトロイト・タイガース戦で先発に復帰したが、4回にランドール・サイモンの打球が右頬に直撃し降板。検査では異常は見られず、20日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦に先発し5回7安打無失点の投球を見せ、8月6日のセントルイス・カージナルス戦では3年ぶりの完投勝利を挙げる。9月に左肩を痛めオフに手術を受ける。12月5日にノンテンダーFAとなった。

日本球界復帰

2003年1月7日にオリックスブルーウェーブと契約。初の開幕投手を務めたが、8月に左足首を手術するなどして2勝にとどまった。2004年には3試合の登板に留まり、戦力外通告を受ける。他球団との交渉はまとまらなかったが、ブルーウェーブが大阪近鉄バファローズとの球団合併により『オリックス・バファローズ』となったことに伴い、監督に就任した仰木彬が「彼(吉井)を必ず残せ」と球団に進言。合格すれば再契約という異例の条件で2005年2月にオリックスのキャンプにテスト参加。仰木から高評価を得て再入団した。2005年は開幕6連勝。 しかし同年8月13日のロッテ14回戦(当時のスカイマークスタジアムでのゲーム)、雷の鳴る試合で2回持たずに5失点でノックアウト。 敗戦投手となる。この試合で、雷に弱いことが改めて証明された。

2006年先発ローテーションの一角として活躍。3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)において吉井がマウンドに違和感を覚え、球場関係者が調べたところ、マウンドの中からクレイベース煉瓦状のクレイの塊。明治神宮野球場などのマウンドにも埋まっている)が露出し、補修のため試合が数十分間中断した。

2007年も先発としてスタートしたが、成績不振のためテリー・コリンズ監督から中継ぎ降格を命じられた。しかし、先発へのこだわりを持っている吉井は応じず、他球団への移籍を求めた。6月28日平下晃司との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍するも、4試合に先発して防御率が13点台という成績で、千葉ロッテでは1勝も出来ないまま戦力外通告を受ける(同年10月27日)。当時の吉井は現役続行に強い意欲を持ち、日本国内が無理ならアメリカ、台湾、韓国でもプレーする機会を求めるつもりで、北海道日本ハムファイターズからの投手コーチ就任要請にも当初はまったく興味を示さなかったが、次第に「現役を続けると家族に迷惑がかかる」と考えるようになり、また近鉄時代の先輩でもありバッテリーを組んでいた梨田昌孝監督が吉井のコーチとしての素質を高く評価していると聞いて、現役続行を断念し日本ハムの投手コーチに就任した。

2008年3月11日オープン戦・ロッテ対日本ハム戦(千葉マリンスタジアム)で引退試合が行われた。これは、メッツおよびロッテ在籍時の恩師であるボビー・バレンタイン監督の計らいで実現したものであり、打席にもバレンタインが立った。

引退後

2008年から2009年まで日本ハム一軍投手コーチ、2010年に二軍投手コーチ、2011年から再び一軍投手コーチを務める。

人物・プレースタイル

趣味はギター競馬。野茂英雄に競馬を教えた見返りにフォークボールを教わった(メジャーリーグ在籍中に記者会見で「僕のフォークボールは野茂直伝のものです」と語っている)。ラモン・マルティネス直伝という「メキシカン・カーブ」なる変化球を操る(親指ではなく、人差し指に力を入れて投げるタイプのカーブの一種)。90年代中盤-後半ごろは野茂と一緒にオフシーズンにバラエティ番組に出ることもあった。

大阪近鉄バファローズの最後の試合には対戦相手のオリックスの選手として参加していたが、試合後に行われた梨田昌孝監督の胴上げにベンチから猛スピードで駆け寄り参加した(当時オリックスに在籍していた元近鉄の大島公一ユウキも同様に参加していた)。

ブログでは選手達を独特なニックネームで表現している。

仰木彬との関係

1989年10月12日の対西武ライオンズ24・25回戦(ダブルヘッダー)、2連敗すると西武が優勝という試合で連勝した近鉄は、マジックナンバー1で10月14日福岡ダイエーホークス戦を迎える。その年、吉井はシーズンを通して抑え投手を務めていたが、仰木彬監督は試合を締めくくる投手として阿波野秀幸をマウンドに送った。他の選手達が優勝に沸く中で怒りに震えていた吉井を、理解者であった権藤博投手コーチが懸命に慰めた。シーズン終了後、権藤はまだ契約年が残っていたにもかかわらず退団した。このような経緯により、吉井の仰木への不信は根深いと見られていた(2001年の日本シリーズ第2戦のテレビ解説で両者が並んだときも、よそよそしい雰囲気だった)。

