イスタンブール

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イスタンブル
İstanbul
位置
イスタンブルとイスタンブル県の位置の位置図
イスタンブルとイスタンブル県の位置
の位置図
座標 : 北緯41度0分44.06秒 東経28度58分33.66秒 / 北緯41.0122389度 東経28.9760167度 / 41.0122389; 28.9760167
行政
トルコの旗 トルコ
  イスタンブル県
 市 イスタンブル
市長 Kadir Topbaş
公正発展党
地理
面積  
  市域 1,830.92 km2 (706.9 mi2)
標高 100 m (328 ft)
人口
人口 (2007年現在)
  市域 11,372,613人
    人口密度   6,211人/km2(16,086.4人/mi2
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 34010 - 34850(ヨーロッパ側)
80000 - 81800(アジア側)
市外局番 (+90) 212(ヨーロッパ側)
(+90) 216(アジア側)
ナンバープレート 34
公式ウェブサイト : http://english.istanbul.gov.tr/(英文)

イスタンブルトルコ語: İstanbul [isˈtanbul]、ラテン語: Constantinopolisコンスタンティーノポリス、英語: Istanbulギリシア語: Κωνσταντινούπολιςコンスタンディヌーポリ)は、トルコ共和国西部に位置する都市。日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多い。

ボスポラス海峡をはさんでアジアアナトリア半島)側とヨーロッパトラキア地方)側の両方に拡がっており、2大陸にまたがる大都市である。首都アンカラを上回る同国最大の都市であり、文化・経済の中心となっている。イスタンブル県県都でもある。2000年の人口は約880万人で、イスタンブル県全体では1000万人を越える。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,313万人であり、世界有数のメガシティといえる[1]モスクワロンドンルール地方パリに並ぶヨーロッパ屈指の人口規模をもち、2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第37位の都市と評価された[2]

その歴史は長く、かつてのローマ帝国東ローマ帝国中世ローマ帝国)、ラテン帝国第4回十字軍)、オスマン帝国の首都が置かれていた。イスタンブルの歴史地区世界遺産に登録されている。北緯41度1分7秒、東経28度57分53秒。2010年欧州文化首都だった。

都市名の経緯

本市は、古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である。

イスタンブルの名は、東ローマ帝国時代からスラブ人らが旧市街を指して呼んでいたスタンブルという地名がトルコ人にも取り入れられたものと考えられる。この名前は、一説にはギリシャ語の "εἰς τὴν Πόλιν" ,"(eis) stin poli" (「都市に」)から取られ、ギリシャ人がコンスタンティノポリスを「都市の中の都市」と呼んだことに由来するという。あるいは、Constantinopolisがつづまったstanpolという形を語源に想定する説や、イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説がある。[3]

トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの町の名称として、アラビア語で「クスタンティン(コンスタンティヌス)の町」を意味する「クスタンティニーヤ قسطنطنية (Qusṭanṭiniyya)」あるいは「クスタンティーナ قسطنطينه (Qusṭanṭīna)」が一般化されていた。「スタンブル」「イスタンブル」という名称がイスラム教圏でいつ頃から広く用いられるようになったかは定かではない。しかし、アナトリアのトルコ化がかなり進んでいた14世紀初頭に編纂されたペルシア語歴史書では、コンスタティノポリスについては「クスタンティーナ」が一般的に使用されている一方で、「イスタンブール (استنبول Istanbūl)」がその異称として用いられている例が見られ、少なくとも当時のアナトリア方面の人々の間では「コンスタンティノポリス」の異称として「イスタンブル」という名称が使用されていたことが窺える。

日本の歴史叙述では、オスマン朝がこの町を征服した1453年を境にして「コンスタンティノープル」から「イスタンブル」と言い換えるのが通例である。しかし当のオスマン朝の人々が用いた文章語であるオスマン語の上では、この町の名前は「イスラームが広まった」を意味する اسلامبول İslâmbol と綴られたり、Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)、Ummu 'd-Dunyā/Ümm-i Dünya(「世界の母」)、Dāru s-Salṭanat/Darü’s-Saltanat (「王権の館」)などとペルシア語・アラビア語で様々に美称されており、また貨幣の刻印などでは正式な都市の名称としてコスタンティニーヤのオスマン語・トルコ語形である「コスタンティニエ (قسطنطنية Kostantiniyye)」が長く使われ続けていた。

