伊豆の踊子
伊豆の踊子 The Izu Dancer | ||
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旧天城トンネル。主人公はこのトンネルの脇にあった峠の茶屋で、はじめて踊子と会話した。 | ||
著者 | 川端康成 | |
イラスト | 装幀:吉田謙吉 | |
発行日 | 1927年3月20日 | |
発行元 | 金星堂 | |
ジャンル | 短編小説 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
ページ数 | 319 | |
ウィキポータル 文学 | ||
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『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表的作品で、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしている[1][2]。孤独や憂鬱な気分から逃れるために伊豆へ一人旅に出た青年が、湯ヶ島、天城峠を越えて下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。
1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号)と2月号(第3巻第2号)に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」として分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月に金星堂より刊行された。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった[3][4]。翻訳版はエドワード・G・サイデンステッカー訳(英題:The Izu Dancer)をはじめ、各国で行われている。
日本人に親しまれている名作でもあり[5]、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は、田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。
作品背景
川端康成が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年(大正7年)の秋で、寮の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった[6][7][1]。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会い、下田港からの帰京の賀茂丸では、蔵前高工(現・東京工大)の受験生・後藤孟と乗り合わせた[8][9][10][11]。踊子の兄とは旅の後も文通があり、「横須賀の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の年賀状(大正7年12月31日消印)が現存している[9]。なお、踊子・たみのことは、旅から翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている[12]。
川端は、旅から約7年後に、『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、「『伊豆の踊子』はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである」とし[13]、「私の旅の小説の幼い出発点である」と述べている[13]。川端は旅に出た動機については以下のように語っている[6][7]。
主人公の青年である川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため[2]、作中に「孤児根性」という言葉が出てくる。また当時、旅芸人は河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた[5][14]。
伊豆の旅から4年後の1922年(大正11年)の夏も湯ヶ島に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、中学の寄宿舎での下級生との同性愛体験を、『湯ヶ島での思ひ出』という素稿にまとめた[6][7]。これは前年の1921年(大正10年)に、伊藤初代(本郷区本郷元町のカフェ・エランの元女給)との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子や小笠原義人を思い出し、失恋の苦しみを癒すためであった[6][7][15]。この原稿用紙107枚の『湯ヶ島での思ひ出』が元となり、『伊豆の踊子』、『少年』(1948年-1949年)へ発展していった[6][7]。
川端は最初の伊豆の旅以来、田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地にある「湯本館」に1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになったが、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった[16]。単行本刊行の際の作業をしている頃は、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館「湯川屋」を紹介し、校正をやってもらっていたという[3][4]。
あらすじ
20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、一人伊豆への旅に出る。「私」は、道中で出会った旅芸人一座の一人の踊子に惹かれ、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。「私」は、彼らと素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる無垢で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。
下田へ着き、「私」は踊子やその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子一人しか都合がつかなくなると、踊子は母親から活動行きを反対された。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜一人だけで活動へ行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。
