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「条約改正」の版間の差分

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{{Otheruses|安政五カ国条約等を改正するための明治時代の外交交渉|その他|条約}}
{{Otheruses|安政五カ国条約等を改正するための明治時代の日本の外交交渉|中華民国において中国が諸外国と結んだ不平等条約改正を求める運動|国権回復運動 (中国)}}
[[ファイル:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|440px|right|thumb|[[鹿鳴館]]での舞踏会のようすを描いた[[錦絵]]「貴顕舞踏の略図」([[楊洲周延]]画)]]
'''条約改正'''(じょうやくかいせい)とは、[[安政]]年間から[[明治]]初年にかけて[[日本]]と[[欧米]]諸国との間で結ばれた[[不平等条約]]を改正するための[[外交]]交渉をさす<ref>外務省外交史料館日本外交史事典編纂委員会『日本外交史辞典』山川出版社、1992年、は、条約改正を「幕末から明治初年にかけて、日本が欧米諸国と締結した不平等条約を平等条約に締結し直そうと試みた明治政府の一連の外交交渉」と定義する。『国史大辞典 7』吉川弘文館、1981年、には、「明治政府の締結した北ドイツ連合・オーストリア=ハンガリーなどとの諸条約も安政の諸条約と同様の不平等条約であった」との記述がある。</ref>。
'''条約改正'''(じょうやくかいせい)とは、[[江戸時代]]末期の[[安政]]年間から[[明治]]初年にかけて[[日本]]と[[欧米]]諸国との間で結ばれた[[不平等条約]]を改正するための明治政府の[[外交]]交渉の総体とその経過をさす<ref group="注釈">『[[#外交史|日本外交史辞典]]』(1992)では、条約改正を「幕末から明治初年にかけて、日本が欧米諸国と締結した不平等条約を平等条約に締結し直そうと試みた明治政府の一連の外交交渉」と定義している。『[[#国史|国史大辞典]]』(1986)では「明治政府の締結した[[北ドイツ連邦|北ドイツ連合]]・オーストリア=ハンガリーなどとの諸条約も安政の諸条約と同様の不平等条約であった」と記されている。[[#国史|臼井(1986)p.637]]</ref>。


== 条約システムの形成とアジア ==
== 概説 ==
[[ファイル:Wuchang Uprising Memorial - Hankou French Concession boundary marker - P1040984.JPG|200px|right|thumb|中国の[[漢口]](現[[武漢市]])にあったフランス[[租界]]の[[石碑]]]]
[[江戸時代]]後期に、たびたび日本へ来航して[[鎖国]]を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、[[江戸幕府]]は[[1859年]](安政6年)に[[安政五カ国条約]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[イギリス]]、[[フランス]]との通商条約)を結ぶ。五カ国条約は[[関税自主権]]が無く、[[領事裁判権]]を認めたほか、片務的[[最恵国待遇]]条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある<ref>川島信太郎『条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要』(日本国際連合協会 1950年)35ページ</ref>)内容であった。この条約が[[尊皇攘夷]]運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。


[[西ヨーロッパ]]諸国は、[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけて西欧内の[[主権国家]]間の政治的・経済的な摩擦や対立を回避するため、互いに外交使節を派遣し、[[国家主権]]の独立や主権対等などを原則とする友好通商条約を結び、[[アメリカ合衆国]]の独立後はそれを[[新大陸]]にも押しひろげていたが、19世紀に入って社会的状況や[[文化]]・[[伝統]]の異なる[[オスマン帝国|トルコ帝国]]や[[ガージャール朝|ペルシア]]、[[中国]]、[[タイ王国|シャム]]、日本など[[アジア]]の国々との接触を深めると、武力を背景にしてこれらの国々に強制的に「[[開国]]」を認めさせ、みずからの[[条約|条約システム]]に編入していった<ref name="fujimura">[[#藤村|藤村(1989)pp.82-83]]</ref><ref name="okazaki_282">[[#岡崎|岡崎(2009)p.282]]</ref>。
江戸幕府が[[王政復古 (日本)|王政復古]]により倒れると、[[薩摩藩]]・[[長州藩]]を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだが、[[戊辰戦争]]の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、[[1869年]][[2月4日]]([[明治]]元年[[12月23日_(旧暦)|12月23日]])に明治政府は江戸幕府が[[勅許]]を得ずに締結した条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知した。一方で同[[1869年]][[10月18日]]([[明治]]2年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]])に、明治政府が[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と結んだ[[日墺修好通商航海条約]]によって、日本側に最も不利な規定が盛られて欧米による日本に対する不平等条約の強制が更に悪化するという事態も招いた。


その場合、その国に住む欧米人が[[犯罪]]を犯したとき条約相手国の国法に服さずともよいこととし、[[外交官]]ではあっても本来は[[裁判官]]ではない[[領事]]や[[領事館]]職員が本国の法によって[[裁判]]することを可とした。また、相互に[[貿易]]される[[商品]]の[[関税]]を当該国が自由に決定する[[権利]]を認めず、すべて外交交渉の結果むすばれた[[協定]]によることとし、さらに、西欧のある国が当該国との条約で得た権利は、自動的に他の欧米の国にも適用されてその恩恵が均霑されるという規定(片務的[[最恵国待遇]])が設けられることが多く、これらの点でいずれも不平等な性格をもつものであった([[不平等条約]])<ref name="fujimura"/>。
当初、[[1872年]](明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、[[1871年]](明治4年)[[岩倉使節団]]が欧米に派遣された。{{要出典範囲|従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきたが、実情は国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきている。|date=2011年1月}}


なお、以上のうち、関税に関しては強者による弱者の収奪以外の何物でもなかったが、[[領事裁判権]]については、少なくとも[[先進国]]側の論理からすれば彼我の[[風俗]]・[[習慣]]の違い、[[法律]]・[[刑罰]]・[[裁判]]の内容やそれらに対する考え方・姿勢の相違、また、[[監獄]]内の生活環境や治安状態の低劣さなどから居留民を保護するために必要と主張されるものであった<ref>[[#岡崎|岡崎(2009)pp.283-289]]</ref>。
[[1878年]](明治11年)には、[[外務卿]][[寺島宗則]]が西南戦争後の財政難のため税権回復を中心に交渉し、駐米公使の[[吉田清成]]とアメリカのエバーツ国務長官との間で税権回復の新条約([[吉田・エバーツ条約]])を調印するが、イギリス及びドイツの反対と法権の優先を求める世論の反対で挫折する(アメリカとの条約は他国と同内容の条約を結ぶことが条件になっていたため、発効しなかった)。


== 不平等条約の締結 ==
[[1885年]](明治18年)に[[太政官]]制度が廃止され[[内閣_(日本)|内閣]]制度が発足。条約改正は[[明治憲法]]制定と同時並行で取り組まれ、[[第1次伊藤内閣]]の外相[[井上馨]]は[[鹿鳴館]]に代表される[[欧化政策]]を行いつつ交渉を進めた。[[1886年]](明治19年)、井上は[[東京]]において諸外国の使節団と改正会議を行うが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で[[農商務大臣]][[谷干城]]や法律顧問[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]らからの反対意見を受けた。翌[[1887年]](明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、折から[[ノルマントン号事件]](1886年)で不平等条約の弊害が問題になっていたため、世論は激昂してこれを「国辱的な内容」と攻撃、全国的な民権運動が盛り上がった([[三大事件建白運動]])。条約改正交渉は中止となり、井上は辞任した。
[[ファイル:Treaties of Amity and Commerce between Japan and Holland England France Russia and the United States 1858.jpg|300px|right|thumb|[[安政五カ国条約]]]]


[[江戸幕府]]が[[安政]]5年([[1858年]])に[[アメリカ合衆国]]、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[イギリス]]、[[フランス]]と結んだ通商条約([[安政五カ国条約]])は、
[[黒田内閣]]の外相[[大隈重信]]は[[1888年]](明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案を提示した。しかしこの案がイギリスの[[ロンドンタイムズ]]に掲載されて日本へも伝わると、世論からは激しい批判がわき上がった。大隈は改正案に反対する[[玄洋社]]の[[来島恒喜]]から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負った。これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折した。しかし1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった[[陸奥宗光]]が、[[メキシコ#日本との関係|メキシコ]]との間にアジア以外の国とは初めての平等条約である[[日墨修好通商条約]]を締結することに成功する。
#外国に治外法権([[領事裁判権]])を認め、外国人[[犯罪]]に日本の[[法律]]や[[裁判]]が適用されないこと。
#日本に[[関税自主権]]([[輸入|輸入品]]にかかる[[関税]]を自由にきめる権限)がなく、外国との[[協定税率]]にしばられていること。
#無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと。
などの諸点で日本側に不利な[[不平等条約]]であった<ref group="注釈">不平等条項のうち、片務的最恵国待遇の規定は[[マシュー・ペリー]]再来航時の[[嘉永]]7年([[1854年]])に結ばれた[[日米和親条約]]にさかのぼる。</ref><ref group="注釈">領事裁判権と居留地制度については、一説には、一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請ともいわれている。[[#川島|川島・外務省『条約改正経過概要』(1993)p.35]]</ref>。2.については、特に[[慶応]]2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた[[改税約書]]の調印以降は、それまでの[[従価税]]から[[従量税]]方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国[[商品]]が大量に日本[[市場]]に流入して貿易不均衡を生んだ<ref name="tanaka">[[#時彦|田中時彦(2004)]]</ref>。


[[1878年]](明治11年)、駐英公使の[[上野景範]]がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「[[自由貿易]]の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。その結果、日本の[[歳入]]に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。<ref name="okazaki_285">[[#岡崎|岡崎(2009)p.285]]</ref>。また、明治時代の法学者で[[政治家]]でもある[[小野梓]]の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53,7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった<ref>[[#井上|井上(1955)p.56]]</ref>。さらに、明治・大正期に政治家・[[ジャーナリスト]]として活躍した[[島田三郎]]によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として[[農民]]がその大部分を負担した重い[[間接税]]を全廃できたという<ref>[[#井上|井上(1955)pp.55-56]]</ref>。
[[第1次山縣内閣]]で外相[[青木周蔵]]は法権の完全回復を目指して交渉を再開する。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、[[1891年]](明治24年)の[[大津事件]]で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされた。


財政難の政府は[[輸出|輸出品]]にも関税をかけたので、国内産業の発展にも大きなブレーキがかかった<ref name="okazaki_285"/>。日本は、関税自主権を有しないところから生じる損失を[[李氏朝鮮|朝鮮]]([[日清戦争]]後は清国も)との不平等条約の締結や[[ダンピング]]輸出で回収しようとしたのである<ref>[[#家永|家永(1977)p.106]]</ref><ref group="注釈">[[エドワード・ミラー]]の推計によれば、開国後の自由通商開始から1881年(明治12年)までの約四半世紀で、日本はそれまでの千年間に蓄えてきた金銀のほとんどすべてを外国に流出させてしまうこととなり、その額は当時の価格で3億ドル(現在の価格になおすと300億ドル程度に相当か)に達したといわれている。[[#岡崎|岡崎(2009)p.286]]</ref>。
[[第2次伊藤内閣]]ではメキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光が外相となり、駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせた。[[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]直前、[[ロシア帝国]]の南下に危機感を募らせていた英国と[[日英通商航海条約]]の調印に成功し、[[治外法権]]制度を撤廃させた。このことは後の[[日英同盟]]への布石となった。


[[ファイル:Foreign Settlement in Kobe.JPG|300px|right|thumb|明治初年の[[神戸外国人居留地]]]]
条約改正が達成されるのは[[日露戦争]]において日本の国際的地位が高まった後のことである。[[1911年]](明治44年)、[[第2次桂内閣]]の外相[[小村寿太郎]]は[[日米修好通商条約]]を改訂した[[日米通商航海条約]]に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印した。他の諸国の条約も順次修正され、ここに条約改正が達成された。
日本は、国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、[[外国人居留地]]制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にあらながら日本の貿易を左右することができたのであり<ref name="irie_018">[[#入江|入江(1966)pp.17-18]]</ref>、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要としたのであった<ref name="fujimura"/>。

外国人居留地は、安政条約で[[開港場]]とされた5港([[函館港|箱館]]、[[横浜港|横浜]]、[[長崎港|長崎]]、[[新潟港|新潟]]、[[神戸港|神戸]])および開市場となった2市([[江戸]]の[[外国人居留地#築地居留地|築地]]、[[大阪市|大坂]]の[[旧川口居留地|川口]])に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で[[整地]]し、[[道路]]・[[水道]]などの[[公共財]]を整備することとなっていた<ref name="inoue_004">[[#井上|井上(1955)p.4]]</ref>。居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。その一方、外国人も行動範囲が「[[遊歩規定]]」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も[[内地旅行免状]]が必要であった<ref>[http://www.bunzo.jp/archives/category/080treaty.html 公文書で探究「条約改正」-『ぶん蔵』.]([[国立公文書館]])</ref>。外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、居留地の外国人は、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。この借地権は[[永代借地権]]と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった<ref name="inoue_004"/>。

[[ファイル:5jo1.gif|120px|left|thumb|「開国和親」の方針を誓った[[五箇条の御誓文|五箇条の誓文]]]]
不平等条約の締結は、[[尊皇攘夷]]運動とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ[[幕末]]期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ[[日米修好通商条約]]をはじめとする五カ国条約が[[朝廷]]の許しを得ない無勅許条約だった点にあった。

[[慶応]]3年(1867年)の[[大政奉還]]と[[王政復古の大号令]]によって江戸幕府が倒れ、[[薩摩藩]]・[[長州藩]]の下級武士などを中心に明治新政府が成立した([[明治維新]])。
慶応4年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]](1868年2月8日)、列国公使に「[[王政復古 (日本)|王政復古]]」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から[[外交権]]を引き継ぎ、[[詔勅]]をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した<ref>[[#岡崎|岡崎(2009)p.286]]</ref>。[[戊辰戦争]]のさなかの[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]、新政府は[[明治天皇]]が神々に誓うかたちで[[五箇条の御誓文|五箇条の誓文]]を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。

戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、[[明治]]元年[[12月23日_(旧暦)|12月23日]]([[1869年]][[2月4日]])に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は[[勅許]]を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。

いっぽう、明治2年正月に[[北ドイツ連邦]]とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]](1869年[[10月18日]])、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]を相手に結んだ[[日墺修好通商航海条約]]では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。この条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された<ref name="inoue_019">[[#井上|井上(1955)p.19]]</ref>。以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた<ref name="inoue_019"/>。これは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。

== 条約改正の経緯 ==
=== 岩倉遣外使節団 ===
[[ファイル:Iwakura mission.jpg|250px|right|thumb|[[岩倉使節団]]の正副大使5名<br/>左から[[木戸孝允]]、[[山口尚芳]]、[[岩倉具視]]、[[伊藤博文]]、[[大久保利通]]]]
{{main|岩倉使節団}}

明治4年7月([[1871年]]9月)、日本側全権[[伊達宗城]]、清国側全権[[李鴻章]]のあいだに結ばれた[[日清修好条規]]は対等条約であったが、制限的な領事裁判権を相互に認める規定などをふくみ日清両国がそれぞれ欧米列強とむすんだ不平等条約をたがいに承認しあう性格にとどまっていた<ref name="usui_637">[[#国史|臼井(1986)p.637]]</ref>。

政府は明治4年11月(1871年12月)、[[右大臣]][[岩倉具視]]を全権大使、[[大久保利通]]、[[木戸孝允]]、[[伊藤博文]]、[[山口尚芳]]を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の[[元首]]に国書を捧呈して聘問(訪問)の礼を修めさせ、海外文明の情況を視察させた。安政の諸条約は明治5年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[1872年]][[7月1日]])が協議改定期限となっており、使節団は、その条約改正に関する予備交渉と欧米の文物・諸[[制度]]の視察とを目的としていた<ref name="akira_040">[[#彰|田中彰(2002)p.40]]</ref>。

[[ファイル:TomomiIwakura.JPG|150px|left|thumb|使節団の全権大使[[岩倉具視]]]]
当初、大使一行の渡米の目的は、[[ユリシーズ・グラント]][[アメリカ合衆国大統領]]に謁見し、[[アメリカ国務省]]で[[ハミルトン・フィッシュ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]と会見して、万国公法([[国際法]])にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった<ref name="akira_040"/><ref name="akira_088">[[#彰|田中彰(2002)p.88]]</ref>。当時の日本はまだ[[廃藩置県]]を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められるおそれがあり、こうした自国の都合で相手に延期を求める以上、外交使節が必要と考えられての派遣であった。また、この機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった<ref>[[#坂本|坂本(1998)p.113]]</ref>。ところが、駐日アメリカ公使[[チャールズ・デロング]]と駐米日本代表[[森有礼]]は副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した<ref name="akira_088"/><ref>[[#泉|泉(2004)pp.36-37]]</ref>。

合衆国のいたる所で大歓迎を受け、いささか甘い見通しに傾いた使節団は、フィッシュ国務長官に本交渉の開始を申し出たが、フィッシュは交渉に入るには[[明治天皇]]からの[[委任状]]がどうしても必要であると答えたため、大久保と伊藤は委任状を発行してもらうため急遽[[東京]]に立ち戻った<ref name="akira_088"/>。2人は渋る留守政府にかけあい委任状を求めたが、体面上ようやく発行された委任状には使用不可の条件がつけられた<ref>[[#泉|泉(2004)p.63]]</ref>。いっぽう、アメリカに残留した岩倉と木戸に対しては、駐日[[ドイツ帝国|ドイツ]]公使の[[マックス・フォン・ブラント]]と駐日イギリス代理公使の[[フランシス・オッティウェル・アダムズ|フランシス・アダムズ]]が片務的最恵国待遇の規定などを持ち出して日米単独交渉を論難した<ref>[[#泉|泉(2004)pp.65-66]]</ref>。さらに、英国留学中の[[尾崎三良]]は、わざわざアメリカに赴いて岩倉や木戸に条約改正の危険性について意見具申をおこなっている<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.104]]</ref>。こうしてアメリカとの本交渉は中止となり、使節団が以後訪れた[[ヨーロッパ]]諸国とのあいだでも具体的交渉はなされなかった<ref name="toyama_601">[[#遠山|遠山(1979)p.601]]</ref><ref>[[#泉|泉(2004)pp.57-67]]</ref>。ただし、一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられた[[オスマン帝国]]に対しては一等書記官[[福地源一郎]]を派遣し、[[裁判制度]]などを研究させており<ref>[[#泉|泉(2004)p.104]]</ref>、これには僧侶[[島地黙雷]]が同行した。

岩倉一行は欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察したのち明治6年([[1873年]])9月に帰国した。帰国後の会議で、留守政府の首脳であった[[西郷隆盛]]や[[板垣退助]]らが[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[開国]]問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論([[征韓論]])を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決された。そのため、西郷・板垣・[[江藤新平]]・[[副島種臣]]ら征韓派の[[参議#明治政府|参議]]がそろって辞職し、いっせいに下野している([[明治六年の政変]])。

以上、岩倉使節団の交渉は不首尾に終わったものの、この前後には、明治政府は旧幕府がアメリカに与えた[[江戸]]・[[横浜市|横浜]]間の[[鉄道]]敷設権<ref group="注釈">幕府外国掛[[老中]][[小笠原長行]]が慶応3年12月23日(1868年1月17日)にアメリカ合衆国公使館書記官ポートメンにあたえたもの。建設資材の輸入はすべて無税とすること、開業後も日本は税を徴収しないこと、運賃は米英のそれより25パーセント以上高額にならぬようにすることなど[[植民地]]的な取り決めがなされていた。[[#井上|井上(1955)p.9]]</ref>、プロイセン([[北ドイツ連邦]])に与えた[[北海道]][[亀田郡]]七恵村(現在の[[渡島総合振興局]][[七飯町]])約300万[[坪]]の99年間の[[租借権]]<ref group="注釈">幕府[[海軍奉行]]榎本武揚らが建てた独立政権([[蝦夷共和国]])が[[プロイセン|プロイセン人]]ゲルトネルにあたえたもの。[[#井上|井上(1955)p.9]]</ref>、また、[[長崎県]][[高島炭坑]]の鉱山利権<ref group="注釈">旧[[佐賀藩]]が高島炭坑経営に英国人[[トーマス・ブレーク・グラバー]]のグラバー商会を参加させ、開発資金をグラバーから借り入れ炭坑を担保にしていたのが新政府に債務としてひきつがれたもの。グラバーの権利はオランダ企業にひきつがれていたのを1873年に日本政府は[[債務]]を完済し、炭坑を回収した。[[#井上|井上(1955)pp.14-15]]</ref>の回収には成功しており、[[1875年]](明治8年)1月には英仏両国軍側から[[横浜港|横浜]]駐屯軍撤退を申し出ている<ref name="toyama_601">[[#遠山|遠山(1993)p.601]]</ref><ref group="注釈">駐屯軍撤退は明治政府が1869年以来再三にわたって英仏に要求してきたが実現できなかった。それが1875年に英仏側からなされたことについて、[[井上清]]は、岩倉遣外使節団の間接の成果と論じ、[[廃藩置県]]、[[徴兵令]]、[[学制]]発布、[[地租改正]]などにより新政権の体制が整備されたことによるとしている。[[#井上|井上(1955)pp.16-17]]</ref>。

=== 寺島宗則の交渉と吉田・エヴァーツ条約 ===
[[ファイル:Munenori Terajima.jpg|140px|right|thumb|第4代外務卿[[寺島宗則]]]]
[[1875年]](明治8年)11月、[[外務卿]][[寺島宗則]]は、条約改正交渉開始を[[太政大臣]][[三条実美]]に上申し、[[1876年]](明治9年)には交渉を開始して外国からの[[輸入]]を減らす目的で関税自主権回復をめざした。これは、大蔵省租税頭の[[松方正義]]による強い要望もあって<ref>[[#井上|井上(1955)pp.84-85]]</ref>、税権回復によって[[西南戦争]]後の財政難を解消する一方で[[殖産興業]]を推進し、産業保護を通じて政府の歳入増加を図る見地から特に優先すべき課題とみられたからであった<ref name="tanaka"/>。いっぽうの法権、すなわち領事裁判権の方は、各国がこれに応じることなく、逆に[[エジプト]]の[[ムハンマド・アリー朝]]におけるような[[混合裁判制度]]を採用することを示唆したため、政府が同制度を調べた結果、改訂によって特に日本の利益となることはないとして、これを断念した<ref name="sakamoto_306">[[#坂本|坂本(1998)p.306]]</ref>。なお、この年、朝鮮とのあいだに[[日朝修好条規]]が結ばれているが、これは日本側に有利で朝鮮に不利な内容の不平等条約であった。

1876年以降、寺島外務卿は、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア帝国の対日政策の歩調に乱れが生じた間隙をとらえ、税権の回復ならば応じる用意があるというアメリカを相手に単独交渉した。この時期のアメリカは、欧州諸国の[[帝国主義]]外交とは一定の距離を置いており、[[東アジア]]・[[太平洋]]地域におけるヨーロッパ優位の情勢を牽制する意図もあって、英仏両国よりも日本に対し好意的であった<ref name="sakamoto_306"/>。1873年(明治6年)にむすばれた[[日米郵便条約]]などは、日本にとっては欧米諸国とむすんだ最初の対等条約であった。

交渉は実を結び、[[1878年]](明治11年)7月、駐米公使の[[吉田清成]]とアメリカの[[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ|エヴァーツ]]国務長官との間で税権回復の新条約([[吉田・エヴァーツ条約]])が成立した。これは、アメリカの領事裁判権を日本側が認めるかわりにアメリカは日本の関税自主権を認めるというもので、輸出税の廃止、日本沿海における日本の貿易権の独占なども盛られており、当時の日本としてはほぼ希望通りの内容であった<ref name="okazaki_288">[[#岡崎|岡崎(2009)p.288]]</ref>。

同条約の成立が翌1879年(明治12年)7月に公表されると、ロシアはこれに好意的な姿勢を示したものの、日本との貿易額が諸国中最も多いイギリスは、日本が[[保護貿易]]政策を企図しているとして[[自由貿易]]の立場からこれを非難し、また、イギリスの頭越しに日米間で秘密裡に改正交渉が進められていたことに不快感を表明して各国共同の連合談判形式の採用を迫った<ref name="sakamoto_307">[[#坂本|坂本(1998)p.307]]</ref>。ドイツもイギリスに同調して同条約に反対し、また、法権の優先を求める国内[[世論]]の反対もあって条約改正は挫折し、寺島は外務卿を辞職した<ref name="fujimura"/>。

吉田・エヴァーツ条約は、その第10条において、批准しても他の国々がこの規定を認めなければ発効せず、他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった<ref name="toyama_601"/>。アメリカ以外の国も同様の条約を締結しなければ、アメリカ商品のみに高関税がかけられて競争力を失い、通商上著しい被害が予想されるため、アメリカとしてはやむを得ない措置であった<ref name="okazaki_288"/>。これが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる<ref name="okazaki_288"/>。

[[ファイル:HSParkes.jpg|140px|right|thumb|幕末から18年間[[駐日英国大使|駐日英国公使]]を務めた[[ハリー・パークス]]]]
これに前後して[[1877年]](明治10年)、イギリス商人[[ジョン・ハートレー]]による[[アヘン|生アヘン]]密輸事件が発覚した。これは修好通商条約付属の[[貿易章程]]に違反していたが、翌1878年2月、横浜イギリス領事裁判所は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し[[無罪]]の判決を言い渡した([[ハートレー事件]])。また、1877年から78年にかけて[[コレラ]]が流行し、当時は[[コレラ菌]]も未発見で特効薬もなかったところから<ref group="注釈">[[ロベルト・コッホ]]によってコレラ菌がコレラの病原体として発見されたのは、1884年のことである。</ref>、1878年8月、各国官吏・[[医師]]も含めて共同会議で[[検疫]]規則をつくったが、[[駐日英国大使|駐日英国公使]]の[[ハリー・パークス]]は、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張、翌[[1879年]](明治12年)初夏、コレラは再び清国から[[九州地方]]に伝わり、[[阪神地方]]など[[西日本]]で大流行したことに関連して[[ヘスぺリア号事件]]が起こっている<ref name="ienaga_099">[[#家永|家永(1977)p.99]]</ref>。

ヘスペリア号事件(ドイツ船検疫拒否事件)とは、阪神地方でのコレラの大流行を受けて、1879年7月15日、当局が[[神戸港]]停泊中のドイツ[[汽船]]ヘスペリア号に対し[[検疫停船仮規則]]によって検疫を要求したところ、ヘスペリア号はそれを無視して出航、[[砲艦]]の護衛のもと横浜入港を強行した事件である。その結果、横浜・東京はじめ[[関東地方]]でもコレラが流行し、コレラによる死者は1879年だけで10万人に達している<ref name="fujimura"/><ref name="ienaga_099"/><ref group="注釈">日本が海港検疫権を獲得するのは1899年(明治32年)の条約改正の実施を待たなければならなかった。[[#伊藤|伊藤(1977)p.40]]</ref>。

いっぽう、[[福沢諭吉]]・[[馬場辰猪]]・[[小野梓]]らによる民間の条約改正論がいっそう高まり、[[自由民権運動]]においても[[地租]]軽減などとならんで条約改正による国権回復が叫ばれた。福沢諭吉は、早くも1875年(明治8年)の段階で、『[[文明論之概略]]』において「自国の独立」を論じ、人民相互の同権とともに外交上の同権(不平等条約の改正)を論じており<ref>[[#永井|永井(1976)p.299]]</ref>、馬場辰猪は1876年(明治9年)10月、英文でみずから著述した『条約改正論』をロンドンで出版している<ref>[[#井上|井上(1955)p.64]]</ref>。

