村井仁

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村井 仁
むらい じん
生年月日 (1937-03-28) 1937年3月28日(87歳)
出生地 長野県木曽郡木曽福島町(現・木曽町
出身校 東京大学
前職 工業技術院総務部部長
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
(自由民主党→)
無所属
称号 経済学士(東京大学・1959年
公式サイト 元長野県知事村井仁の公式ウエブサイトへようこそ

公選第17代 長野県知事
当選回数 1回
在任期間 2006年9月1日 - 2010年8月31日

内閣 第1次小泉内閣
在任期間 2001年4月26日 - 2002年9月30日

選挙区長野県第4区→)
長野県第2区→)
比例北陸信越ブロック
当選回数 6回
在任期間 1986年7月8日 - 2005年8月8日
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村井 仁(むらい じん、1937年3月28日 – )は、日本通産官僚政治家

衆議院議員(6期)、国家公安委員会委員長内閣府特命担当大臣(防災担当)長野県知事などを歴任した。

来歴・人物

長野県木曽郡木曽福島町(現・木曽町)出身。羽田孜の側近として自由民主党新生党新進党と行動をともにしたが、後援会の要請により自民党へ復帰した。

郵政民営化の旗振り役で、党郵政民営化推進委員会の役員をしていたが、「政府案では、民業圧迫になりかねない」との理由で、2005年7月5日郵政国会衆議院本会議で反対票を投じた。9月11日第44回衆議院議員総選挙には、自民党の公認を得られないため、立候補を断念。引退後は自民党長野県連顧問に就任。

2006年8月6日投開票の長野県知事選挙に、自由民主党・公明党の両長野県本部の推薦で立候補し、現職の田中康夫を破って当選した。同年9月1日より長野県知事に就任。長野県知事選挙告示前日の7月19日に自由民主党を離党し無所属の形を取っているが、現在も[いつ?]自民党長野県連とは蜜月の関係が続き事実上のトップとされている[誰によって?]

長野県知事

「反田中」の組織・団体では県知事選挙の告示直前まで候補者選びで迷走を続けていた。特に田中を排除したい自民党にとっては選挙に勝利することが最重要課題であった為、一時は民主党との共闘を視野に入れるなど手段を選ばない候補者選定となったが、長野県内のみならず全国的に知名度の高い田中を前にして、次々と打診した意中の人物に断られる中、2005年の郵政造反で国政から引退せざるをえなくなった村井に白羽の矢が立ち県知事選挙に立候補。結果「反田中」の得票を集め、長野県知事選挙では史上初めて現職を破って初当選した。

長野県知事に当選後は、田中県政の象徴的存在である県庁舎1階「ガラス張り知事室」には入らず、県の中枢組織「経営戦略局」廃止などを次々打ち出す一方、“個々の河川の整備状況を見ながら考える”と早急なダム建設回帰には慎重な姿勢を表明した。しかし、「脱ダム宣言」の事実上の撤回、を行う。そして長野オリンピック招致での会計帳簿が焼却処分され紛失していた件で、田中県政時代に設置していた調査委員会について、村井は「今になり特定の個人や団体の罪をあえて暴こうとする作業は建設的なことではない」として調査を打ち切った。村井自身は田中の県政運営を強く批判しており、知事就任後の県議会では「県政の後戻りってのが何を意味するのか、逆に私良く分からない」と発言し、2007年県庁仕事始め式では、挨拶の中で「透明度のある決定過程があったと思う方もいるが、決定過程も実は独裁に過ぎなかった」と新年早々に田中を批判するなどしている。

