後白河天皇

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後白河天皇
第77代天皇
在位期間:1155年8月23日 - 1158年9月5日
在位中の時代 平安時代
在位中の年号 久寿
保元
在位中の首都 京都
別名 行真法皇
出生 1127年10月18日
死没 1192年4月26日
陵墓 法住寺陵
皇子女 二条天皇
亮子内親王
好子内親王
式子内親王
守覚法親王
以仁王
円恵法親王
定恵法親王
休子内親王
惇子内親王
恒恵
高倉天皇
静恵法親王
道法法親王
承仁法親王
真禎
覲子内親王
中宮 藤原忻子
女御 藤原琮子
平滋子
父親 鳥羽天皇
母親 藤原璋子

後白河天皇((ごしらかわてんのう、大治2年9月11日1127年10月18日) - 建久3年3月13日1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日1155年8月23日) - 保元3年8月11日1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇雅仁(まさひと)。譲位後は後白河院として院政を行うが、二条天皇や高倉天皇との対立により、院政停止に追い込まれることもあった。

目次

[編集] 系図

 
(71)後三条天皇
 
(72)白河天皇
 
(73)堀河天皇
 
(74)鳥羽天皇
 
(75)崇徳天皇
 
重仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚行法親王
 
 
最雲法親王
 
 
(77)後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実仁親王
 
 
覚法法親王
 
 
(76)近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
 
 
輔仁親王
 
(源)有仁
 
 


 
(77)後白河天皇
 
(78)二条天皇
 
(79)六条天皇
 
 
 
 
 
 
以仁王
 
某王(北陸宮
 
 
 
 
(80)高倉天皇
 
(81)安徳天皇
 
 
 
 
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
 
守貞親王
(後高倉院)
 
(86)後堀河天皇
 
(87)四条天皇
 
 
 
 
 
 
式子内親王
 
 
(82)後鳥羽天皇
 
(83)土御門天皇
 
(88)後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覲子内親王
(宣陽門院)
 
 
(84)順徳天皇
 
(85)仲恭天皇
 
 
 
 
 
 
忠成王(岩倉宮)
 


[編集] 略歴

[編集] 親王時代

大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇の第四皇子として生まれる。藤原宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した(宇多天皇女御・藤原胤子、三条天皇皇后・藤原娍子以来)。11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、田楽猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。

その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で2男4女を産むが、終生重んじられることはなかった。

[編集] 保元の乱・平治の乱

久寿2年(1155年近衛天皇が死去すると、美福門院の養子となっていた守仁親王即位までの中継ぎとして、立太子しないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、尚且つ存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。保元元年(1156年)、鳥羽法皇が死去すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。

保元3年(1158年)、後白河は守仁に譲位(二条天皇)。これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院と暲子内親王に譲られたため、後白河は頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。

二条の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。

この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日夜、院御所・三条殿は信頼・義朝の軍勢によって襲撃され、内裏の一本御書所に幽閉される。結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河は乱の最中、幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほとんど省みられていなかった。

乱後、後白河は二条親政派の中心だった経宗惟方の逮捕を清盛に命じる。経宗・惟方は、信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となる。

[編集] 二頭政治と法住寺殿造営

後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河と二条に奏上され、前関白・藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。10月になると、後白河は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨守に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。

10月16日、後白河は法住寺殿の鎮守として日吉社・熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬や流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、鳥羽法皇の遺言で王家の家長となっていた美福門院が死去した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、翌永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。

二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者も少なくなかった。後白河には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河の寵愛は、専ら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・琮子は全く無視されていた。三条公教(琮子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。この時期の状況として『平家物語』には「院の近習者をば、内よりいましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるるの間、上下おそれをののいて、やすい心なし。ただ深淵にのぞむで、薄氷をふむに同じ」とあり、両派の緊張関係がうかがえる。

[編集] 二条親政の確立

9月3日、滋子は後白河の第七皇子(憲仁、後の高倉天皇)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『百錬抄』)。15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠平教盛藤原成親藤原信隆らが二条天皇により解官される。これ以降、後白河は政治決定の場から排除され、国政は二条と忠通の合議により運営されることになる。