この都市の正式名称がイスタンブルに改められ、国際的にもコンスタンティノープルではなくイスタンブルと呼ばれるようになるのは、トルコ革命後の1930年のことである。なお、ギリシア語では現在、Κωνσταντινούπολη 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。

イスタンブル市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのがボスポラス海峡。海峡の南がマルマラ海で、北が黒海。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島がイスタンブル旧市街で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が金角湾。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよくわかる。

歴史

現在「旧市街」と呼ばれるマルマラ海金角湾に囲まれた、ヨーロッパ大陸から突き出した半島の先端に設けられた古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンが、イスタンブルの起源である。ビュザンティオンは紀元前667年頃にアッティカにあったメガラ市からの植民者たちによって建設されたとされている。以後は平凡な地方都市として長く続いたが、ローマ帝国末期330年コンスタンティヌス1世がここに遷都、ビュザンティオンをコンスタンティノポリスと改名した。以来1100年以上に渡り、東ローマ帝国の首都として、1453年コンスタンティノポリス陥落(トルコやイスラム世界では「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」(İstanbul'un Fethi)と呼ばれている)までキリスト教徒の都であった。預言者ムハンマドのハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブルの征服を試みた。674年から678年に、ウマイヤ朝初代のカリフムアーウィヤ時代から[4]1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。

1453年にこの町を征服したオスマン帝国メフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。コンスタンティノープルはイスラムの支配下に入り、聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)をはじめとする多くのキリスト教の教会が強制的に接収されモスクになった。

東ローマ帝国時代のヴァレンス水道橋

メフメト2世はモスクと病院、学校などをくみあわせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。さらに、被征服者のキリスト教徒ズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったので、15世紀後半の50年間にイスタンブルは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、1460年ごろから王宮としてトプカプ宮殿の建造を開始した。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。

1517年に、セリム1世カイロを征服し、マムルーク朝を滅ぼした。マムルーク朝の滅亡にともない、聖地メッカメディナをオスマン帝国の保護下に置いたことで、オスマン帝国はスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。これにともない、オスマン帝国のスルタンはイスラム世界のカリフとなり、イスタンブルはイスラム世界の最高指導者が滞在する、マッカ、メディナ、エルサレム(クドュス)に次ぐ重要都市となった。

ドルマバフチェ宮殿

各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクがつくられ、イスラム都市の伝統にのっとったモスクと公共施設が整備された。また、イスラーム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教アルメニア使徒教会教会ユダヤ教シナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人アルメニア人ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。

近代には旧市街のみならず、新市街と呼ばれるガラタ地区、ベイオール地区やアジア側のユスキュダルなどを取り込んで大都市へと発展する。とくに、ベイオール地区ではペラ大通り(現在のイスティクラル通り)に沿ってヨーロッパ各国の大使館や多国籍のホテル、レストラン、商店が立ち並び、ヨーロッパから移植された西欧文化のショーウインドウとなった。1855年には電信が開通、1871年にはヨーロッパ側に、1873年にはアジア側に鉄道が開通した。1856年には新市街にアブデュルメジト1世によってドルマバフチェ宮殿が完成し、スルタンも新市街へと移住したことで開発のテンポはさらに速まった。1883年に運行を開始したオリエント急行は、1888年にイスタンブルへの直接乗り入れを開始し、西ヨーロッパとイスタンブルは直接結ばれることとなった[5]

第1次世界大戦によって敗北したオスマン帝国はセーブル条約によって大幅な領土割譲を余儀なくされたが、これに不満なオスマン議会は国民盟約を採択し、協商国の要求に抵抗した。これを押さえつけるためにイギリス軍が武力で干渉しイスタンブールは一時占領下におかれた。しかし、ムスタファ・ケマル率いるトルコ新政府は武力で占領軍を圧倒し、1923年、前年にスルタンを廃止してオスマン帝国を消滅させ、首都機能をアンカラに移したアンカラのトルコ大国民議会は、トルコ共和国の建国を宣言[6]。これによって、イスタンブルはコンスタンティヌス1世の遷都以来、約1600年続いた帝国の首都としての地位を失った。しかし、共和国期も依然としてトルコの社会・経済・文化の中心都市として繁栄し、市域はさらに拡大を続けてボスポラス海峡の沿岸全域とマルマラ海沿岸の広い地域を含む大都市となった。