日本の知識人の多くがハートレー事件やヘスペリア号事件により、法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、[[国民]]の安全や[[生命]]も守ることのできないことを知るようになり<ref name="toyama_601"/>、実際問題として、領事裁判においては、一般の[[民事訴訟]]であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴は[[上海市|シャンハイ]]やロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然だったのである<ref name="sakamoto_307"/>。世論は、経済的不利益の主原因はむしろ治外法権にあると主張し、法権回復を要求しはじめた<ref name="toyama_601"/>。

なお、民権運動興隆の状況を目にした参議[[山縣有朋]]が、1879年(明治12年)、民心安定のために[[国会]]開設が必要であるとの建議を提出したのを契機として、政府は[[参議]]全員に意見書の提出を求めたが、それに対し、[[伊藤博文]]は条約改正を視野に入れての立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出した<ref>[[#坂本|坂本(1998)p.254]]</ref>。[[国会開設の詔]]が出されたのは、[[明治十四年の政変]]後の[[1881年]](明治14年)のことであった。

=== 井上馨と鹿鳴館外交 ===
[[ファイル:KaoruM13.jpg|150px|right|thumb|第5代外務卿・初代外務大臣の[[井上馨]]([[1880年]]の写真)]]
寺島のあとを受けて参議兼外務卿となった[[井上馨]]は、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案をつくり、[[1879年]](明治12年)9月19日、駐英公使森有礼に基本方針を訓令、同11月には在欧各国の公使に対し、海関税則改正と[[開港場]]における外国人の不当な慣習(日本人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外国人への適用などを骨子とした条約改正方針を各国に通知するよう訓令を発した<ref name="sakamoto_308">[[#坂本|坂本(1998)p.308]]</ref>。なお、[[1880年]](明治13年)3月の官制改革では、参議と卿は分離されたが、井上外務卿のみは条約改正にたずさわる関係から、その例外とされた<ref name="inoue_087">[[#井上|井上(1955)p.87]]</ref>。井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は前駐英公使の[[上野景範]]であり、1880年5月以降は横浜のアメリカ副領事であった[[ヘンリー・デニソン]]を外務省顧問に採用された<ref name="inoue_087"/>。

1880年6月、井上案の骨子をもとに修好条約改正案および通商航海条約改正案が準備され、同年7月6日、[[条約改正会議]]を日本で開催することをアメリカ・清国をのぞく各国に通知した<ref name="usui_638">[[#国史|臼井(1986)p.638]]</ref>。この改正案の内容は駐日[[オランダ]]公使から[[情報漏洩|リーク]]され、7月16日付[[ジャパン・ヘラルド]]紙に掲載された。翌[[1881年]](明治14年)2月、井上は条約改正案を関係各国に回付した<ref name="sakamoto_308"/>。当初の列国の態度は日本案は要求のみ多く、それに対する報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める姿勢が強かった<ref>[[#永井|永井(1976)pp.300-301]]</ref>。

その後、森有礼駐英公使はイギリス側の対応をさぐり、双方で交渉の課題と進め方について協議したが、イギリスは関税規則改正にかかわる交渉にのみ応じる方針であることが判明した。1881年7月23日、[[外務英連邦大臣|イギリス外相]][[第2代グランヴィル伯爵グランヴィル・ジョージ・ルーソン=ゴア|グランヴィル伯]]は森駐英公使に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対の意を表明、東京での予備会議開催を提案した<ref name="toyama_601"/><ref name="sakamoto_308"/><ref name="usui_638"/>。これに対し、ドイツは、法権回復の交渉にも応じる構えがあるとの意向であり、イギリスの方針とは異なる感触を得たが、東京での予備会議開催に対してはイギリスと同意見であり、他の各国もこれに追随した<ref name="sakamoto_308"/>。

井上は各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議するための予備会議([[条約改正予議会]])を開くこととした。12月28日の[[御前会議]]での諒承を経て、予備会議は翌[[1882年]](明治15年)1月25日に東京の外務省で第1回がひらかれ、フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した。こののち、アメリカ合衆国・[[ベルギー]]なども加わり、同年7月27日まで計21回開催された<ref name="toyama_601"/><ref name="usui_638"/><ref name="sakamoto_309">[[#坂本|坂本(1998)p.309]]</ref>。

井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬うる所なかるべからず」という方針に立ち、日本が関税を引き揚げて税収増加をはかること、日本の行政規則を条件づきで外国人におよぼすこと、12年後に対等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わりに、外国人には土地所有権、営業権、内地雑居権をあたえようというものであり、なかには、野蒜築港後に同港をひらき、区域を設けて外国人の雑居をゆるすというものもあった<ref>[[#井上|井上(1955)p.91]]</ref>。これについては、政府部内でも[[佐々木高行]]、[[大木喬任]]、[[山田顕義]]の[[参議]]3名が、日本人は失うもの多く、得るところは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂した<ref name="sakamoto_309"/><ref name="irokawa_393">[[#色川|色川(1974)p.393]]</ref>。そのため、井上は一時は辞任の意向を示すほどであったが、寺島前外務卿が慰留、岩倉具視や山縣有朋らが3参議を取りなして、結局、ひきつづき井上の方針が採用されることとなった<ref name="sakamoto_309"/>。なお、[[小野梓]]は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国共同の圧力をうけることにほかならないとして、共同会議を開くべきではないと強く主張した<ref>[[#井上|井上(1955)p.89]]</ref>。

井上改正案は、法権・税権のいずれについても諸外国からの批判が相次いだ。これに対し、井上は日本は法典の整備に鋭意取り組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する用意があると回答、[[1883年]](明治16年)4月5日の第9回予議会では日本の法律に服する外国人には[[内地雑居|内地開放]](内地雑居)をおこなう旨宣言した<ref name="usui_638"/>。内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃することであり、外国人の土地所有や[[企業]]活動の自由をみとめることであったが、これは法権の束縛された当時の日本にとって唯一最大の切り札であり、列国が明治初年から繰り返し主張してきたことでもあった<ref>[[#永井|永井(1976)p.301]]</ref><ref name="suzuki_285">[[#鈴木|鈴木(2002)p.285]]</ref>。この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を示されながらも歓迎された<ref name="sakamoto_309"/>。6月1日の第13回予議会で井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国の法律の専門家によるものとし、また、法律は日本の国内法を適用するという案を提示した<ref name="sakamoto_309"/>。

税率の改正に関しては、日本の要求が自由貿易の理念に反するとの批判をかわすべく、[[大蔵省]]で進めていた[[紙幣]]整理の償却費400万円の確保が目的であるとして、従来5パーセントであった税率を、奢侈品25パーセント、他の物品15パーセントに引き上げる案を示した。イギリスはこれに反対、増収総額300万円程度となる税率案を提示した。それに対し、ドイツは日本に対して好意的で、結果的には総額360万円の増収額となる税率に定められた<ref>[[#坂本|坂本(1998)pp.309-310]]</ref>。なお、新条約の施行期間としては、裁判については12年、税率については8年と定められた<ref name="sakamoto_310">[[#坂本|坂本(1998)p.310]]</ref>。以上、予備会議での交渉は、新条約の方針の協議にとどまるものではあったが、井上の内地開放宣言が功を奏し、日本は一貫して協議の先導者たる立場に立つことが可能となった<ref name="sakamoto_310"/>。

[[ファイル:Rokumeikan.jpg|300px|right|thumb|[[1883年]](明治16年)落成当時の[[鹿鳴館]]]]
[[ファイル:Ministry of Justice Japan01s3200.jpg|300px|right|thumb|現在ものこる[[司法省]]の建物([[法務省旧本館]])]]
[[ファイル:Rokumei-kan ni okeru kifujin jizenkai no zu.jpg|300px|right|thumb|「於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖」(鹿鳴館で行われた日本初の[[バザー|チャリティーバザー]]。1884年の錦絵新聞より)]]
条約改正交渉と並行して井上は、国内に[[欧化政策]]を推進するとともに、西欧風施設を建設して外国使節を歓待し、日本が文明国であることをひろく内外に示す必要があると訴え、[[日比谷公園]]に隣接する[[麹町区]]山下町の地(現在の[[千代田区]][[内幸町]]一丁目。NBF日比谷ビル)に[[ネオ・ルネサンス様式]]の社交施設「[[鹿鳴館]]」の建設に取りかかった<ref group="注釈">「鹿鳴」の名は中国の古典『[[詩経]]』に由来する。</ref>。イギリスの強硬姿勢の原因のひとつには、駐日英国公使パークスの日本を遅れた非文明国とみる日本観が大きな影響をおよぼしていたが、そうした日本観は程度の差はあれ西洋諸国の外交官に共通するものであった<ref name="sakamoto_310"/>。維新以来の開化派であった井上としては、条約改正交渉をスムーズに進捗させていくには、こうした日本の[[イメージ]]を払拭する必要があると考えたのである<ref name="sakamoto_310"/>。これはまた、来るべき内地開放の部分的な予行演習という意味合いを兼ねていた<ref name="sakamoto_310"/>。

鹿鳴館はイギリス人建築家[[ジョサイア・コンドル]]によって設計され、工事は1880年(明治13年)に着手されて1883年(明治16年)11月に完成した。[[煉瓦造]]の2階建で2階正面が舞踏室となっており、完成には足かけ3年の歳月と18万円の工費を要した。11月28日の落成式では[[軍楽隊]]の吹奏や[[花火]]が打ち上げられるなか、内外の高官や紳士淑女1,200人(うち外国人400人)が鹿鳴館に集まって、舞踏会が夜中まで繰り広げられた。井上馨はこの夜「この鹿鳴館を国内外の紳士がともに交わり、国境を越えた友情を結ぶ場にしたい」と演説した。また、井上を局長とする臨時建設局は鹿鳴館周辺に新官庁街を建設することを企図し、[[ドイツ人]][[技術者]]を招いて首都改造計画を進めた<ref group="注釈">官庁街計画はその後中止されたが、すでに着工されていた裁判所と司法省はそのまま建設され、当時の司法庁の建物は現存している。[[#鈴木|鈴木(2002)p.286]]。なお、[[パリ]]を手本とした井上馨の首都改造計画には明治天皇も強い関心を示したといわれる。[[#藤森|藤森(2004)]]</ref><ref>[[#鈴木|鈴木(2002)p.286]]</ref>。

予備会議の成果や井上の内地開放案等について各国の意向を打診した結果、イギリスのパークス公使は、法権は後日検討することとして、関税自主権の付与には依然反対ではあるものの、今回は通商面や税権の面で日本に対し応分の譲歩の用意があるという意向を示した。また、ドイツは内地開放が関税自主権付与の前提になるという方針を表明した<ref name="usui_638"/>。なお、[[1884年]](明治17年)3月、日本に対して強硬な姿勢の強かったパークスの後任公使として[[フランシス・プランケット]]が着任、前任者とは違って、柔軟な対応をする見込みがあらわれた<ref name="sakamoto_312">[[#坂本|坂本(1998)p.312]]</ref>。アメリカからも好意的な反応がみられ、各国も在留外国人が日本の行政法規にしたがうことについては諒承の態度がみられるようになった<ref name="sakamoto_312"/>。

井上は列国の態度を勘案したうえ、1884年(明治17年)8月4日、条約改正基本方針を各国に通告し、条約改正会議(本会議)をひらくよう提案した。しかし同年12月、朝鮮で[[金玉均]]らによる[[クーデタ]]([[甲申政変]])がおこって対清関係が緊迫し、イギリス海軍による朝鮮[[巨文島]]占領事件もあってその対応に追われたため、本会議の開催は[[1886年]](明治19年)に延期された。

[[1885年]](明治18年)、日本では[[太政官]]制度が廃止され[[内閣_(日本)|内閣]]制度が発足した。井上は[[第1次伊藤内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任し、ひきつづき条約改正に取り組んだ<ref name="usui_638"/>。

1886年(明治19年)5月1日、条約改正会議がひらかれ、井上外務大臣・[[青木周蔵]]外務次官のほか12か国の使節団が参加した。井上は関税引き上げと法権の一部回復を目的とした条約案を提出したが、この案にはイギリスが反対した。6月15日、第6回会議でイギリス・ドイツ両国公使が新提案をおこない、日本側もこれを諒としたため、会議は英独案(アングロ・ジャーマン・プロジェクト)を基調に進められた。英独案の骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセントから11パーセントに引き上げることを了承する交換条件として、
# 条約実施後2年以内に日本は内地を開放し、外国人に居住権・営業権をあたえ、2年以後は内地居住外国人は日本裁判所の管轄に属すること。
# 条約実施2年以内に日本は「泰西ノ主義ニ従ヒ」、すなわち西洋を範にとった[[刑法]]・[[民法]]・[[商法]]等法典の整備をおこない、施行16ヶ月前にその英文を諸外国政府に通知すること。
# 外国籍の[[判事]]・[[検事]]を任用すること。
# 外国人が原告もしくは被告となった事件については、直接控訴院(第二審)に提訴することができる。その際、控訴院および[[大審院]]の判事は過半数を外国人とし、[[公用語]]として[[英語]]を認めること。
が掲げられる、というものであった<ref name="tanaka"/><ref name="usui_638"/>。

[[ファイル:Sutematsu Oyama in evening dress.jpg|120px|left|thumb|夜会服に身をつつんだ鹿鳴館時代の[[大山捨松]]]]
法典の整備や裁判制度の確立については、国内における合意形成や法律を運用する法曹の育成などに一定の時間を要することから、当面は、日本がその方向に向かっていることを諸外国に納得させて改正への合意を引き出すよりほかになかったのであり、この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機能したのが[[鹿鳴館外交]]であり、[[欧化政策]]であった<ref group="注釈">1884年(明治17年)[[8月7日]]の天皇・[[昭憲皇太后|皇后]]も参加する宮中での最初の洋式の夜会では、[[オットマール・フォン・モール]]の夫人ワンダが[[宮内省]]に[[雇用]]されることが決まり、宮中の服制や宮廷儀式の欧風化が進められた。これは、[[皇室]]からなされた条約改正交渉への側面援助であった。その際、皇后の果たした役割は大きく、洋装や鹿鳴館バザーを率先しておこない、外国人の[[謁見]]にあたっても天皇に同席するなどして宮中の国際化を支えた。[[#鈴木|鈴木(2002)p.304]]他</ref><ref name="suzuki_285"/>。井上の結論は、「条約改正には兵力によるか、西欧諸国に日本の開化を実感させて治外法権を撤廃してもよいという感情をいだかせるかのどちらかしかないが、兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進めるよりほかに道がない」というものであった<ref name="fujimura"/>。

[[ファイル:Rokumeikan's Lady by Bigot.jpg|300px|right|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー]]「鹿鳴館の月曜日-コントルダンスの合間」<ref group="注釈">コントルダンスとは歴史的舞踊「[[カドリーユ]]」の古称である。[[#森|森(2006)p.16]]</ref>(『[[トバエ]]』6号、1887年5月)
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しゃがんだり背をもたれるポーズで[[キセル]]をふかす「淑女」(実は[[芸者]])の醜悪さを描いた風刺画。ビゴーは「お里が知れる」と批判している<ref>[[#清水|清水(1996)p.10]]</ref><ref name="mori_016">[[#森|森(2006)pp.16-17]]</ref>。]]
欧米風の[[服装]]をして[[洋食]]・[[ダンス]]など欧米風の夜会、バザーなどの[[社交]]をおこない、[[羅馬字会]]が設置され、音楽改良、美術改良、[[演劇改良運動]]が広がり、欧米のあらゆる[[風俗]]を模倣する風潮が一時上流社会に流行することとなり、極端な例では[[キリスト教]]採用論<ref group="注釈">この頃、福沢諭吉も持論であったキリスト教排撃論を撤回し、「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」との論説を発表するに至った。[[#坂本|坂本(1998)p.311]]</ref>や[[人種改良論]]さえ現れるほどであった<ref name="sakamoto_311">[[#坂本|坂本(1998)p.311]]</ref><ref>[[#岡崎|岡崎(2009)p.291]]。原出典は[[板垣退助]]『自由党史』(1910)</ref>が、これは、[[松方デフレ]]による[[不況]]にあえぐ[[農村]]の日常生活とはあたかも別世界であり、その浮ついた雰囲気は国民の自尊心を傷つけ、むしろ社会の堕落・退廃として批判された<ref name="sakamoto_311"/>。国内外の[[新聞]]は、鹿鳴館の夜会を「茶番劇」「猿真似」と書き立てて軽蔑・嘲笑し、鹿鳴館外交を「媚態外交」「軟弱外交」と呼んで批判した。当時[[平民主義]](平民的欧化主義)を唱えていた[[徳富蘇峰]]も、井上馨の欧化主義を「貴族的欧化主義」と呼んで批判し、[[川上音二郎]]作詞の『[[オッペケペー節]]』にも、「うわべのかざりは立派だが、政治の思想が欠乏だ」と唄われた<ref>[[#家永|家永(1977)p.101]]</ref>。

条約改正会議は、1886年(明治19年)7月、関税率改正についてはほぼ日本の原案に近い案が合意をみた<ref name="sakamoto_313">[[#坂本|坂本(1998)p.313]]</ref>。内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井上はそれを認めると法権回復交渉のカードを失うこととなるため拒否している。また、「泰西主義」にもとづく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外務省内に設置した<ref name="sakamoto_313"/>。日本が制定する法律を各国に「通知」する件をめぐっては、やや交渉が難航した。各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に合致するかどうかを監査する権利をもつものと理解したが、それを認めると日本は法律制定に外国の介入を認めることとなってしまうので、井上は列国が「泰西主義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付け加えることを提案し、各国もこれに合意した<ref>[[#坂本|坂本(1998)pp.313-314]]</ref>。

かくして条約改正会議は、新しい通商条約案と英独共同案に修正をほどこした修好条約案がほぼ合意をみることとなり、[[1887年]](明治20年)4月22日の第26回会議で終了した<ref name="sakamoto_313"/>。

[[ファイル:Gustave Boissonade.jpg|150px|right|thumb|明治政府の法律顧問[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]]]
しかし、議事内容が明らかになるにつれ、政府内外からの批判が噴出した。日本政府の法律顧問でフランス人の[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]が、この改正案は日本の法権独立を毀損するものであり、訴訟人の利害からしても、国庫負担からしても外国人法官の任用は弊害が大きく、従来外国人居留地に限られていた不利益をむしろ日本全国におよぼすものであると批判し、また、鹿鳴館における政府首脳の[[放蕩]]を憂慮して「予は今日は贅沢の時に非ずと信ずるを以て、各大臣の宴会はすべて謝絶するなり」と宣言した。「政府の智嚢(知恵袋)」といわれた法制官僚の[[井上毅]]に対しては「この改正が実現すれば日本人は外国を怨むより、屈辱的裁判制度をつくりだした政府を非難するようになるだろう」と進言して「足下は高官の地位にあり、本国のために未曾有の危機にさしてはなんらの尽力をなさざるか」と責め、伊藤首相に対しても、改正案は法典の外国政府への通知を規定しているが、[[立法権]]すら外国の束縛を受けてしまうことになると指摘した<ref name="fujimura"/><ref>[[#色川|色川(1974)p.396]]</ref><ref>[[#永井|永井(1976)p.304]]</ref>。

[[鳥尾小弥太]]、[[三浦梧楼]]、[[曽我祐準]]、[[勝海舟]]らも反対意見を表明した<ref>[[#井上|井上(1955)p.114]]</ref>。国家主義者の[[小村壽太郎]]は当時外務省員でありながら、反対運動に加わった<ref name="okazaki_292">[[#岡崎|岡崎(2009)p.292]]</ref><ref group="注釈">小村壽太郎は、[[杉浦重剛]]、[[千頭清臣]]、[[長谷川芳之助]]ら国粋主義者とともに[[乾坤社同盟]]という政治研究団体をつくり、井上案をこの団体に周知させたうえで国民から反対運動をおこさせようとした。[[#井上|井上(1955)p.114]]</ref>。閣内からも[[司法大臣]][[山田顕義]]や[[農商務大臣]][[谷干城]]から強硬な反対意見があって、7月、谷はついに伊藤首相に改正反対の意見書と辞表を提出するにいたった<ref name="tanaka"/><ref name="usui_638"/><ref name="toyama_602">[[#遠山|遠山(1979)p.602]]</ref>。谷の意見書には、新条約案が現行条約以上に日本の[[国益]]をそこなうこと、改正交渉が秘密裡に進められていること、内地雑居は時期尚早であること、条約改正は憲法施行後、公議輿論に照らしておこなうべきことが記されていた<ref>[[#坂本|坂本(1998)p.315]]</ref>。同月、井上馨外相が[[内閣]]に提出した意見書では、日本の進路について、「欧州的新帝国」をアジアにつくりだすことによって、西洋諸国と同等の地位に向上させ、独立と富強を維持、達成できると記されている<ref>[[#海野|海野(1992)pp.26-27]]</ref>。井上の考えは、ヨーロッパにならうことはヨーロッパと並び立つためだったのである<ref>[[#永井|永井(1976)p.309]]</ref>。辞職した谷は、あたかも国民的英雄のように扱われ、8月1日には旧自由党員林包明ら在京の壮士たちにむかえられて「谷君名誉表彰運動会」が東京[[九段]]の[[靖国神社]]境内で開催された<ref>[[#色川|色川(1974)p.397]]</ref>。ここでいう「運動会」とは、[[デモンストレーション]]のことである<ref name="nagai_305">[[#永井|永井(1976)p.305]]</ref>。参加者は数百名におよび、「谷君万歳」「国家の干城」などと書かれた大小の旗をもって[[市ヶ谷]]田町の谷邸まで示威行進した<ref>[[#井上|井上(1955)pp.119-120]]</ref>。

[[ファイル:Normanton Incident(1886).jpg|250px|left|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー]]「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)
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条約改正を時期尚早と考えるビゴーがノルマントン号事件でのイギリスの対応を翌年のフランス船メンザレ号遭難事件を利用して批判した。ボート上の船長が「いま何ドル持っているか。早く言え。タイム・イズ・マネーだ」と言っている<ref name="mori_016"/>。]]

ボアソナードや谷干城らの意見書は自由民権派の手によって秘密出版されて国民の広く知るところとなった<ref name="toyama_602"/>。その結果、おりからの[[ノルマントン号事件]](1886年)<ref group="注釈">1886年(明治19年)10月横浜から日本人乗客23名をのせて神戸に向かったイギリス船ノルマントン号が、暴風によって[[紀伊国|紀州]]沖で[[座礁]][[沈没]]した事件。船長[[ジョン・ウイリアム・ドレーク]]以下船員27名は乗客をさしおいて全員ボートで脱出、日本人乗客は全員死亡した。この事件で神戸駐在イギリス領事ツループによる[[海難審判]]は船長以下の無罪を宣告したため、日本の世論は激昂した。政府は改めて[[兵庫県知事]]の名で横浜領事裁判所に船長を[[殺人罪]]で告発したが、ハンネン判事は船長に[[過失致死罪]]による3か月の[[禁錮刑]]の判決を下したのみで、死者への[[賠償]]もなかった。[[#藤村|藤村(1989)p.82]]および[[#正弘|田中正弘(1990)p.444]]</ref>で領事裁判権のもたらす弊害が問題視されていたこともあって[[世論]]が激昂、これを「国辱的な内容」と攻撃し、[[板垣退助]]も1万8,000余語におよぶ上奏意見書を提出した<ref name="toyama_602"/><ref>[[#井上|井上(1955)p.120]]</ref>。

井上馨にしてみれば、この案が期限付条約案であることから、国民は国内法制の整備が完了するまでの期間だけ外国人判事による裁判を耐えれば済むということであったが、この時期の日本は自由民権の時代からすでに[[ナショナリズム]]の時代に移っており、もはや世論は井上改正案を受け入れることができなくなっていた<ref name="okazaki_292"/><ref>[[#井上|井上(1955)pp.129-138]]</ref>。

谷らの意見に対して井上は、日本人にしても、たとえば当時の朝鮮の法律や裁判に服することが可能かと提起して、西洋諸国の領事裁判権を完全に撤廃することがいかに困難をともなうものであるかを説いた<ref>[[#坂本|坂本(1998)pp.315-316]]</ref>。さらに、優勝劣敗を説く[[社会進化論]]の影響で日本社会が西洋人によって圧倒されてしまうことを危惧する内地雑居反対論者に対し、井上には日本の民間における潜在的力量に対する基本的な信頼感があったとみられ、条約改正問題で一歩前進することにより、日本社会は外国人の刺激によってさらに文明開化がすすみ、外資増大などによって経済発展をもたらすことが期待できると主張した<ref name="sakamoto_316">[[#坂本|坂本(1998)p.316]]</ref>。

[[ファイル:Hoanjorei.jpg|300px|right|thumb|[[保安条例]]に抗して投獄された人びと(中列左から4人目が[[片岡健吉]])]]
しかし、佐々木高行や[[元田永孚]]など宮中グループの動向や沸騰する世論に抗しきれず、条約改正交渉は延期されることとなり、1887年7月29日、政府は列国に対し改正会議の無期延期を通告、9月17日には井上馨が交渉失敗を理由に外交責任者の地位を辞し、そのあとは[[内閣総理大臣]][[伊藤博文]]が外相を兼務した<ref name="sakamoto_316"/>。

同年10月には[[片岡健吉]]が[[元老院_(日本)|元老院]]に「[[三大事件建白運動|三大事件建白]]」として提出した建白書に不平等条約の改正が盛られる<ref group="注釈">他の2つは、言論の自由の確立と地租軽減による民心の安定であった。</ref>など反政府運動が高まりをみせた。政府は[[内務大臣]][[山縣有朋]]と[[警視総監]][[三島通庸]]を中心に[[保安条例]]を発布して、治安妨害を理由に570名あまりを皇居三里外([[皇居]]より約11.8キロメートル以遠)に3年間追放し、政情の安定と秩序回復を図った<ref name="fujimura"/><ref name="tanaka"/><ref name="usui_638"/>。それに対し、「むしろ法律の罪人となるも退いて亡国の民となる能わず」と主張し、保安条例に抵抗して投獄された人びともいた<ref>[[#井上|井上(1955)p.128]]</ref>。

=== 大隈重信の改正交渉とその蹉跌 ===
[[ファイル:Ōkuma Shigenobu.jpg|150px|right|thumb|第1次伊藤内閣・黒田内閣の外相[[大隈重信]]]]
伊藤博文は条約改正交渉を進展させるため、みずからの後任の外相として、外交手腕に定評のある[[大隈重信]]を選んだ。井上馨と伊藤は、民権派の[[大同団結運動]]に対処すべく、大隈率いる[[立憲改進党]]が政府[[与党]]となることを図って政敵であった大隈に後任外相たるべきことを交渉したのである<ref name="sakamoto_316"/>。大隈は最初、持論の[[議院内閣制]]導入を条件としたため入閣は不発に終わったが、政府は上述の保安条例によって強引に[[三大事件建白運動]]を終息させた。こののち、再び大隈に交渉したところ、大隈もこれを諒承、[[1888年]](明治21年)2月、第1次伊藤内閣の外務大臣に就任した。伊藤と大隈の合同は、[[明治十四年の政変]]以来のことであった<ref name="sakamoto_317">[[#坂本|坂本(1998)p.317]]</ref>。大隈は同年4月に成立した次の[[黒田内閣]]でも外相を留任した<ref group="注釈">大隈重信の秘書官として改正条約案の立案や外国公使との会見交渉をおこなった[[加藤高明]]はこの時期の自らの活動を『[[条約改正日誌]]』に記しており、大隈外相時代の条約改正交渉の詳細が知られる重要な[[史料]]となっている。</ref>。