別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。二人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。船がずっと遠ざかってから踊子が艀で白いものを振り始めた。「私」は伊豆半島の南端がうしろに消えてゆくまで、ずっと沖の大島を一心に眺めていた。船室で横にいた少年の親切を「私」は自然に受け入れられるような気持になり、泣いているのを見られても平気で、涙を出るに委せていた。「私」の頭は澄んだ水のようになって、それがぽろぽろと零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。
登場人物
年齢は数え年
- 私
- 20歳。一高の学生。学校の制帽で、紺飛白の着物の袴をはき、学生鞄を肩にかけた格好で伊豆の一人旅をしている。湯川橋の近くで旅芸人の一行に出会う。再び天城七里の山道で出会い下田まで一緒に旅する。湯ヶ野で鳥打帽を買い、制帽は鞄にしまう。歯並びが悪い。東京では寄宿舎に住む。
- 踊子(薫)
- 14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。若桐のように足のよく伸びた白い裸身で湯殿から無邪気に手をふる。五目並べが強い。美しい黒髪。美しく光る黒眼がちの大きい眼。花のように笑う。尋常小学校二年までは甲府にいたが、家族と大島に引っ越す。小犬を旅に同行させている。
- 男(栄吉)
- 24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の波浮港からやって来た。栄吉は東京で、ある新派役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を二つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。
- 上の娘(千代子)
- 19歳。栄吉の妻。流産と早産で二度子供を亡くした。二度目の子は旅の空で早産し、子は一週間で死去。下田の地でその子の四十九日を迎える。
- 40女(おふくろ)
- 40代くらい。千代子の母。薫と栄吉の義母。薫に三味線を教えている。生娘の薫に、男が触るのを嫌がる。国の甲府市には民次という尋常五年生の息子もいる。
- 中の娘(百合子)
- 17歳。雇われている芸人。大島生れ。はにかみ盛り。
- 茶屋の婆
- 天城七里の山道の茶店の婆さん。爺さん(夫)は長年中風を患っている。一高の制帽の「私」を旦那さまと呼び、旅芸人を「あんな者」と軽蔑を含んだ口調で話す。
- 紙屋
- 宿で「私」と碁を打つ。紙類を卸して廻る行商人。60歳近い爺さん。
- 鳥屋
- 40歳前後の男。旅芸人一行が泊まっている木賃宿の間を借りて鳥屋をしている。踊子たちに鳥鍋を御馳走する。「水戸黄門漫遊記」の続きを読んでくれと踊子にせがまれるが立ち去り、「私」が代りにそれを読んで踊子に聞かせる。
- 土方風の男
- 鉱夫。帰りの霊岸島行きの船の乗船場で、「私」に声をかけ、水戸へ帰る老婆を上野駅まで連れてやってほしいと頼む。
- 老婆
- 蓮台寺の銀山で働いていた倅とその嫁をスペイン風邪で亡くす。残された孫三人と故郷の水戸へ帰えるため、乗船場まで鉱夫たちに付添われている。
- 少年
- 河津の工場主の息子。東京へ帰る船で「私」と出会う。一高入学準備のために東京に向っていた。泣いている「私」に海苔巻きすしをくれ、着ている学生マントへもぐり込ませ温めてくれる。
作品評価・解釈
『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も数多い。竹西寛子は、『伊豆の踊子』を川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは、「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし[17]、この作品が「青春の文学」と言われる理由は、「この和解の切実さ」にあると解説している[17]。そして別れの場面の「私」の涙は、感傷ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであるとし、それゆえに「私」が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している[17]。
奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちが、その作風に影響を及ぼしているとし[5]、川端の心には、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」があり、それが文学の大きなモチーフになっていて[5]、『伊豆の踊子』は、そういった川端の要素が、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作である」と解説している[5]。そして芸人が徳川時代、河原者と言われ卑賎視されたことと、その反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが次々と上流階級にとりいられてきた芸能史を解説し、『伊豆の踊子』には、そういった芸人に対する特別のひいき・憧憬という「日本人の古来からの心情」が現代に生かされている作品だと評し[5]、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている[5]
北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも、日本の芸能史、フォークロアをよく踏まえているものであると指摘し[18]、それを敷衍して、漂流者として芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が、「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも、「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた『伊豆の踊子』論を展開している[18]。また、北野は、『伊豆の踊子』の物語が進行するにつれ、主人公が、「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語るのが目的であるかのようになるとし、踊子の「私」に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、「私」の袴の裾を払ってくれたり、下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、「私」が本来の自己を回復していたことに気づき、小説タイトル通り、踊子像そのものを語る展開となっていると解説している[18]。そして北野は、その時々で多面的に変容する「私」の見る踊子像について、「彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた〈コレー像〉に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である」と述べながら[18]、ユングが説いているところの、「コレー像は未知の若い少女として登場」し[19]、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」[19]という言説を紹介している[18]。
