大村清一
大村 清一 おおむら せいいち | |
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生年月日 | 1892年5月4日 |
出生地 | 日本 岡山県津山市 |
没年月日 | 1968年5月24日(76歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法科大学独法科 |
前職 | 内務官僚 |
所属政党 |
(日本自由党→) (民主自由党→) (自由党 →) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等瑞宝章 法学士 |
親族 | 子・大村襄治 |
第2代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1955年3月19日 |
第71代 内務大臣 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年5月22日 - 1947年5月24日 |
選挙区 | 旧岡山県第1区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1947年4月25日 - 1958年4月25日 1960年11月21日 - 1963年10月23日 |
官選第20代 神奈川県知事 | |
在任期間 | 1938年12月23日 - 1939年9月4日 |
官選第24代 長野県知事 | |
在任期間 | 1938年1月11日 - 1938年12月23日 |
その他の職歴 | |
官選第22代 長野県知事 (1935年1月15日 - 1936年3月13日) |
大村 清一(おおむら せいいち、旧字体:大村淸一、1892年(明治25年)5月4日 - 1968年(昭和43年)5月24日)は、日本の内務官僚、弁護士[1]、政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)[2]。貴族院議員(勅選)、防衛庁長官(第2代)、内務大臣(第71代)。日本林業協会長、相模女子大学長[3]。
防衛庁長官を務めた大村襄治は子。岳父は東大名誉教授本多静六。
経歴
[編集]鹿児島高等農林学校卒業の後[5]、1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学独法科卒業[3]。同大学院修了[6]。内務省に入省。土木局属[7]。鹿児島県揖宿郡長[6]、東京市主事[6]、地方、復興局、内務[6]、鉄道各事務官[8]、内務書記官[8]、長野、神奈川県知事となり、長野県知事を2度務め話題になった[3]。
地方、警保局長、警察講習所長、社会局長官を経て[8]、1939年(昭和14年)阿部内閣の文部次官、1943年(昭和18年)日本育英会の初代理事長となる[3]。ほか、東京市助役[1]、資源局、内閣東北局、社会局、企画院の各参与[8]、長野第一健康保険審査会、同地方職業紹介委員会各会長などを歴任した[8]。
1946年(昭和21年)、内務次官に就任。同年第1次吉田内閣の内務大臣となり[2]、同年6月8日、貴族院勅選議員に勅任される[2][9]。交友倶楽部に所属し[6]1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[8]。
同年、第23回衆議院議員総選挙において岡山1区から日本自由党公認で立候補して当選した[10]。以来、当選6回。1948年(昭和23年)には兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[11]。
1954年(昭和29年)第1次鳩山一郎内閣の防衛庁長官に就任。初の「防衛力整備長期計画」を作成する[3]。ほかに衆議院議院運営委員長、同懲罰委員長、民主自由党国会対策委員長、自由民主党総務などを務めた[1]。
1968年(昭和43年)5月24日死去、76歳。死没日をもって正四位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った[12]。墓所は小平霊園。
人物像
[編集]大村は、第1次吉田内閣の大臣として日本国憲法の公布文に名前が残る一人である。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]大村家
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』139頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『第廿一版 人事興信録 上』昭和36年(1961年)、お一四六
- ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』121頁
- ^ a b 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)オ・一三二頁
- ^ 南日本新聞社・編『郷土人系 上』(春苑堂書店、1969年)369頁
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』106頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典』(東京大学出版会、2001年11月発行)218頁
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』107頁。
- ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
- ^ 『朝日選挙大観』537頁。
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第45号 昭和23年7月31日
- ^ 『官報』第12432号18-19頁 昭和43年5月27日号
参考文献
[編集]- 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年11月。
- 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年11月。
- 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月。
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)121頁。
公職 | ||
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先代 木村篤太郎 |
防衛庁長官 第2代:1954年 - 1955年 |
次代 杉原荒太 |
先代 三土忠造 |
内務大臣 第65代:1946年 - 1947年 |
次代 植原悦二郎 |
官職 | ||
先代 坂千秋 |
内務次官 1946年 |
次代 飯沼一省 |
先代 河原春作 |
文部次官 日本文化大観編修会会長 1945年 |
次代 山崎匡輔 |
先代 石黒英彦 |
文部次官 教員検定委員会会長 維新史料編纂事務局長 学校衛生調査会会長 震災予防評議会会長 国史館造営委員会会長 1939年 - 1940年 |
次代 赤間信義 |
先代 半井清 |
神奈川県知事 官選第20代:1938年 - 1939年 |
次代 飯沼一省 |
先代 広瀬久忠 |
社会局長官 1937年 - 1938年 |
次代 (廃止) |
先代 萱場軍蔵 |
内務省警保局長 1937年 |
次代 安倍源基 |
先代 岡田周造 |
長野県知事 官選第22代:1935年 - 1936年 |
次代 藤駿介 |
先代 柳田武輔 |
鹿児島県揖宿郡長 1919年 - 1921年 |
次代 酒勾弥左衛門 |
学職 | ||
先代 松平康昌 |
学校法人相模女子大学理事長 1956年 - 1968年 |
次代 山内逸造 理事長事務取扱 |
先代 松平康昌 |
相模女子大学長 1957年 - 1968年 学長事務取扱 1957年 |
次代 山内逸造 学長事務取扱 |
議会 | ||
先代 中村寅太 |
衆議院懲罰委員長 1961年 - 1962年 |
次代 大森玉木 |
先代 小沢佐重喜 |
衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 1952年 - 1953年 |
次代 森三樹二 |
先代 山口喜久一郎 |
衆議院議院運営委員長 1949年 - 1950年 |
次代 小沢佐重喜 |
党職 | ||
先代 芦田均 |
日本自由党政務調査会長 第5代 |
次代 増田甲子七 |
その他の役職 | ||
先代 三土忠造 |
土木会議議長 著作権審査会会長 地方税分与委員会会長 1946年 - 1947年 |
次代 植原悦二郎 |
先代 (新設) |
大日本育英会理事長 1943年 - 1945年 |
次代 河原春作 |
先代 (新設) |
演劇、映画、音楽等改善委員会会長 1939年 - 1940年 |
次代 赤間信義 |