行政区分

イスタンブルの行政区分

イスタンブルは、39の区に分かれている。かつては32区であったが、2009年の地方選挙前に改変され、7つの区が増えた。人口分布を反映し、マルマラ海に面した中心街に近いエリアほど区が細分化されており、郊外に当たる黒海側は区割りが大きい。ボスポラス海峡の西側で、北を金角湾、南をマルマラ海、西をテオドシウスの城壁に挟まれた地域は旧市街と呼ばれ、かつてビュザンティオンが建設され、コンスタンティノープルとして発展した地域である。当時の市街はこの旧市街の地域に限られていた。19世紀、金角湾を北に渡った地域が新市街として開発された。

気候

温帯に属する海洋性気候地中海性気候大陸性気候が交差している特殊性で知られる。6月から8月の夏は通常高温・多湿であるのに対し、12月から3月にかけての冬は寒く、風が強く、雪が多い。

トルコの旗 トルコ・イスタンブルの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 18.3
(64.9)
24.0
(75.2)
26.2
(79.2)
32.9
(91.2)
33.0
(91.4)
40.2
(104.4)
40.5
(104.9)
38.8
(101.8)
33.6
(92.5)
34.2
(93.6)
27.2
(81)
21.2
(70.2)
40.5
(104.9)
平均最高気温 °C°F 8.7
(47.7)
9.1
(48.4)
11.2
(52.2)
16.5
(61.7)
21.4
(70.5)
26.0
(78.8)
28.4
(83.1)
28.5
(83.3)
25.0
(77)
20.1
(68.2)
15.3
(59.5)
11.1
(52)
18.4
(65.1)
日平均気温 °C°F 5.8
(42.4)
5.9
(42.6)
7.6
(45.7)
12.1
(53.8)
16.7
(62.1)
21.0
(69.8)
23.4
(74.1)
23.6
(74.5)
20.2
(68.4)
16.0
(60.8)
11.9
(53.4)
8.2
(46.8)
14.3
(57.7)
平均最低気温 °C°F 2.9
(37.2)
2.8
(37)
3.9
(39)
7.7
(45.9)
12.0
(53.6)
16.0
(60.8)
18.5
(65.3)
18.7
(65.7)
15.5
(59.9)
12.0
(53.6)
8.5
(47.3)
5.3
(41.5)
10.3
(50.5)
最低気温記録 °C°F −10.4
(13.3)
−16.1
(3)
−7.0
(19.4)
−0.6
(30.9)
3.6
(38.5)
8.0
(46.4)
10.5
(50.9)
8.2
(46.8)
5.2
(41.4)
1.0
(33.8)
−4.0
(24.8)
−9.4
(15.1)
−16.1
(3)
降水量 mm (inch) 98.4
(3.874)
80.2
(3.157)
69.9
(2.752)
45.8
(1.803)
36.1
(1.421)
34.0
(1.339)
38.8
(1.528)
47.8
(1.882)
61.4
(2.417)
96.9
(3.815)
110.7
(4.358)
123.9
(4.878)
843.9
(33.224)
平均降水日数 20 17 16 14 12 8 5 6 7 12 16 19 152
平均降雪日数 6 6 3 0 0 0 0 0 0 0 0 4 19
湿度 77 75 74 71 72 70 67 68 68 72 74 76 72
出典:世界気象機関 (国際連合)[7] Devlet Meteoroloji İşleri Genel Müdürlüğü[8] BBC Weather Centre[9]

