三重ノ海剛司
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2010年撮影 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 三重ノ海 剛司 | |||
本名 | 石山 五郎 | |||
生年月日 | 1948年2月4日(76歳) | |||
出身 | 三重県松阪市 | |||
身長 | 181cm | |||
体重 | 135kg | |||
所属部屋 | 出羽海部屋 | |||
得意技 | 左四つ、寄り、上手出し投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第57代横綱 | |||
生涯戦歴 | 695勝525敗1分56休(105場所) | |||
幕内戦歴 | 543勝413敗1分51休(68場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝3回、三段目優勝1回 | |||
賞 | 殊勲賞5回、敢闘賞1回、技能賞3回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1963年7月場所 | |||
入幕 | 1969年9月場所 | |||
引退 | 1980年11月場所 | |||
引退後 | 武蔵川部屋師匠 | |||
他の活動 | 日本相撲協会第10代理事長 | |||
備考 | ||||
金星5個(輪島2、北の湖1、琴櫻1、北の富士1) | ||||
2009年9月2日現在 |
三重ノ海 剛司(みえのうみ つよし、1948年2月4日 - )は、三重県松阪市出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士、第57代横綱。本名は石山五郎(いしやま ごろう)、現役時代の体格は身長181cm、体重135kg。現在は年寄・14代武蔵川、現在日本相撲協会相談役、元理事長(第10代2008年9月8日~2010年8月12日)。血液型A型。
経歴
松阪市立鎌田中学校卒業。小学校の頃はベルトを買う金もなく、母の腰巻のひもで代用していたというほどの貧窮家庭に育った。在学中に父を亡くし益々貧困に喘いだ為、力士を志した。中学卒業後は一度は就職したが相撲取りの夢を諦め切れず、出羽海部屋に入門し、1963年7月場所で初土俵を踏んだ。
入門後は二番出世で序二段に13場所もとどまるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったため期待されていなかった。それでも1967年9月場所に三段目優勝を果たしてからは幕下に定着して周囲にも期待されるようになった。1969年3月場所には十両に昇進、同年9月場所には新入幕を果たした。
入幕から6場所で小結に昇進して2横綱(大鵬・玉の海)を破り、8勝7敗と勝ち越して初の三賞(殊勲賞)を受賞した。その後概ね幕内上位に定着し、1971年11月場所に小結で11勝を挙げて技能賞を獲得してからは、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑(現放駒)らとともに大関候補とされるようになった。また、角界の将来を担うと考えられた若手を「三角大福」にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ぶこともあった。しかし、1972年後半から肝臓病が悪化し、1974年は入幕した1969年を除いて初めて1年間平幕で過ごした。その間、1974年9月場所11日目の前頭6枚目二子岳戦で引分を記録した。この一番以後、幕内の取組で引分は出ていない。
それでも1975年には回復して1月場所には平幕の地位で北の湖、輪島の両横綱を破り殊勲賞、翌3月場所にも輪島を破って連続で殊勲賞を受賞し関脇に復帰した。関脇で勝ち越しを続け、11月場所では綱取りの貴ノ花や横綱北の湖を破って13勝2敗で初めての幕内優勝を果たし、大関の座をつかんだ。
だが、新大関の1976年1月場所中に左足首を捻挫。そのケガが響いて3月・5月と2場所連続の途中休場で負け越し、3場所後の7月場所に関脇へ転落してしまった。しかし翌9月場所では関脇の地位で10勝を挙げ、1場所で大関特例復帰を果たした。1969年7月場所に「大関の地位で2場所連続負越した場合は関脇へ降格。但し降格直後の場所で10勝以上の勝ち星を挙げれば大関復帰」という、「大関特例復帰」の制度が出来ていたが、その最初の適用例だった(現在は貴ノ浪・武双山・栃東の4人が大関特例復帰を果たしている)。大関復活後も連敗癖を露呈してしばらくの間は2桁勝利すら挙げられず、2度の大関角番を経験するなど苦しい土俵が続いた。