大隈は、伊藤に憲法制定の功績あるならば自分は条約改正の功をたてたいと決意し<ref name="fujimura"/>、また、その功をもって改進党勢力を伸張させ、憲法発布後に予定されている帝国国会で主導権を握るという具体的な将来構想をいだいていた<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.143]]。原出典は、[[深谷博治]]『初期議会・条約改正』(1940)</ref>。[[薩摩藩]]出身の第2代内閣総理大臣[[黒田清隆]]は、枢密院議長となった伊藤に憲法制定を任せ、大隈に条約改正を任せるという体制をとっていたが、この両者がたがいにほとんど交渉のなかったことはのちに重大な問題をひきおこすこととなる<ref name="mikuriya_144">[[#御厨|御厨(2001)p.144]]</ref>。

大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不利であるという認識に立って、列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用した<ref name="usui_638"/>。それにより、1888年[[11月30日]]、かつて政府転覆の陰謀に加担したとして逮捕・収監された前歴をもつ駐米公使兼駐メキシコ公使[[陸奥宗光]]が[[メキシコ#日本との関係|メキシコ]]との間に[[日墨修好通商条約]]を締結することに成功した。陸奥が[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に着任してわずか半年後のことであり、これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約であった。これにより、[[メキシコ合衆国]]国民は日本の法権に服することを条件に内地開放の[[特権]]があたえられた<ref>[[#岡崎|岡崎(2009)p.295]]</ref>。
:<small>陸奥の交渉相手であったメキシコのロムロ駐米公使は、長くワシントン勤務をつとめたベテラン外交官であり、当初はメキシコだけが領事裁判権を放棄すれば、他の欧米諸国がメキシコに対し悪感情をいだくのではないかと考え、容易に承諾しなかったといわれる。また、税権については相互的最恵国待遇を規定していたため、実際には、第三国が日本の関税自主権を認めるまで利益が生じるのを待たなければならなかった<ref>[[#岡崎|岡崎(2009)pp.295-296]]</ref>。なお、陸奥はその後すぐにアメリカとの交渉に乗りだし、法権回復をともなう新条約締結の合意を取り付けたが、米国内の政権交代や日本本国のイギリスへの配慮、大隈案に対する国内世論の反対(後述)などが重なって成功しなかった<ref>[[#岡崎|岡崎(2009)pp.296-297]]</ref>。</small>

大隈はまた、最恵国約款の解釈を改め、従来一国に認めた特権は無条件で他国にあたえていたものを有条件主義とした。さらに、従来の通商条約と裁判権に関する条約の二本立てとなっていたものを一個の和親条約として締結するという方針を立てた<ref name="sakamoto_317"/>。

改正内容についても大隈は、井上馨の方針を修正し、緻密な外交理論にもとづいて、税権については税率の引き上げを求め、法権については外国人裁判官を[[大審院]]に限定し、法典についても日本側が交付することを約束するにとどめた<ref name="toyama_602"/>。また、現行条約を遵守し、居留地外に進出するための外国人の違法行為を厳しく取り締まることにより、かえって現行条約の方が不便であるということを外国人に痛感させ、そのことによって日本側に有利な条件を獲得しようとした<ref name="tanaka"/>。

単独交渉方式の採用と最恵国待遇に関する新解釈は、列国の利害関係や対日関係のあり方の相違からしだいに条約改正に現実味をあたえることとなった。交渉は極秘裏に進められ、その結果、[[1889年]](明治22年)にはアメリカ合衆国(2月20日)、ドイツ帝国(6月11日)、ロシア帝国(8月8日)とのあいだに新しく和親通商航海条約を締結することに成功した。実際に新条約調印にこぎつけたのは、明治初年以来これが最初であったが、イギリスはなおも反対の態度を示した<ref name="tanaka"/><ref name="usui_638"/><ref name="sasaki_050">[[#佐々木|佐々木(2002)p.50]]</ref>。

[[ファイル:Kenpohapu-chikanobu.jpg|300px|right|thumb|「憲法発布略図」(揚州周延画、1889年)]]
この間、1889年[[2月11日]]、[[黒田内閣]]のもとで[[大日本帝国憲法]]が発布され、日本はアジアで最初の近代的立憲国家として出発することとなった<ref group="注釈">アジア最初の憲法としては、1876年に発布された[[オスマン帝国]]の「[[オスマン帝国憲法]]」(通称「ミドハト憲法」)があったが、2年後の1878年に憲法停止となった。</ref>。しかし、発布に先だって大隈は、伊藤の憲法制定にともなう[[枢密院 (日本)|枢密院]]の会議に出席したことは実は一度もなかった<ref name="mikuriya_144"/>。大隈は、明治十四年の政変の際、国会の早期開設を主張したために伊藤らによって政府を追放された経緯があり、イギリス型の国会や憲法については一家言をもち、伊藤よりもむしろ立憲国家のあり方についての見識も豊かであったとみられるが、上述のように、黒田内閣では、伊藤は憲法制定を進め、大隈は条約改正を進めるという相互不干渉の体制で当時の二大国家目標の遂行をはかっていたのである<ref name="mikuriya_144"/>。

いっぽう、この年の7月、上述の日墨修好通商条約が効力を発すると新任の[[ヒュー・フレイザー (外交官)|ヒュー・フレイザー]]駐日英国公使は、最恵国待遇の規定によって日本在住のイギリス人に対しても[[内地雑居]]の公平な恩恵があたえられるべきだと主張したが、大隈は最恵国有条件主義を唱えてこの要求を却下した<ref name="usui_638"/>。ただし、そのイギリスも駐英公使[[岡部長職]]の奮闘もあって、ようやくほぼ同意するところまでこぎつけ、フランスもこれに倣った<ref name="sakamoto_317"/>。列強のうち主要国との交渉は概ね終了し、あとは小国をのこすだけになった。

しかし、機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年[[4月19日]]付のイギリス紙『[[タイムズ]]』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは外務省翻訳局長だった小村壽太郎だったともいわれる<ref name="okazaki_292"/>。条約改正案の骨子である外国人判事の任用や欧米流の法典編纂の約束という点では大隈案も井上案を基本的に踏襲したものであったため、このニュースが日本に伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がった。[[学習院]]院長三浦梧楼からは改正中止の上奏がなされ、新聞『[[日本 (新聞)|日本]]』の主筆[[陸羯南]]などによって激しい反対論が展開された<ref name="usui_638"/>。鳥尾小弥太、谷干城、三浦梧楼の三中将、[[西村茂樹]]、[[浅野長勲]]、[[海江田信義]]、[[楠田英世]]の7人は、世に「貴族七人組」といわれる反対派であった<ref>[[#井上|井上(1955)p.151]]</ref>。ただし、『[[東京経済雑誌]]』主筆の[[田口卯吉]]は大隈案の擁護につとめており、[[徳富蘇峰]]の『[[国民之友]]』は論争に積極的に参加しなかったが政府案に好意的であった<ref>[[#井上|井上(1955)pp.152-153]]</ref>。

反対論のなかには、日本の[[司法権]]が脅かされるとの批判があり、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝国憲法に違反することを指摘する声があった([[外人法官任用問題]])<ref>[[#佐々木|佐々木(2002)pp.46-47]]</ref>。すなわち、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあたるというのである<ref name="sasaki_047">[[#佐々木|佐々木(2002)p.47]]</ref>。これについては、すでにこの年の3月末に陸奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに気がつかなかったといわれる<ref>[[#井上|井上(1955)p.154]]</ref>。民間では民権派・国権派の大半が結集して[[非条約改正委員会]]が組織され、条約改正反対運動([[非条約運動]])が展開された<ref>[[#佐々木|佐々木(2002)p.50]]</ref>。

[[ファイル:Inoue Kowashi.jpg|150px|left|thumb|「政府の智嚢」といわれた[[井上毅]]]]
憲法制定と条約改正は同時並行で進められていたものの相互に没交渉であったことが、憲法が制定される状況下で憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった<ref name="mikuriya_145">[[#御厨|御厨(2001)p.145]]</ref>。この事態に伊藤は驚愕したが、いっぽうの大隈は意気軒昂であり、外国人法官任用問題に対しては[[法制局長官]]の[[井上毅]]に帝国憲法との摺り合わせを命じた<ref name="sasaki_047"/><ref name="mikuriya_145"/>。井上毅は公権力の行使にかかわる外国人を任用した場合、当該外国人は自動的に日本に[[帰化]]して日本国臣民となる旨の法案(帰化法)を起こした。しかし、これは逆にイギリスとの交渉を困難にしており<ref name="sakamoto_317"/>、井上毅自身もまた、内心ではこのような弥縫策には不満であったため、郷里[[熊本藩|熊本]]の先輩であり、明治天皇の侍講でもある[[元田永孚]]に相談した<ref name="sasaki_047"/>。このことがきっかけとなって、政府部内でも黒田首相・大隈外相らの条約改正断行派と[[後藤象二郎]][[逓信大臣]]・[[松方正義]][[大蔵大臣]]・[[西郷従道]][[海軍大臣]]・[[大山巖]][[陸軍大臣]]ら大隈案に批判的な閣僚、元田ら条約改正反対の宮中グループ、また、黒田の手法に反発しながらも大隈の外相就任に深くかかわり条約改正はつぶせないと考える伊藤博文[[枢密院議長]]、黒田首相とソリが合わず山口に帰郷した井上馨[[農商務大臣]]を、それぞれ巻き込んだ波乱含みの政局展開となった<ref name="toyama_602"/><ref name="sasaki">[[#佐々木|佐々木(2002)pp.48-53]]</ref>。

[[ファイル:Yōshū Chikanobu A meeting of the privy counsil.jpg|300px|right|thumb|「枢密院会議之図」(楊洲周延画、1888年)]]
これまで伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」というべき体制は機能不全に陥った。内閣の首班たる黒田は大隈を信用して条約改正にあたらせた以上、条約改正推進の立場は揺るがなかった<ref name="mikuriya_147">[[#御厨|御厨(2001)p.147]]</ref>。大隈もまた、現実的にすでに居留地や治外法権という本来は憲法に規定されていない事態が継続している以上、外交事情が憲法に優先すると判断し、黒田からの強い支持と負託もある以上、条約改正は憲法がどのようなものであろうとも、最優先すべき課題なのであった。こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣の権限をもって急ピッチで進められていったのである<ref>[[#御厨|御厨(2001)pp.145-147]]</ref>。他の国務大臣にとって条約改正交渉は所轄外の事案であるところから、反対意見はこれを阻止することができなかった。

ところが、内閣と枢密院とは一種の相互依存関係にあって、枢密院の会議は専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構成員としていた。そこで、枢密顧問官の一部や[[宮中顧問官]]は枢密院会議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求めた。枢密院会議が開催されれば、そこでは条約改正反対論が多数意見となることが確実であり、改正交渉を阻止しうると見込まれたためであった。しかし、[[枢密院議長]]である伊藤の立場としては、召集の要求に応じることができなかった。というのも、みずから大隈の条約改正を承認しつづけて憲法違反の行為を認めてしまった以上、枢密院の場で自分自身が[[弾劾]]されるおそれがあったためであり、また、批准段階ではなく、条約改正交渉が現に進められている途中の段階で枢密院が交渉に介入することは憲法の規定に抵触するものであったからである<ref name="mikuriya_148">[[#御厨|御厨(2001)p.148]]</ref>。かくして、憲法・内閣・枢密院という、いずれも国家の盤石を期してつくられたものすべてが、これらの創始者ともいえる伊藤の意図をはなれ、それぞれ思い思いの方向へもっていこうと機能する逆説的な状況が生じてしまったのである<ref name="mikuriya_148"/>。

[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|160px|left|thumb|条約改正問題によって生じた政治の機能不全を解きほぐそうとして調停にのりだした[[明治天皇]]]]
在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや天皇親政派の人びとが公然と条約改正反対を唱えるなか、1889年(明治22年)8月2日、黒田首相は閣議をひらいて帰化法制定を条件として条約改正断行路線をとることで強引に内閣の意見をまとめた<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.149]]</ref>。しかしこれ以降、さまざまな方向から条約改正に対する反対運動が活発化し、内閣は[[四面楚歌]]の状態となる。そして、よもや統治不全の状態に陥りかけたとき、調整工作にのりだしたのが[[明治天皇]]であった<ref>[[#御厨|御厨(2001)pp.149-150]]</ref>。天皇は9月20日元田永孚に伊藤博文を訪ねさせ、条約改正について[[諮問]]した<ref name="mikuriya_150">[[#御厨|御厨(2001)p.150]]</ref>。そして、「黒田は諸事をことごとく大隈に一任して議するところなく、大隈は独断専行するいっぽうで内外の反対意見も多く、このことが政治の混乱を招いてしまっているが、これを放置してよいのか」と質し、「条約改正が憲法に抵触するということを伊藤たちは事前に気がつかなかったであろう。だから自分にもそれを言わなかったのであり、よって自分は、そのときは条約改正を受け容れようと考えて許可した」と述べ、「今になって憲法違反の事実があったとしてそのとき気づかなかったことを咎めても意味がない。条約改正の決定は自分たちの不明であり、短慮ではあったが、違憲であることが判明した以上、ただちに失敗を反省し、以後善後策を講じなければならないのではないか」との意思を示した<ref name="mikuriya_150"/>。天皇は、条約改正と憲法について、その原点に立ち返って考えなおし、政治的に幅のある対応をすべきではないかとの判断を下したのである<ref name="mikuriya_150"/>。

9月22日、天皇は閣議だけでは条約改正の是非についての議論を十分におこなえない状況を踏まえ、これに枢密顧問官も加えて新しい合議体たる合同会議を創設し、そこで改正の得失と善後策の検討を審議してはどうかと伊藤に提案した。つまり、政府における最終的な意思決定の場を設け、そこで条約改正の中止を決めるべきではないかと勧めたのである<ref name="mikuriya_151">[[#御厨|御厨(2001)p.151]]</ref>。これに対し、伊藤は内閣の[[国務大臣]]だけでまず会議をひらくことが妥当である旨、使者の元田に答えた。天皇は伊藤と黒田によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」を合同会議の創設によって前進させようとしたのであるが、伊藤は、この体制は政治的決定の一致をみてこそ盤石の体制となるものの、分裂が決定的となってしまっている状況において合同会議を創設することは、むしろその分裂を固定化する役割を担ってしまい、かえって混乱が拡大してしまうと懸念したのである<ref name="mikuriya_151"/>。業を煮やした天皇は、9月23日黒田首相を呼び出し、閣議をひらくよう命じた。黒田は恐懼したものの自宅に籠もったままとなり、あくまでも条約改正断行の意志を変えなかった<ref name="mikuriya_151"/>。なお、9月27日には、立憲改進党のグループが全国同志大懇親会を[[京橋区]]の[[新富座]]にひらいて条約改正を断行すべしという運動を展開している<ref name="mikuriya_151"/>。

政局が膠着し、条約改正断行派も中止派もともに相互にまったく調整不能な状況となったなか、1年間のヨーロッパ視察を終えて[[山縣有朋]][[内務大臣]]が帰国した。ここで、これまで条約改正問題にまったく関与してこなかった重鎮の山縣に一切の決裁を委ねてはどうかという状況判断の生じる余地が生まれ、黒田と伊藤のどちらが先に山縣に接触し、その同意を取り付けるかが競われた。同じ[[長州藩]]出身でありながら、政治路線の異なる伊藤博文と山縣有朋の関係はすこぶる微妙なものではあったが、結果的に両者の合意が成立した<ref name="sasaki"/>。10月3日、天皇はいつまでも黒田が閣議をひらかないことを憂慮し、伊藤に対して善後の措置をきちんととるように命じた。大隈はといえば、天皇が陪食を命じても病気と称して出てこないありさまであった。10月10日、明治天皇は黒田と伊藤と大隈の3人で話し合いをし、その結果を報告するよう命じた。そもそも、この3人の協議がまとまらなければ、他のいっさいは定まらないと判断されたためであった<ref name="mikuriya_153">[[#御厨|御厨(2001)p.153]]</ref>。

10月11日、山縣内相が参加しての閣議が伊藤枢密院議長臨席のもと開催された。閣議の席では、松方蔵相が条約改正に際しては条件整備のために準備委員会を設けるべきだと切り出した。これは改正交渉遅延の手段にほかならなかったが、一応諒承を得た<ref name="mikuriya_153"/>。次いで、後藤逓相が条約改正を中止するか断行するかの決定を首相に迫った。それに対し黒田は間髪を入れず「それは8月2日にすでに決めたことではないか。一事不再理である」と応答し、その後も同様の断定的意見に終始した。事ここにいたり、ついに伊藤が枢密院議長の辞表を提出、しかし、なおも黒田と大隈は自説を曲げなかった<ref name="mikuriya_153"/>。10月15日、条約改正を閣議が再びひらかれたが、これは明治天皇が臨席する異例の閣議となった。ここでも議論は紛糾したが、黒田・大隈はともにまったく引く構えを見せず、夕刻となったため議決せずに散会した<ref name="toyama_602"/><ref>[[#佐々木|佐々木(2002)pp.48-53]]</ref>。ここでは山縣は意見をはっきりさせなかった<ref name="mikuriya_155">[[#御厨|御厨(2001)p.155]]</ref>。

[[ファイル:Shigenobu Okuma 4.jpg|220px|right|thumb|[[テロリズム]]により右脚切断の重傷を負った大隈外相]]
10月18日、黒田は再度条約改正の是非についての閣議をひらいた。ここでついに山縣が条約改正の実施は時期尚早であると述べ、延期しなければ今後の展望がひらけないと主張、松方・西郷・大山らも同調して閣議は中止論に傾きかけた<ref name="mikuriya_155"/>。しかし、なおも首相と外相は断行論を唱えたため、またも結論が出ないまま散会した。事態が急変したのはその直後であった。閣議からの帰途、[[馬車]]に乗っていた大隈が東京外務省の外相官邸に入る門前で、改正案に反対する福岡[[玄洋社]]前社員の[[来島恒喜]]から[[爆弾|爆裂弾]]を投げつけられ右脚切断を要する重傷を負ったのである(大隈重信遭難事件)<ref group="注釈">大隈重信が来島のテロで失った右脚は、[[日本赤十字社|日本赤十字社中央病院]]に保存されていたが、[[1999年]]([[平成]]11年)、[[佐賀市]]の大隈家の菩提寺[[龍泰寺]]に安置された。</ref>。来島は爆弾投下直後、[[皇居]]にむかって[[切腹|割腹自殺]]した。

大隈遭難事件翌日の10月19日、黒田首相と山縣内相は明治天皇に拝謁して条約改正延期を伝えた。21日、入院中の大隈が不在のまま閣議は条約改正中止を決定、米・独・露3国とのあいだの調印済の条約にもその延期を申し入れた。22日、総理大臣[[黒田清隆]]以下、大隈を除く全閣僚が総辞職の意向を明らかにした。閣議でいったん決定した条約改正を反古にしたのであるから、すべての大臣に責任があるとの論理からであった<ref name="mikuriya_158">[[#御厨|御厨(2001)pp.158-159]]</ref>。こののち、黒田清隆は後継に山縣を推薦して10月25日に内閣総理大臣を辞任、山縣は首相拝命を固辞したため[[三条実美]]暫定内閣が成立した<ref name="usui_638"/>。当初、[[内閣総辞職]]となるはずであったが首相と外相以外の全閣僚が留任のかたちとなった<ref name="mikuriya_158"/>。10月30日、五団体の非条約派による連合は、目的は一応達せられたとして解散した<ref>[[#井上|井上(1955)p.161]]</ref>。

11月1日、黒田清隆と伊藤博文に対し「元勲優遇」の[[勅語]]が出た。明治天皇は、薩長閥のそれぞれの代表格であり、従来「内閣・枢密院包摂体制」を主導してきた2人、そして、統治能力を今まさに失ったばかりの2人に対し、非制度的かつ人格的な栄誉の第一号をあたえたのであった<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.160]]</ref>。

=== 「将来外交之政略」 ===
[[ファイル:Sanetomi Sanjo formal.jpg|150px|right|thumb|黒田辞任後の暫定内閣の首班となった[[三条実美]]]]
三条暫定内閣は、[[内大臣]]であった[[三条実美]]が内閣総理大臣を兼任するという変則的な内閣であったが、これは臨時兼任ではなく、かたちのうえでは恒常的な兼任であった<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.159]]</ref>。暫定内閣では、次の山縣内閣までの地ならしをしておくことが期待されたが、条約改正に関しては「将来外交之政略」と題する指針が定められた<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.161]]。原出典は、深谷博治『初期議会・条約改正』(1940)</ref>。既にみてきたように、これまで条約改正はつねに挫折してきたのであり、ここで基本的な方針を決定しようというものであった。

「将来外交之政略」は、[[伊東巳代治]]が起草し、井上馨が提出したという形式になっており、そのなかでは、
# 外国人を大審院に任用するのは憲法上問題があり、条約上の関係より国家主権を施行する官を外国人に授けるのは憲法違反である。
# 日本の法典をすみやかに公布することを約束するのも、将来に対する日本の立法権を束縛することとなり、これから国会を開く日本にとっては国家の長計からみて好ましくない。
# 内地の通商および土地建物貸借の自由は認めるが、不動産を所持する自由は領事裁判権撤廃が決まってから認められるべきである。
# 外国人に対しては、法律上、経済上、日本人とは異なり、若干の制限を設けるべきなのではないか。
という意見が盛られた<ref name="mikuriya_162">[[#御厨|御厨(2001)p.162]]</ref>。

実は、これらはいずれも井上馨・大隈重信両外相時代の条約改正反対運動において反政府側が主張していた要求のほとんどそのままであった。すなわち、この提言は反政府派の要求をすべて取り入れたうえで自らの主張として再構成したものにほかならなかったのである<ref name="mikuriya_162"/>。この提言は、最終的に以下の3大綱領としてまとめられた。
# 条約を改正して平等の位置をとるは、我が政府の従前及び将来の目的なり。
# 現在調印済みの条約案は、これを修正して、もって平等完全の位置に近づくを要す。
# 修正の要求が行われなければ、むしろ従前の位置に存するも欠点の条約を締結せず。その間改正の手順を中止して、もって将来に我が目的に達すべきの機会を待つべし。

[[ファイル:Kiyotaka Kuroda formal.jpg|150px|left|thumb|狼藉事件を起こした第2代総理大臣[[黒田清隆]]]]
すなわち、条約を改正して対外的に平等の地位を獲得するのは、それ以前からの日本の目的だったはずであり、一時は欧化主義に流れたもののそれは最終的な到達点ではなく、将来についても常に[[明治維新]]の精神に立ち戻って、その目的を忘れないことが大切であること(1.)、大隈の改正で調印済みとなった条約案も平等条約に復するべく修正が必要であること(2.)、条約改正を急がず、欠点のある条約を急いで締結するよりは、完全平等のきちんとした条約をむすぶ機会を待つべきである(3.)ということであった<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.163]]</ref>。

しかし、「将来外交之政略」の策定は1889年(明治22年)12月15日夜の[[黒田清隆狼藉事件]]の原因のひとつになった。この事件は、井上馨が大隈の条約改正交渉の際、改正の是非に関する議論にかかわるのを好まず、10月にいたるまで東京を離れていたにもかかわらず、首相黒田の辞任後も留任要請を受けて三条内閣の閣僚となり、今また条約改正失敗後の新方針策定に井上の名があるという一連の事態について黒田が激怒し、泥酔したうえ井上馨宅に乱入して狼藉をはたらいたというものである<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.165]]</ref>。前首相で元勲第一号の黒田の不行状は政府部内でも問題とされ、黒田は謹慎した。井上馨もまた、この年の[[12月24日]]に正式に[[第1次山縣内閣]]が発足する前日(23日)、農商務大臣の地位を辞任している<ref name="mikuriya_164">[[#御厨|御厨(2001)p.164]]</ref>。

なお、明治天皇は、12月18日、側近の[[佐々木高行]]に対し、後継内閣の大臣選任については天下にひろく人材を求めるべきことを各大臣に伝えた旨語っている<ref name="mikuriya_164"/>。

=== 青木周蔵の交渉と大津事件の衝撃 ===
[[ファイル:Aoki Shuzo.jpg|150px|right|thumb|第1次山縣内閣・第1次松方内閣の外相[[青木周蔵]]]]

井上・大隈の両外相期の条約改正交渉は、英国を中心とする列国の圧力および日本国内の自由民権派・国権派を中心とする反対の板挟みにあって難航をつづけた<ref name="tanaka"/>。しかし、[[シベリア鉄道]]の着工を計画し、極東進出政策を推し進めようとするロシア帝国に対しイギリスが警戒感を強め、[[グレート・ゲーム]]における極東の防波堤としての日本との友好関係を重視するようになったため、従来の苦境が打開されて改正交渉にも転機がおとずれた<ref name="tanaka"/>。英国としては、[[イギリス海軍|イギリス艦隊]]の威力の及ばない内陸部を通じて、ロシアが東アジアに大軍を輸送しうる状況、そして仏・独・露の提携に対してイギリスが極東で孤立する状況を怖れたのである<ref name="fujimura"/><ref>[[#井上|井上(1955)p.196]]</ref>。

日本政府もまた、井上・大隈の交渉失敗を受けて、改正交渉姿勢の抜本的な見直しを迫られた。1889年(明治22年)12月、[[第1次山縣内閣]]の外務大臣として前外務次官であった[[青木周蔵]]が就任した。すでにこの年2月には憲法が発布され、翌[[1890年]]には[[第1回衆議院議員総選挙]]と[[帝国議会]]の開設が予定されていた。新しい政治体制のもと、青木外相は大隈改正案の失敗にかんがみ、法権に関しては完全平等をめざすことに転換して、
# 外国人判事はいっさい任用しないこと。
# 法典編纂公布は約束しないこと。
# 治外法権撤廃後は日本在住の外国人は日本の国法にしたがうこと。
などを「青木覚書」と称してまとめ、これを基本方針として条約改正交渉に臨んだ。「青木覚書」は「将来外交之政略」と大体において同じであったが、2点において若干の修正を施した<ref name="inoue_173">[[#井上|井上(1955)pp.173-174]]</ref>。1つは、「将来外交之政略」においては治外法権の撤廃と引き換えに外国人に不動産所有権をあたえるとしていたものを改めて、外国人の不動産取得に関しては条約に定めず、別途必要に応じて国内法によって定めるとしたことであり、2点目は、外国人に日本人と同様の地位をあたえることに関し、その権利に若干の制限を設けるとしたことである<ref name="inoue_173"/>。これらは、国権をまもれという世論に配慮したものであると同時に明治政府の土地政策のあり方とも強い連関を有していた<ref>[[#井上|井上(1955)p.174]]</ref>。青木覚書は、1890年2月、閣議で承認された<ref>[[#井上|井上(1955)p.175]]</ref>。政府はまた、これを枢密院にも内示して、その了解を得ている。