川端の全作品に通じる重要な主題である「処女の主題」の端緒の姿が『伊豆の踊子』にあらわれていると言う三島由紀夫は[20]、主人公が観察している踊子の描写を引きながら、「これらの静的な、また動的なデッサンによって的確に組み立てられた処女の内面は、一切読者の想像に委ねられている」とし[20]、川端が、同時代の他の作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれたのは、この「処女の主題」のためだと考察しつつ[20]、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」とする三島は以下のようにそのテーマを解説している。
処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。しからば処女といふものはそもそも存在しうるものであらうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情といふのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ。ここにいたつて、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の形代(かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる。 — 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」[20]
橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根や、冷静を装って踊子の姿をじっと観察する余裕もなくなって、ただその人にひれ伏すしかなくなる「恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向って、はしけ”の上から白いハンカチを一心に振っている踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い“私”は、ついに恋という感情を認めた」と解説している[14]。そして、「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と身分の差のない少年を、「踊子とつながる人間でもあるかのように」抱きしめ泣いて終わる『伊豆の踊子』は、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実を突きつけられる」と橋本は解説し[14]、その「青春の自意識のつらさ」を描いて、『伊豆の踊子』は永遠の作品となっていると評している[14]。
別れの場面における主語の問題
主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、主語が省かれているため、「さよなら」を言おうとして止めて、ただうなずいたのが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。
「私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。」—川端康成「伊豆の踊子」
これについて川端康成は、主語は「踊子」であるとし、以下のように答えている。
しかし問題の箇所をよく読み返すと、読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったとしながらも、川端は以下のように説明している。
「さよならを言はうした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」[13]
なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている[21]。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、不用意な粗悪な文章で、主格を補うだけではすまなくなり、そこを書き直さねばならないと思えたことと、『伊豆の踊子』が「私」の視点で書かれた構成であることの説明として以下のように述べている[13]。
「伊豆の踊子」はすべて「私」が見た風に書いてあつて、踊子の心理や感情も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して、」と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である。(中略)主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」[13]
高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、「全体をやぶる表現」という言及について、「私」が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚であった」点に触れ[21]、この作品を一貫して、主人公の「私」に同化し感情移入して「解釈処理」を続けた読み手にとっては、小説の最後近くでいきなり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、『私』以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入していることに戸惑い、ほんの時間つぶしに軽く読み流しをする者でない読者には、「語りの視点」の不整合性が問題となり、「川端が犯した不用意な視点転換」は、それに気がつく認知能力をもつ読み手にとって、重大な解釈問題として顕在化されると論じている[21]。
これに対しやや違った論点から、この視点転換問題をみる三川智央は、川端は、この別れの場面を何の問題を感じることもなく執筆し、ほとんど無意識的に、「(踊子は)さよならを言はうとした」と表現しており、主人公の「私」は、言わば一種の〈狂気〉の状態で踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならないとし[22]、このことは同時に、物語世界内の「私」と、「語り手である《私》の自己同一性の崩壊=《私》そのものの崩壊」をも意味していると解説している[22]。
そして三川は、「そこでは『私』と踊子の〈離別〉とともに、まるでそれを阻止するかのように『私』と踊子の心理的〈一体化〉が示される」と述べ[22]、それはあくまで、「現実世界の解釈コードでは認識不能な〈事実〉」であり、「『私』の踊子に対する一方的な一体化の夢想」が、「『私』の意識の肥大化と〈他者〉である踊子の抹殺」とを前提に呈示されているが、読者側には、それが「解釈コードの組み替え」により、「『私』の〈暴力性〉」といったものが隠蔽され、〈抒情的空間〉というものとして、物語世界が辛うじて受け入れられていると考察し[22]、以下のように諭をまとめている。
映画化