それでも肝臓病の症状が改善した1978年ごろからは二桁勝利が増えて本来の力を出し始めた。1979年3月場所から10勝、13勝と続き、7月場所で14勝の優勝同点(輪島と優勝決定戦)の成績を挙げ横綱に推挙され、ワンチャンスで最高位をつかんだ。現在まで、大関陥落経験のある力士が横綱に昇進した唯一の例である。また、大関時代の勝率5割9分4厘は、戦後に横綱に昇進した力士としては最も低い勝率だった。昇進2、3場所目に連続優勝を果たすがその後は怪我・病気などで休場が多く、15日皆勤したのは4場所のみであった。1980年11月場所限りで現役を引退した後は年寄・山科を経て武蔵川を襲名し、出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を興した。
部屋の指導者としては横綱武蔵丸(現・振分)のほか武双山(現・藤島)・出島(現・大鳴戸)・雅山の三大関を送り出した。外国出身力士に元学生横綱と、序ノ口からの叩き上げの日本人力士でなかった点では今ひとつ評価が低いものの(他に三役力士として、共に小結の垣添=学生相撲出身・現役=、和歌乃山=「花の六三組」・退職=の叩き上げ力士も育成)、一時期は角界最多数の関取を擁し一時代を築いた。協会員としては役員待遇、監事、理事とステップアップをする。2002年の理事選では投票で湊親方(元小結・豊山)と9票で並ぶが、決選投票で湊親方を破る形で当選している。2006年2月より事業部長を務めていた。その後角界に不祥事が相次ぎ、大相撲力士大麻問題の処理を巡って北の湖理事長が辞任したことを受け、2008年9月8日に第10代理事長に就任した。
なお2007年6月16日には、2002年の北の富士(現・NHK相撲解説者)以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りを、東京・台場のホテルグランパシフィックメリディアン(現ホテルグランパシフィック・ル・ダイバ)で行った。その際に太刀持ちを務めた力士は出島、露払いを務めた力士は雅山であり、それぞれ大関まで進んだ部屋の現役力士だった。
2010年に起きた大相撲野球賭博問題を受けて設置された特別調査委員会からは、弟子の雅山が野球賭博に関与し謹慎となり、その責任を取り(名古屋場所千秋楽)7月4日から7月25日、までの謹慎を勧告され、それを受け入れた為、7月4日理事長代行として村山弘義を立てている[1]。7月19日には高血圧で既に1週間前より入院していたことが判明し[2]、その後も胃癌の手術を受けるなど復帰の見通しがたたず、8月5日に復帰するまで村山がそのまま代行を続投した[3][4]。8月12日午前に開かれた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には放駒輝門が選出された[5]。
2010年9月30日に年寄名跡は交換せずに部屋付き親方であった藤島武人に部屋を継承する形で、武蔵川部屋は藤島部屋と新たに名称が変更され、武蔵川は部屋の最高指導者の座からは退いた。
2012年2月、日本相撲協会相談役に就任。
略歴
- 1963年7月場所:初土俵。
- 1967年9月場所:三段目優勝。
- 1969年3月場所:十両昇進。
- 1969年9月場所:新入幕。
- 1970年7月場所:新小結。
- 1970年9月場所:新関脇。
- 1975年11月場所:初優勝。場所後、大関に昇進。
- 1976年5月場所:大関で2場所連続負け越したため(この場所は途中休場)、大関から関脇へ陥落。
- 1976年7月場所:関脇の地位で10勝を挙げ、翌場所大関特例復帰を果たす。
- 1979年7月場所後:横綱に昇進。
- 1980年11月場所:3日目に引退。年寄・山科を襲名(同場所後、武蔵川に名跡変更)。
- 2007年6月16日:還暦土俵入り。
- 2008年9月8日:日本相撲協会第10代理事長就任。
- 2010年8月12日:日本相撲協会理事長辞任、相撲教習所長に就任。
- 2011年2月:相撲博物館館長代行兼務。
取り口・合い口など
- 前廻しを引いての速攻が得意。ときには張り差しを見せることもあった。非力で身長・体重も平凡だったが、巧みな前捌きで相手に力を出させずに勝つ相撲を身上とした。「相手はまだこれからと思っているうち、いつのまにかに土俵を割ってしまう」ことから「妖気のただよう」土俵ともいわれた。また同じ出羽海部屋の大先輩で、あの大横綱双葉山を69連勝でストップさせたヒーロー、第37代横綱の「安藝ノ海二世」と言われたこともある。
- 第53代横綱・琴櫻とはすべて大関昇進以前の対戦だったが分が良く、対戦成績は11勝7敗。琴櫻が横綱に昇進するまでは9勝3敗であった。また、この時期は大関戦の勝利が多く「大関キラー」の異名があった。
- 第54代横綱・輪島との対戦成績は16勝27敗。1977年9月場所までは6勝25敗とお客さん扱いだった。だが、大関角番だった11月場所、狂ったような張り手の連発で脳震盪を起こさせて寄り切り、立ち直りのきっかけとなった。以後の輪島戦は10勝2敗(決定戦を除く)と圧倒している。