12月17日、藤原育子が入内する。育子は閑院流出身(徳大寺実能の女)で忠通の養女だった。翌応保2年(1162年)2月19日、育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となり(大夫の九条兼実は14歳で名目のみ)、清盛も内裏を警護して二条支持の姿勢を明確にしたため、後白河院政派は逼塞を余儀なくされる。3月には配流されていた経宗が帰京を許され、入れ替わるように6月23日、実長の密告により二条呪詛の容疑で源資賢・時忠が流罪となった。鳥羽院政を支えていた貴族の認識では二条が正統な後継者であり、後白河はあくまで暫定という位置づけだった。

院政を停止された後白河は、信仰の世界にのめり込む。応保2年(1162年)正月の熊野詣では、千手観音経千巻を読んでいた時に御神体の鏡が輝いたので、「万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ(多くの仏の願いよりも、千手観音の誓願は頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟る、とお説きになられている)」と今様を歌い、千手観音への信仰を深くしている(『梁塵秘抄口伝集』)。

長寛2年(1164年)12月17日、後白河は多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する。造営は清盛が備前国を知行して行った。後白河は落慶供養の日に、二条の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」と嘆いたという(『愚管抄』)。蓮華王院・新日吉社・新熊野社には荘園が寄進され、後白河の経済基盤は強化される。二条は後白河の動きに警戒感を募らせていたが、翌永万元年(1165年)6月25日、病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位、7月28日に崩御した。

[編集] 二条親政派の瓦解と憲仁擁立

六条天皇は母の身分が低いことから中宮・育子が養母となり、摂政・基実を中心にして体制の維持が図られた。しかし政権は不安定で、後白河院政派はしだいに息を吹き返していく。12月25日、後白河は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王勅別当とする。院政期に親王宣下されるのは原則として正妃所生の皇子のみであり、憲仁は皇位継承の有資格者として位置づけられた。永万2年(1166年)7月26日に基実が急死すると、嫡子の基通が幼少のため、後白河の近臣・松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられた。この時に清盛は、殿下渡領を除く摂関家領を後家の盛子に相続させているが、後白河はこの措置を容認していたと考えられる。主柱であった摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。

後白河は二条親政派を切り崩すと同時に、自派の勢力拡大を強力に推し進める。7月に源資賢が参議に補されたのを皮切りに、8月には藤原成親・藤原光隆が参議、藤原成範・平頼盛が従三位となるなど、院近臣が次々に公卿に昇進した。一方、外戚でありながら離反した閑院流に対しては冷淡な態度をとり、権大納言の実定・実長が辞任している。実定は安元3年(1177年)にようやく還任するが、実長は生涯散位のまま留め置かれた。

10月10日、後白河は清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する。立太子の儀式は摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われ、九条兼実・清盛がそれぞれ東宮傅(とうぐうのふ)・春宮大夫となり、摂関家・平氏が憲仁を支えていることを誇示するものとなった。11月、後白河は清盛を内大臣とする。院近臣の昇進は大納言が限界であり、近衛大将を兼ねずに大臣になったことも極めて異例で、破格の人事だった。さらに実長が辞任した後の権大納言には、藤原師長を抜擢する。師長は保元の乱で配流されたが琵琶の才能を認められ、日和見的傾向の強い上流貴族の中では最も後白河に忠実な人物だった。

[編集] 院政開始と出家

後白河は人事の刷新を済ませると、御所の拡張と軍事力の整備に乗り出した。法住寺南殿は信頼の邸宅を移築したものだったが、手狭で儀式に対応しにくいことから、仁安2年(1167年)正月19日、新しく建て替えられた。法住寺殿は、儀式用の法住寺南殿、憲仁の住む七条上御所、後白河・滋子の住む七条下御所などに区分され、政治の中枢として機能する。28日には六条天皇の朝覲行幸があり、叙位・除目が行われた。

5月10日、後白河は重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す(『兵範記』)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任された。重盛は憲仁立太子の儀式で後白河の警護に当たり、9月の熊野詣にも供をするなど、平氏一門の中では後白河に近い立場にあった。清盛は家督を重盛に譲っても、依然として大きな発言力を有していたが、仁安3年(1168年)2月、病に倒れる。後白河は熊野詣から戻る途中だったが、日程を早めて浄衣のまま六波羅に見舞いに駆けつけており、その狼狽ぶりがうかがえる。兼実も「前大相国所労、天下大事只此の事に在る也。この人の夭亡の後、弥よ以て衰弊か」(『玉葉』2月11日条)と政情不安を危惧している。摂関以外の臣下の病では異例の大赦が行われ、19日、反対派の動きを封じるために、基房の閑院邸において六条天皇から憲仁への譲位が慌しく執り行われた(高倉天皇)。病の癒えた清盛は政界から身を引き、福原に別荘を造営して退隠する。