映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。
テレビドラマ化
- 連続テレビ小説『伊豆の踊り子』(NHK)
- 白雪劇場・川端康成名作シリーズ『伊豆の踊り子』(KTV)
- 青春アニメ『伊豆の踊子』(NTV)
- 『伊豆の踊子』(TBS)
- 日本名作ドラマ『伊豆の踊子』(TX)月曜日 21:00 - 21:54
- モーニング娘。新春! LOVEストーリーズ1st story『伊豆の踊子』(TBS)
関西テレビ制作・フジテレビ系列 白雪劇場 【川端康成名作シリーズ】 |
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
伊豆の踊子
(1973年) |
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日本テレビ系 青春アニメ全集 | ||
(なし)
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伊豆の踊子
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テレビ東京系 日本名作ドラマ | ||
伊豆の踊子
(1993年) |
ラジオドラマ化
舞台化
観光資源としての『伊豆の踊子』
踊子たちが通った道は、「踊子コース」として散策できるようになっており、賀茂郡河津町の河津駅からバスで国道414号(下田街道)の水生地下バス停で降り、本谷川沿いに旧道をしばらく歩くと、踊り子橋を過ぎたあたりに文学碑があり、舞台となった温泉旅館「福田屋」が近くにある。
文学碑には、川端の毛筆書きによる「道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふころ…」という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製のレリーフも設置されている。この文学碑は、1981年(昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた[24]。
それ以前の川端存命中の1965年(昭和40年)11月12日に建立された文学碑の除幕式では、47年ぶりに作中の最後に登場する受験生の〈少年〉のモデルである後藤孟(再会当時59歳)と川端は再会した[11]。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している。
初景滝そばには「踊り子と私」のブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館(昭和の森会館)がある。
1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本)伊豆急線・伊豆箱根鉄道線直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。
おもな刊行本
- 『伊豆の踊子』(金星堂、1927年3月20日)
- 『伊豆の踊子』(金星堂、1928年10月5日)
- ※ 1927年(昭和2年)刊行本の普及版。
- 限定版『伊豆の踊子』(江川書房、1932年6月20日) 限定180部
- 『抒情哀話 伊豆の踊子』(近代文芸社、1933年4月10日)
- 口絵写真:田中絹代。
- 収録作品:伊豆の踊子、白い満月、招魂祭一景、孤児の感情、驢馬に乗る妻、葬式の名人、犠牲の花嫁、十六歳の日記、青い海黒い海、五月の幻
- コルボオ叢書『伊豆の踊子』(野田書房、1938年1月31日) 150部限定
- 収録作品:伊豆の踊子
- 細川叢書『伊豆の踊子』(細川書店、1947年5月1日) 2000部限定
- 収録作品:伊豆の踊子
- 東鐵文化読本第7号『伊豆の踊子』(東京鐵道局、1948年5月15日) 非売品
- 収録作品:伊豆の踊子
- 『伊豆の踊子』(小山書店、1949年4月30日)
- 『伊豆の踊子』(細川書店、1951年3月15日)
- 収録作品:伊豆の踊子
- 『雪国・伊豆の踊子』(新潮社、1952年8月20日)
- 『伊豆の旅』(中央公論社、1954年10月5日)
- 新潮青春文学叢書『伊豆の踊子』(新潮社、1955年1月31日)
- 『伊豆の踊子』(講談社ロマンブックス、1964年5月10日)
- 文庫版『伊豆の踊子』(三笠文庫、1951年10月)
- あとがき:川端康成。
- 文庫版『伊豆の踊子』(新潮文庫、1950年8月20日。改版2003年)
- 文庫版『伊豆の踊子・禽獣』(角川文庫、1951年7月30日。改版1989年、1999年)
- 文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』(岩波文庫、1952年2月。改版2003年)
- 装幀:精興社。付録:川端康成「あとがき」。略年譜。
- 収録作品:十六歳の日記、招魂祭一景、伊豆の踊子、青い海黒い海、春景色、温泉宿
- 文庫版『伊豆の踊子・花のワルツ 他二編』(旺文社文庫、1965年7月10日)
- 文庫版『伊豆の踊子・十六歳の日記』(講談社文庫、1972年11月)
- 付録・解説、年譜作成:長谷川泉。
- 収録作品:伊豆の踊子、十六歳の日記
- 文庫版『伊豆の踊子』(集英社文庫、1977年5月30日。改版1993年)
- 文庫版『伊豆の踊子・骨拾い』(講談社文芸文庫、1999年3月10日)
- 英文版『The Izu Dancer』(訳:エドワード・G・サイデンステッカー、Leon Picon)(Tuttle classics、1964年、2004年)
- 収録作品:川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、井上靖「ある偽作家の生涯」(The Counterfeiter)、井上靖「姨捨」(Obasute)、井上靖「満月」(The Full Moon)
- 英文版『Oxford Book of Japanese Short Stories (Oxford Books of Prose & Verse) 』(編集:Theodore W. Goossen。訳:Jay Rubin)(Oxford and New York: Oxford University Press,、1997年)
- 収録作品:森鴎外「山椒大夫」(Sansho the Steward)、芥川龍之介「藪の中」(In a Grove)、宮沢賢治「なめとこ山の熊」(The Bears of Nametoko)、横光利一「春は馬車に乗って」(Spring Riding in a Carriage)、川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、梶井基次郎「檸檬」(Lemon)、坂口安吾「桜の森の満開の下」(In the Forest, Under Cherries in Full Bloom)、中島敦「名人伝」(The Expert)、安部公房「賭」(The Bet)、三島由紀夫「女方」(Onnagata,)、ほか
