野球の背番号

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背番号 > 野球の背番号

 本項では野球の背番号(やきゅうのせばんごう)について解説する。

概要

背番号は、選手の識別のためにユニフォームの背中に大きく入れる数字のことである。チームにより、胸のところに小さく同じ数字を入れるところ、まれに袖にも数字をつけることがある。

背番号は1833年シンシナティのチームが要求したことに起源をもつが、これは文書化されるに至らなかった[1]。その後、1916年にクリーブランド・インディアンズがユニフォームに初めて番号を入れたが、それは袖の位置に番号を入れるものであった[1]。野球で最初に背番号が使われたのは1929年ニューヨーク・ヤンキースである[1][2]

日本の野球

少年野球

統括団体によっても異なるが、少年野球は、10番が主将、30番が監督、2928コーチ(場合によっては27がコーチになることも)など、一部選手(および指導者)の役割により規定で背番号が定められている場合が多い。

高校野球

初めて日本の野球で背番号がつけられたのは、1931年(昭和6年)の第8回選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)である。同じ年の第一回日米野球でも背番号がつけられた。

高校野球の場合には、出場枠に応じて1番から始まる背番号(例えば18番まで)を使用する。概ね、正選手には、投手の1番から右翼手の9番まで守備番号に対応した番号が与えられる。

しかし、必ずしも背番号と守備番号が一致していなくてもよい。

大学野球

監督の背番号は東京六大学野球連盟など14連盟では30が、東都大学野球連盟関西学生野球連盟など10連盟では50東京新大学野球連盟では53関西六大学野球連盟では60と定められている。東都大学野球連盟では、2011年の1年間だけ連盟結成80周年を記念して80を監督の番号としている(翌年からは従来通りの50に戻っている)。

コーチの背番号も連盟によって異なり、4050をつける連盟、5152をつける連盟などがある。

東京六大学野球連盟など19連盟では10が、東都大学野球連盟など7連盟では1が、主将の番号と決められている。

その他の番号の付け方は大学によっても特徴があり、たとえば早稲田大学野球部では「6が正捕手で9は欠番(試合中の事故で亡くなった東門明選手を偲んだ)」「明治大学硬式野球部は高校野球風に番号付与し、シーズン中でも頻繁に背番号が変更される」「法政大学野球部はおおむね1ケタ番号は内野手・10番台は投手・20番台が外野手」など様々である。

日本プロ野球

歴史

監督の背番号

1950年代頃まで、各チームとも選手・スタッフの数は30人以下であり、監督が最大の背番号30を背負うチームが多かった。選手の数が増えるにつれ監督・コーチの背番号は大きくなり、現在は70-80番台が多く用いられている。

長嶋茂雄3)、山本浩二8)、村山実11)など、監督に就任後、自らの永久欠番を復活させたり、王貞治1)、金本知憲6)、広瀬叔功12)、高橋由伸24)など、監督就任後も現役時代の背番号を引き続き背負った例がある。また、長嶋茂雄の33原辰徳88落合博満66のように現役時代の背番号を2つ重ねるケースも見られる。

メジャーリーグベースボール

導入までの経緯

今でこそユニフォームに背番号が付いているのは当たり前の風景であるが、初めて背番号を採用したのは1929年のことである。1876年に始まったメジャーリーグベースボールでは選手達は実に50年以上背番号も名前も付いていないユニフォームでプレーしていた。

しかし観客にとってはそれほど不便でもなかった。球場ではスコアカードが販売され、選手ごとに番号が振られておりスコアボードにその番号が掲示されていたため、観客はカードと照会して選手を判別していた。そのためスコアカードは観戦の必須アイテムであり球団の重要な収入源でもあった。

しかしホームチームの番号は固定されているものの、ビジター選手の番号は毎回バラバラの番号でありビジターファンにとっては不親切であった。個別に番号をユニフォームに表示しようという試みもすでに19世紀末に行われてはいたが、スコアカードの収入が失われるなどの経済事情などから定着するに至らず、また選手からも「番号を振られるのは囚人みたいだ」と敬遠された。ちなみにカレッジフットボールでは1910年代に既に番号を導入しており野球界はずっと遅れていた。

初めての大きな試みは1916年クリーブランド・インディアンスが袖番号を導入したことである。しかし袖では数字が小さすぎるなど不評が多かったためすぐに廃止された。1924年にはセントルイス・カージナルスが年間を通じて袖番号を導入、打順に応じて番号が振り当てられ、1番打者のマックス・フラックが1番、4番打者のロジャース・ホーンスビーが4番、5番打者のジム・ボトムリーが5番と割り振られた。エースのジェシー・ヘインズは31番だった。

初めて正式に背番号を採用したのは、1929年のニューヨーク・ヤンキースである。当時の背番号はカージナルスの袖番号同じく1番打者が1、2番打者が2という風に、8まで打順通りに割りふられていた。そして、その頃は捕手が8番を打つことが多かったので、8が捕手の番号となり、9は控え捕手に与えられた。そして投手は、11 - 21までの番号をつけることになった。ヤンキースはホーム・ロード共に背番号を付け、インディアンスもホームのみで背番号を採用したが3番打者のアール・アベリル中堅手)の背番号は5であったことから打順もポジションも関係なく付けられたと思われる。

同年4月6日の開幕日はヤンキースの試合は雨で中止、一方インディアンスはホームでデトロイト・タイガースと試合をしたため、史上初めて背番号を付けて試合をしたチームはインディアンスということになる。

早速1930年ワシントン・セネターズが導入、翌1931年にはアメリカンリーグが全球団に背番号を採用するよう通達した。この通達には「13番は避けるように」との一文もあった。同年中にア・リーグ8球団中7球団が背番号を採用した。一方フィラデルフィア・アスレチックスコニー・マックオーナー兼監督はスコアカード収入が減ることを嫌がりロードのみ背番号を着用していたが、結局1937年に全面採用した。

一方ナショナルリーグでは1932年ボストン・ブレーブスが採用。同年6月のオーナー会議で全球団採用が決まった。ヤンキースが背番号を採用してわずか4年足らずで全球団のユニフォーム(アスレティックスのホームを除く)に背番号が付けられた。

さらに1952年にはブルックリン・ドジャースが胸番号を採用、1960年にはシカゴ・ホワイトソックスが背番号の上部に選手名を入れ両者ともたちまち広まった。しかしいち早く背番号を導入したヤンキースは胸番号も名前も一切入れていない。1975年ヒューストン・アストロズはズボンにも番号を付けている。

関連項目

脚注

  1. ^ a b c 平川陽一編『今さら誰にも聞けない500の常識』廣済堂文庫 p.218 2003年
  2. ^ a b 背番号伝承力『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/26, 5頁。
  3. ^ 8月6日に祈る永遠の平和…ピースナイターで広島全員が背番号「86」(2/3) - サンケイスポーツ 2015年8月7日

参考文献

  • Now Batting, Number...: The Mystique, Superstition, and Lore of Baseball's Uniform Numbers
  • ベースボールマガジン2002年夏号 「日本プロ野球を彩ったユニフォーム&背番号」
  • 同 2006年夏号「背番号の美学 受け継がれる魂」