- 第55代横綱・北の湖との対戦成績は13勝26敗。大関昇進の頃までは北の湖にとって苦手の一人とされ、対戦成績も互角であったが、1976年11月場所から15連敗と歯が立たなくなった。その間1978年1月場所、北の湖に対し奇策猫騙しを敢行したが失敗に終わった。だが、1979年5月場所には32連勝中の北の湖に立合い変化しての上手出し投げで16場所ぶりの勝利を挙げ、北の湖にとっては連勝ストップの痛い黒星となった。
主な成績
通算成績
- 通算成績:695勝525敗1分56休 勝率.570
- 幕内成績:543勝413敗1分51休 勝率.568
- 大関成績:180勝123敗12休 勝率.594(戦後の横綱の中で大関時代の勝率は最も低い。)
- 横綱成績:55勝23敗30休 勝率.705
- 幕内在位:68場所
- 三役在位:15場所(関脇12場所、小結3場所)
- 大関在位:21場所
- 横綱在位:8場所
- 連勝記録:24(1979年11月場所8日目~1980年3月場所初日)
- 連続6場所勝利:77勝(1979年3月場所~1980年1月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:14場所(1977年11月場所~1980年1月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:9場所(1978年9月場所~1980年1月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:3回(全勝1回)
- 三段目優勝:1回(1967年9月場所)
三賞・金星
- 三賞:9回
- 殊勲賞5回
- 敢闘賞1回
- 技能賞3回
- 金星:5個(北の富士1、琴櫻1、輪島2、北の湖1)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1963年 (昭和38年) |
x | x | x | (前相撲) | (前相撲) | 東序ノ口30枚目 4–3 |
1964年 (昭和39年) |
東序二段102枚目 4–3 |
西序二段81枚目 3–4 |
西序二段98枚目 2–1–4 |
東序二段112枚目 5–2 |
東序二段57枚目 3–4 |
西序二段66枚目 3–4 |
1965年 (昭和40年) |
西序二段88枚目 5–2 |
東序二段39枚目 2–5 |
東序二段61枚目 5–2 |
東序二段8枚目 3–4 |
東序二段13枚目 4–3 |
西三段目88枚目 5–2 |
1966年 (昭和41年) |
東三段目52枚目 1–6 |
西三段目83枚目 2–5 |
東序二段10枚目 3–3–1 |
東序二段23枚目 5–2 |
東三段目80枚目 5–2 |
東三段目39枚目 4–3 |
1967年 (昭和42年) |
東三段目30枚目 5–2 |
西幕下98枚目 4–3 |
東三段目27枚目 5–2 |
東幕下57枚目 3–4 |
東三段目5枚目 優勝 7–0 |
東幕下11枚目 3–4 |
1968年 (昭和43年) |
西幕下15枚目 3–4 |
東幕下18枚目 4–3 |
西幕下13枚目 4–3 |
西幕下8枚目 4–3 |
西幕下6枚目 2–5 |
西幕下16枚目 6–1 |
1969年 (昭和44年) |
東幕下5枚目 6–1 |
東十両12枚目 9–6 |
西十両7枚目 10–5 |
東十両3枚目 9–6 |
東前頭11枚目 8–7 |
東前頭5枚目 8–7 |
1970年 (昭和45年) |
西前頭3枚目 4–11 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭6枚目 11–4 |
西小結 8–7 殊 |
西関脇 6–9 |
西前頭筆頭 5–10 |
1971年 (昭和46年) |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭4枚目 5–10 |
東前頭11枚目 10–5 |
西前頭3枚目 7–8 |
東前頭4枚目 10–5 敢 |
西小結 11–4 技 |
1972年 (昭和47年) |
東関脇 8–7 |
西張出関脇 8–7 |
西張出関脇 9–6 |
東張出関脇 5–2–8[6] |
東前頭筆頭 4–11 |
東前頭7枚目 8–7 |
1973年 (昭和48年) |
西前頭3枚目 11–4 殊★ |
西小結 10–5 技 |
西関脇 8–7 |
西関脇 4–11 |
西前頭2枚目 8–7 ★ |
西前頭筆頭 4–11 |
1974年 (昭和49年) |
東前頭6枚目 8–7 |
西前頭3枚目 8–7 |
東前頭筆頭 5–9–1[6] |
西前頭5枚目 5–10 |
西前頭10枚目 11–3 (引分1) |
東前頭2枚目 5–10 |
1975年 (昭和50年) |
西前頭6枚目 10–5 殊★★ |
東前頭筆頭 11–4 殊★ |