大嘗会などの即位の行事が一段落して、年が明けた仁安4年(1169年)正月、後白河は12度目の熊野詣に向かう。2月29日には賀茂社にも詣でるが、これらは出家の暇乞いのためであったという(『梁塵秘抄口伝集』)。3月13日には高野山に詣で、帰路の途中の20日、福原の清盛の別荘に立ち寄る。この時に行われた千僧供養は、以後の恒例行事となった。帰京して嘉応と改元された4月、滋子に建春門院の院号を宣下し、6月17日、法住寺殿において出家、法皇となる。出家の戒師など8人の役僧は、全て園城寺の門徒だった。11月25日、新帝の八十嶋祭が行われ、重盛の室・経子が勅使役として公卿を引き連れて六波羅から出立する。後白河は滋子とともに七条殿の桟敷で行列を見送っており、平氏との協力体制は磐石なものに見えた。

[編集] 寺院勢力への対応

嘉応元年(1169年)、尾張の知行国主・藤原成親の目代が日吉神社の神人と闘争事件を起こしたため、延暦寺は成親の流罪を要求して強訴する。後白河は成親を擁護して、重盛に大衆の防御を命じる。平氏は、清盛が天台座主明雲を導師として出家するなど延暦寺と友好的であり、重盛は積極的に動こうとしなかったため、後白河は延暦寺の圧力に屈して成親流罪を認める。しかし大衆が帰山した途端に態度は一変、事件の対応にあたった時忠・平信範の流罪を命じた。延暦寺と平氏は反発して再び強訴が起こり、清盛が福原から上洛して武士が召集されるなど、情勢は一挙に不穏となった。後白河は事態の不利を悟り、成親の解官を決定した。

承安2年(1172年)12月、伊賀国住人が春日社神人と闘争を起こし神人が殺害されたため、興福寺の大衆は伊賀国住人の処罰を要求して、春日社の神木を奉じて強訴した。伊賀国住人は重盛の郎党だった。この時は大衆の不満を摂関家が慰撫したようである。重盛が裏で手を回し工作したと推測される。承安3年(1173年)6月、興福寺と延暦寺の対立から、延暦寺傘下の多武峯が興福寺大衆の攻撃により炎上する。後白河は南都15ヶ寺の荘園・末寺を没官することを宣言、興福寺は激怒して強訴する。後白河は、興福寺権別当・覚珍を派遣して大衆を説得し、事態は沈静化する。

たび重なる強訴の要因の一つには、後白河の園城寺に対する露骨な優遇があった。後白河が出家した際の儀式では、戒師以下8人の僧全員が園城寺の門徒だった。同じ天台宗でありながら園城寺と激しく対立する延暦寺では不満が渦巻き、各地では延暦寺傘下の神人と院近臣国司の間で抗争が絶えなかった。

[編集] 平氏との対立、院政停止

安元3年(1177年)建春門院の死去によって、後白河と平氏の関係は悪化の兆しを見せ始めた。そのような中で、加賀守・藤原師高の目代が白山と抗争して堂舎を焼き払う事件が発生する。白山は延暦寺の末寺であり、師高の父が後白河の近臣・西光だったことから、中央に波及して院と延暦寺の全面衝突となった。延暦寺の大衆は師高の流罪を求めて強訴を起こすが、後白河は強硬な態度をとり重盛に防御を命じる。重盛の軍兵の射た矢が、神輿に当たるなどの不手際により非難の声が巻き起こり、後白河はやむなく師高を流罪にする。

西光は報復として、天台座主・明雲の処罰を主張。後白河も同意したため、明雲は天台座主を解任され所領も没収、伊豆に配流となった。延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、後白河は延暦寺の末寺・荘園の没収を図り、延暦寺武力攻撃を平経盛に命じる。経盛は親平氏勢力の延暦寺と戦端を開くつもりはなく出兵を拒否、重盛・宗盛も清盛の指示に従うと称した。業を煮やした後白河は、清盛を福原から呼び出して攻撃を要請する。清盛は出兵を承諾し、延暦寺攻撃が決定する。

ところが、6月1日に西光が逮捕され院近臣による平氏打倒の陰謀が発覚した(鹿ヶ谷の陰謀)。関係者は一網打尽にされ、西光・成親は殺害された。実際に陰謀計画が進行していたかは定かでないが、院と平氏の対立が激しくなっていたことを物語る。