青木は、従来イギリス政府が大隈案にすら同意しなかったのに、自分がこのような方針で交渉にあたることは「たとえ事業の成功は未だ必ずしも期すべきにあらずとするも、此(この)際、進めて談判に地位を占め、曽(かつ)て失えるの国権を寸時も早く恢復するに勉めざるべからず。之を惰(おこた)るの如きは、実に明治創業の大旨に負(そむ)くものなりと確信」するとして、駐日イギリス公使[[ヒュー・フレイザー (外交官)|ヒュー・フレイザー]]との交渉を進めている<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.133]]</ref>。フレーザー公使は当初、従来の交渉の基礎をまったく覆すことになる新提案を本国に取り次ぐことはできないとして青木提案をはねつけたが、イギリス側は駐英日本公使を通じて日本の新提案を基礎とする交渉に応じる意志のあることを伝えたので、2月28日より日英の正式交渉がはじまった<ref>[[#井上|井上(1955)p.176]]</ref>。

いっぽう政府は西欧的原理にもとづく法典の整備を急ぎ、1890年(明治23年)中に[[裁判所構成法]]、治罪法(現在の[[刑事訴訟法]])、[[民法]]、[[民事訴訟法]]、[[商法]]などが次々に公布された<ref name="usui_638"/>。この年の7月1日の第1回総選挙は、イギリス公使夫人[[メアリー・フレイザー]]([[:en:Mary Crawford Fraser|en]])からは「平穏無事に」おこなわれ、日本人は「''lawful'' (法にかなう)国民」と評されるほどだった<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.187]]</ref>が、これに前後して、「内閣・枢密院包摂体制」が大隈の条約改正問題の際にみられたように難題の発生に対し必ずしも有効ではなく、むしろ混乱の元凶となったことが検討に付された。第1議会開催直前の1890年(明治23年)10月7日、新しい枢密院官制に内閣からの諮詢がなくては枢密院会議を開催できないことが盛られ、内閣・枢密院の両者は明確に分離の方向へと進んだ<ref>[[#御厨|御厨(2001)pp.186-187]]</ref>。

[[ファイル:Thomas Erskine Holland.jpg|150px|left|thumb|金子堅太郎に条約改正に関するさまざまなアドバイスをあたえた[[トーマス・アースキン・ホランド]]([[1860年]]の写真)]]
ところで、このころ欧米諸国を歴訪した[[金子堅太郎]]は、1889年11月、[[ウィーン]]で会った法学者[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]から、日本で発布された憲法の「周緻精確なること」はヨーロッパ諸国の憲法より格段に優れていると評され<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.115]]</ref>、フランスの元老院議長秘書ルボンからも「日本憲法は精巧なる編纂なり」と称賛されており、全体的に日本の法制に対して好意的な評価を受けている<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.116]]</ref>。イギリスでは、[[オックスフォード大学]][[教授]]の[[トーマス・アースキン・ホランド]]から、従来、イギリス人がアジア・[[アフリカ]]の人びととの[[結婚]]は無効判決が下されていたものの、この年2月にはロンドンで日本在留英国人と日本婦人との結婚を許可する判決が下された件が例示され、イギリスの対日感情は他の東洋諸国と比較して「明らかに異なっている」と評された<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.117]]</ref>。いずれも、すでに憲法を制定し、[[文明開化]]に努力している日本が欧米諸国より高評価を得つつあることをあらわしたものであり、条約改正の好機であることのサインであると見なされた<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.117]]</ref>(金子堅太郎の活動については後述「''[[#金子堅太郎と国際公法会|金子堅太郎と国際公法会]]''」節参照)。

条約改正交渉は最大の難関とみられたイギリスから開始されたが、予期に反してイギリスの対日外交が軟化を示し、1890年7月中旬、日本側の新提案に対応した条約案を提示した。伊藤博文の「条約改正意見」(『伊藤博文秘録』収載)には「多年我ニ信ヲ置カザリシ英国モ、近時ニ至リヤヤ我ノ国論ヲ是認セントスルニ意向ヲ明言スルニ至リ」の文言がある<ref>[[#井上|井上(1955)p.176]]</ref>。こうして交渉は急速に進展するかにみえた<ref name="tanaka"/>。
1891年(明治24年)に入ると[[1月22日]]には元田永孚、[[2月18日]]には三条実美が相次いで死去し、宮中派の影響力はしだいに弱まっていった<ref name="mikuriya_187">[[#御厨|御厨(2001)p.187]]</ref>。こうして、政府がいよいよ国会と対峙しようという時期に、期せずして、内閣を中心とする統治の求心力が制度的に高まっていたのである<ref name="mikuriya_187"/>。1891年4月には、イギリス案に対する日本側の対案が閣議で決定された<ref>[[#井上|井上(1955)p.178]]</ref>。

[[ファイル:Prince Nicolas at Nagasaki.jpg|thumb|right|300px|1891年に来日したロシアの[[ニコライ2世|ニコライ皇太子]]([[上野彦馬]]が[[長崎]]で撮影)]]
しかし、[[1891年]](明治24年)5月6日成立の第1次松方内閣で青木が外相に留任した矢先の[[5月11日]]、シベリア鉄道の起工式に出席する途中来日したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝[[ニコライ2世]])が[[琵琶湖]]遊覧を終えたとき、[[滋賀県]][[大津市|大津]]において、警備中の巡査[[津田三蔵]]に斬りつけられて軽傷を負うという[[大津事件]]が起こった。起工式は6月に[[ウラジオストク]]でおこなわれる予定であった。

ニコライが[[京都]]で加療することになったとき、即日松方内閣は御前会議を開き、痛惜の念を表明する[[勅語]]を発し、医師団を急行させた<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.123]]</ref>。青木外相、西郷内相、翌日には天皇みずから京都へ赴き、親しく皇太子を見舞った<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.124]]</ref>。

日本政府は日露関係の悪化を憂慮して[[大審院]]特別法廷をひらかせ、[[皇族]]に関する刑法([[大逆罪]])を準用して犯人を[[死刑]]にするよう干渉した<ref group="注釈">このとき、陸奥宗光は、[[刺客]]を雇って津田三蔵を暗殺し、病死と発表してしまえばよいと主張した。[[#御厨|御厨(2001)pp.219-220]]</ref>。このとき、政府だけではなく最も多くの人びとが首肯したのは、津田三蔵を死罪にすべきという意見であり、現行法で死刑にできないのであれば[[緊急勅令]]で処刑すればよいというものであった<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.220]]</ref>。明治天皇は5月19日、神戸に停泊中のロシア軍艦に出向き、乗艦して再度病床のロシア皇太子を見舞った。また、ロシア皇太子に申し訳ないとして5月20日[[京都府庁]]門前で切腹した[[畠山勇子]]のような女性もいた<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.225]]</ref>。

これに対し、大審院長[[児島惟謙]]は政府の干渉を退け、津田を[[無期懲役|無期徒刑]]に処して、近代的[[法治国家]]における[[司法権の独立]]をまもった。これは英米などからは高く評価されたものの、事件前、在日ロシア公使のシェービッチに対して、万一のことが起こった場合は皇室に関する刑法の準用を約束していた青木外相は、その責任をとって5月29日に辞任し、条約改正交渉はまたもや中断を余儀なくされた<ref>[[#御厨|御厨(2001)pp.222-223]]</ref><ref group="注釈">ロシア皇帝[[アレクサンドル3世]]は、日本の裁判所は当然津田を死刑判決を下すものと思っていたという。その場合、日本が死刑といってきたら、ただちに犯人の助命と無期懲役への減刑をロシア側から懇請し、それを受けるかたちで日本が無期懲役にする[[シナリオ]]を考えていた。ロシアとしては、そうすれば日本に対し、外交上いっそう優位な立場に立てると踏んでいたとみられる。[[#御厨|御厨(2001)p.223]]</ref>。

=== 榎本武揚外相と法典論争 ===
[[ファイル:LaterEnomoto.jpg|150px|right|thumb|青木周蔵の後任外相となった[[榎本武揚]]]]

青木の辞任後、第1次松方内閣の外相となったのは、かつて特命全権大使として[[樺太千島交換条約]](1875年)の締結に尽力した[[榎本武揚]]であった。榎本は、青木改正案を高く評価して、ほぼ同様の手法で列国と交渉、条約廃棄さえ選択肢に含めて交渉にのぞんだ。[[1892年]](明治25年)には[[ポルトガル]]とのあいだで、領事裁判権撤廃にこぎつけた<ref name="tanaka"/>。

榎本外相は、「条約改正断案」において、青木の改正案をイギリスが大部分承諾した原因としてロシアのシベリア鉄道起工がイギリスの東アジアにおける特権を奪う利器になりうることに求めており、外務省顧問のデニソンも榎本の意見を支持してイギリスとの条約改正の好機であると進言した<ref>[[#井上|井上(1955)p.195]]</ref>

しかし、この年の5月2日に開催された第3議会は、榎本の猛反対にもかかわらず、[[貴族院]]・[[衆議院]]とも商法・民法など諸法典の実施延期を可決した(→ 「''[[民法典論争|法典論争]]''」 参照)。この議会においては、むしろ条約改正交渉を後回しにしてもよいから、まずは重要法案の根本的な修正が必要であるとの意見が多数を占めたのであった。そして、日本の伝統を重視する保守派のみならず、進歩的な[[英米法]]系、また、[[大陸法]]のなかでも[[ドイツ法]]系の学者なども巻き込んで一時は政治対立の様相をみせるほど論議は加熱した<ref name="usui_638"/>。

第3議会は1892年6月15日に閉会、松方内閣は時局収拾の力なしとして8月8日総辞職した<ref name="usui_638"/>。

=== 金子堅太郎と国際公法会 ===
前掲した英オックスフォード大学教授のホランドは訪英中の[[金子堅太郎]]に対し、
# 不平等条約の締結から今日にいたるまでの日本外交のあゆみや国際法上の関係などを詳述した歴史書を出版すること。
# 日本は何をもって不平等・不利益としているかを新聞や[[雑誌]]に掲載するため欧米各国の[[マスメディア]]に通信し、当該問題に関する論説を掲載させるよう働きかけること。
# 日本政府はイギリスの[[国会議員]]と連携し、[[イギリス議会]]において政府に対して、日英間の諸条約から生ずる両国の不利益や日本人の条約改正への努力などを質問させるなど、絶えずイギリス政府とイギリス国民にこの問題への注意を喚起させること。
#欧米において国際公法学者が設立した[[国際公法会]]に、日本人も入会して会員となり、日本の公法上の関係や将来の方針などを記した[[冊子]]を発行し、その実際について報告すること。
など、条約改正を実現するための詳細なアドバイスをあたえている<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)pp.120-122]]</ref>。

[[ファイル:Kaneko Kentaro 1-1.jpg|150px|right|thumb|[[日露戦争]]では日本の広報活動を担当した[[金子堅太郎]]]]
金子はホランドの提言にしたがい、国際公法会に入会を申し込み、[[1891年]](明治24年)9月に準会員に認められ、金子はアジア人として初の入会者となった<ref name="itoh_125">[[#伊藤|伊藤(2001)p.125]]</ref>。金子はまた、同年12月にホランドより、翌年開催される総会に出席して日本の各種法典ならびに欧米列強との条約を国際公法会に寄贈し、さらに第12問題委員会(非キリスト教国の司法制度が欧米の制度とどれだけ近づいているかを調べる委員会)の委員となることを国際公法会に申し入れるようアドバイスを記した書簡を受け取った<ref name="itoh_125"/>。金子は、松方首相、榎本外相、[[田中不二麿]]法相、伊藤枢密院議長および井上馨に対し国際公法会への参加許可を内申、[[1892年]](明治25年)6月の閣議で承認された。閣議承認の翌日、明治天皇はこれに関心をもち、[[侍従長]]を通じて国際公法会の概要と金子の出席理由などを下問した<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)pp.125-126]]</ref>。金子の詳細な報告書を受けた天皇は金1,000円を下賜した<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.125]]</ref>。

1892年(明治25年)9月、金子は[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]での国際公法会に出席、会頭は9日の会議で金子に意見を述べることを許可した。金子は憲法以下の諸法典や[[統計]]を提出し、日本の制度に関する調査に着手して会の意見を公表することを希望する旨の[[演説]]をおこなった。午後の会でホランドが日本の調査をただちに始めるよう提案、その結果、全会一致で他の東洋諸国の司法制度とは切り離して日本の制度の調査の特別委員会を設けることが議決された<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.127]]</ref>。

1892年11月、金子は帰国し、明治天皇の拝謁を賜った。金子はまた、伊藤首相への報告書を作成して種々の機会で成果を発表した<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)pp.127-128]]</ref>。報告のなかで金子は、日本政府の[[法治主義]]への信頼を高めるため、欧文の議院年報などを刊行して各国外交官へ贈与し、欧文の憲法・諸法典の各国政府・政府機関への寄贈、著名な学者の招聘およびかれらのよる調査報告書の出版、日本公使の精選、欧米のメディアへの広報、日本公使による対議員工作の実施などを提言している<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.128]]</ref>。

=== 陸奥宗光と日英通商航海条約の調印 ===
1892年(明治25年)8月に成立した[[第2次伊藤内閣]]は、別名「元勲内閣」と呼ばれ、山縣・黒田・井上・大山ら元老がそろって入閣した実力派内閣であった。伊藤首相は、外務大臣にかつてメキシコとのあいだに対等条約を結んだ実績をもつ[[陸奥宗光]]をむかえた。翌[[1893年]]1月[[ハワイ王国]]では親米派による[[ハワイ併合#ハワイ事変(ハワイ革命)|ハワイ事変]]が起こり、王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使が[[日布修好通商条約]]の対等化を申し出た。政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は同年4月に改正条約を締結した。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約となった <ref name="sasaki_116">[[#佐々木|佐々木(2002)pp.116-117]]</ref>。なお、この頃、伊藤博文が条約改正交渉を再開するにあたって起案した上奏文には、西洋文明を受容し欧米列強の仲間入りを果たすことこそが国家レベルにおける「独立不羈」のなかみであって、不平等条約中の治外法権条項を撤去することがその条件であるという認識が示されている <ref name="sasaki_010">[[#佐々木|佐々木(2002)p.10]]</ref>。

[[ファイル:Munemitsu Mutsu 2.jpg|150px|right|thumb|第2次伊藤内閣の外相[[陸奥宗光]]]]

陸奥外相は、1893年(明治26年)7月5日の閣議に条約改正案を提出し、同19日に[[明治天皇]]の裁可を得た。その内容は、陸奥自身によれば「全く明治十三年我政府提案以来の系統を一変し、純然たる互相均一の基礎を以て成りたる対等条約」であり、1883年(明治16年)の[[英伊通商航海条約]]を範としたものであった。その改正案は、
# 条約実施期を調印後5年とし、その間に重要諸法典を公布施行せしむること。
# 諸条約国との一般的協定税率を排斥し、英・米・仏・独4か国からの重要な輸入品58品目について4か国だけと協定すること。
# 内地開放後、旧居留地の外ばかりではなく旧居留地内においても外国人による土地所有を許可しないこと。
を主たる特徴としていた<ref>[[#国史|臼井(1986)pp.638-639]]</ref>。

交渉方針としては、大隈・青木と同様、国別談判方式を採用し、日本と最も利害関係の深いイギリスから交渉を開始した。陸奥は、駐独公使に転任した[[青木周蔵]]元外相を条約改正委員に任じて駐英公使をも兼務させ、交渉の任にあたらせた <ref name="usui_639">[[#国史|臼井(1986)p.639]]</ref><ref name="sasaki_110">[[#佐々木|佐々木(2002)p.110]]</ref>。しかし、陸奥が全面対等主義にもとづいて交渉にあたろうとしていたとき、世論より[[現行条約励行運動]]が提起された。徳富蘇峰主筆『国民之友』は、1893年(明治26年)[[5月23日]]号において、日本人が真の平等を勝ち取るためには国民的な運動によって現行条約を「正当」に励行しなければならないと主張し、さらに、現行条約の励行が外国人にとっても不合理であることを悟らせ、外国の側から条約改正を求められてこそ対等条約が実現するであろうと論じたのである<ref name="unno_051">[[#海野|海野(1992)p.51]]</ref>。これは、この年の2月15日に自由党が提出した条約改正上奏案が衆議院秘密会で審議され、内地雑居の是非が審議された結果、135対121で上奏案が可決採決されたことに対する「内地雑居尚早派」側の危機感を背景としていた<ref name="sasaki_110"/>。

[[ファイル:Building of Railway near Ussuri (1895).jpg|250px|right|thumb|[[1891年]]に着工した[[シベリア鉄道]]([[ウスリー川]]付近での建設の様子。[[1895年]])]]

1893年11月28日、第5議会がひらかれると、12月には[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]・[[大日本協会]]・立憲改進党らによって[[対外硬六派]]が形成された。対外強硬論はもとより国権論的主張と軌を一にしたものであるから、今度は条約改正にともなう外国人の内地雑居を認めるかどうかの問題となり、排外主義的な一面を有する<ref name="mikuriya_271">[[#御厨|御厨(2001)p.271]]</ref>。明治20年代の後半になると、居留地外でも外国人の活動が緩和されていたが、それをもう一度厳しくして不便な思いをさせよという趣旨であった<ref name="mikuriya_271"/>。12月19日、[[対外硬]]の六派は衆議院において「条約励行建議案」を上程し、あわせて「外国条約執行障害者処罰法案」と「外国条約取締法案」という2つの附属法案を同時提出した<ref name="sasaki_114">[[#佐々木|佐々木(2002)p.114]]</ref>。伊藤内閣との提携を模索する[[星亨]]らの[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]のみは、この大同団結には加わらなかった<ref name="mikuriya_271"/>。政府はこうした議会の動きに対し、10日間の停会を奏請した<ref name="usui_639"/>。

国民協会は、1892年に西郷従道前海相や[[品川弥二郎]]前内相が下野し、会頭および副会頭となって組織された政治団体であった<ref name="unno_051"/>。また、大日本協会は、内地雑居時期尚早論を唱えてこの年の10月に結成された政治結社であり、自由党の準与党のようになっていた立憲改進党も少数派となったため、従来の外交政策を転換して国民協会と一緒になって現行条約励行論を唱えた<ref name="unno_051"/>。対外硬六派は陸奥と星を主敵として、伊藤内閣と自由党に対して対決姿勢をとった<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.272]]</ref>。さらに、「条約励行建議案」上程に前後して、イギリス公使館付の[[牧師]]ショウが日本人に殴打されるという事件が起こり、イギリスは改正交渉の中止を通知するに至った<ref name="usui_639"/>。

12月29日、停会あけの衆議院において陸奥は、「歴史的大演説」<ref group="注釈">この演説の評価は内外ともに高く、イギリスの臨時公使代理は、陸奥宛書簡で「貴下の演説は貴政府の進歩的政策が誠心誠意のものであることを十分主張することができよう」と書き記している。[[#岡崎|岡崎(2009)p.306]]</ref>と称される[[演説]]をおこなった。それは、日本が明治維新以来開国主義を国是とし、開化・進歩してきたあゆみを振り返り、「忍耐力があって進取の気性に富んだ国民だけが気宇壮大な外交方針を大胆に採用できる」と主張したものであり、暗に他のアジア諸国の事例を持ち出し、「排外主義的感情論から些事で虚勢を張って外国と紛糾し、結果として国辱を受けることもある」と説いて、「帝国議会が条約励行論のごとき鎖国攘夷の建議案を持ち出して条約改正に支障をあたえることは許されざることである」と強く非難して議会に反省を求めた<ref name="usui_639"/><ref>[[#岡崎|岡崎(2009)pp.304-305]]</ref>。

しかし、議会は上程案撤回の意志を示さなかったので、政府は翌30日衆議院を解散するという強硬手段に出た。[[第3回衆議院議員総選挙]]は翌[[1894年]](明治27年)3月1日に実施され、政府を支持する自由党が81名から119名に躍進して対外硬派は全体では議席を減らしたものの、自由党は過半数を獲得することができなかった<ref name="unno_052">[[#海野|海野(1992)p.52]]</ref><ref group="注釈">国民協会は80名から26名に激減、改進党はなおも48名を擁し、対外硬6派を併せれば過半数を上まわる勢力を蓄えていた。[[#海野|海野(1992)p.52]]および[[#御厨|御厨(2001)p.276]]</ref>。伊藤は、天皇に対し、この選挙に際して政府は[[第2回衆議院議員総選挙|第2回総選挙]]のようにならぬよう、決して選挙に干渉せず、ただ[[政党]]の軋轢が国民に災禍を及ぼさぬよう法律を定めてこれを防止するにとどめることを説明した<ref>[[#御厨|御厨(2001)p.276]]</ref>。ただし、政府は議会解散直前に大日本協会の解散を命じ、建議案提出の硬六派の説明を聞かないまま衆議院を解散した経緯があり、これは条約改正促進のための対外的な効果をねらったものではあったが、国内的には[[貴族院]]において[[近衛篤麿]]ら反伊藤勢力が台頭して硬六派に加勢し、それまで不倶戴天の敵であった貴族院・衆議院が連繋したため、政府は再び苦境に立たされた<ref name="unno_052"/><ref>[[#御厨|御厨(2001)pp.276-277]]</ref>。

同年5月15日、第6議会が開会された。5月17日には[[硬六派]]が第5議会解散責任の追及、現行条約励行の要求、[[千島艦事件]]の追及を骨子とする上奏案を衆議院に提出したが、自由党の反対により144対149の僅差で否決された<ref>[[#佐々木|佐々木(2002)pp.119-120]]</ref>。その後議会は紛糾したが、政府は6月2日には第6議会も解散して条約改正の実現に並々ならぬ強い決意をもって臨んでいることを内外に示し<ref name="usui_639"/>、あわせて[[朝鮮半島]]への日本軍の派遣を決定した。なお、これに先だつ陸奥外相が青木駐英公使にあてた同年[[3月27日]]付の私信には、反政府運動の高揚によって苦境に立たされた政府が人心を回復するには「人目ヲ驚カス事業」<ref>[[#井上|井上(1955)p.216]]。原出典は[[小松緑]](櫻雲閣主人)『明治史實外交秘話』(1927)</ref>が必要だと記されていたが<ref name="unno_052">[[#海野|海野(1992)p.52]]</ref>、「人目ヲ驚カス事業」とは、具体的にはこの朝鮮への派兵のことであり、のちに「[[陸奥外交]]」といわれる[[川上操六]]参謀次長との連携しての開戦外交であった<ref name="unno_052"/>。陸奥は『蹇蹇録』第9章で、次のように述べる。

{{quotation|
元来日本帝国が欧米各国と現行条約の改正を商議する事業と、今余が筆端に上れる朝鮮事件とは元来何らの関係もあらざることは無論なるも、凡(すべ)て列国外交の関係はその互いに感触する所すこぶる過敏にして、わずかに指端のこの一角に微触するあれば忽(たちま)ち他の関係甚(はなは)だ遠き一隅に饗応するの例甚だ多し。即ち朝鮮事件が一時如何に日英の改正事業に重大なる影響を及ぼさんとしたるかは…(後略)<ref>[[#陸奥|陸奥宗光『蹇蹇録』p.118]]</ref>
}}

[[ファイル:Foreign and India Offices, London, 1866 ILN.jpg|250px|right|thumb|19世紀後半のイギリス外務省([[1866年]])]]
[[ファイル:Anglo Japanese Treaty of Commerce and Navigation 16 July 1894.jpg|250px|right|thumb|[[1894年]][[7月16日]]調印の[[日英通商航海条約]]]]

イギリスとの交渉は、青木公使とベイテイ外務次官とのあいだで1894年4月2日に再開された。居留地における土地所有権、新条約発効期日、関税協定などに関しては交渉が難航した<ref name="usui_639"/>。また、イギリス側は、日本がロシアやフランスと接近しているのではないかとの疑惑をいだき、新たに利権の獲得などを求めた一時期もあったが、日本側は内地開放こそが最大かつ唯一の譲歩であると反論した<ref>[[#佐々木|佐々木(2002)pp.121-122]]</ref><ref group="注釈">イギリスの政府委員バルチーが、ロシア・フランスが日本に対して政略的な譲与(たとえば貯炭所の建設)を求めたら、日本としてはどうするか青木に質問している。それに対し、青木は「露・仏がそれを請求するのであれば英国もまた請求する権利をもつだろうが、そのような無法の請求をする国に対してはロシアであれフランスであれ、他のどんな国であれ、日本は全土を焦土としても抵抗するであろう」(大意)と応答している。[[#井上|井上(1955)pp.219-220]]</ref>。また、新条約実施まで認められる英国船の[[港間貿易]]に[[函館港]]を加えるよう求めたが、日本側は入港実績のない港を港間貿易に加えるわけにはいかないと反論、これにはイギリス側も譲歩した<ref>[[#佐々木|佐々木(2002)p.122]]</ref><ref group="注釈">函館は、外国船の入港実績がせいぜい年に2,3回程度であったので、日本にとってはここを開港場として諸施設を営む煩瑣さに耐えられなかったために反対したが、イギリスはここをシベリア鉄道開通後の極東において必要のさいはロシアと対抗する基地に利用しようと考えて開港間貿易場とすることを主張した。6月21日には、陸奥宗光も函館もふくめて開港間貿易をゆるしてもよいと青木に訓令した。[[#井上|井上(1955)pp.221-222]]</ref>。また、青木は陸奥の指示により、日本は外国人の土地所有権は認めないが[[永代借地権]]は最大限尊重することを条約のなかで明記し、不公表とはするものの、国内諸法典が発効するまでは条約は効力を発しないとの意志を伝えた<ref name="usui_639"/>。

かくして[[日英通商航海条約]]が1894年[[7月16日]]、ロンドンのイギリス外務省において青木公使とイギリス外相[[初代キンバーリー伯爵ジョン・ウォードハウス|キンバーリー伯]]両全権とのあいだで調印された<ref group="注釈">イギリス外相キンバーリー伯は、[[李氏朝鮮|朝鮮国]]駐在の[[大鳥圭介]]公使がイギリスより派遣された軍事教官コールドウェル少尉の解雇を朝鮮政府に迫ったことと、日本軍が[[仁川港|仁川]]の外国人居留地を経由して軍用[[電線|電信線]]を敷設したことを理由にいったん調印を拒んでいるが、青木公使は前者については調査を約束、後者については「やむを得ざること」と釈明したうえで陸奥外相の判断をあおいだ。調査が期限に間に合わないことが明白であった陸奥は、「一個英人を解傭するために今倫敦において垂成の大業を一朝に破却すべき謂れを見ず」(『[[蹇々録|蹇蹇録]]』)と判断して軍事教官の件について「その事実なし」と回答するよう青木に命じて事なきを得た。[[#佐々木|佐々木(2002)pp.123-124]]および[[#陸奥|陸奥宗光『蹇蹇録』pp.122-125]]</ref>。[[日清戦争]]の開戦([[宣戦布告]]は8月1日)の約半月前のことであった。日英新条約調印の[[電報]]を受けとるや、陸奥はすぐさま[[斎戒沐浴]]して皇居に向かい、その旨明治天皇に報告した。また、イギリス外相に感謝の意を伝えるよう、ロンドンに打電している<ref>[[#岡崎|岡崎(2009)p.309]]</ref>。

調印の際キンバーリー伯は、「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っている<ref name="usui_639"/>。

その後の日本政府は、新条約調印直後の7月19日から日清開戦を目標にした作戦行動を開始し、20日には朝鮮政府に対して、清国を[[宗主国]]とあおぎ、その保護を受ける宗属関係の破棄などを求める最後通牒をつきつけ、23日には朝鮮王宮を占領、25日、仁川南西方の豊島沖合いで清国艦隊を攻撃([[豊島沖海戦]])、29日には忠清道天安市天安郡で最初の陸上戦を戦った([[成歓の戦い]])。