経済

トルコ最大の経済都市であり、2005年のイスタンブル市のGDPは1330億ドルを記録した。産業面では、トルコの20%の工場雇用、38%の工場、そしてトルコの貿易の55%がイスタンブルでおこなわれている。周辺の絹やタバコ、綿花、果物、オリーブオイルといった農産物の集散地ともなっている。食品加工、織物、石油製品、ゴム、金属食器、皮革、化学品、エレクトロニクス、ガラス、機械、製紙、アルコールなどの工業があり、また自動車産業もさかんである。金融面でもトルコの中心であり、トルコ唯一の証券取引所であるイスタンブル証券取引所がある。そのほかの産業として、世界中から集まる観光客を相手とした観光業も重要な部分を占めている。

交通

ヨーロッパ側とアジア側にそれぞれ国際特急の発着する鉄道駅高速バスターミナル、国際空港があり、トルコ各地や諸外国と繋がっている。また市内交通は急速に近代化されている。

空港

アタテュルク国際空港

海外からの主要な玄関口となるのはヨーロッパ側のイェシルキョイ (Yeşilköy) にあるアタテュルク国際空港である。市街地の24km西にあり、空港には空港バス (HAVAŞ) とイスタンブールLRTが乗り入れている。観光名所の多い旧市街中心部に行くには、途中ゼイティンブルヌ (Zeytinburnu) 駅で地下鉄から路面電車 (Tramvay) に乗り換えるのが一般的である。アジア側にはF1も開かれるイスタンブール・パークサーキットの近くにサビハ・ギョクチェン国際空港があり、こちらもヨーロッパ、中東の各都市から定期便がある。

鉄道

シルケジ駅

ヨーロッパ側にはオリエント急行の終点であったシルケジ駅がある。1890年完成のこの駅は、現在ではトルコ国鉄 (TCDD) の主要駅としてヨーロッパ各地からの国際列車がギリシアテッサロニキブカレスト経由(ボスポラス急行)でここに着く。

アジア側にはハイダルパシャ駅があり、アンカラ(1日数便)やアナトリア各地に列車が発着している。また、アンカラへの高速鉄道の建設も進められている。

マルマライ計画が完成するとアジアとヨーロッパが鉄路で結ばれることになる。

道路

ヨーロッパトルコを結ぶ2本の高速道路が走っている。E5と呼ばれる古い方は都市内交通として機能しており、TEM (Trans European Motorway) と呼ばれる新しい方は主に大陸間移動の通過交通に利用されている。E5のボスポラス橋とTEMのファーティフ・スルタン・メフメト橋(第二ボスポラス橋)、2本の橋梁がボスポラス海峡のヨーロッパ側とアジア側をつないでいる。

イズミールなど各地へカーフェリーや高速船が運航されている。

市内公共交通網

イスタンブル公共交通路線図1
イスタンブル公共交通路線図2

市内交通としてライトレール地下鉄トラムケーブルカー、近郊電車、市バス、シーバスなどが運行されており、急ピッチでインフラ整備が進められている。トルコ国鉄の近郊電車の駅であるイェニカプ駅にはハフィフ・メトロ英語版(M1)とイスタンブル地下鉄M2号線英語版も延長工事中であり、マルマライ計画が完成すると、駅舎は改築され3路線の乗り換えが可能な一大ターミナルとなる予定である。しかし、掘れば必ず遺跡が出土する土地柄、工事は大幅に遅れている。

ライトレール(LRT)

全部で2路線あり、一部区間は地下を走るためハフィフ・メトロ英語版と呼ばれトラムと区別される。

  • M1・・・1989年に完成。アクサライ駅を基点にアタテュルク国際空港にまで延びているヨーロッパ側を走るLRTであり、一部は地下を走る。オトガル駅から分岐する支線もある。さらに、その先はM3、M5として延伸建設が進められている。
  • T4・・・トプカプ駅から分岐する路線で2007年に完成。元々はトラム路線として建設されたが、全体の半数近くが地下路線となり、現在はトラムよりはLRT路線としてハフィフ・メトロ扱いされることが多い。

地下鉄

イスタンブル地下鉄として2路線ある。

  • イスタンブル地下鉄M2号線英語版・・・2000年にイスタンブル初の本格的な地下鉄として新市街側のイスティクラル通りの北の終点であるタクスィム広場から北の住宅街に向けて路線が開通した。この新市街の地下鉄は金角湾をわたって旧市街に達し、イスタンブールLRTと接続する予定であり、2009年にはタクスィムからシシハーネまで1駅が延伸された。なお、この区間は急勾配となっているため、専用車両による折り返し運転となっており、従来車両が更新されるまで直通運転は見合わされる。
  • イスタンブル地下鉄M4号線英語版・・・アジア側に建設中の路線である。