西関脇 9–6 |
東関脇 8–7 |
東張出関脇 11–4 |
東関脇 13–2 殊技 |
1976年 (昭和51年) |
東大関 8–7 |
西大関 2–6–7[6] |
東張出大関 2–8–5[6][7] |
西張出関脇 10–5[8] |
東張出大関 9–6[9] |
東張出大関 8–7 |
1977年 (昭和52年) |
東張出大関 8–7 |
西張出大関 8–7 |
東張出大関2 5–10 |
東張出大関2 8–7[7] |
西張出大関 7–8 |
西張出大関 9–6[7] |
1978年 (昭和53年) |
東張出大関 10–5 |
西大関 8–7 |
東張出大関 11–4 |
東大関 9–6 |
東大関 10–5 |
東大関 10–5 |
1979年 (昭和54年) |
東大関 11–4 |
東大関 10–5 |
東大関 13–2 |
東大関 14–1[10] |
東張出横綱 11–4 |
西横綱大関 14–1 |
1980年 (昭和55年) |
東横綱 15–0 |
東横綱 1–4–10[6] |
西張出横綱 10–5 |
西張出横綱 4–6–5[6] |
東張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 引退 0–3–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 横綱土俵入りは雲龍型を選択。土俵入りの指導は、当時の部屋の師匠だった出羽海親方(元横綱佐田の山)が行った。出羽海一門出身の横綱は総て雲龍型であり、かつ雲龍型は横綱として長く大いに活躍できると言われているが、三重ノ海の場合は横綱昇進が既に31歳と高齢だった事もあって、横綱在位場所数はわずか8場所(横綱在位場所数最短記録2位)と短命に終わった。 ちなみに三重ノ海昇進から引退まで4横綱(北の湖・輪島・若乃花(現間垣)・三重ノ海)だったが、4人とも雲龍型だった。
- 横綱昇進にあたって入門時の師匠である先代武蔵川の市川國一(元前頭出羽ノ花)から「一簣功」(いっきのこう)という言葉を贈られた。「九仞の功一簣に虧(か)く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花咲かせてみせよ」という想いがこめられたものだった。三重ノ海はこの言葉に奮起して1979年11月場所と翌1980年1月場所に連続優勝を果たし、特に1月場所は初の全勝優勝だった。彼の三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあり(「一」は露払い、「簣」は横綱、「功」は太刀持ちが着用。文字の筆を執ったのは市川國一本人)、還暦土俵入りでも使用された。
- その大師匠である先代武蔵川は、時津風理事長の急死という緊急事態で相撲協会の理事長に就任したが、弟子の三重ノ海も相撲界の連続不祥事によって辞任した北の湖理事長の後任として緊急事態を処理する形で理事長に就任し、奇しくも二代の武蔵川が相撲協会の緊急事態で理事長として采配を振るという巡り合わせとなった。
- 突然の理事長就任の際には、相撲界の綱紀粛正を徹底させる旨の発言を行ったが、これには前歴がある。武蔵丸が入門した際には、事前に半年間相撲界でやっていけるのかどうかを見極めるテストを行った。これは武蔵丸の前に入門した外国人力士の武蔵坊が高い素質を見せながら相撲界に馴染めず逃走したことへの反省という意味もあった。
- 引退当時の出羽海部屋一門には『分家独立を許さない』不文律があったが、三重ノ海については師匠(佐田の山)から独立を許され、一門内で部屋を立ち上げることができた。出羽海部屋への思いは非常に強かったようで、新築された武蔵川部屋は間取りから内装まで出羽海部屋とそっくりであったという。
- 角界には珍しく、新弟子を新聞広告で募集したことがあり、話題をまいた。
- 長男の石山俊明は本名を四股名として三段目まで昇進した元力士であり、引退後は俳優として「GTO」や「暴れん坊将軍」に出演したことがある(2008年9月14日放送のTBS「アッコにおまかせ!」での情報)。
- 2010年2月4日、第68代横綱朝青龍が度重なるトラブルにより現役引退を表明。同年3月14日の大相撲3月場所初日では、恒例の協会ご挨拶で朝青龍の引退報告と共に、武蔵川理事長自ら「大相撲を愛して下さった全ての皆様に、多大なご迷惑とご心配をお掛けした事を、心よりお詫び申し上げます」等と、異例とも言える謝罪の言葉を述べていた[11]。
改名歴
- 石山 五郎(いしやま ごろう)1963年7月場所-1966年5月場所
- 三重ノ海 五郎(みえのうみ -)1966年7月場所-1976年7月場所
- 三重ノ海 剛司(- つよし)1976年9月場所-1980年11月場所
年寄変遷
- 山科 剛史(やましな つよし)1980年11月 - 1980年11月
- 武蔵川 晃偉(むさしがわ あきひで)1980年11月-