政府は8月25日東京で日英新条約の批准書を交換し、27日公布した。つづいて各国(条約国15か国)とも同様の条約を調印した<ref group="注釈">アメリカが1994年11月22日、イタリアが同年12月1日、ロシアが1895年6月8日、ドイツが1896年4月4日、フランスが同年8月4日、また、ベルギー(1月4日)、[[ペルー]](1月10日)、ブラジル(2月23日)、[[スウェーデン]](5月25日)、[[オランダ]](9月17日)、[[スイス]](9月19日)、[[スペイン]](9月21日)、ポルトガル(10月29日)の各国が1897年中に、オーストリアが同年12月5日にあいついで新条約に調印している。[[#佐々木|佐々木(2002)p.125]]および[[#ニュース|『明治ニュース事典Ⅴ』(1985)pp.276-278]]</ref>。日英新条約を間髪入れずに公布したのは、もはや既成事実であるとして議会からの介入の余地をあたえないためであった<ref name="usui_639"/>。

公布直後の8月28日付『[[時事新報]]』では、福澤諭吉が「純然たる対等条約、独立国の面目、利益に一毫も損する所なきもなれば今回の改正こそは国民年来の希望を達したるものとして、国家のために祝せざるを得ず」との[[社説]]を掲げ、日英新条約に讃辞を送っている<ref name="news_280">[[#ニュース5|『明治ニュース事典Ⅴ』(1985)p.280]]</ref>。10月18日、[[大本営]]([[広島大本営]])の置かれた[[広島市|広島]]で開催された第7臨時議会では、各派各党とも政府に協力し挙国一致の体制となり、新条約に関する追及や批判はほとんどなかった<ref name="usui_639"/>。

なお、この条約の成立によって[[日本陸軍]]はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したといわれている<ref name="fujimura"/>。日本が後顧の憂いなく戦争に突入することができたのは条約改正のおかげだったのである<ref name="sumiya_035">[[#隅谷|隅谷(1974)p.35]]</ref>。清国に対しては、[[1895年]](明治28年)の[[下関条約]]と[[1896年]](明治29年)の[[日清通商航海条約]]で清にとって不平等な内容の条項が盛られた。一方で日英の親密な関係は[[北清事変]]後の[[1902年]](明治35年)に結ばれた[[日英同盟]]への布石となった。

1894年に結ばれた新条約の発効は[[1899年]]からとし、5年の準備期間の間に日本は法制を整備し、内外雑居の用意をすることとなった<ref name="sumiya_035"/>。1896年(明治29年)11月12日、改正条約発効の準備のために[[改正条約施行準備委員会]]が発足した。委員長は[[樺山資紀]]内相、副委員長は枢密顧問官[[田中不二麿]]であり、委員には小村壽太郎、[[金子堅太郎]]、[[目賀田種太郎]]をはじめとする各省局長・次官クラスの官僚その他計22名が任命された<ref name="news_280"/>。

日英通商航海条約により、日本は領事裁判権の完全撤廃を成し遂げ、治外法権の束縛から解き放たれることとなり、たがいに内地を開放しあって、[[居住]]・[[交通]]・[[所有]]・経済活動を認めあい、また、最恵国約款は相互的となって、日本はアジアで最初の欧米諸国と法権上の対等国となった<ref name="unno_062">[[#海野|海野(1992)p.62]]</ref>。税権は、一律5パーセントの関税率が15パーセントに引きあげられたものの、従来の一般的協定税率を廃し、特定重要輸入品38品目についてのみ協定税率をのこすこととなった。特定重要輸入品は品目数こそ少ないが、輸入額中の比率が全体の3分の2以上を占めたため、新しくむすばれた片務的な関税協定によってむしろ大幅な制限を受けることとなった。ただし、新条約によればその有効期間は12年間で、11年を経過すれば廃棄通告をおこなうことができ、その1年後には自然に消滅させることができる規定となっていた<ref name="usui_639"/><ref>[[#佐々木|佐々木(2002)pp.124-125]]</ref><ref>[[#ニュース5|『明治ニュース事典Ⅴ』(1985)p.275]]</ref>。

改正条約の発効は1899年(明治32年)[[7月17日]](ただしフランスとオーストリアは同年[[8月4日]])からであり、これにより外国人居留地が廃止され内地雑居が実施された。ときの内閣は[[第2次山縣内閣]]、外務大臣は青木周蔵であった<ref name="sumiya_035"/>。

=== 小村壽太郎と税権の回復 ===
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|150px|right|thumb|[[第2次桂内閣]]の外務大臣[[小村壽太郎]]]]
関税自主権の回復もふくめた条約改正が完全に達成されるのは[[1904年]](明治37年)に始まった[[日露戦争]]において日本が強国ロシアに勝利して国家の独立をより強固にし、[[1905年]](明治38年)の[[ポーツマス条約]]や[[満州善後条約]]などによって国際的地位が格段に高まったのちのことである。日露戦争後、日本と列強のあいだに交換される外交官も公使から[[大使]]へと格上げされている<ref group="注釈">1905年12月2日、ロンドンの在英日本公使館が昇格して大使館となったのが最初であり、初代駐英大使に任命されたのは日英同盟締結に功のあった[[林董]]であった。[http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/q_a/tokoro.html#2 「外務省ってどんなところ?」(外務省公式Webサイト)]</ref>。

[[1911年]]7月16日は英・独・伊など10カ国との、同年8月3日は仏・墺両国との通商航海条約満期日にあたっていた<ref name="usui_639"/>。1909年(明治42年)8月、[[第2次桂内閣]]は条約完全改正の方針を閣議決定し<ref name="sasaki_361">[[#佐々木|佐々木(2002)p.361]]</ref>、翌[[1910年]](明治43年)には外相[[小村壽太郎]]が条約の規定にしたがって、満期日の1年前にあたることからアメリカを含む13か国に廃棄通告をおこなった<ref name="usui_639"/>。国家主義者であった小村壽太郎は、欧化主義者の陸奥宗光に引き立てられた人物で、日清戦争前後には清国駐在公使として、いわゆる「[[陸奥外交]]」を支えた外交官であり、[[1902年]](明治35年)には[[日英同盟]]の締結に尽力し、ポーツマス条約では外務大臣・全権大使としてロシア全権[[セルゲイ・ヴィッテ]]とのあいだの難しい交渉をおこなったことで知られる。

改正交渉は1910年1月にイギリスとの交渉が開始され、4月からはアメリカ合衆国との交渉がおこなわれて列国との交渉がつぎつぎに始まった<ref name="sasaki_361"/>。日本における立憲政治の充実が海外にも知られ、日本の法体系への不信感も薄れていたので、列国との交渉は比較的順調に進行した<ref name="sasaki_361"/>。

陸奥宗光の手になる条約では、英独仏3国について、イギリスの[[綿織物]]・[[毛織物]]・[[鉄鋼]]その他鉄類、ドイツの[[染料]]・[[薬品]]、フランスの[[化粧品]]・[[ワイン]]などの重要輸入品に対しては従価1割程度の片務的な関税協定を許し、他の諸国は最恵国条款にもとづいて均しくその利益を享受しえたのに対し、日本から主要3国への輸出品については単に最恵国待遇を受けるだけであった<ref name="usui_639"/>。小村外相はこうした片務的な協定税率の改正をめざしたほか、今なお残る日本にとって不利な条項の一掃をはかった<ref name="usui_639"/>。

[[ファイル:11 KatsuraT.jpg|150px|left|thumb|第11代・13代・15代内閣総理大臣[[桂太郎]]]]
小村によれば、条約改正は、列強と対等な地位にあって、もっぱら利益交換の趣旨にもとづいて交渉をおこない、最恵主義・互恵主義に立った条約の締結を目的としたものであり、首相[[桂太郎]]もまた、専任の大蔵大臣をおかず首相兼任として小村の条約改正をみずから全面的にバックアップした<ref name="usui_639"/>。イギリスとフランスは小村の方針に異議を唱え、日本国内の一部においても同盟国であるイギリスに対して厳しすぎるのではないかという意見もあった<ref name="usui_639"/>。

[[ファイル:Kosai Uchida.jpg|150px|right|thumb|新[[日米通商航海条約]]の日本側全権であった駐米大使[[内田康哉]]]]
1911年(明治44年)2月21日、[[ワシントンD.C.]]において、駐米日本大使[[内田康哉]]とアメリカ合衆国国務長官[[フィランダー・C・ノックス]]([[:en:Philander C. Knox|en]])とのあいだに、関税自主権回復を規定した改正条項をふくむ[[日米通商航海条約]]が調印され、4月4日に発効した<ref>[[#ニュース8|『明治ニュース事典Ⅷ』(1985)資料編pp.7-9]]</ref>。1894年にむすばれた旧通商航海条約では、アメリカ政府は日本移民の[[入国]]・[[旅行]]・[[居住]]について差別的な法律を定めることができるとされていたが、その規定は改正条約では撤廃された。ただし、改正条約調印に際して日本側は、アメリカに対し、日本人労働者のアメリカ移住について過去3年間実施してきた自主規制を今後も継続することを確約し、新条約にはその旨の覚書を添付している。

イギリスとは相互関税協定を結び、4月3日に外務大臣[[エドワード・グレー]]と[[加藤高明]]駐英日本大使とのあいだで改正通商航海条約が結ばれ、7月17日に発効した<ref>[[#ニュース8|『明治ニュース事典Ⅷ』(1985)p.598]]</ref>。ドイツとは6月24日に日独通商航海条約を、フランスとは8月19日に日仏通商航海条約を調印したが、英・独・仏・伊とのあいだには34品目において双務的な協定率をのこしている<ref>[[#クロニック|『20世紀全記録』(1987)pp.160-161]]</ref>。

ここに日本は名実ともに独立国家となって列強と完全に対等な国際関係に入ることとなった<ref name="usui_639"/>。このとき、[[マシュー・ペリー]]の[[黒船来航]]により、日本が[[開国]]してから、56年余の歳月が経過していた。

== 影響と歴史的意義 ==
条約改正によって、日本は開国以来半世紀を経て、立憲制度と東アジア地域で最強となった[[軍事力]]を背景に、列強と対等の地位を得た。条約改正は、日本が欧米列強の支配する世界に編入されたときから、政府にとっては悲願ともいうべき基本政策であった<ref name="itoh_129">[[#伊藤|伊藤(2001)p.129]]</ref>。

[[ファイル:Itô Hirobumi.jpg|150px|right|thumb|[[明治時代]]を代表する政治家[[伊藤博文]]]]
特に不平等条約中の治外法権条項は国家の独立を損なう大きな障害となっており、伊藤博文は、領事裁判権撤廃後の[[1899年]](明治32年)5月の[[山口県]][[下関市]]での講演において「いわゆる国権恢復とは即ち新たに国際上独立の地位を得ると云ふことである」と述べており、それ以前の日本は純粋な意味での[[独立国]]ではなかったとの認識を示している <ref name="sasaki_010"/>。[[主権]]の一部である[[司法権]]が外国によって束縛された国家は、国家としての自己完結性を発揮することができない点で不全な国家だった<ref name="sasaki_010"/>。

それゆえ、明治政府にとって、すべての政策が条約改正のためという面を強く有していた<ref name="itoh_129"/>。条約改正はまた、たんに屈辱条約を撤廃しようというだけではなくて、日本の国力の基礎としての経済力の充実の問題と密接につながっていた<ref name="irie_018"/>。このように、条約改正事業は日本の近代化、国力の伸張の一側面としても理解されたため、国内治安の維持や法制改革も並行して推し進められたのであり、外交上の最優先課題とされたのであった。ここに、のちに[[アジア主義]]へとつながっていく民間の理想主義に対して、明治政府首脳部が一貫してとった現実主義の外交姿勢が確認できる<ref name="irie_018"/>。

陸奥宗光によって法権を回復した日本は、小村壽太郎によって税権の束縛をも脱し、欧米諸国と完全に対等の関係を樹立しえたが、これは、非[[キリスト教]]国としては画期的な成果であったといえる<ref name="usui_639"/>。それを可能にしたのは、それぞれの外交担当者の粘り強い努力や極東をめぐる国際情勢の変化はもとより、日本における[[民主主義]]の成長や[[資本主義]]の発展を基礎としていた<ref>[[#井上|井上(1955)pp.185-189]]</ref>。青木周蔵は、最初の対英覚書において、立憲制度と治外法権とは到底両立しうるものではないとの認識を示しており、榎本武揚も外相時代に立憲政体の下に治外法権の存在することは許さないと述べている。憲法発布後、[[枢密顧問官]]となっていた寺島宗則は、青木・榎本の言を引用して即時完全対等条約を主張しており、伊藤博文もまた、国会開設後は国民の要求を満足させることのできない条約は結びえないと記している<ref>[[#井上|井上(1955)p.185]]</ref>。ここにおいて日本が、いたずらに外国人への排斥的行動に出ることなく、一貫してあくまでも外交上合法的なかつ粘り強い交渉努力によって、劣悪な国際法上の地位を一歩一歩着実に向上させていったことの意味は見落とせない<ref name="sakamoto_318">[[#坂本|坂本(1998)p.318]]</ref>。

経済面では、1880年代末にはいわゆる「[[資本の原始的蓄積]]」を完了し、90年代には[[産業資本主義]]の基礎が確立して、少なくとも日本国内においては、欧米資本主義と対等に競争しうる環境が整っていた。このような眼前の事実が、国内の商工業者に[[内地開放]]に対しても自信をもたせ、それと引き替えに法権・税権を回復しようという要求、また、そうすることによって自国内市場を完全に確保しようという要求が起こった<ref>[[#井上|井上(1955)pp.188-189]]</ref>。このことについて、歴史学者の[[井上清]]は「日本人は近代民族として、政治的にも経済的にも、1890年代には、もはや不平等条約というかせをうち破らねばやまないまでに成長してきた」と表現している<ref>[[#井上|井上(1955)p.189]]</ref>。

かくして条約改正は、国内的には、1899年に外国人に居住・[[旅行]]の自由と[[営業]]の自由とを認める「内地雑居」の状況を生み出した。日本国民と比較してきわめて大きな経済力をもち、習慣や[[思想]]を異にする外国人が日本人のあいだに入ってきて自由に生活し、生産活動や経済活動に従事することは、従来の日本社会に一大変革をもたらす大問題であり、いわば「第二の開国」であった<ref name="sumiya_116">[[#隅谷|隅谷(1974)pp.116-120]]</ref>。この時期の労働問題はじめ社会・経済の問題を扱った著作としては[[横山源之助]]『内地雑居後之日本』が著名である<ref name="sumiya_116"/>。

課題として残されたのは、[[永代借地権]]であった。これは、日本人と同じ条件のもとで所有権をあたえるよりも実は深刻な問題をのこした。というのも、借地ないし地上の建物に対する、あるいはこれらを標準とする[[税金]]は[[国税]]・[[地方税]]問わず一切課税できなかったからである<ref name="inoue_229">[[#井上|井上(1955)p.229]]</ref>。こうした外国人保有地は、[[1903年]](明治36年)段階で横浜、神戸、東京、大阪、長崎各市で総計48万8,553坪におよんだ。永代借地権を完全に解消する協定が成立したのはようやく[[1937年]](昭和12年)にいたってのことであり、それが実施にうつされたのは、さらに5年後のことであった<ref name="inoue_229"/>。

[[世界史]]的にみれば、日本と同様、列国と不平等条約をむすんでいた中国([[中華民国]])がその束縛から解き放たれたのは[[1943年]](昭和18年、[[民国紀元|民国]]32年)にいたってのことであった<ref name="usui_639"/><ref group="注釈">中華民国では、[[1931年]]以降は国定税率による輸出入税が導入されるようになったものの[[税関]]管理の職務には外国人を雇用していたため、関税自主権が名実ともに中国の手に回復されたのは[[中華人民共和国]]成立以後のことといえる。[[#加藤|加藤(2004)]]</ref>。[[蒋介石]]率いる中華民国では、穏健着実で現実路線を採りつづけた日本とは対照的に、政府みずから現行条約の非合法性をかかげて外国の諸権益の即時奪還を主張し、[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]という民族主義的エネルギーを動員する急進的ないし理想主義的な方法が採られたのである<ref name="sakamoto_318"/>。

そして、[[先進国]]と[[後進国]]とのあいだで法的差別が完全に撤去されたのは、[[第二次世界大戦]]の終わった[[植民地]]解放後のことであった<ref name="okazaki_282"/>。

== 関連項目 ==
* [[不平等条約]]
* [[最恵国待遇]]
* [[領事裁判権]]
* [[関税自主権]]
* [[外国人居留地]]
* [[内地雑居]]
* [[対外硬派]]
* [[永代借地権]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>


== 関連項目 ==
== 参考文献 ==
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*[[日本史の出来事一覧]]
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*[[内地雑居]]
* {{Cite book|和書|author=[[色川大吉]]|year=1974|month=8|title=日本の歴史21 近代国家の出発|publisher=中央公論社|series=[[中公文庫]]|isbn=4-12-204692-0|ref=色川}}
*[[対外硬派]]
* {{Cite book|和書|author=[[隅谷三喜男]]|year=1974|month=8|title=日本の歴史22 大日本帝国の試練|publisher=中央公論社|series=中公文庫|isbn=4-12-200131-5|ref=隅谷}}
*[[永代借地権]]
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== 外部リンク ==
*[http://www.bunzo.jp/archives/category/080treaty.html 公文書で探究「条約改正」-歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』.](独立行政法人国立公文書館)
*[http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2010/tv/nihonshi/archive/resume029.html NHK高校講座ライブラリー日本史「第29回 条約改正」](日本放送協会)
*[http://www.ndl.go.jp/modern/cha2/index.html#n4 史料にみる日本の近代 第2章明治国家の展開](国立国会図書館)


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2011年11月4日 (金) 04:33時点における版

鹿鳴館での舞踏会のようすを描いた錦絵「貴顕舞踏の略図」(楊洲周延画)

条約改正(じょうやくかいせい)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を改正するための明治政府の外交交渉の総体とその経過をさす[注釈 1]

条約システムの形成とアジア

中国の漢口(現武漢市)にあったフランス租界石碑

西ヨーロッパ諸国は、18世紀から19世紀にかけて西欧内の主権国家間の政治的・経済的な摩擦や対立を回避するため、互いに外交使節を派遣し、国家主権の独立や主権対等などを原則とする友好通商条約を結び、アメリカ合衆国の独立後はそれを新大陸にも押しひろげていたが、19世紀に入って社会的状況や文化伝統の異なるトルコ帝国ペルシア中国シャム、日本などアジアの国々との接触を深めると、武力を背景にしてこれらの国々に強制的に「開国」を認めさせ、みずからの条約システムに編入していった[1][2]

その場合、その国に住む欧米人が犯罪を犯したとき条約相手国の国法に服さずともよいこととし、外交官ではあっても本来は裁判官ではない領事領事館職員が本国の法によって裁判することを可とした。また、相互に貿易される商品関税を当該国が自由に決定する権利を認めず、すべて外交交渉の結果むすばれた協定によることとし、さらに、西欧のある国が当該国との条約で得た権利は、自動的に他の欧米の国にも適用されてその恩恵が均霑されるという規定(片務的最恵国待遇)が設けられることが多く、これらの点でいずれも不平等な性格をもつものであった(不平等条約[1]

なお、以上のうち、関税に関しては強者による弱者の収奪以外の何物でもなかったが、領事裁判権については、少なくとも先進国側の論理からすれば彼我の風俗習慣の違い、法律刑罰裁判の内容やそれらに対する考え方・姿勢の相違、また、監獄内の生活環境や治安状態の低劣さなどから居留民を保護するために必要と主張されるものであった[3]

不平等条約の締結

安政五カ国条約

江戸幕府安政5年(1858年)にアメリカ合衆国ロシアオランダイギリスフランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、

  1. 外国に治外法権(領事裁判権)を認め、外国人犯罪に日本の法律裁判が適用されないこと。
  2. 日本に関税自主権輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていること。
  3. 無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと。

などの諸点で日本側に不利な不平等条約であった[注釈 2][注釈 3]。2.については、特に慶応2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた改税約書の調印以降は、それまでの従価税から従量税方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国商品が大量に日本市場に流入して貿易不均衡を生んだ[4]

1878年(明治11年)、駐英公使の上野景範がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「自由貿易の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。その結果、日本の歳入に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。[5]。また、明治時代の法学者で政治家でもある小野梓の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53,7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった[6]。さらに、明治・大正期に政治家・ジャーナリストとして活躍した島田三郎によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として農民がその大部分を負担した重い間接税を全廃できたという[7]

財政難の政府は輸出品にも関税をかけたので、国内産業の発展にも大きなブレーキがかかった[5]。日本は、関税自主権を有しないところから生じる損失を朝鮮日清戦争後は清国も)との不平等条約の締結やダンピング輸出で回収しようとしたのである[8][注釈 4]

明治初年の神戸外国人居留地

日本は、国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にあらながら日本の貿易を左右することができたのであり[9]、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要としたのであった[1]

外国人居留地は、安政条約で開港場とされた5港(箱館横浜長崎新潟神戸)および開市場となった2市(江戸築地大坂川口)に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で整地し、道路水道などの公共財を整備することとなっていた[10]。居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。その一方、外国人も行動範囲が「遊歩規定」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった[11]。外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、居留地の外国人は、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。この借地権は永代借地権と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった[10]

「開国和親」の方針を誓った五箇条の誓文

不平等条約の締結は、尊皇攘夷運動とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ幕末期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ日米修好通商条約をはじめとする五カ国条約が朝廷の許しを得ない無勅許条約だった点にあった。

慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古の大号令によって江戸幕府が倒れ、薩摩藩長州藩の下級武士などを中心に明治新政府が成立した(明治維新)。 慶応4年1月15日(1868年2月8日)、列国公使に「王政復古」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から外交権を引き継ぎ、詔勅をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した[12]戊辰戦争のさなかの3月14日、新政府は明治天皇が神々に誓うかたちで五箇条の誓文を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。

戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、明治元年12月23日1869年2月4日)に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。

いっぽう、明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。この条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された[13]。以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた[13]。これは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。

条約改正の経緯

岩倉遣外使節団

岩倉使節団の正副大使5名
左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通

明治4年7月(1871年9月)、日本側全権伊達宗城、清国側全権李鴻章のあいだに結ばれた日清修好条規は対等条約であったが、制限的な領事裁判権を相互に認める規定などをふくみ日清両国がそれぞれ欧米列強とむすんだ不平等条約をたがいに承認しあう性格にとどまっていた[14]

政府は明治4年11月(1871年12月)、右大臣岩倉具視を全権大使、大久保利通木戸孝允伊藤博文山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈して聘問(訪問)の礼を修めさせ、海外文明の情況を視察させた。安政の諸条約は明治5年5月26日1872年7月1日)が協議改定期限となっており、使節団は、その条約改正に関する予備交渉と欧米の文物・諸制度の視察とを目的としていた[15]

使節団の全権大使岩倉具視

当初、大使一行の渡米の目的は、ユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に謁見し、アメリカ国務省ハミルトン・フィッシュ国務長官と会見して、万国公法(国際法)にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった[15][16]。当時の日本はまだ廃藩置県を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められるおそれがあり、こうした自国の都合で相手に延期を求める以上、外交使節が必要と考えられての派遣であった。また、この機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった[17]。ところが、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングと駐米日本代表森有礼は副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した[16][18]

合衆国のいたる所で大歓迎を受け、いささか甘い見通しに傾いた使節団は、フィッシュ国務長官に本交渉の開始を申し出たが、フィッシュは交渉に入るには明治天皇からの委任状がどうしても必要であると答えたため、大久保と伊藤は委任状を発行してもらうため急遽東京に立ち戻った[16]。2人は渋る留守政府にかけあい委任状を求めたが、体面上ようやく発行された委任状には使用不可の条件がつけられた[19]。いっぽう、アメリカに残留した岩倉と木戸に対しては、駐日ドイツ公使のマックス・フォン・ブラントと駐日イギリス代理公使のフランシス・アダムズが片務的最恵国待遇の規定などを持ち出して日米単独交渉を論難した[20]。さらに、英国留学中の尾崎三良は、わざわざアメリカに赴いて岩倉や木戸に条約改正の危険性について意見具申をおこなっている[21]。こうしてアメリカとの本交渉は中止となり、使節団が以後訪れたヨーロッパ諸国とのあいだでも具体的交渉はなされなかった[22][23]。ただし、一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたオスマン帝国に対しては一等書記官福地源一郎を派遣し、裁判制度などを研究させており[24]、これには僧侶島地黙雷が同行した。

岩倉一行は欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察したのち明治6年(1873年)9月に帰国した。帰国後の会議で、留守政府の首脳であった西郷隆盛板垣退助らが朝鮮開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決された。そのため、西郷・板垣・江藤新平副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職し、いっせいに下野している(明治六年の政変)。

以上、岩倉使節団の交渉は不首尾に終わったものの、この前後には、明治政府は旧幕府がアメリカに与えた江戸横浜間の鉄道敷設権[注釈 5]、プロイセン(北ドイツ連邦)に与えた北海道亀田郡七恵村(現在の渡島総合振興局七飯町)約300万の99年間の租借権[注釈 6]、また、長崎県高島炭坑の鉱山利権[注釈 7]の回収には成功しており、1875年(明治8年)1月には英仏両国軍側から横浜駐屯軍撤退を申し出ている[22][注釈 8]

寺島宗則の交渉と吉田・エヴァーツ条約

第4代外務卿寺島宗則

1875年(明治8年)11月、外務卿寺島宗則は、条約改正交渉開始を太政大臣三条実美に上申し、1876年(明治9年)には交渉を開始して外国からの輸入を減らす目的で関税自主権回復をめざした。これは、大蔵省租税頭の松方正義による強い要望もあって[25]、税権回復によって西南戦争後の財政難を解消する一方で殖産興業を推進し、産業保護を通じて政府の歳入増加を図る見地から特に優先すべき課題とみられたからであった[4]。いっぽうの法権、すなわち領事裁判権の方は、各国がこれに応じることなく、逆にエジプトムハンマド・アリー朝におけるような混合裁判制度を採用することを示唆したため、政府が同制度を調べた結果、改訂によって特に日本の利益となることはないとして、これを断念した[26]。なお、この年、朝鮮とのあいだに日朝修好条規が結ばれているが、これは日本側に有利で朝鮮に不利な内容の不平等条約であった。

1876年以降、寺島外務卿は、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア帝国の対日政策の歩調に乱れが生じた間隙をとらえ、税権の回復ならば応じる用意があるというアメリカを相手に単独交渉した。この時期のアメリカは、欧州諸国の帝国主義外交とは一定の距離を置いており、東アジア太平洋地域におけるヨーロッパ優位の情勢を牽制する意図もあって、英仏両国よりも日本に対し好意的であった[26]。1873年(明治6年)にむすばれた日米郵便条約などは、日本にとっては欧米諸国とむすんだ最初の対等条約であった。

交渉は実を結び、1878年(明治11年)7月、駐米公使の吉田清成とアメリカのエヴァーツ国務長官との間で税権回復の新条約(吉田・エヴァーツ条約)が成立した。これは、アメリカの領事裁判権を日本側が認めるかわりにアメリカは日本の関税自主権を認めるというもので、輸出税の廃止、日本沿海における日本の貿易権の独占なども盛られており、当時の日本としてはほぼ希望通りの内容であった[27]

