B-24 (航空機)
B-24 リベレーター
B-24は、第二次世界大戦時のアメリカ陸軍航空軍の主力大型爆撃機。アメリカ合衆国の航空機メーカー、コンソリデーテッド・エアクラフト社(以下コンソリデーテッド)で開発、製造された。愛称は「解放者」という意味の"Liberator"(リベレーター)であった。海軍でも"PB4Y-1"として対潜哨戒任務に用いられた。
開発の経緯
1938年にコンソリデーテッド社は、アメリカ陸軍航空隊からB-17のライセンス生産の依頼を受けたがそれを断り、逆に独自の4発大型爆撃機の開発を提案して、短期間に新型機を開発した。
コンソリデーテッド社は、モデル31飛行艇を土台にモデル32案を作成した。これがアメリカ陸軍航空隊に受け入れられ、1939年2月に試作型の"XB-24"を1機受注した。これに続いて4月には、増加試作機の"YB-24"を7機、8月には量産型の"B-24A"を38機受注した。
1939年12月29日は初飛行に成功した。この時の飛行速度が440kmと低速であったため、排気タービン過給器(ターボチャージャー)装着型の"XB-24B"に改造された。引き続き前量産型の"YB-24"、およびほぼ同等の"B-24A"が生産されたが、これらの初期生産型についてはイギリスに送られ"LB-30A/LB-30B"(リベレーターI/リベレーターII)の名称で哨戒業務に就いた。
その後、アメリカ陸軍航空隊向けに生産が開始された。当初は輸送機として使われたが、1941年12月にターボチャージャー付爆撃機"B-24C"が9機引き渡され、翌年1942年1月に本格量産型となる"B-24D"が登場した。
技術的特徴
形状の特徴としては、飛行艇を主に開発していたコンソリデーテッド社らしく、高翼と上下に高い胴体(幅は比較的薄い)を持っている。当時、アメリカ陸軍の主力重爆撃機となりつつあった"B-17"は、並外れた堅牢性で高い評価を受けてはいたが、航続距離の短さが難点であった。これはイギリスを拠点とするドイツへの爆撃でも余裕は少なく、太平洋上での作戦や、以後想定される日本本土への爆撃には大きな制約となるものであった。空中戦に持ち込まれた場合でもB-29のような堅牢性を有さない隔壁は、ある程度の技量を持つパイロットが防空戦闘機隊に居た場合には簡単に撃墜される欠点は、結局1945年まで改善されぬまま量産が続けられた為にB-29配属の搭乗員からは同乗される程に、戦死の危険性が高い機種であった。太平洋戦線では、専らエンジン交換による航続距離向上のみで日本海軍ラバウル航空基地に対する空襲を執拗に行ったが、結局は返り討ちにされる出撃が多く、海軍機を知り尽くす、ベテランのパイロット揃いのラバウルを終戦まで陥落させる事は出来なかった。1944年の日本で放送された日本ニュースでは、ラバウル基地上空での零戦との戦いで、当機が爆撃を行う前に銃弾にて白煙を上げ、操縦性が低下する特性により、編隊全体で低空飛行を行い逃げ惑う行動をしながらも、結局は追い付かれ、次々と迎撃機に撃墜される記録映像が残っている。一方で欧州戦線ではかなりの戦果を上げているが、これは前線との距離が太平洋戦線に比べて短いという特徴を活かし、直掩機を多数従えた編隊構成による生存性向上効果が大きかったといわれているが、万が一対空砲火などで機体が被弾したとしても、海とは違い、運次第では不時着可能な陸地を飛んでいた事も大きな理由だとされている。
コンソリデーテッド社は航続距離を伸ばすため、主翼の翼型にはデービス翼と呼ばれる、グライダーのような細長い直線翼をモデル31から流用した。これは前後のスパンが短いため、前縁直後から急激に厚みを増す翼断面であるが、主翼内に大容量の燃料タンクを配置する点でも好都合であった。垂直尾翼は、空気抵抗を大きく増やさずに面積を稼ぐことができるとされていた双尾翼で、当時の流行でもあった。爆弾倉扉も、開放時に前面投影面積が変わらない、巻き上げ式シャッターとした。太い胴体断面を生かし、爆弾搭載量でもB-17を凌いだ。この大きな機内容積と長い航続距離の組み合わせで"B-24"は高い汎用性を持ち、対潜哨戒機や輸送機としても高い評価を得た。
生産・活躍
1942年に実戦化、太平洋戦線には11月にオーストラリアに配備され、これまで使われてきた"B-17"に代わり、主力爆撃機として運用が始まる。"B-29"が投入されるまで、太平洋戦線の主力として活躍した。