しかし、吉井がオリックスに再入団したときの経緯にも見られるように、師弟関係は時を越えて修復されていた。2005年12月に仰木が逝去した際、吉井は「(1989年)当時は若くてわがままだった。よく仰木監督から『個人のわがままを聞いていると、チームが成り立たない』とたしなめられた」と語り、また「仰木さんに要らないと言われた時が、自分の引退の時」とも語った。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1985 近鉄 2 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 20 3.0 6 1 3 0 0 1 0 0 9 7 21.00 3.00
1986 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 18 2.1 10 1 2 0 0 2 0 0 7 6 23.14 5.14
1987 13 2 1 0 0 2 1 0 -- .667 157 36.0 45 3 12 1 0 23 2 0 21 19 4.75 1.58
1988 50 0 0 0 0 10 2 24 -- .833 344 80.1 76 3 27 2 6 44 0 0 27 24 2.69 1.28
1989 47 0 0 0 0 5 5 20 -- .500 358 84.1 77 8 37 7 3 44 2 0 28 28 2.99 1.35
1990 45 2 0 0 0 8 9 15 -- .471 330 74.1 80 4 30 4 4 55 5 0 29 28 3.39 1.48
1991 21 0 0 0 0 2 1 2 -- .667 108 26.1 30 0 6 2 1 13 0 0 11 10 3.42 1.37
1992 9 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 45 11.2 10 1 2 0 0 4 1 0 3 3 2.31 1.03
1993 22 13 2 1 0 5 5 0 -- .500 423 104.2 100 7 25 1 2 66 2 1 38 31 2.67 1.19
1994 21 19 2 0 1 7 7 0 -- .500 436 97.0 118 16 37 0 1 42 4 0 69 59 5.47 1.60
1995 ヤクルト 25 22 7 2 2 10 7 0 -- .588 589 147.1 127 14 39 2 3 91 8 1 53 51 3.12 1.13
1996 25 24 9 1 2 10 7 0 -- .588 749 180.1 177 20 47 3 4 145 4 0 69 65 3.24 1.24
1997 28 26 6 2 2 13 6 0 -- .684 702 174.1 149 15 48 6 6 104 4 0 61 58 2.99 1.13
1998 NYM 29 29 1 0 0 6 8 0 -- .429 724 171.2 166 22 53 5 6 117 5 1 79 75 3.93 1.28
1999 31 29 1 0 0 12 8 0 0 .600 723 174.0 168 25 58 3 6 105 1 0 86 85 4.40 1.30
2000 COL 29 29 0 0 0 6 15 0 0 .286 726 167.1 201 32 53 5 2 88 2 1 112 109 5.86 1.52
2001 MON 42 11 0 0 0 4 7 0 0 .364 493 113.0 127 18 26 2 5 63 4 0 65 60 4.78 1.35
2002 31 20 1 0 1 4 9 0 1 .308 553 131.1 143 15 32 2 4 74 5 0 66 60 4.11 1.33
2003 オリックス 24 12 1 1 0 2 7 1 -- .222 350 76.0 103 14 20 1 3 43 0 0 58 55 6.51 1.62
2004 3 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 25 3.2 9 2 4 0 0 2 1 0 9 7 17.18 3.55
2005 15 15 0 0 0 6 5 0 0 .545 303 73.2 80 10 9 0 1 33 0 0 35 33 4.03 1.21
2006 19 19 0 0 0 7 9 0 0 .438 420 101.2 109 10 22 0 2 33 1 0 47 43 3.81 1.29
2007 10 10 0 0 0 1 6 0 0 .143 190 40.2 51 5 14 1 4 14 0 0 39 26 5.75 1.60
ロッテ 4 4 0 0 0 0 3 0 0 .000 73 12.1 30 1 6 1 2 4 1 0 19 18 13.14 2.92
'07計 14 14 0 0 0 1 9 0 0 .100 263 53.0 81 6 20 2 6 18 1 0 58 44 7.47 1.91
NPB:18年 385 170 28 7 7 89 82 62 0 .520 5640 1330.0 1387 135 390 32 42 763 34 2 632 571 3.86 1.34
MLB:5年 162 118 3 0 1 32 47 0 1 .405 3219 757.1 805 112 222 17 23 447 17 2 408 389 4.62 1.36

タイトル

NPB

表彰

NPB
その他
  • グッドガイ賞:1回(1999年)※全米野球記者協会(BBWAA)のニューヨーク支部が取材対象である選手の人柄を評価する賞[2]

記録

NPB初記録
NPBその他記録
MLB記録

背番号

  • 36 (1984年 - 1988年)
  • 11 (1989年)
  • 21 (1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、1998年途中 - 2000年、2006年 - 2007年途中)
  • 24 (1995年、2007年途中 - 同年終了)
  • 29 (1998年 - 同年途中)
  • 55 (2001年 - 2004年)
  • 77 (2005年)
  • 81 (2008年 - )

関連情報

著書

脚注

  1. ^ 99シーズンにかける日本人メジャーリーガー『月刊スラッガー』1999年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌05456-3、9頁。
  2. ^ 「グッドガイ賞」に松井 日本人では吉井以来2人目,47NEWS(2003年11月6日付),2009年9月12日閲覧
  3. ^ 但し、達成時点で存在する全球団からの勝利であり、かつて自身が在籍した大阪近鉄バファローズからは勝利を挙げていない。
  4. ^ 1996年10月9日の金森隆浩中日ドラゴンズ)以来の記録。但し、失点する前に2死でグレッグ・ラロッカ三塁手の失策があったため、自責点は0。後に2010年6月20日に阿南徹が記録。
  5. ^ 42歳以上で勝利投手となったのは、浜崎真二阪急ブレーブス)、若林忠志毎日オリオンズ)、佐藤義則(オリックス)、大野豊広島東洋カープ)、工藤公康横浜ベイスターズ)に次いで6人目(当時)。なお、相手の先発投手は18歳の田中将大だった。

関連項目

外部リンク