同条約の成立が翌1879年(明治12年)7月に公表されると、ロシアはこれに好意的な姿勢を示したものの、日本との貿易額が諸国中最も多いイギリスは、日本が保護貿易政策を企図しているとして自由貿易の立場からこれを非難し、また、イギリスの頭越しに日米間で秘密裡に改正交渉が進められていたことに不快感を表明して各国共同の連合談判形式の採用を迫った[28]。ドイツもイギリスに同調して同条約に反対し、また、法権の優先を求める国内世論の反対もあって条約改正は挫折し、寺島は外務卿を辞職した[1]

吉田・エヴァーツ条約は、その第10条において、批准しても他の国々がこの規定を認めなければ発効せず、他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった[22]。アメリカ以外の国も同様の条約を締結しなければ、アメリカ商品のみに高関税がかけられて競争力を失い、通商上著しい被害が予想されるため、アメリカとしてはやむを得ない措置であった[27]。これが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる[27]

幕末から18年間駐日英国公使を務めたハリー・パークス

これに前後して1877年(明治10年)、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚した。これは修好通商条約付属の貿易章程に違反していたが、翌1878年2月、横浜イギリス領事裁判所は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡した(ハートレー事件)。また、1877年から78年にかけてコレラが流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから[注釈 9]、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則をつくったが、駐日英国公使ハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張、翌1879年(明治12年)初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したことに関連してヘスぺリア号事件が起こっている[29]

ヘスペリア号事件(ドイツ船検疫拒否事件)とは、阪神地方でのコレラの大流行を受けて、1879年7月15日、当局が神戸港停泊中のドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ヘスペリア号はそれを無視して出航、砲艦の護衛のもと横浜入港を強行した事件である。その結果、横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが流行し、コレラによる死者は1879年だけで10万人に達している[1][29][注釈 10]

いっぽう、福沢諭吉馬場辰猪小野梓らによる民間の条約改正論がいっそう高まり、自由民権運動においても地租軽減などとならんで条約改正による国権回復が叫ばれた。福沢諭吉は、早くも1875年(明治8年)の段階で、『文明論之概略』において「自国の独立」を論じ、人民相互の同権とともに外交上の同権(不平等条約の改正)を論じており[30]、馬場辰猪は1876年(明治9年)10月、英文でみずから著述した『条約改正論』をロンドンで出版している[31]

日本の知識人の多くがハートレー事件やヘスペリア号事件により、法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを知るようになり[22]、実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然だったのである[28]。世論は、経済的不利益の主原因はむしろ治外法権にあると主張し、法権回復を要求しはじめた[22]

なお、民権運動興隆の状況を目にした参議山縣有朋が、1879年(明治12年)、民心安定のために国会開設が必要であるとの建議を提出したのを契機として、政府は参議全員に意見書の提出を求めたが、それに対し、伊藤博文は条約改正を視野に入れての立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出した[32]国会開設の詔が出されたのは、明治十四年の政変後の1881年(明治14年)のことであった。

井上馨と鹿鳴館外交

第5代外務卿・初代外務大臣の井上馨1880年の写真)

寺島のあとを受けて参議兼外務卿となった井上馨は、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案をつくり、1879年(明治12年)9月19日、駐英公使森有礼に基本方針を訓令、同11月には在欧各国の公使に対し、海関税則改正と開港場における外国人の不当な慣習(日本人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外国人への適用などを骨子とした条約改正方針を各国に通知するよう訓令を発した[33]。なお、1880年(明治13年)3月の官制改革では、参議と卿は分離されたが、井上外務卿のみは条約改正にたずさわる関係から、その例外とされた[34]。井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は前駐英公使の上野景範であり、1880年5月以降は横浜のアメリカ副領事であったヘンリー・デニソンを外務省顧問に採用された[34]

1880年6月、井上案の骨子をもとに修好条約改正案および通商航海条約改正案が準備され、同年7月6日、条約改正会議を日本で開催することをアメリカ・清国をのぞく各国に通知した[35]。この改正案の内容は駐日オランダ公使からリークされ、7月16日付ジャパン・ヘラルド紙に掲載された。翌1881年(明治14年)2月、井上は条約改正案を関係各国に回付した[33]。当初の列国の態度は日本案は要求のみ多く、それに対する報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める姿勢が強かった[36]

その後、森有礼駐英公使はイギリス側の対応をさぐり、双方で交渉の課題と進め方について協議したが、イギリスは関税規則改正にかかわる交渉にのみ応じる方針であることが判明した。1881年7月23日、イギリス外相グランヴィル伯は森駐英公使に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対の意を表明、東京での予備会議開催を提案した[22][33][35]。これに対し、ドイツは、法権回復の交渉にも応じる構えがあるとの意向であり、イギリスの方針とは異なる感触を得たが、東京での予備会議開催に対してはイギリスと同意見であり、他の各国もこれに追随した[33]

井上は各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議するための予備会議(条約改正予議会)を開くこととした。12月28日の御前会議での諒承を経て、予備会議は翌1882年(明治15年)1月25日に東京の外務省で第1回がひらかれ、フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した。こののち、アメリカ合衆国・ベルギーなども加わり、同年7月27日まで計21回開催された[22][35][37]

井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬うる所なかるべからず」という方針に立ち、日本が関税を引き揚げて税収増加をはかること、日本の行政規則を条件づきで外国人におよぼすこと、12年後に対等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わりに、外国人には土地所有権、営業権、内地雑居権をあたえようというものであり、なかには、野蒜築港後に同港をひらき、区域を設けて外国人の雑居をゆるすというものもあった[38]。これについては、政府部内でも佐々木高行大木喬任山田顕義参議3名が、日本人は失うもの多く、得るところは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂した[37][39]。そのため、井上は一時は辞任の意向を示すほどであったが、寺島前外務卿が慰留、岩倉具視や山縣有朋らが3参議を取りなして、結局、ひきつづき井上の方針が採用されることとなった[37]。なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国共同の圧力をうけることにほかならないとして、共同会議を開くべきではないと強く主張した[40]

井上改正案は、法権・税権のいずれについても諸外国からの批判が相次いだ。これに対し、井上は日本は法典の整備に鋭意取り組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する用意があると回答、1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では日本の法律に服する外国人には内地開放(内地雑居)をおこなう旨宣言した[35]。内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃することであり、外国人の土地所有や企業活動の自由をみとめることであったが、これは法権の束縛された当時の日本にとって唯一最大の切り札であり、列国が明治初年から繰り返し主張してきたことでもあった[41][42]。この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を示されながらも歓迎された[37]。6月1日の第13回予議会で井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国の法律の専門家によるものとし、また、法律は日本の国内法を適用するという案を提示した[37]

税率の改正に関しては、日本の要求が自由貿易の理念に反するとの批判をかわすべく、大蔵省で進めていた紙幣整理の償却費400万円の確保が目的であるとして、従来5パーセントであった税率を、奢侈品25パーセント、他の物品15パーセントに引き上げる案を示した。イギリスはこれに反対、増収総額300万円程度となる税率案を提示した。それに対し、ドイツは日本に対して好意的で、結果的には総額360万円の増収額となる税率に定められた[43]。なお、新条約の施行期間としては、裁判については12年、税率については8年と定められた[44]。以上、予備会議での交渉は、新条約の方針の協議にとどまるものではあったが、井上の内地開放宣言が功を奏し、日本は一貫して協議の先導者たる立場に立つことが可能となった[44]

1883年(明治16年)落成当時の鹿鳴館
現在ものこる司法省の建物(法務省旧本館
「於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖」(鹿鳴館で行われた日本初のチャリティーバザー。1884年の錦絵新聞より)

条約改正交渉と並行して井上は、国内に欧化政策を推進するとともに、西欧風施設を建設して外国使節を歓待し、日本が文明国であることをひろく内外に示す必要があると訴え、日比谷公園に隣接する麹町区山下町の地(現在の千代田区内幸町一丁目。NBF日比谷ビル)にネオ・ルネサンス様式の社交施設「鹿鳴館」の建設に取りかかった[注釈 11]。イギリスの強硬姿勢の原因のひとつには、駐日英国公使パークスの日本を遅れた非文明国とみる日本観が大きな影響をおよぼしていたが、そうした日本観は程度の差はあれ西洋諸国の外交官に共通するものであった[44]。維新以来の開化派であった井上としては、条約改正交渉をスムーズに進捗させていくには、こうした日本のイメージを払拭する必要があると考えたのである[44]。これはまた、来るべき内地開放の部分的な予行演習という意味合いを兼ねていた[44]

鹿鳴館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計され、工事は1880年(明治13年)に着手されて1883年(明治16年)11月に完成した。煉瓦造の2階建で2階正面が舞踏室となっており、完成には足かけ3年の歳月と18万円の工費を要した。11月28日の落成式では軍楽隊の吹奏や花火が打ち上げられるなか、内外の高官や紳士淑女1,200人(うち外国人400人)が鹿鳴館に集まって、舞踏会が夜中まで繰り広げられた。井上馨はこの夜「この鹿鳴館を国内外の紳士がともに交わり、国境を越えた友情を結ぶ場にしたい」と演説した。また、井上を局長とする臨時建設局は鹿鳴館周辺に新官庁街を建設することを企図し、ドイツ人技術者を招いて首都改造計画を進めた[注釈 12][45]

予備会議の成果や井上の内地開放案等について各国の意向を打診した結果、イギリスのパークス公使は、法権は後日検討することとして、関税自主権の付与には依然反対ではあるものの、今回は通商面や税権の面で日本に対し応分の譲歩の用意があるという意向を示した。また、ドイツは内地開放が関税自主権付与の前提になるという方針を表明した[35]。なお、1884年(明治17年)3月、日本に対して強硬な姿勢の強かったパークスの後任公使としてフランシス・プランケットが着任、前任者とは違って、柔軟な対応をする見込みがあらわれた[46]。アメリカからも好意的な反応がみられ、各国も在留外国人が日本の行政法規にしたがうことについては諒承の態度がみられるようになった[46]

井上は列国の態度を勘案したうえ、1884年(明治17年)8月4日、条約改正基本方針を各国に通告し、条約改正会議(本会議)をひらくよう提案した。しかし同年12月、朝鮮で金玉均らによるクーデタ甲申政変)がおこって対清関係が緊迫し、イギリス海軍による朝鮮巨文島占領事件もあってその対応に追われたため、本会議の開催は1886年(明治19年)に延期された。

1885年(明治18年)、日本では太政官制度が廃止され内閣制度が発足した。井上は第1次伊藤内閣外務大臣に就任し、ひきつづき条約改正に取り組んだ[35]

1886年(明治19年)5月1日、条約改正会議がひらかれ、井上外務大臣・青木周蔵外務次官のほか12か国の使節団が参加した。井上は関税引き上げと法権の一部回復を目的とした条約案を提出したが、この案にはイギリスが反対した。6月15日、第6回会議でイギリス・ドイツ両国公使が新提案をおこない、日本側もこれを諒としたため、会議は英独案(アングロ・ジャーマン・プロジェクト)を基調に進められた。英独案の骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセントから11パーセントに引き上げることを了承する交換条件として、

  1. 条約実施後2年以内に日本は内地を開放し、外国人に居住権・営業権をあたえ、2年以後は内地居住外国人は日本裁判所の管轄に属すること。
  2. 条約実施2年以内に日本は「泰西ノ主義ニ従ヒ」、すなわち西洋を範にとった刑法民法商法等法典の整備をおこない、施行16ヶ月前にその英文を諸外国政府に通知すること。
  3. 外国籍の判事検事を任用すること。
  4. 外国人が原告もしくは被告となった事件については、直接控訴院(第二審)に提訴することができる。その際、控訴院および大審院の判事は過半数を外国人とし、公用語として英語を認めること。

が掲げられる、というものであった[4][35]

夜会服に身をつつんだ鹿鳴館時代の大山捨松

法典の整備や裁判制度の確立については、国内における合意形成や法律を運用する法曹の育成などに一定の時間を要することから、当面は、日本がその方向に向かっていることを諸外国に納得させて改正への合意を引き出すよりほかになかったのであり、この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機能したのが鹿鳴館外交であり、欧化政策であった[注釈 13][42]。井上の結論は、「条約改正には兵力によるか、西欧諸国に日本の開化を実感させて治外法権を撤廃してもよいという感情をいだかせるかのどちらかしかないが、兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進めるよりほかに道がない」というものであった[1]

ジョルジュ・ビゴー「鹿鳴館の月曜日-コントルダンスの合間」[注釈 14](『トバエ』6号、1887年5月)
しゃがんだり背をもたれるポーズでキセルをふかす「淑女」(実は芸者)の醜悪さを描いた風刺画。ビゴーは「お里が知れる」と批判している[47][48]

欧米風の服装をして洋食ダンスなど欧米風の夜会、バザーなどの社交をおこない、羅馬字会が設置され、音楽改良、美術改良、演劇改良運動が広がり、欧米のあらゆる風俗を模倣する風潮が一時上流社会に流行することとなり、極端な例ではキリスト教採用論[注釈 15]人種改良論さえ現れるほどであった[49][50]が、これは、松方デフレによる不況にあえぐ農村の日常生活とはあたかも別世界であり、その浮ついた雰囲気は国民の自尊心を傷つけ、むしろ社会の堕落・退廃として批判された[49]。国内外の新聞は、鹿鳴館の夜会を「茶番劇」「猿真似」と書き立てて軽蔑・嘲笑し、鹿鳴館外交を「媚態外交」「軟弱外交」と呼んで批判した。当時平民主義(平民的欧化主義)を唱えていた徳富蘇峰も、井上馨の欧化主義を「貴族的欧化主義」と呼んで批判し、川上音二郎作詞の『オッペケペー節』にも、「うわべのかざりは立派だが、政治の思想が欠乏だ」と唄われた[51]

条約改正会議は、1886年(明治19年)7月、関税率改正についてはほぼ日本の原案に近い案が合意をみた[52]。内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井上はそれを認めると法権回復交渉のカードを失うこととなるため拒否している。また、「泰西主義」にもとづく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外務省内に設置した[52]。日本が制定する法律を各国に「通知」する件をめぐっては、やや交渉が難航した。各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に合致するかどうかを監査する権利をもつものと理解したが、それを認めると日本は法律制定に外国の介入を認めることとなってしまうので、井上は列国が「泰西主義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付け加えることを提案し、各国もこれに合意した[53]

かくして条約改正会議は、新しい通商条約案と英独共同案に修正をほどこした修好条約案がほぼ合意をみることとなり、1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した[52]

明治政府の法律顧問ギュスターヴ・エミール・ボアソナード

しかし、議事内容が明らかになるにつれ、政府内外からの批判が噴出した。日本政府の法律顧問でフランス人のボアソナードが、この改正案は日本の法権独立を毀損するものであり、訴訟人の利害からしても、国庫負担からしても外国人法官の任用は弊害が大きく、従来外国人居留地に限られていた不利益をむしろ日本全国におよぼすものであると批判し、また、鹿鳴館における政府首脳の放蕩を憂慮して「予は今日は贅沢の時に非ずと信ずるを以て、各大臣の宴会はすべて謝絶するなり」と宣言した。「政府の智嚢(知恵袋)」といわれた法制官僚の井上毅に対しては「この改正が実現すれば日本人は外国を怨むより、屈辱的裁判制度をつくりだした政府を非難するようになるだろう」と進言して「足下は高官の地位にあり、本国のために未曾有の危機にさしてはなんらの尽力をなさざるか」と責め、伊藤首相に対しても、改正案は法典の外国政府への通知を規定しているが、立法権すら外国の束縛を受けてしまうことになると指摘した[1][54][55]

鳥尾小弥太三浦梧楼曽我祐準勝海舟らも反対意見を表明した[56]。国家主義者の小村壽太郎は当時外務省員でありながら、反対運動に加わった[57][注釈 16]。閣内からも司法大臣山田顕義農商務大臣谷干城から強硬な反対意見があって、7月、谷はついに伊藤首相に改正反対の意見書と辞表を提出するにいたった[4][35][58]。谷の意見書には、新条約案が現行条約以上に日本の国益をそこなうこと、改正交渉が秘密裡に進められていること、内地雑居は時期尚早であること、条約改正は憲法施行後、公議輿論に照らしておこなうべきことが記されていた[59]。同月、井上馨外相が内閣に提出した意見書では、日本の進路について、「欧州的新帝国」をアジアにつくりだすことによって、西洋諸国と同等の地位に向上させ、独立と富強を維持、達成できると記されている[60]。井上の考えは、ヨーロッパにならうことはヨーロッパと並び立つためだったのである[61]。辞職した谷は、あたかも国民的英雄のように扱われ、8月1日には旧自由党員林包明ら在京の壮士たちにむかえられて「谷君名誉表彰運動会」が東京九段靖国神社境内で開催された[62]。ここでいう「運動会」とは、デモンストレーションのことである[63]。参加者は数百名におよび、「谷君万歳」「国家の干城」などと書かれた大小の旗をもって市ヶ谷田町の谷邸まで示威行進した[64]

ジョルジュ・ビゴー「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)
条約改正を時期尚早と考えるビゴーがノルマントン号事件でのイギリスの対応を翌年のフランス船メンザレ号遭難事件を利用して批判した。ボート上の船長が「いま何ドル持っているか。早く言え。タイム・イズ・マネーだ」と言っている[48]

ボアソナードや谷干城らの意見書は自由民権派の手によって秘密出版されて国民の広く知るところとなった[58]。その結果、おりからのノルマントン号事件(1886年)[注釈 17]で領事裁判権のもたらす弊害が問題視されていたこともあって世論が激昂、これを「国辱的な内容」と攻撃し、板垣退助も1万8,000余語におよぶ上奏意見書を提出した[58][65]

井上馨にしてみれば、この案が期限付条約案であることから、国民は国内法制の整備が完了するまでの期間だけ外国人判事による裁判を耐えれば済むということであったが、この時期の日本は自由民権の時代からすでにナショナリズムの時代に移っており、もはや世論は井上改正案を受け入れることができなくなっていた[57][66]

谷らの意見に対して井上は、日本人にしても、たとえば当時の朝鮮の法律や裁判に服することが可能かと提起して、西洋諸国の領事裁判権を完全に撤廃することがいかに困難をともなうものであるかを説いた[67]。さらに、優勝劣敗を説く社会進化論の影響で日本社会が西洋人によって圧倒されてしまうことを危惧する内地雑居反対論者に対し、井上には日本の民間における潜在的力量に対する基本的な信頼感があったとみられ、条約改正問題で一歩前進することにより、日本社会は外国人の刺激によってさらに文明開化がすすみ、外資増大などによって経済発展をもたらすことが期待できると主張した[68]

保安条例に抗して投獄された人びと(中列左から4人目が片岡健吉

しかし、佐々木高行や元田永孚など宮中グループの動向や沸騰する世論に抗しきれず、条約改正交渉は延期されることとなり、1887年7月29日、政府は列国に対し改正会議の無期延期を通告、9月17日には井上馨が交渉失敗を理由に外交責任者の地位を辞し、そのあとは内閣総理大臣伊藤博文が外相を兼務した[68]

同年10月には片岡健吉元老院に「三大事件建白」として提出した建白書に不平等条約の改正が盛られる[注釈 18]など反政府運動が高まりをみせた。政府は内務大臣山縣有朋警視総監三島通庸を中心に保安条例を発布して、治安妨害を理由に570名あまりを皇居三里外(皇居より約11.8キロメートル以遠)に3年間追放し、政情の安定と秩序回復を図った[1][4][35]。それに対し、「むしろ法律の罪人となるも退いて亡国の民となる能わず」と主張し、保安条例に抵抗して投獄された人びともいた[69]

大隈重信の改正交渉とその蹉跌

第1次伊藤内閣・黒田内閣の外相大隈重信

伊藤博文は条約改正交渉を進展させるため、みずからの後任の外相として、外交手腕に定評のある大隈重信を選んだ。井上馨と伊藤は、民権派の大同団結運動に対処すべく、大隈率いる立憲改進党が政府与党となることを図って政敵であった大隈に後任外相たるべきことを交渉したのである[68]。大隈は最初、持論の議院内閣制導入を条件としたため入閣は不発に終わったが、政府は上述の保安条例によって強引に三大事件建白運動を終息させた。こののち、再び大隈に交渉したところ、大隈もこれを諒承、1888年(明治21年)2月、第1次伊藤内閣の外務大臣に就任した。伊藤と大隈の合同は、明治十四年の政変以来のことであった[70]。大隈は同年4月に成立した次の黒田内閣でも外相を留任した[注釈 19]

大隈は、伊藤に憲法制定の功績あるならば自分は条約改正の功をたてたいと決意し[1]、また、その功をもって改進党勢力を伸張させ、憲法発布後に予定されている帝国国会で主導権を握るという具体的な将来構想をいだいていた[71]薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣黒田清隆は、枢密院議長となった伊藤に憲法制定を任せ、大隈に条約改正を任せるという体制をとっていたが、この両者がたがいにほとんど交渉のなかったことはのちに重大な問題をひきおこすこととなる[72]

大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不利であるという認識に立って、列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用した[35]。それにより、1888年11月30日、かつて政府転覆の陰謀に加担したとして逮捕・収監された前歴をもつ駐米公使兼駐メキシコ公使陸奥宗光メキシコとの間に日墨修好通商条約を締結することに成功した。陸奥がワシントンに着任してわずか半年後のことであり、これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約であった。これにより、メキシコ合衆国国民は日本の法権に服することを条件に内地開放の特権があたえられた[73]

陸奥の交渉相手であったメキシコのロムロ駐米公使は、長くワシントン勤務をつとめたベテラン外交官であり、当初はメキシコだけが領事裁判権を放棄すれば、他の欧米諸国がメキシコに対し悪感情をいだくのではないかと考え、容易に承諾しなかったといわれる。また、税権については相互的最恵国待遇を規定していたため、実際には、第三国が日本の関税自主権を認めるまで利益が生じるのを待たなければならなかった[74]。なお、陸奥はその後すぐにアメリカとの交渉に乗りだし、法権回復をともなう新条約締結の合意を取り付けたが、米国内の政権交代や日本本国のイギリスへの配慮、大隈案に対する国内世論の反対(後述)などが重なって成功しなかった[75]

大隈はまた、最恵国約款の解釈を改め、従来一国に認めた特権は無条件で他国にあたえていたものを有条件主義とした。さらに、従来の通商条約と裁判権に関する条約の二本立てとなっていたものを一個の和親条約として締結するという方針を立てた[70]

改正内容についても大隈は、井上馨の方針を修正し、緻密な外交理論にもとづいて、税権については税率の引き上げを求め、法権については外国人裁判官を大審院に限定し、法典についても日本側が交付することを約束するにとどめた[58]。また、現行条約を遵守し、居留地外に進出するための外国人の違法行為を厳しく取り締まることにより、かえって現行条約の方が不便であるということを外国人に痛感させ、そのことによって日本側に有利な条件を獲得しようとした[4]

単独交渉方式の採用と最恵国待遇に関する新解釈は、列国の利害関係や対日関係のあり方の相違からしだいに条約改正に現実味をあたえることとなった。交渉は極秘裏に進められ、その結果、1889年(明治22年)にはアメリカ合衆国(2月20日)、ドイツ帝国(6月11日)、ロシア帝国(8月8日)とのあいだに新しく和親通商航海条約を締結することに成功した。実際に新条約調印にこぎつけたのは、明治初年以来これが最初であったが、イギリスはなおも反対の態度を示した[4][35][76]

「憲法発布略図」(揚州周延画、1889年)

この間、1889年2月11日黒田内閣のもとで大日本帝国憲法が発布され、日本はアジアで最初の近代的立憲国家として出発することとなった[注釈 20]。しかし、発布に先だって大隈は、伊藤の憲法制定にともなう枢密院の会議に出席したことは実は一度もなかった[72]。大隈は、明治十四年の政変の際、国会の早期開設を主張したために伊藤らによって政府を追放された経緯があり、イギリス型の国会や憲法については一家言をもち、伊藤よりもむしろ立憲国家のあり方についての見識も豊かであったとみられるが、上述のように、黒田内閣では、伊藤は憲法制定を進め、大隈は条約改正を進めるという相互不干渉の体制で当時の二大国家目標の遂行をはかっていたのである[72]

いっぽう、この年の7月、上述の日墨修好通商条約が効力を発すると新任のヒュー・フレイザー駐日英国公使は、最恵国待遇の規定によって日本在住のイギリス人に対しても内地雑居の公平な恩恵があたえられるべきだと主張したが、大隈は最恵国有条件主義を唱えてこの要求を却下した[35]。ただし、そのイギリスも駐英公使岡部長職の奮闘もあって、ようやくほぼ同意するところまでこぎつけ、フランスもこれに倣った[70]。列強のうち主要国との交渉は概ね終了し、あとは小国をのこすだけになった。

しかし、機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年4月19日付のイギリス紙『タイムズ』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは外務省翻訳局長だった小村壽太郎だったともいわれる[57]。条約改正案の骨子である外国人判事の任用や欧米流の法典編纂の約束という点では大隈案も井上案を基本的に踏襲したものであったため、このニュースが日本に伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がった。学習院院長三浦梧楼からは改正中止の上奏がなされ、新聞『日本』の主筆陸羯南などによって激しい反対論が展開された[35]。鳥尾小弥太、谷干城、三浦梧楼の三中将、西村茂樹浅野長勲海江田信義楠田英世の7人は、世に「貴族七人組」といわれる反対派であった[77]。ただし、『東京経済雑誌』主筆の田口卯吉は大隈案の擁護につとめており、徳富蘇峰の『国民之友』は論争に積極的に参加しなかったが政府案に好意的であった[78]

反対論のなかには、日本の司法権が脅かされるとの批判があり、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝国憲法に違反することを指摘する声があった(外人法官任用問題[79]。すなわち、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあたるというのである[80]。これについては、すでにこの年の3月末に陸奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに気がつかなかったといわれる[81]。民間では民権派・国権派の大半が結集して非条約改正委員会が組織され、条約改正反対運動(非条約運動)が展開された[82]

「政府の智嚢」といわれた井上毅

憲法制定と条約改正は同時並行で進められていたものの相互に没交渉であったことが、憲法が制定される状況下で憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった[83]。この事態に伊藤は驚愕したが、いっぽうの大隈は意気軒昂であり、外国人法官任用問題に対しては法制局長官井上毅に帝国憲法との摺り合わせを命じた[80][83]。井上毅は公権力の行使にかかわる外国人を任用した場合、当該外国人は自動的に日本に帰化して日本国臣民となる旨の法案(帰化法)を起こした。しかし、これは逆にイギリスとの交渉を困難にしており[70]、井上毅自身もまた、内心ではこのような弥縫策には不満であったため、郷里熊本の先輩であり、明治天皇の侍講でもある元田永孚に相談した[80]。このことがきっかけとなって、政府部内でも黒田首相・大隈外相らの条約改正断行派と後藤象二郎逓信大臣松方正義大蔵大臣西郷従道海軍大臣大山巖陸軍大臣ら大隈案に批判的な閣僚、元田ら条約改正反対の宮中グループ、また、黒田の手法に反発しながらも大隈の外相就任に深くかかわり条約改正はつぶせないと考える伊藤博文枢密院議長、黒田首相とソリが合わず山口に帰郷した井上馨農商務大臣を、それぞれ巻き込んだ波乱含みの政局展開となった[58][84]

「枢密院会議之図」(楊洲周延画、1888年)