後述の政治資金問題などもあり再選は目指さず、任期満了により2010年8月31日に退任した。

批判

かねてから田中元知事を礼賛してきた評論家の勝谷誠彦は、「利権談合共産主義土建屋の手先だ」と自身のブログで村井を辛辣に非難し、村井当選の翌日に出演した日本テレビスッキリ!!」においてこの話題が取り上げられた際に「あの程度の県民にはあの程度の知事でいいんですよ」と田中を落選させた有権者を批判し、「妙薬は口に苦しだから、効き目が現れるまで田中知事のやることを我慢して受け入れるべきだ」と田中を擁護するコメントをしている。そして田中支持者を自認する田原総一朗からも2006年11月12日放送のテレビ朝日サンデープロジェクト」に田中がゲスト出演した際に、村井について「時代錯誤の行政を行っている」「借金体質を復活させようとしている」と痛烈に非難し、「どうして県民はこんな人を選んじゃったの?」と有権者に対して不満を漏らしていた。

失言

  • 2007年2月16日の定例会見で、記者からHIV感染者が増加する現状について質問された際に、「(エイズは)特別な仕事に従事している人たちの間で非常に感染度が高いと承知している」と述べ、「エイズ=性産業」と短絡的に結び付けた発言を再三に渡り繰り返した為、専門家等から「特定の人が感染するという誤解を与えかねず、認識不足」「HIVを性産業の問題ととらえると、市民の間に『自分たちには関係ない』という意識を醸成させてしまう」などと多くの批判を受けた。[1]
  • 大分県で発覚した教員採用試験汚職に関連して、2008年7月16日の定例会見などで村井は、長野県の県議会議員や国会議員などに採用試験の合否を事前に知らせていたことを認めた上に、「まあこれは社会常識として、社会通念上許容されることではないかな、と私は思います」と、採用試験の口利きを容認したと受け取られかねない発言をしている。[2]

政治資金

西松建設事件捜査の過程で、準大手ゼネコン西松建設から政治資金パーティー券の代金を受け取っていたことがわかっている。「政治資金規正法上、適切に処理している。返還すべきとは認識していない」として、代金返還を否定している。また、この事件を巡っての東京地検特捜部による事情聴取が行われた直後に、側近であった元秘書右近謙一が不可解な自殺を遂げている。

家族

弟は和光大学教授の村井紀

略歴

1937年3月28日:出生。

1955年3月長野県松本深志高等学校卒業。

1959年3月:東京大学経済学部卒業。

1959年4月通商産業省入省。

入省同期に、山本幸助(通産省産政局長)、畠山襄通産審議官ジェトロ理事長)、末木凰太郎(経企庁調整局長、日本電子計算機社長)、見学信敬(中小企業庁長官)など。

1986年1月6日工業技術院総務部長を最後に、通商産業省を辞職。

1986年7月6日第38回衆議院議員総選挙(旧長野4区・自由民主党公認)当選。

1991年11月6日大蔵政務次官宮澤内閣)就任。

1992年12月26日:大蔵政務次官退任。

1999年10月5日金融再生総括政務次官(小渕第2次改造内閣)就任。

2000年4月5日:金融再生総括政務次官(第1次森内閣)再任。

2000年7月4日:金融再生総括政務次官退任。

2000年12月6日:金融再生総括政務次官(第2次森改造内閣)就任。

2001年1月6日内閣府副大臣第2次森改造内閣)就任。

2001年4月26日国家公安委員会委員長内閣府特命担当大臣(防災担当大臣)第1次小泉内閣)就任。

2002年6月11日国務大臣の職務に【食品安全委員会(仮称)担当】が加えられる。

2002年9月30日:国務大臣退任。

2003年11月9日第43回衆議院議員総選挙(衆議院比例北陸信越ブロック・自民党公認)6期目当選。

2006年8月6日:長野県知事選挙(無所属・自民党および公明党の県組織推薦)当選(※ 現職候補を破っての初当選は公選制に移行した1947年以来同県では初である。)。

長野県知事選挙 (投票率:65.98%)
当落 得票数 候補者 党派 前歴 推薦・支持
612,725 村井 仁 無所属 新人 自民党県連・公明党県連・連合
534,229 田中 康夫 無所属 現職

脚注

関連項目