後白河に難は及ばなかったが、治承2年(1178年言仁親王の立太子を認めざるを得なくなる。不満を抱いた後白河は、治承3年(1179年)になると平氏の勢力を削減するため圧力を加える。白河殿盛子が死去すると、盛子の管理していた摂関家領を没収、重盛が死去するとその知行国・越前を没収した。さらに親平氏派の基通をさしおいて松殿基房の子・師家を権中納言に昇進させた。これに対して清盛は、11月14日にクーデターを起こす。後白河は鳥羽殿に幽閉され、院政も停止される(治承三年の政変)。

[編集] 源平合戦

治承4年(1180年)、皇子の以仁王が諸国に令旨を発し、京都で源頼政と平氏打倒の軍を挙げた(以仁王の挙兵)。この挙兵は失敗に終わるが、高倉宮以仁王の平氏討伐の令旨を受け取った全国の源氏が呼応し、木曾の源義仲(木曾義仲)、伊豆へ流罪となっていた義朝の子の源頼朝などが挙兵すると、後白河法皇はこれを支援する。

養和元年(1181年)、それまで院政を敷いていた高倉上皇が崩御すると、ほかに院政を行うことのできる上皇がいないため、後白河院政が再開される。また清盛が病死すると平氏の勢力は急激に衰え、後白河の発言権は拡大した。寿永2年(1183年)7月には、木曾義仲が叡山と連携して京都に攻め込むと、平氏は安徳天皇、建礼門院らを奉じ、三種の神器と共に西へ落ち延びていった。叡山に避難していた後白河は京へ戻ると、上洛した木曾義仲・源行家らを迎えて平氏追討の宣旨を下す。

高倉上皇の皇子から新帝を擁立する際には、義仲は以仁王の子の北陸宮を推挙するが、後白河は寵姫の丹後局の影響でこれを退けて尊成親王(後鳥羽天皇)に決定し神器が無いために緊急措置として院宣により即位させた。9月、鎌倉に本拠を置いた頼朝が密奏を行い、東国の支配権を認めさせると、義仲は京で孤立する。頼朝に義仲追討を命じ、頼朝の弟の源義経に命じてこれを討たせた。さらに平氏討伐の命令を出し、文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。

[編集] 鎌倉との対立・協調

平氏滅亡後の文治元年(1185年)10月13日、源義経が頼朝追討の宣旨を下すように要請する。躊躇する後白河に、藤原経宗は「当時在京の武士、只義経一人なり。彼の申状に乖かれ若し大事出来の時、誰人敵対すべけんや。然らば申請に任せて沙汰あるべきなり」と進言し、やむを得ず頼朝追討の宣旨を下した。義経没落後、頼朝の抗議を受けて後白河は義経追捕の院宣を下し、議奏公卿の設置・兼実の摂政就任を受諾した。文治5年(1189年)、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされるが認めず、頼朝が院宣を待たずに奥州藤原氏を攻めたため、後白河と頼朝の関係は悪化する。頼朝は建久元年(1190年)に上洛して後白河と和解し、後白河は頼朝を権大納言・右近衛大将に任じた。

その後は公武関係の安定・東大寺の再建に取り組み、建久3年(1192年)3月13日、六条西洞院御所において66歳で崩御した。

[編集] 人物

平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇に酷評されていたという。後に『梁塵秘抄』を撰する。また自分の政権維持のために、平氏や木曾義仲ら武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討伐という形で使い捨てを続けた事から、源頼朝からは「日本国第一の大天狗」と評された(ただし、近年この大天狗の表現は、院近臣の高階泰経を指したのではないかとする説も出ている)。

玉葉』に記された藤原信西の後白河評は「和漢の間、比類少きの暗主」。その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」(一旦やろうと決めたことは制法など無視して、必ずやり遂げる人)としている。ただし、これは九条兼実が清原頼業から聞いた話として、『玉葉』寿永3年(1184年)3月16日条に書きとめたもので、信西が本当にそう言ったか定かでなく、兼実は後白河嫌いで通っているのでそのまま鵜呑みにはできない。

兼実は「鳥羽法皇は普通の君であるが、処分については遺憾であり、すべてを美福門院に与えられた。今の後白河法皇は処分に関する限り遙かに鳥羽法皇より勝れている。人である賢愚など、簡単に評価できないものだ」とし、その死去にあたっては「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。仏教に帰依された様子は、そのために国を滅ぼした武帝以上であり、ただ延喜天暦の古きよき政治の風が失われたのは残念である。いまご逝去の報に接し、天下はみな悲しんでいるが、朝夕法皇の徳に慣れ、法皇の恩によって名利を得た輩はなおさらである」形式的な悲しみの言葉を使いながらも、仏教帰依を非難し、近臣の悲しみを嘲笑している。