これまで伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」というべき体制は機能不全に陥った。内閣の首班たる黒田は大隈を信用して条約改正にあたらせた以上、条約改正推進の立場は揺るがなかった[85]。大隈もまた、現実的にすでに居留地や治外法権という本来は憲法に規定されていない事態が継続している以上、外交事情が憲法に優先すると判断し、黒田からの強い支持と負託もある以上、条約改正は憲法がどのようなものであろうとも、最優先すべき課題なのであった。こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣の権限をもって急ピッチで進められていったのである[86]。他の国務大臣にとって条約改正交渉は所轄外の事案であるところから、反対意見はこれを阻止することができなかった。

ところが、内閣と枢密院とは一種の相互依存関係にあって、枢密院の会議は専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構成員としていた。そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は枢密院会議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求めた。枢密院会議が開催されれば、そこでは条約改正反対論が多数意見となることが確実であり、改正交渉を阻止しうると見込まれたためであった。しかし、枢密院議長である伊藤の立場としては、召集の要求に応じることができなかった。というのも、みずから大隈の条約改正を承認しつづけて憲法違反の行為を認めてしまった以上、枢密院の場で自分自身が弾劾されるおそれがあったためであり、また、批准段階ではなく、条約改正交渉が現に進められている途中の段階で枢密院が交渉に介入することは憲法の規定に抵触するものであったからである[87]。かくして、憲法・内閣・枢密院という、いずれも国家の盤石を期してつくられたものすべてが、これらの創始者ともいえる伊藤の意図をはなれ、それぞれ思い思いの方向へもっていこうと機能する逆説的な状況が生じてしまったのである[87]

条約改正問題によって生じた政治の機能不全を解きほぐそうとして調停にのりだした明治天皇

在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや天皇親政派の人びとが公然と条約改正反対を唱えるなか、1889年(明治22年)8月2日、黒田首相は閣議をひらいて帰化法制定を条件として条約改正断行路線をとることで強引に内閣の意見をまとめた[88]。しかしこれ以降、さまざまな方向から条約改正に対する反対運動が活発化し、内閣は四面楚歌の状態となる。そして、よもや統治不全の状態に陥りかけたとき、調整工作にのりだしたのが明治天皇であった[89]。天皇は9月20日元田永孚に伊藤博文を訪ねさせ、条約改正について諮問した[90]。そして、「黒田は諸事をことごとく大隈に一任して議するところなく、大隈は独断専行するいっぽうで内外の反対意見も多く、このことが政治の混乱を招いてしまっているが、これを放置してよいのか」と質し、「条約改正が憲法に抵触するということを伊藤たちは事前に気がつかなかったであろう。だから自分にもそれを言わなかったのであり、よって自分は、そのときは条約改正を受け容れようと考えて許可した」と述べ、「今になって憲法違反の事実があったとしてそのとき気づかなかったことを咎めても意味がない。条約改正の決定は自分たちの不明であり、短慮ではあったが、違憲であることが判明した以上、ただちに失敗を反省し、以後善後策を講じなければならないのではないか」との意思を示した[90]。天皇は、条約改正と憲法について、その原点に立ち返って考えなおし、政治的に幅のある対応をすべきではないかとの判断を下したのである[90]

9月22日、天皇は閣議だけでは条約改正の是非についての議論を十分におこなえない状況を踏まえ、これに枢密顧問官も加えて新しい合議体たる合同会議を創設し、そこで改正の得失と善後策の検討を審議してはどうかと伊藤に提案した。つまり、政府における最終的な意思決定の場を設け、そこで条約改正の中止を決めるべきではないかと勧めたのである[91]。これに対し、伊藤は内閣の国務大臣だけでまず会議をひらくことが妥当である旨、使者の元田に答えた。天皇は伊藤と黒田によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」を合同会議の創設によって前進させようとしたのであるが、伊藤は、この体制は政治的決定の一致をみてこそ盤石の体制となるものの、分裂が決定的となってしまっている状況において合同会議を創設することは、むしろその分裂を固定化する役割を担ってしまい、かえって混乱が拡大してしまうと懸念したのである[91]。業を煮やした天皇は、9月23日黒田首相を呼び出し、閣議をひらくよう命じた。黒田は恐懼したものの自宅に籠もったままとなり、あくまでも条約改正断行の意志を変えなかった[91]。なお、9月27日には、立憲改進党のグループが全国同志大懇親会を京橋区新富座にひらいて条約改正を断行すべしという運動を展開している[91]

政局が膠着し、条約改正断行派も中止派もともに相互にまったく調整不能な状況となったなか、1年間のヨーロッパ視察を終えて山縣有朋内務大臣が帰国した。ここで、これまで条約改正問題にまったく関与してこなかった重鎮の山縣に一切の決裁を委ねてはどうかという状況判断の生じる余地が生まれ、黒田と伊藤のどちらが先に山縣に接触し、その同意を取り付けるかが競われた。同じ長州藩出身でありながら、政治路線の異なる伊藤博文と山縣有朋の関係はすこぶる微妙なものではあったが、結果的に両者の合意が成立した[84]。10月3日、天皇はいつまでも黒田が閣議をひらかないことを憂慮し、伊藤に対して善後の措置をきちんととるように命じた。大隈はといえば、天皇が陪食を命じても病気と称して出てこないありさまであった。10月10日、明治天皇は黒田と伊藤と大隈の3人で話し合いをし、その結果を報告するよう命じた。そもそも、この3人の協議がまとまらなければ、他のいっさいは定まらないと判断されたためであった[92]

10月11日、山縣内相が参加しての閣議が伊藤枢密院議長臨席のもと開催された。閣議の席では、松方蔵相が条約改正に際しては条件整備のために準備委員会を設けるべきだと切り出した。これは改正交渉遅延の手段にほかならなかったが、一応諒承を得た[92]。次いで、後藤逓相が条約改正を中止するか断行するかの決定を首相に迫った。それに対し黒田は間髪を入れず「それは8月2日にすでに決めたことではないか。一事不再理である」と応答し、その後も同様の断定的意見に終始した。事ここにいたり、ついに伊藤が枢密院議長の辞表を提出、しかし、なおも黒田と大隈は自説を曲げなかった[92]。10月15日、条約改正を閣議が再びひらかれたが、これは明治天皇が臨席する異例の閣議となった。ここでも議論は紛糾したが、黒田・大隈はともにまったく引く構えを見せず、夕刻となったため議決せずに散会した[58][93]。ここでは山縣は意見をはっきりさせなかった[94]

テロリズムにより右脚切断の重傷を負った大隈外相

10月18日、黒田は再度条約改正の是非についての閣議をひらいた。ここでついに山縣が条約改正の実施は時期尚早であると述べ、延期しなければ今後の展望がひらけないと主張、松方・西郷・大山らも同調して閣議は中止論に傾きかけた[94]。しかし、なおも首相と外相は断行論を唱えたため、またも結論が出ないまま散会した。事態が急変したのはその直後であった。閣議からの帰途、馬車に乗っていた大隈が東京外務省の外相官邸に入る門前で、改正案に反対する福岡玄洋社前社員の来島恒喜から爆裂弾を投げつけられ右脚切断を要する重傷を負ったのである(大隈重信遭難事件)[注釈 21]。来島は爆弾投下直後、皇居にむかって割腹自殺した。

大隈遭難事件翌日の10月19日、黒田首相と山縣内相は明治天皇に拝謁して条約改正延期を伝えた。21日、入院中の大隈が不在のまま閣議は条約改正中止を決定、米・独・露3国とのあいだの調印済の条約にもその延期を申し入れた。22日、総理大臣黒田清隆以下、大隈を除く全閣僚が総辞職の意向を明らかにした。閣議でいったん決定した条約改正を反古にしたのであるから、すべての大臣に責任があるとの論理からであった[95]。こののち、黒田清隆は後継に山縣を推薦して10月25日に内閣総理大臣を辞任、山縣は首相拝命を固辞したため三条実美暫定内閣が成立した[35]。当初、内閣総辞職となるはずであったが首相と外相以外の全閣僚が留任のかたちとなった[95]。10月30日、五団体の非条約派による連合は、目的は一応達せられたとして解散した[96]

11月1日、黒田清隆と伊藤博文に対し「元勲優遇」の勅語が出た。明治天皇は、薩長閥のそれぞれの代表格であり、従来「内閣・枢密院包摂体制」を主導してきた2人、そして、統治能力を今まさに失ったばかりの2人に対し、非制度的かつ人格的な栄誉の第一号をあたえたのであった[97]

「将来外交之政略」

黒田辞任後の暫定内閣の首班となった三条実美

三条暫定内閣は、内大臣であった三条実美が内閣総理大臣を兼任するという変則的な内閣であったが、これは臨時兼任ではなく、かたちのうえでは恒常的な兼任であった[98]。暫定内閣では、次の山縣内閣までの地ならしをしておくことが期待されたが、条約改正に関しては「将来外交之政略」と題する指針が定められた[99]。既にみてきたように、これまで条約改正はつねに挫折してきたのであり、ここで基本的な方針を決定しようというものであった。

「将来外交之政略」は、伊東巳代治が起草し、井上馨が提出したという形式になっており、そのなかでは、

  1. 外国人を大審院に任用するのは憲法上問題があり、条約上の関係より国家主権を施行する官を外国人に授けるのは憲法違反である。
  2. 日本の法典をすみやかに公布することを約束するのも、将来に対する日本の立法権を束縛することとなり、これから国会を開く日本にとっては国家の長計からみて好ましくない。
  3. 内地の通商および土地建物貸借の自由は認めるが、不動産を所持する自由は領事裁判権撤廃が決まってから認められるべきである。
  4. 外国人に対しては、法律上、経済上、日本人とは異なり、若干の制限を設けるべきなのではないか。

という意見が盛られた[100]

実は、これらはいずれも井上馨・大隈重信両外相時代の条約改正反対運動において反政府側が主張していた要求のほとんどそのままであった。すなわち、この提言は反政府派の要求をすべて取り入れたうえで自らの主張として再構成したものにほかならなかったのである[100]。この提言は、最終的に以下の3大綱領としてまとめられた。

  1. 条約を改正して平等の位置をとるは、我が政府の従前及び将来の目的なり。
  2. 現在調印済みの条約案は、これを修正して、もって平等完全の位置に近づくを要す。
  3. 修正の要求が行われなければ、むしろ従前の位置に存するも欠点の条約を締結せず。その間改正の手順を中止して、もって将来に我が目的に達すべきの機会を待つべし。
狼藉事件を起こした第2代総理大臣黒田清隆

すなわち、条約を改正して対外的に平等の地位を獲得するのは、それ以前からの日本の目的だったはずであり、一時は欧化主義に流れたもののそれは最終的な到達点ではなく、将来についても常に明治維新の精神に立ち戻って、その目的を忘れないことが大切であること(1.)、大隈の改正で調印済みとなった条約案も平等条約に復するべく修正が必要であること(2.)、条約改正を急がず、欠点のある条約を急いで締結するよりは、完全平等のきちんとした条約をむすぶ機会を待つべきである(3.)ということであった[101]

しかし、「将来外交之政略」の策定は1889年(明治22年)12月15日夜の黒田清隆狼藉事件の原因のひとつになった。この事件は、井上馨が大隈の条約改正交渉の際、改正の是非に関する議論にかかわるのを好まず、10月にいたるまで東京を離れていたにもかかわらず、首相黒田の辞任後も留任要請を受けて三条内閣の閣僚となり、今また条約改正失敗後の新方針策定に井上の名があるという一連の事態について黒田が激怒し、泥酔したうえ井上馨宅に乱入して狼藉をはたらいたというものである[102]。前首相で元勲第一号の黒田の不行状は政府部内でも問題とされ、黒田は謹慎した。井上馨もまた、この年の12月24日に正式に第1次山縣内閣が発足する前日(23日)、農商務大臣の地位を辞任している[103]

なお、明治天皇は、12月18日、側近の佐々木高行に対し、後継内閣の大臣選任については天下にひろく人材を求めるべきことを各大臣に伝えた旨語っている[103]

青木周蔵の交渉と大津事件の衝撃

第1次山縣内閣・第1次松方内閣の外相青木周蔵

井上・大隈の両外相期の条約改正交渉は、英国を中心とする列国の圧力および日本国内の自由民権派・国権派を中心とする反対の板挟みにあって難航をつづけた[4]。しかし、シベリア鉄道の着工を計画し、極東進出政策を推し進めようとするロシア帝国に対しイギリスが警戒感を強め、グレート・ゲームにおける極東の防波堤としての日本との友好関係を重視するようになったため、従来の苦境が打開されて改正交渉にも転機がおとずれた[4]。英国としては、イギリス艦隊の威力の及ばない内陸部を通じて、ロシアが東アジアに大軍を輸送しうる状況、そして仏・独・露の提携に対してイギリスが極東で孤立する状況を怖れたのである[1][104]

日本政府もまた、井上・大隈の交渉失敗を受けて、改正交渉姿勢の抜本的な見直しを迫られた。1889年(明治22年)12月、第1次山縣内閣の外務大臣として前外務次官であった青木周蔵が就任した。すでにこの年2月には憲法が発布され、翌1890年には第1回衆議院議員総選挙帝国議会の開設が予定されていた。新しい政治体制のもと、青木外相は大隈改正案の失敗にかんがみ、法権に関しては完全平等をめざすことに転換して、

  1. 外国人判事はいっさい任用しないこと。
  2. 法典編纂公布は約束しないこと。
  3. 治外法権撤廃後は日本在住の外国人は日本の国法にしたがうこと。

などを「青木覚書」と称してまとめ、これを基本方針として条約改正交渉に臨んだ。「青木覚書」は「将来外交之政略」と大体において同じであったが、2点において若干の修正を施した[105]。1つは、「将来外交之政略」においては治外法権の撤廃と引き換えに外国人に不動産所有権をあたえるとしていたものを改めて、外国人の不動産取得に関しては条約に定めず、別途必要に応じて国内法によって定めるとしたことであり、2点目は、外国人に日本人と同様の地位をあたえることに関し、その権利に若干の制限を設けるとしたことである[105]。これらは、国権をまもれという世論に配慮したものであると同時に明治政府の土地政策のあり方とも強い連関を有していた[106]。青木覚書は、1890年2月、閣議で承認された[107]。政府はまた、これを枢密院にも内示して、その了解を得ている。

青木は、従来イギリス政府が大隈案にすら同意しなかったのに、自分がこのような方針で交渉にあたることは「たとえ事業の成功は未だ必ずしも期すべきにあらずとするも、此(この)際、進めて談判に地位を占め、曽(かつ)て失えるの国権を寸時も早く恢復するに勉めざるべからず。之を惰(おこた)るの如きは、実に明治創業の大旨に負(そむ)くものなりと確信」するとして、駐日イギリス公使ヒュー・フレイザーとの交渉を進めている[108]。フレーザー公使は当初、従来の交渉の基礎をまったく覆すことになる新提案を本国に取り次ぐことはできないとして青木提案をはねつけたが、イギリス側は駐英日本公使を通じて日本の新提案を基礎とする交渉に応じる意志のあることを伝えたので、2月28日より日英の正式交渉がはじまった[109]

いっぽう政府は西欧的原理にもとづく法典の整備を急ぎ、1890年(明治23年)中に裁判所構成法、治罪法(現在の刑事訴訟法)、民法民事訴訟法商法などが次々に公布された[35]。この年の7月1日の第1回総選挙は、イギリス公使夫人メアリー・フレイザーen)からは「平穏無事に」おこなわれ、日本人は「lawful (法にかなう)国民」と評されるほどだった[110]が、これに前後して、「内閣・枢密院包摂体制」が大隈の条約改正問題の際にみられたように難題の発生に対し必ずしも有効ではなく、むしろ混乱の元凶となったことが検討に付された。第1議会開催直前の1890年(明治23年)10月7日、新しい枢密院官制に内閣からの諮詢がなくては枢密院会議を開催できないことが盛られ、内閣・枢密院の両者は明確に分離の方向へと進んだ[111]

金子堅太郎に条約改正に関するさまざまなアドバイスをあたえたトーマス・アースキン・ホランド1860年の写真)

ところで、このころ欧米諸国を歴訪した金子堅太郎は、1889年11月、ウィーンで会った法学者ローレンツ・フォン・シュタインから、日本で発布された憲法の「周緻精確なること」はヨーロッパ諸国の憲法より格段に優れていると評され[112]、フランスの元老院議長秘書ルボンからも「日本憲法は精巧なる編纂なり」と称賛されており、全体的に日本の法制に対して好意的な評価を受けている[113]。イギリスでは、オックスフォード大学教授トーマス・アースキン・ホランドから、従来、イギリス人がアジア・アフリカの人びととの結婚は無効判決が下されていたものの、この年2月にはロンドンで日本在留英国人と日本婦人との結婚を許可する判決が下された件が例示され、イギリスの対日感情は他の東洋諸国と比較して「明らかに異なっている」と評された[114]。いずれも、すでに憲法を制定し、文明開化に努力している日本が欧米諸国より高評価を得つつあることをあらわしたものであり、条約改正の好機であることのサインであると見なされた[115](金子堅太郎の活動については後述「金子堅太郎と国際公法会」節参照)。

条約改正交渉は最大の難関とみられたイギリスから開始されたが、予期に反してイギリスの対日外交が軟化を示し、1890年7月中旬、日本側の新提案に対応した条約案を提示した。伊藤博文の「条約改正意見」(『伊藤博文秘録』収載)には「多年我ニ信ヲ置カザリシ英国モ、近時ニ至リヤヤ我ノ国論ヲ是認セントスルニ意向ヲ明言スルニ至リ」の文言がある[116]。こうして交渉は急速に進展するかにみえた[4]。 1891年(明治24年)に入ると1月22日には元田永孚、2月18日には三条実美が相次いで死去し、宮中派の影響力はしだいに弱まっていった[117]。こうして、政府がいよいよ国会と対峙しようという時期に、期せずして、内閣を中心とする統治の求心力が制度的に高まっていたのである[117]。1891年4月には、イギリス案に対する日本側の対案が閣議で決定された[118]

1891年に来日したロシアのニコライ皇太子上野彦馬長崎で撮影)

しかし、1891年(明治24年)5月6日成立の第1次松方内閣で青木が外相に留任した矢先の5月11日、シベリア鉄道の起工式に出席する途中来日したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖遊覧を終えたとき、滋賀県大津において、警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられて軽傷を負うという大津事件が起こった。起工式は6月にウラジオストクでおこなわれる予定であった。

ニコライが京都で加療することになったとき、即日松方内閣は御前会議を開き、痛惜の念を表明する勅語を発し、医師団を急行させた[119]。青木外相、西郷内相、翌日には天皇みずから京都へ赴き、親しく皇太子を見舞った[120]

日本政府は日露関係の悪化を憂慮して大審院特別法廷をひらかせ、皇族に関する刑法(大逆罪)を準用して犯人を死刑にするよう干渉した[注釈 22]。このとき、政府だけではなく最も多くの人びとが首肯したのは、津田三蔵を死罪にすべきという意見であり、現行法で死刑にできないのであれば緊急勅令で処刑すればよいというものであった[121]。明治天皇は5月19日、神戸に停泊中のロシア軍艦に出向き、乗艦して再度病床のロシア皇太子を見舞った。また、ロシア皇太子に申し訳ないとして5月20日京都府庁門前で切腹した畠山勇子のような女性もいた[122]

これに対し、大審院長児島惟謙は政府の干渉を退け、津田を無期徒刑に処して、近代的法治国家における司法権の独立をまもった。これは英米などからは高く評価されたものの、事件前、在日ロシア公使のシェービッチに対して、万一のことが起こった場合は皇室に関する刑法の準用を約束していた青木外相は、その責任をとって5月29日に辞任し、条約改正交渉はまたもや中断を余儀なくされた[123][注釈 23]

榎本武揚外相と法典論争

青木周蔵の後任外相となった榎本武揚

青木の辞任後、第1次松方内閣の外相となったのは、かつて特命全権大使として樺太千島交換条約(1875年)の締結に尽力した榎本武揚であった。榎本は、青木改正案を高く評価して、ほぼ同様の手法で列国と交渉、条約廃棄さえ選択肢に含めて交渉にのぞんだ。1892年(明治25年)にはポルトガルとのあいだで、領事裁判権撤廃にこぎつけた[4]

榎本外相は、「条約改正断案」において、青木の改正案をイギリスが大部分承諾した原因としてロシアのシベリア鉄道起工がイギリスの東アジアにおける特権を奪う利器になりうることに求めており、外務省顧問のデニソンも榎本の意見を支持してイギリスとの条約改正の好機であると進言した[124]

しかし、この年の5月2日に開催された第3議会は、榎本の猛反対にもかかわらず、貴族院衆議院とも商法・民法など諸法典の実施延期を可決した(→ 「法典論争」 参照)。この議会においては、むしろ条約改正交渉を後回しにしてもよいから、まずは重要法案の根本的な修正が必要であるとの意見が多数を占めたのであった。そして、日本の伝統を重視する保守派のみならず、進歩的な英米法系、また、大陸法のなかでもドイツ法系の学者なども巻き込んで一時は政治対立の様相をみせるほど論議は加熱した[35]

第3議会は1892年6月15日に閉会、松方内閣は時局収拾の力なしとして8月8日総辞職した[35]

金子堅太郎と国際公法会

前掲した英オックスフォード大学教授のホランドは訪英中の金子堅太郎に対し、

  1. 不平等条約の締結から今日にいたるまでの日本外交のあゆみや国際法上の関係などを詳述した歴史書を出版すること。
  2. 日本は何をもって不平等・不利益としているかを新聞や雑誌に掲載するため欧米各国のマスメディアに通信し、当該問題に関する論説を掲載させるよう働きかけること。
  3. 日本政府はイギリスの国会議員と連携し、イギリス議会において政府に対して、日英間の諸条約から生ずる両国の不利益や日本人の条約改正への努力などを質問させるなど、絶えずイギリス政府とイギリス国民にこの問題への注意を喚起させること。
  4. 欧米において国際公法学者が設立した国際公法会に、日本人も入会して会員となり、日本の公法上の関係や将来の方針などを記した冊子を発行し、その実際について報告すること。

など、条約改正を実現するための詳細なアドバイスをあたえている[125]

日露戦争では日本の広報活動を担当した金子堅太郎

金子はホランドの提言にしたがい、国際公法会に入会を申し込み、1891年(明治24年)9月に準会員に認められ、金子はアジア人として初の入会者となった[126]。金子はまた、同年12月にホランドより、翌年開催される総会に出席して日本の各種法典ならびに欧米列強との条約を国際公法会に寄贈し、さらに第12問題委員会(非キリスト教国の司法制度が欧米の制度とどれだけ近づいているかを調べる委員会)の委員となることを国際公法会に申し入れるようアドバイスを記した書簡を受け取った[126]。金子は、松方首相、榎本外相、田中不二麿法相、伊藤枢密院議長および井上馨に対し国際公法会への参加許可を内申、1892年(明治25年)6月の閣議で承認された。閣議承認の翌日、明治天皇はこれに関心をもち、侍従長を通じて国際公法会の概要と金子の出席理由などを下問した[127]。金子の詳細な報告書を受けた天皇は金1,000円を下賜した[128]

1892年(明治25年)9月、金子はスイスジュネーヴでの国際公法会に出席、会頭は9日の会議で金子に意見を述べることを許可した。金子は憲法以下の諸法典や統計を提出し、日本の制度に関する調査に着手して会の意見を公表することを希望する旨の演説をおこなった。午後の会でホランドが日本の調査をただちに始めるよう提案、その結果、全会一致で他の東洋諸国の司法制度とは切り離して日本の制度の調査の特別委員会を設けることが議決された[129]

1892年11月、金子は帰国し、明治天皇の拝謁を賜った。金子はまた、伊藤首相への報告書を作成して種々の機会で成果を発表した[130]。報告のなかで金子は、日本政府の法治主義への信頼を高めるため、欧文の議院年報などを刊行して各国外交官へ贈与し、欧文の憲法・諸法典の各国政府・政府機関への寄贈、著名な学者の招聘およびかれらのよる調査報告書の出版、日本公使の精選、欧米のメディアへの広報、日本公使による対議員工作の実施などを提言している[131]

陸奥宗光と日英通商航海条約の調印

1892年(明治25年)8月に成立した第2次伊藤内閣は、別名「元勲内閣」と呼ばれ、山縣・黒田・井上・大山ら元老がそろって入閣した実力派内閣であった。伊藤首相は、外務大臣にかつてメキシコとのあいだに対等条約を結んだ実績をもつ陸奥宗光をむかえた。翌1893年1月ハワイ王国では親米派によるハワイ事変が起こり、王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使が日布修好通商条約の対等化を申し出た。政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は同年4月に改正条約を締結した。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約となった [132]。なお、この頃、伊藤博文が条約改正交渉を再開するにあたって起案した上奏文には、西洋文明を受容し欧米列強の仲間入りを果たすことこそが国家レベルにおける「独立不羈」のなかみであって、不平等条約中の治外法権条項を撤去することがその条件であるという認識が示されている [133]

第2次伊藤内閣の外相陸奥宗光

陸奥外相は、1893年(明治26年)7月5日の閣議に条約改正案を提出し、同19日に明治天皇の裁可を得た。その内容は、陸奥自身によれば「全く明治十三年我政府提案以来の系統を一変し、純然たる互相均一の基礎を以て成りたる対等条約」であり、1883年(明治16年)の英伊通商航海条約を範としたものであった。その改正案は、

  1. 条約実施期を調印後5年とし、その間に重要諸法典を公布施行せしむること。
  2. 諸条約国との一般的協定税率を排斥し、英・米・仏・独4か国からの重要な輸入品58品目について4か国だけと協定すること。
  3. 内地開放後、旧居留地の外ばかりではなく旧居留地内においても外国人による土地所有を許可しないこと。

を主たる特徴としていた[134]

交渉方針としては、大隈・青木と同様、国別談判方式を採用し、日本と最も利害関係の深いイギリスから交渉を開始した。陸奥は、駐独公使に転任した青木周蔵元外相を条約改正委員に任じて駐英公使をも兼務させ、交渉の任にあたらせた [135][136]。しかし、陸奥が全面対等主義にもとづいて交渉にあたろうとしていたとき、世論より現行条約励行運動が提起された。徳富蘇峰主筆『国民之友』は、1893年(明治26年)5月23日号において、日本人が真の平等を勝ち取るためには国民的な運動によって現行条約を「正当」に励行しなければならないと主張し、さらに、現行条約の励行が外国人にとっても不合理であることを悟らせ、外国の側から条約改正を求められてこそ対等条約が実現するであろうと論じたのである[137]。これは、この年の2月15日に自由党が提出した条約改正上奏案が衆議院秘密会で審議され、内地雑居の是非が審議された結果、135対121で上奏案が可決採決されたことに対する「内地雑居尚早派」側の危機感を背景としていた[136]

1891年に着工したシベリア鉄道ウスリー川付近での建設の様子。1895年

1893年11月28日、第5議会がひらかれると、12月には国民協会大日本協会・立憲改進党らによって対外硬六派が形成された。対外強硬論はもとより国権論的主張と軌を一にしたものであるから、今度は条約改正にともなう外国人の内地雑居を認めるかどうかの問題となり、排外主義的な一面を有する[138]。明治20年代の後半になると、居留地外でも外国人の活動が緩和されていたが、それをもう一度厳しくして不便な思いをさせよという趣旨であった[138]。12月19日、対外硬の六派は衆議院において「条約励行建議案」を上程し、あわせて「外国条約執行障害者処罰法案」と「外国条約取締法案」という2つの附属法案を同時提出した[139]。伊藤内閣との提携を模索する星亨らの自由党のみは、この大同団結には加わらなかった[138]。政府はこうした議会の動きに対し、10日間の停会を奏請した[135]