- 英文版『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(訳:J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998年)
- 収録作品:伊豆の踊子(The Dancing Girl of Izu)、十六歳の日記(Diary of My Sixteenth Year)、油(Oil)、葬式の名人(The Master of Funerals)、骨拾い(Gathering Ashes)、ほか
漫画化
参考文献
- 文庫版『伊豆の踊子』(付録・解説 竹西寛子、三島由紀夫)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
- 文庫版『伊豆の踊子』(付録・解説 奥野健男、橋本治)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
- 『川端康成全集第35巻 雑纂2』(新潮社、1983年)
- 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
- 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』(新潮社、1985年)
- 『作家の自伝15 川端康成』(日本図書センター、1994年)
- 『日本近代文学大系42 川端康成・横光利一集』(角川書店、1972年)
- 『別冊太陽 川端康成』(平凡社、2009年)
- 北野昭彦「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」(日本言語文化研究、2007年3月)[25]
- 高本條治「ただうなずいて見せたひと――川端康成『伊豆の踊子』の語用論的分析」(上越教育大学研究紀要、1997年3月)[26]
- 三川智央「『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題」(金沢大学国語国文、1998年12月)[27]
脚注
- ^ a b 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
- ^ a b 「年譜」(文庫版『伊豆の踊子』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
- ^ a b 川端康成「『伊豆の踊子』の装幀その他」(文藝時代 1927年5月号に掲載)
- ^ a b 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』(新潮社、1985年)
- ^ a b c d e f g 奥野健男「鮮やかな感覚表現」(文庫版『伊豆の踊子』)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
- ^ a b c d e f 川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(未定草稿107枚、1922年夏)
- ^ a b c d e f 川端康成「少年」(人間 1948年5月号-1949年3月号に掲載)
- ^ 土屋寛『天城路慕情――「伊豆の踊子」のモデルを訪ねて』(新塔社、1978年)
- ^ a b 川端香男里「川端康成の青春―未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による―」(文學界 1979年8月号に掲載)
- ^ 森晴雄「川端康成 略年譜」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)
- ^ a b c 『実録 川端康成』(読売新聞社、1969年)。長谷川泉編 『川端康成・横光利一集〈日本近代文学大系42〉』(角川書店、1972年7月。1990年9月)に抜粋掲載。
- ^ 川端康成「ちよ」(校友会雑誌 1919年6月号に掲載)
- ^ a b c d e f 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」(風景 1967年5月 - 1968年11月号に掲載)
- ^ a b c d 橋本治「鑑賞――『恋の垣根』」(文庫版『伊豆の踊子』)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
- ^ 川端康成「あとがき」(『川端康成全集第3巻』)(新潮社、1948年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。
- ^ 川端康成「あとがき」(文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』)(岩波文庫、1952年。改版2003年)
- ^ a b c 竹西寛子「解説」(文庫版『伊豆の踊子』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
- ^ a b c d e 北野昭彦「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」(日本言語文化研究、2007年3月)
- ^ a b カール・グスタフ・ユング「コレー像の心理学的位相について」(『神話学入門』カール・ケレーニイとの共著・杉浦忠夫訳)(晶文社、1975年)
- ^ a b c d 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」(文庫版『伊豆の踊子』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
- ^ a b c 高本條治「ただうなずいて見せたひと――川端康成『伊豆の踊子』の語用論的分析」(上越教育大学研究紀要、1997年3月)
- ^ a b c d e 三川智央「『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題」(金沢大学国語国文、1998年12月)
- ^ 「付録写真」(文庫版『伊豆の踊子』)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
- ^ 長谷川泉「『伊豆の踊子』と新文学碑」(図書新聞 1981年5月23日号に掲載)。長谷川泉 『川端康成論考〈長谷川泉著作選第5巻〉』(明治書院、1991年12月)に所収。
- ^ CiNii 論文 - 「伊豆の踊子」の<物乞ひ旅芸人>の背後 : 定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生
- ^ http://repository.lib.juen.ac.jp/dspace/bitstream/10513/93/1/kiyo16_2-08.pdf (PDF)
- ^ 『伊豆の踊子』再考
関連項目
- 天城湯ヶ島町
- 天城山隧道
- 天城越え
- 天城越え (松本清張)
- 桃割れ
- 『林檎の樹』 - ジョン・ゴールズワージーの小説。康成が耽読し、『伊豆の踊子』に影響を与えた。