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内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年2月28日 - 1971年11月19日)は明治から昭和時代中期にかけて活躍した外交官・政治家・実業家。元神奈川県知事。日本の国際連合加盟に大きな貢献をした人物として著名。群馬県前橋市出身。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。
[編集] 経歴
- 1890年 群馬県前橋市で生まれる
- 1902年 群馬県立前橋中学校(群馬県立前橋高等学校)に入学
- 1907年 東京外語学校(現東京外国語大学)スペイン科に入学
- 1912年 外務省に入省。外務書記生に任命されスペイン公使館に勤務する
- 1917年 外交官領事官試験に合格し、チリに赴任。その後、サンパウロ総領事・リオ参事官などの要職を歴任
- 1937年 アルゼンチン公使に就任
- 1943年 外務省を退官
- 1946年 官選の神奈川県知事に就任
- 1947年 神奈川県知事選に立候補のために知事を辞任し、最初の民選知事として当選(以後在任20年・5期)
- 1966年 勲一等瑞宝章を受章。長年の功績がたたえられてペヘレイがアルゼンチンから移植された
- 1971年 横浜市港北区で逝去
- 第12回全国菓子大博覧会名誉副総裁・江の島ヨットクラブ会長などの要職を歴任した
[編集] 国連加盟をめぐって
- 日本は第二次世界大戦に絡んで国際連盟を脱退し、戦争責任から国際社会に復帰できないでいたが、徐々に関係改善に成功し、国際連合加盟を目指した。ここで、ソ連をはじめとする共産圏諸国が国連加盟の障害になったことは広く知られている。しかし、共産圏以上に大きな障壁として立ちはだかったのが、日本に手痛い負けを喫して恨みを持っていた安全保障理事会非常任理事国のフィリピンだった。内山はフィリピンとの交渉の中で、日本軍が破壊したマニラの大寺院の復興を条件にフィリピン側の譲歩を狙った。この戦法があたり、フィリピン側の譲歩につながった。しかし、寺の復興に協力してくれるものはなく、内山はひとりでこの事業に従事し、1958年までかかって完成させた。
[編集] 人物
[編集] 主な論文・著書
[編集] 参考文献
- 「光あらたに 内山岩太郎先生追慕の記」
- 「横浜市史II 資料編3」