国民協会は、1892年に西郷従道前海相や品川弥二郎前内相が下野し、会頭および副会頭となって組織された政治団体であった[137]。また、大日本協会は、内地雑居時期尚早論を唱えてこの年の10月に結成された政治結社であり、自由党の準与党のようになっていた立憲改進党も少数派となったため、従来の外交政策を転換して国民協会と一緒になって現行条約励行論を唱えた[137]。対外硬六派は陸奥と星を主敵として、伊藤内閣と自由党に対して対決姿勢をとった[140]。さらに、「条約励行建議案」上程に前後して、イギリス公使館付の牧師ショウが日本人に殴打されるという事件が起こり、イギリスは改正交渉の中止を通知するに至った[135]

12月29日、停会あけの衆議院において陸奥は、「歴史的大演説」[注釈 24]と称される演説をおこなった。それは、日本が明治維新以来開国主義を国是とし、開化・進歩してきたあゆみを振り返り、「忍耐力があって進取の気性に富んだ国民だけが気宇壮大な外交方針を大胆に採用できる」と主張したものであり、暗に他のアジア諸国の事例を持ち出し、「排外主義的感情論から些事で虚勢を張って外国と紛糾し、結果として国辱を受けることもある」と説いて、「帝国議会が条約励行論のごとき鎖国攘夷の建議案を持ち出して条約改正に支障をあたえることは許されざることである」と強く非難して議会に反省を求めた[135][141]

しかし、議会は上程案撤回の意志を示さなかったので、政府は翌30日衆議院を解散するという強硬手段に出た。第3回衆議院議員総選挙は翌1894年(明治27年)3月1日に実施され、政府を支持する自由党が81名から119名に躍進して対外硬派は全体では議席を減らしたものの、自由党は過半数を獲得することができなかった[142][注釈 25]。伊藤は、天皇に対し、この選挙に際して政府は第2回総選挙のようにならぬよう、決して選挙に干渉せず、ただ政党の軋轢が国民に災禍を及ぼさぬよう法律を定めてこれを防止するにとどめることを説明した[143]。ただし、政府は議会解散直前に大日本協会の解散を命じ、建議案提出の硬六派の説明を聞かないまま衆議院を解散した経緯があり、これは条約改正促進のための対外的な効果をねらったものではあったが、国内的には貴族院において近衛篤麿ら反伊藤勢力が台頭して硬六派に加勢し、それまで不倶戴天の敵であった貴族院・衆議院が連繋したため、政府は再び苦境に立たされた[142][144]

同年5月15日、第6議会が開会された。5月17日には硬六派が第5議会解散責任の追及、現行条約励行の要求、千島艦事件の追及を骨子とする上奏案を衆議院に提出したが、自由党の反対により144対149の僅差で否決された[145]。その後議会は紛糾したが、政府は6月2日には第6議会も解散して条約改正の実現に並々ならぬ強い決意をもって臨んでいることを内外に示し[135]、あわせて朝鮮半島への日本軍の派遣を決定した。なお、これに先だつ陸奥外相が青木駐英公使にあてた同年3月27日付の私信には、反政府運動の高揚によって苦境に立たされた政府が人心を回復するには「人目ヲ驚カス事業」[146]が必要だと記されていたが[142]、「人目ヲ驚カス事業」とは、具体的にはこの朝鮮への派兵のことであり、のちに「陸奥外交」といわれる川上操六参謀次長との連携しての開戦外交であった[142]。陸奥は『蹇蹇録』第9章で、次のように述べる。

元来日本帝国が欧米各国と現行条約の改正を商議する事業と、今余が筆端に上れる朝鮮事件とは元来何らの関係もあらざることは無論なるも、凡(すべ)て列国外交の関係はその互いに感触する所すこぶる過敏にして、わずかに指端のこの一角に微触するあれば忽(たちま)ち他の関係甚(はなは)だ遠き一隅に饗応するの例甚だ多し。即ち朝鮮事件が一時如何に日英の改正事業に重大なる影響を及ぼさんとしたるかは…(後略)[147]

19世紀後半のイギリス外務省(1866年
1894年7月16日調印の日英通商航海条約

イギリスとの交渉は、青木公使とベイテイ外務次官とのあいだで1894年4月2日に再開された。居留地における土地所有権、新条約発効期日、関税協定などに関しては交渉が難航した[135]。また、イギリス側は、日本がロシアやフランスと接近しているのではないかとの疑惑をいだき、新たに利権の獲得などを求めた一時期もあったが、日本側は内地開放こそが最大かつ唯一の譲歩であると反論した[148][注釈 26]。また、新条約実施まで認められる英国船の港間貿易函館港を加えるよう求めたが、日本側は入港実績のない港を港間貿易に加えるわけにはいかないと反論、これにはイギリス側も譲歩した[149][注釈 27]。また、青木は陸奥の指示により、日本は外国人の土地所有権は認めないが永代借地権は最大限尊重することを条約のなかで明記し、不公表とはするものの、国内諸法典が発効するまでは条約は効力を発しないとの意志を伝えた[135]

かくして日英通商航海条約が1894年7月16日、ロンドンのイギリス外務省において青木公使とイギリス外相キンバーリー伯両全権とのあいだで調印された[注釈 28]日清戦争の開戦(宣戦布告は8月1日)の約半月前のことであった。日英新条約調印の電報を受けとるや、陸奥はすぐさま斎戒沐浴して皇居に向かい、その旨明治天皇に報告した。また、イギリス外相に感謝の意を伝えるよう、ロンドンに打電している[150]

調印の際キンバーリー伯は、「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っている[135]

その後の日本政府は、新条約調印直後の7月19日から日清開戦を目標にした作戦行動を開始し、20日には朝鮮政府に対して、清国を宗主国とあおぎ、その保護を受ける宗属関係の破棄などを求める最後通牒をつきつけ、23日には朝鮮王宮を占領、25日、仁川南西方の豊島沖合いで清国艦隊を攻撃(豊島沖海戦)、29日には忠清道天安市天安郡で最初の陸上戦を戦った(成歓の戦い)。

政府は8月25日東京で日英新条約の批准書を交換し、27日公布した。つづいて各国(条約国15か国)とも同様の条約を調印した[注釈 29]。日英新条約を間髪入れずに公布したのは、もはや既成事実であるとして議会からの介入の余地をあたえないためであった[135]

公布直後の8月28日付『時事新報』では、福澤諭吉が「純然たる対等条約、独立国の面目、利益に一毫も損する所なきもなれば今回の改正こそは国民年来の希望を達したるものとして、国家のために祝せざるを得ず」との社説を掲げ、日英新条約に讃辞を送っている[151]。10月18日、大本営広島大本営)の置かれた広島で開催された第7臨時議会では、各派各党とも政府に協力し挙国一致の体制となり、新条約に関する追及や批判はほとんどなかった[135]

なお、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したといわれている[1]。日本が後顧の憂いなく戦争に突入することができたのは条約改正のおかげだったのである[152]。清国に対しては、1895年(明治28年)の下関条約1896年(明治29年)の日清通商航海条約で清にとって不平等な内容の条項が盛られた。一方で日英の親密な関係は北清事変後の1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟への布石となった。

1894年に結ばれた新条約の発効は1899年からとし、5年の準備期間の間に日本は法制を整備し、内外雑居の用意をすることとなった[152]。1896年(明治29年)11月12日、改正条約発効の準備のために改正条約施行準備委員会が発足した。委員長は樺山資紀内相、副委員長は枢密顧問官田中不二麿であり、委員には小村壽太郎、金子堅太郎目賀田種太郎をはじめとする各省局長・次官クラスの官僚その他計22名が任命された[151]

日英通商航海条約により、日本は領事裁判権の完全撤廃を成し遂げ、治外法権の束縛から解き放たれることとなり、たがいに内地を開放しあって、居住交通所有・経済活動を認めあい、また、最恵国約款は相互的となって、日本はアジアで最初の欧米諸国と法権上の対等国となった[153]。税権は、一律5パーセントの関税率が15パーセントに引きあげられたものの、従来の一般的協定税率を廃し、特定重要輸入品38品目についてのみ協定税率をのこすこととなった。特定重要輸入品は品目数こそ少ないが、輸入額中の比率が全体の3分の2以上を占めたため、新しくむすばれた片務的な関税協定によってむしろ大幅な制限を受けることとなった。ただし、新条約によればその有効期間は12年間で、11年を経過すれば廃棄通告をおこなうことができ、その1年後には自然に消滅させることができる規定となっていた[135][154][155]

改正条約の発効は1899年(明治32年)7月17日(ただしフランスとオーストリアは同年8月4日)からであり、これにより外国人居留地が廃止され内地雑居が実施された。ときの内閣は第2次山縣内閣、外務大臣は青木周蔵であった[152]

小村壽太郎と税権の回復

第2次桂内閣の外務大臣小村壽太郎

関税自主権の回復もふくめた条約改正が完全に達成されるのは1904年(明治37年)に始まった日露戦争において日本が強国ロシアに勝利して国家の独立をより強固にし、1905年(明治38年)のポーツマス条約満州善後条約などによって国際的地位が格段に高まったのちのことである。日露戦争後、日本と列強のあいだに交換される外交官も公使から大使へと格上げされている[注釈 30]

1911年7月16日は英・独・伊など10カ国との、同年8月3日は仏・墺両国との通商航海条約満期日にあたっていた[135]。1909年(明治42年)8月、第2次桂内閣は条約完全改正の方針を閣議決定し[156]、翌1910年(明治43年)には外相小村壽太郎が条約の規定にしたがって、満期日の1年前にあたることからアメリカを含む13か国に廃棄通告をおこなった[135]。国家主義者であった小村壽太郎は、欧化主義者の陸奥宗光に引き立てられた人物で、日清戦争前後には清国駐在公使として、いわゆる「陸奥外交」を支えた外交官であり、1902年(明治35年)には日英同盟の締結に尽力し、ポーツマス条約では外務大臣・全権大使としてロシア全権セルゲイ・ヴィッテとのあいだの難しい交渉をおこなったことで知られる。

改正交渉は1910年1月にイギリスとの交渉が開始され、4月からはアメリカ合衆国との交渉がおこなわれて列国との交渉がつぎつぎに始まった[156]。日本における立憲政治の充実が海外にも知られ、日本の法体系への不信感も薄れていたので、列国との交渉は比較的順調に進行した[156]

陸奥宗光の手になる条約では、英独仏3国について、イギリスの綿織物毛織物鉄鋼その他鉄類、ドイツの染料薬品、フランスの化粧品ワインなどの重要輸入品に対しては従価1割程度の片務的な関税協定を許し、他の諸国は最恵国条款にもとづいて均しくその利益を享受しえたのに対し、日本から主要3国への輸出品については単に最恵国待遇を受けるだけであった[135]。小村外相はこうした片務的な協定税率の改正をめざしたほか、今なお残る日本にとって不利な条項の一掃をはかった[135]

第11代・13代・15代内閣総理大臣桂太郎

小村によれば、条約改正は、列強と対等な地位にあって、もっぱら利益交換の趣旨にもとづいて交渉をおこない、最恵主義・互恵主義に立った条約の締結を目的としたものであり、首相桂太郎もまた、専任の大蔵大臣をおかず首相兼任として小村の条約改正をみずから全面的にバックアップした[135]。イギリスとフランスは小村の方針に異議を唱え、日本国内の一部においても同盟国であるイギリスに対して厳しすぎるのではないかという意見もあった[135]

日米通商航海条約の日本側全権であった駐米大使内田康哉

1911年(明治44年)2月21日、ワシントンD.C.において、駐米日本大使内田康哉とアメリカ合衆国国務長官フィランダー・C・ノックスen)とのあいだに、関税自主権回復を規定した改正条項をふくむ日米通商航海条約が調印され、4月4日に発効した[157]。1894年にむすばれた旧通商航海条約では、アメリカ政府は日本移民の入国旅行居住について差別的な法律を定めることができるとされていたが、その規定は改正条約では撤廃された。ただし、改正条約調印に際して日本側は、アメリカに対し、日本人労働者のアメリカ移住について過去3年間実施してきた自主規制を今後も継続することを確約し、新条約にはその旨の覚書を添付している。

イギリスとは相互関税協定を結び、4月3日に外務大臣エドワード・グレー加藤高明駐英日本大使とのあいだで改正通商航海条約が結ばれ、7月17日に発効した[158]。ドイツとは6月24日に日独通商航海条約を、フランスとは8月19日に日仏通商航海条約を調印したが、英・独・仏・伊とのあいだには34品目において双務的な協定率をのこしている[159]

ここに日本は名実ともに独立国家となって列強と完全に対等な国際関係に入ることとなった[135]。このとき、マシュー・ペリー黒船来航により、日本が開国してから、56年余の歳月が経過していた。

影響と歴史的意義

条約改正によって、日本は開国以来半世紀を経て、立憲制度と東アジア地域で最強となった軍事力を背景に、列強と対等の地位を得た。条約改正は、日本が欧米列強の支配する世界に編入されたときから、政府にとっては悲願ともいうべき基本政策であった[160]

明治時代を代表する政治家伊藤博文

特に不平等条約中の治外法権条項は国家の独立を損なう大きな障害となっており、伊藤博文は、領事裁判権撤廃後の1899年(明治32年)5月の山口県下関市での講演において「いわゆる国権恢復とは即ち新たに国際上独立の地位を得ると云ふことである」と述べており、それ以前の日本は純粋な意味での独立国ではなかったとの認識を示している [133]主権の一部である司法権が外国によって束縛された国家は、国家としての自己完結性を発揮することができない点で不全な国家だった[133]

それゆえ、明治政府にとって、すべての政策が条約改正のためという面を強く有していた[160]。条約改正はまた、たんに屈辱条約を撤廃しようというだけではなくて、日本の国力の基礎としての経済力の充実の問題と密接につながっていた[9]。このように、条約改正事業は日本の近代化、国力の伸張の一側面としても理解されたため、国内治安の維持や法制改革も並行して推し進められたのであり、外交上の最優先課題とされたのであった。ここに、のちにアジア主義へとつながっていく民間の理想主義に対して、明治政府首脳部が一貫してとった現実主義の外交姿勢が確認できる[9]

陸奥宗光によって法権を回復した日本は、小村壽太郎によって税権の束縛をも脱し、欧米諸国と完全に対等の関係を樹立しえたが、これは、非キリスト教国としては画期的な成果であったといえる[135]。それを可能にしたのは、それぞれの外交担当者の粘り強い努力や極東をめぐる国際情勢の変化はもとより、日本における民主主義の成長や資本主義の発展を基礎としていた[161]。青木周蔵は、最初の対英覚書において、立憲制度と治外法権とは到底両立しうるものではないとの認識を示しており、榎本武揚も外相時代に立憲政体の下に治外法権の存在することは許さないと述べている。憲法発布後、枢密顧問官となっていた寺島宗則は、青木・榎本の言を引用して即時完全対等条約を主張しており、伊藤博文もまた、国会開設後は国民の要求を満足させることのできない条約は結びえないと記している[162]。ここにおいて日本が、いたずらに外国人への排斥的行動に出ることなく、一貫してあくまでも外交上合法的なかつ粘り強い交渉努力によって、劣悪な国際法上の地位を一歩一歩着実に向上させていったことの意味は見落とせない[163]

経済面では、1880年代末にはいわゆる「資本の原始的蓄積」を完了し、90年代には産業資本主義の基礎が確立して、少なくとも日本国内においては、欧米資本主義と対等に競争しうる環境が整っていた。このような眼前の事実が、国内の商工業者に内地開放に対しても自信をもたせ、それと引き替えに法権・税権を回復しようという要求、また、そうすることによって自国内市場を完全に確保しようという要求が起こった[164]。このことについて、歴史学者の井上清は「日本人は近代民族として、政治的にも経済的にも、1890年代には、もはや不平等条約というかせをうち破らねばやまないまでに成長してきた」と表現している[165]

かくして条約改正は、国内的には、1899年に外国人に居住・旅行の自由と営業の自由とを認める「内地雑居」の状況を生み出した。日本国民と比較してきわめて大きな経済力をもち、習慣や思想を異にする外国人が日本人のあいだに入ってきて自由に生活し、生産活動や経済活動に従事することは、従来の日本社会に一大変革をもたらす大問題であり、いわば「第二の開国」であった[166]。この時期の労働問題はじめ社会・経済の問題を扱った著作としては横山源之助『内地雑居後之日本』が著名である[166]

課題として残されたのは、永代借地権であった。これは、日本人と同じ条件のもとで所有権をあたえるよりも実は深刻な問題をのこした。というのも、借地ないし地上の建物に対する、あるいはこれらを標準とする税金国税地方税問わず一切課税できなかったからである[167]。こうした外国人保有地は、1903年(明治36年)段階で横浜、神戸、東京、大阪、長崎各市で総計48万8,553坪におよんだ。永代借地権を完全に解消する協定が成立したのはようやく1937年(昭和12年)にいたってのことであり、それが実施にうつされたのは、さらに5年後のことであった[167]

世界史的にみれば、日本と同様、列国と不平等条約をむすんでいた中国(中華民国)がその束縛から解き放たれたのは1943年(昭和18年、民国32年)にいたってのことであった[135][注釈 31]蒋介石率いる中華民国では、穏健着実で現実路線を採りつづけた日本とは対照的に、政府みずから現行条約の非合法性をかかげて外国の諸権益の即時奪還を主張し、国権回復運動という民族主義的エネルギーを動員する急進的ないし理想主義的な方法が採られたのである[163]

そして、先進国後進国とのあいだで法的差別が完全に撤去されたのは、第二次世界大戦の終わった植民地解放後のことであった[2]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 日本外交史辞典』(1992)では、条約改正を「幕末から明治初年にかけて、日本が欧米諸国と締結した不平等条約を平等条約に締結し直そうと試みた明治政府の一連の外交交渉」と定義している。『国史大辞典』(1986)では「明治政府の締結した北ドイツ連合・オーストリア=ハンガリーなどとの諸条約も安政の諸条約と同様の不平等条約であった」と記されている。臼井(1986)p.637
  2. ^ 不平等条項のうち、片務的最恵国待遇の規定はマシュー・ペリー再来航時の嘉永7年(1854年)に結ばれた日米和親条約にさかのぼる。
  3. ^ 領事裁判権と居留地制度については、一説には、一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請ともいわれている。川島・外務省『条約改正経過概要』(1993)p.35
  4. ^ エドワード・ミラーの推計によれば、開国後の自由通商開始から1881年(明治12年)までの約四半世紀で、日本はそれまでの千年間に蓄えてきた金銀のほとんどすべてを外国に流出させてしまうこととなり、その額は当時の価格で3億ドル(現在の価格になおすと300億ドル程度に相当か)に達したといわれている。岡崎(2009)p.286
  5. ^ 幕府外国掛老中小笠原長行が慶応3年12月23日(1868年1月17日)にアメリカ合衆国公使館書記官ポートメンにあたえたもの。建設資材の輸入はすべて無税とすること、開業後も日本は税を徴収しないこと、運賃は米英のそれより25パーセント以上高額にならぬようにすることなど植民地的な取り決めがなされていた。井上(1955)p.9
  6. ^ 幕府海軍奉行榎本武揚らが建てた独立政権(蝦夷共和国)がプロイセン人ゲルトネルにあたえたもの。井上(1955)p.9
  7. ^ 佐賀藩が高島炭坑経営に英国人トーマス・ブレーク・グラバーのグラバー商会を参加させ、開発資金をグラバーから借り入れ炭坑を担保にしていたのが新政府に債務としてひきつがれたもの。グラバーの権利はオランダ企業にひきつがれていたのを1873年に日本政府は債務を完済し、炭坑を回収した。井上(1955)pp.14-15
  8. ^ 駐屯軍撤退は明治政府が1869年以来再三にわたって英仏に要求してきたが実現できなかった。それが1875年に英仏側からなされたことについて、井上清は、岩倉遣外使節団の間接の成果と論じ、廃藩置県徴兵令学制発布、地租改正などにより新政権の体制が整備されたことによるとしている。井上(1955)pp.16-17
  9. ^ ロベルト・コッホによってコレラ菌がコレラの病原体として発見されたのは、1884年のことである。
  10. ^ 日本が海港検疫権を獲得するのは1899年(明治32年)の条約改正の実施を待たなければならなかった。伊藤(1977)p.40
  11. ^ 「鹿鳴」の名は中国の古典『詩経』に由来する。
  12. ^ 官庁街計画はその後中止されたが、すでに着工されていた裁判所と司法省はそのまま建設され、当時の司法庁の建物は現存している。鈴木(2002)p.286。なお、パリを手本とした井上馨の首都改造計画には明治天皇も強い関心を示したといわれる。藤森(2004)
  13. ^ 1884年(明治17年)8月7日の天皇・皇后も参加する宮中での最初の洋式の夜会では、オットマール・フォン・モールの夫人ワンダが宮内省雇用されることが決まり、宮中の服制や宮廷儀式の欧風化が進められた。これは、皇室からなされた条約改正交渉への側面援助であった。その際、皇后の果たした役割は大きく、洋装や鹿鳴館バザーを率先しておこない、外国人の謁見にあたっても天皇に同席するなどして宮中の国際化を支えた。鈴木(2002)p.304
  14. ^ コントルダンスとは歴史的舞踊「カドリーユ」の古称である。森(2006)p.16
  15. ^ この頃、福沢諭吉も持論であったキリスト教排撃論を撤回し、「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」との論説を発表するに至った。坂本(1998)p.311
  16. ^ 小村壽太郎は、杉浦重剛千頭清臣長谷川芳之助ら国粋主義者とともに乾坤社同盟という政治研究団体をつくり、井上案をこの団体に周知させたうえで国民から反対運動をおこさせようとした。井上(1955)p.114
  17. ^ 1886年(明治19年)10月横浜から日本人乗客23名をのせて神戸に向かったイギリス船ノルマントン号が、暴風によって紀州沖で座礁沈没した事件。船長ジョン・ウイリアム・ドレーク以下船員27名は乗客をさしおいて全員ボートで脱出、日本人乗客は全員死亡した。この事件で神戸駐在イギリス領事ツループによる海難審判は船長以下の無罪を宣告したため、日本の世論は激昂した。政府は改めて兵庫県知事の名で横浜領事裁判所に船長を殺人罪で告発したが、ハンネン判事は船長に過失致死罪による3か月の禁錮刑の判決を下したのみで、死者への賠償もなかった。藤村(1989)p.82および田中正弘(1990)p.444
  18. ^ 他の2つは、言論の自由の確立と地租軽減による民心の安定であった。
  19. ^ 大隈重信の秘書官として改正条約案の立案や外国公使との会見交渉をおこなった加藤高明はこの時期の自らの活動を『条約改正日誌』に記しており、大隈外相時代の条約改正交渉の詳細が知られる重要な史料となっている。
  20. ^ アジア最初の憲法としては、1876年に発布されたオスマン帝国の「オスマン帝国憲法」(通称「ミドハト憲法」)があったが、2年後の1878年に憲法停止となった。
  21. ^ 大隈重信が来島のテロで失った右脚は、日本赤十字社中央病院に保存されていたが、1999年平成11年)、佐賀市の大隈家の菩提寺龍泰寺に安置された。
  22. ^ このとき、陸奥宗光は、刺客を雇って津田三蔵を暗殺し、病死と発表してしまえばよいと主張した。御厨(2001)pp.219-220
  23. ^ ロシア皇帝アレクサンドル3世は、日本の裁判所は当然津田を死刑判決を下すものと思っていたという。その場合、日本が死刑といってきたら、ただちに犯人の助命と無期懲役への減刑をロシア側から懇請し、それを受けるかたちで日本が無期懲役にするシナリオを考えていた。ロシアとしては、そうすれば日本に対し、外交上いっそう優位な立場に立てると踏んでいたとみられる。御厨(2001)p.223
  24. ^ この演説の評価は内外ともに高く、イギリスの臨時公使代理は、陸奥宛書簡で「貴下の演説は貴政府の進歩的政策が誠心誠意のものであることを十分主張することができよう」と書き記している。岡崎(2009)p.306
  25. ^ 国民協会は80名から26名に激減、改進党はなおも48名を擁し、対外硬6派を併せれば過半数を上まわる勢力を蓄えていた。海野(1992)p.52および御厨(2001)p.276
  26. ^ イギリスの政府委員バルチーが、ロシア・フランスが日本に対して政略的な譲与(たとえば貯炭所の建設)を求めたら、日本としてはどうするか青木に質問している。それに対し、青木は「露・仏がそれを請求するのであれば英国もまた請求する権利をもつだろうが、そのような無法の請求をする国に対してはロシアであれフランスであれ、他のどんな国であれ、日本は全土を焦土としても抵抗するであろう」(大意)と応答している。井上(1955)pp.219-220
  27. ^ 函館は、外国船の入港実績がせいぜい年に2,3回程度であったので、日本にとってはここを開港場として諸施設を営む煩瑣さに耐えられなかったために反対したが、イギリスはここをシベリア鉄道開通後の極東において必要のさいはロシアと対抗する基地に利用しようと考えて開港間貿易場とすることを主張した。6月21日には、陸奥宗光も函館もふくめて開港間貿易をゆるしてもよいと青木に訓令した。井上(1955)pp.221-222
  28. ^ イギリス外相キンバーリー伯は、朝鮮国駐在の大鳥圭介公使がイギリスより派遣された軍事教官コールドウェル少尉の解雇を朝鮮政府に迫ったことと、日本軍が仁川の外国人居留地を経由して軍用電信線を敷設したことを理由にいったん調印を拒んでいるが、青木公使は前者については調査を約束、後者については「やむを得ざること」と釈明したうえで陸奥外相の判断をあおいだ。調査が期限に間に合わないことが明白であった陸奥は、「一個英人を解傭するために今倫敦において垂成の大業を一朝に破却すべき謂れを見ず」(『蹇蹇録』)と判断して軍事教官の件について「その事実なし」と回答するよう青木に命じて事なきを得た。佐々木(2002)pp.123-124および陸奥宗光『蹇蹇録』pp.122-125
  29. ^ アメリカが1994年11月22日、イタリアが同年12月1日、ロシアが1895年6月8日、ドイツが1896年4月4日、フランスが同年8月4日、また、ベルギー(1月4日)、ペルー(1月10日)、ブラジル(2月23日)、スウェーデン(5月25日)、オランダ(9月17日)、スイス(9月19日)、スペイン(9月21日)、ポルトガル(10月29日)の各国が1897年中に、オーストリアが同年12月5日にあいついで新条約に調印している。佐々木(2002)p.125および『明治ニュース事典Ⅴ』(1985)pp.276-278
  30. ^ 1905年12月2日、ロンドンの在英日本公使館が昇格して大使館となったのが最初であり、初代駐英大使に任命されたのは日英同盟締結に功のあった林董であった。「外務省ってどんなところ?」(外務省公式Webサイト)
  31. ^ 中華民国では、1931年以降は国定税率による輸出入税が導入されるようになったものの税関管理の職務には外国人を雇用していたため、関税自主権が名実ともに中国の手に回復されたのは中華人民共和国成立以後のことといえる。加藤(2004)

出典

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外部リンク