武装や製造した会社でE型、G型、H型、J型に分かれる。G型の途中から、機首に回転銃座が取り付けられ、印象が一変している。L型およびM型は軽量型になる。
製造は、コンソリデーテッド社のサンディエゴ工場およびフォートワースの他、ダグラス社のタルサ工場、フォード社のウイローラン工場、ノースアメリカン社で作られた。特にフォード社は、他の航空機会社の生産能力が1日1機であったのに対して、24時間体制によって1時間1機の"B-24"を生産した[1]。
B-24の生産数はアメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の18,431機が終戦直前まで生産され、これに海軍向けの1,000機近くが加わる。B-29の生産機数は約4,000機、B-17は約13,000機であり、これらを遥かに超え、第二次世界大戦中に生産された米軍機の中で最多となる。
主として大戦後期は太平洋戦線に投入され、1944年9月にはニューギニア基地の第5軍所属のB-24によるボルネオ・バリクパパン油田への長距離攻撃をおこなっている。また、比島作戦の援護にも参加し、1945年4月からは、中国および日本本土まで作戦域を広げ、B-29とともに戦局の終幕に重要な役割を果たした。日本本土空襲では1945年7月28日のタロア(第7爆撃団第494爆撃群第866爆撃隊所属、機体番号#44-40716、機長ジョセフ・ダビンスキー中尉)、ロンサムレディー(第7爆撃団第494爆撃群第866爆撃隊所属、機体番号#44-40743、機長トーマス・C・カートライト少尉)はじめ多くの喪失機を出し、捕虜となった搭乗員の中から原爆被爆死者も出ている(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)。
"B-24"の輸送機型である"C-87"リベレーター・エクスプレスも開発された。"C-87"はそれまでの"C-47"双発輸送機よりも優れた性能を示し、アメリカ空軍やイギリス空軍で運用された。
陸軍航空隊以外の活躍
1942年ごろから海軍は4発の長距離哨戒爆撃機の必要性を痛感していた。そこで白羽の矢が立ったのが、陸軍が沿岸哨戒に利用していたB-24である。海軍はこれを元に哨戒機型であるPB4Y-1 リベレーターを開発した。また、その発展型であるPB4Y-2 プライヴァティアは、1944年-1970年代までの長い間、主に哨戒機として使用された。PB4Y-2はPB4Y-1の運用実績をうけて、高高度飛行性能を落とすとともに防御火器を強化し、長距離哨戒任務での操縦士の負担軽減のため、航空機関士を同乗させた。また、垂直尾翼は1枚の大型のものになった。
なお、日本軍の文書ではこれらの派生型もすべて「B-24」として処理されている。
B-17との比較
B-17と比べて設計年度が新しい事により、最大速度、航続距離、爆弾積載量の全てで上回っていた。また、汎用性が高いため、生産数でもB-17を上回っている。
B-24はイギリス空軍に受けが良かった。これは初期型のB-17の低性能に失望した経験からB-17に対して良い印象を持っていなかったため、B-17よりもB-24を欲しがったと言われており、イギリス空軍が重爆撃機に要求した「ともかく大量の爆弾を、少しでも遠くに」という、爆弾運搬能力重視の姿勢も関係がある。B-24はB-17に比べると爆弾倉が大きく、性格的に英空軍の主力となったアブロ ランカスターにも似ていた。ただし、前述のとおり、アメリカ陸軍が対ドイツ戦に大量投入したB-17は、エンジンを変更したF型とG型で、持ち前の信頼性と堅牢性に加え、初期型からは性能が大きく向上しており、武装も強化されていた。
B-24の欠点としては、銃弾を機体に受けると安定性に難が有る、飛行高度がB-17より低いなどの弱点があった。また、アスペクト比の高すぎる主翼が被弾時に折れやすい上、巻き上げシャッター式の爆弾倉扉が構造的に弱く(扉開放時に抵抗の増大を抑えて速度低下を最小にするために採用された)、「クルーが誤って踏み破ってしまった」という評さえあった。特に不時着水時に爆弾倉扉が破損して機体が一気に水没する危険があり「B-17に比べて脆弱」と運用側の評価は芳しくなかった。B-17であれば生還できた損傷でも機体を喪失した例も多く、これもあって、特に航続距離が重視される太平洋戦線の場合と異なり、欧州においては総合力生還率で勝るB-17を置き換えるには至らなかった。悪評も多く、乗員一掃機、空飛ぶ棺桶(Flying Coffin)、未亡人製造機などの悪意ある仇名がつけられた。