後白河は、義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を下したが、義経没落後は頼朝に義経追捕の院宣を下した。さらに、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされてもこれを拒否し、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした事を知ると事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下している。次から次にあたかも手駒を捨てていくかのごとく武士を利用していったように見える。後白河は頼朝追討の宣旨を下した後、高階泰経に「保元以来乱逆が相次ぎ、玉体を全うするためにこのような処置をとってきたが、今後も乱逆が絶えないだろうから治世から身を引きたい」(『玉葉』)と心情を吐露している。しかし他に貴族政権を取りまとめる者がいなかったことも事実であり、最期まで政治の実権を握り続けた。頼朝との悪化した関係は建久元年(1190年)の頼朝上洛により修復され、この時に成立した朝廷と鎌倉幕府の協調関係は、承久の乱まで約30年間保たれることになった。

[編集] 后妃・皇子女

  • 第一皇子:守仁親王(二条天皇)(1143-1165)
  • 坊門局 - 兵衛尉・平信重女
  • 第四皇子:円恵法親王(1152-1183)
  • 第五皇子:定恵法親王(1156?-1196)
  • 第六皇子:僧・恒恵(1159?-1206)
  • 第八皇子:静恵法親王(1164-1203)
  • 坊門殿 - 徳大寺公能女
  • 第七皇子:憲仁親王(高倉天皇)(1161-1181)
  • 三条局 - 法印少僧都・仁操女
  • 第九皇子:道法法親王(1166-1214)
  • 第十一皇子:僧・真禎(1169?-?)
  • 丹波局 - 紀孝資女(遊女)
  • 第十皇子:承仁法親王(1169-1197)
  • 右衛門佐(八条院女房) - 肥後守・藤原資隆女
  • 大宮局 - 中納言・藤原伊実女
  • 近衛局 - 権大納言・藤原公保女
  • 御子姫君 - 平清盛女
  • 高階栄子(1151?-1216) - 法印澄雲女
  • 第六皇女:覲子内親王(宣陽門院)(1181-1252)

[編集] 在位中の元号

[編集] 諡号・追号

  • 後白河院-譲位後の院政時の住居の名称による追号(白河院の次に当たるという意味に因む)。明治年間以降は正式に後白河天皇と諡される。
  • 行真法皇-退位・出家後に用いた戒名

[編集] 陵墓・霊廟

京都市東山区三十三間堂廻り町にある法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)に葬られた。

[編集] 参考文献

  • 安田元久『後白河上皇』(吉川弘文館人物叢書、1986年新装版) ISBN 4642050795
  • 棚橋光男『後白河法皇』
(講談社選書メチエ、1995年) ISBN 4062580659
(講談社学術文庫、2006年) ISBN 4061597779
  • 下郡 剛『後白河院政の研究』(吉川弘文館、1999年) ISBN 4642027815

[編集] 登場作品

小説
映画
テレビドラマ

[編集] 関連項目

先代:
近衛天皇
天皇
第77代: 1155-1158
次代:
二条天皇
歴代天皇一覧
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21 雄略 22 清寧 23 顕宗 24 仁賢 25 武烈 26 継体 27 安閑 28 宣化 29 欽明 30 敏達
31 用明 32 崇峻 33 推古 34 舒明 35 皇極 36 孝徳 37 斉明 38 天智 39 弘文 40 天武
41 持統 42 文武 43 元明 44 元正 45 聖武 46 孝謙 47 淳仁 48 称徳 49 光仁 50 桓武
51 平城 52 嵯峨 53 淳和 54 仁明 55 文徳 56 清和 57 陽成 58 光孝 59 宇多 60 醍醐
61 朱雀 62 村上 63 冷泉 64 円融 65 花山 66 一条 67 三条 68 後一条 69 後朱雀 70 後冷泉
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北朝 1 光厳 2 光明 3 崇光 4 後光厳 5 後円融 6 後小松  
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111 後西 112 霊元 113 東山 114 中御門 115 桜町 116 桃園 117 後桜町 118 後桃園 119 光格 120 仁孝
121 孝明 122 明治 123 大正 124 昭和 125 今上 ※註:赤字女帝