トラム

19世紀に作られたトラム(路面電車)はアジア側でもヨーロッパ側でも一旦廃止され、ヨーロッパ側の旧市街地と新市街地を結ぶ地区には最新鋭のトラム(T1)が走っている。また、新市街のイスティクラール通りには観光用のノスタルジックトラムが(NT)、アジア側のカドゥキョイ地区にはレトロタイプのトラム(T3)が復元運転されている。

  • T1/T2・・・新市街トラム英語版。1992年に完成。2006年にはT2として延伸され、現在は直通運転を行っている。
  • T3/T5・・・ノスタルジックトラム英語版。T3はヨーロッパ側の新市街を、T5はアジア側に復元された観光用の旧型の路面電車である。

ケーブルカー

地下ケーブルカーのフニキュレル

地下ケーブルカーが2路線ある。

  • F1・・・2006年に完成したトラム駅やシーバス駅からタクスィムまでを結んでいる地下ケーブルカーでフニキュレル英語版と言われる。
  • F2・・・テュネルと言われ、オスマン帝国時代の1875年に開通した地下を走るケーブルカー。世界2番目の地下鉄とされることもある。

近郊電車

トルコ国鉄 (TCDD) によりシルケジ駅ハイダルパシャ駅からそれぞれ以下の2路線(B1、B2)が運行されており、マルマライ計画の完成により両路線が直結する予定である。

メトロバス

アジア側のカドゥキョイ地区からボスポラス橋を通ってアタテュルク国際空港のさらに西を結ぶ連節バスが専用バスレーンを使って運行されている。

連絡船・海上バス

海峡連絡船

海峡をまたいでアジアとヨーロッパに分かれた町であることから海上交通網が極めて発達しており、1837年以来、連絡船・フェリーや高速のシーバスは市民の欠かせない足となっている。アジア側に居住している人も通勤先はヨーロッパ側が大半だからで、両岸に設置された多くの桟橋の間を人々が行き交う。これらは現在、イスタンブル海上バス (İDO) によって運航されている。海上からは世界遺産の建物群やボスポラス橋などが眺めることが出来るため、遊覧船の代替に安価で乗船できる乗り物として観光客の乗船も多い。船内では0.5リラで名物の紅茶(チャイ)の販売がある。

その他

ドルムシュ英語版と呼ばれる乗合タクシーが広く市民の足として使われており、市内を細かくカバーする路線網がひかれている。

高等教育機関

イスタンブル大学正門

1453年5月30日マドラサとして創立されたトルコ最古の大学であるイスタンブル大学をはじめ、イスタンブル工科大学マルマラ大学など多くの大学がある。

観光

アヤソフィア
スレイマニエ・モスク
ファイル:Istiklal Avenue in Istanbul on 3 June 2007.jpg
イスティクラル通り

トルコを代表する観光地であり、世界中から観光客が多数訪れる。日本語ガイドブックや、都市としての歴史書も多数刊行されている。

これらはユネスコ世界文化遺産イスタンブルの歴史地区を構成する歴史的建造物群である。

姉妹都市

脚注

  1. ^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  2. ^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2012年4月公表)
  3. ^ http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/osman/20080219.htm
  4. ^ 「生き残った帝国 ビザンティン」p126 井上浩一 2008年3月10日第1刷発行 講談社学術文庫
  5. ^ 「オリエント急行の時代 ヨーロッパの夢の軌跡」p183 平井正 2007年1月25日発行 中央公論新社
  6. ^ 「バルカン 歴史と現在」p308-309 ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 1994年7月発行 サイマル出版会
  7. ^ Weather Information for Istanbul”. 2010年3月6日閲覧。
  8. ^ [1]
  9. ^ BBC - Weather Centre - World Weather - Average Conditions - Istanbul”. 2010年3月6日閲覧。

関連項目

外部リンク

公式
観光

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