運用国
各型
型式 | 概要 | 製造数 |
---|---|---|
XB-24 | 試作機 | 1機 |
XB-24B | XB-24のエンジンをR-1830-41に換装した型。XB-24を改装 | |
YB-24 | 増加試作機 | 7機 |
B-24A | 初期量産型 | |
B-24C | エンジンをR-1830-41に換装、機銃を変更、増備 | 9機 |
B-24D | C型より機銃を変更、増備 | 2,828機 |
B-24E | エンジン・プロペラの改良 | 801機 |
XB-24F | 防氷装備の試験機 | D型より1機改修 |
B-24G | ノースアメリカン社製 | 430機 |
B-24H | 機首に動力砲塔を搭載 | 3,100機 |
B-24J | H型の改良型 | 6,678機 |
XB-24J | 前方視界改善試験機(機首部分をB-17の物に交換) | 1機改修 |
XB-24K | 単垂直尾翼の試験機 | D型より1機改修 |
B-24L | 尾部および機体下面砲塔の改良 | 1,667機 |
B-24M | 尾部砲塔の改良 | 2,593機 |
XB-24N | 単垂直尾翼の試験機 | |
YB-24N | 単垂直尾翼の増加試作機 | 7機 |
B-24N | 単垂直尾翼の量産型 | 発注5,186機[2] |
リベレーターI | イギリス空軍向け。YB-24およびB-24Aのイギリス名称 | |
F-7 | 写真偵察機型 | |
リベレーターII | イギリス空軍向け。B-24Aとほぼ同じ。機銃の一部変更 | |
リベレーターIII | イギリス空軍向け。D型の機銃を換装 | |
リベレーターGR.V | イギリス軍向け対潜哨戒機。D型にレーダーを搭載 | |
XB-41 | 編隊擁護用ガンシップ。試作のみ |
データ
- B-24J
- 全幅:33.5m
- 全長:20.5m
- 全高:5.5m
- 翼面積:97.36平方メートル
- 自重:14,790kg
- 全備重量:29,480kg
- エンジン:P&W R-1830-65 1,200馬力4基
- 最大速度:467km/時(7,625m)
- 巡航速度:346km/時
- 着陸速度:153km/時
- 上昇限度:8,540m
- 航続距離:3,380km(爆弾2,300kg搭載時)
- 乗員:10名
- 武装:12.7mm機銃10丁、爆弾5,800kg
- PB4Y-2
- 全幅:33.5m
- 全長:22.7m
- 全高:8.9m
- 翼面積:97.36平方メートル
- 自重:17,130kg
- 全備重量:28,123kg
- エンジン:P&W R-1830-94 1,350馬力4基
- 最大速度:400km/時(3,660m)
- 巡航速度:254km/時
- 上昇限度:5,580m
- 航続距離:4,232km
- 乗員:10名
- 武装:12.7mm機銃12丁、爆弾3,630kg
現存する機体
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
B-24D | アメリカ | National Museum of the United States Air Force | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 42-72843。[1] | |
B-24J | アメリカ | Collings Foundation | 公開 | 飛行可能 | 米陸軍 S/N 44-44052。同 Foundation により、歴史教育を目的として年間を通じて全米各地の飛行場を巡回し、展示、デモフライト、体験搭乗をおこなっている。 | |
B-24/LB-30 | アメリカ | Commemorative Air Force[3] | 公開 | 飛行可能 | [4] |
脚注・引用
参考文献
- 第二次世界大戦 軍用機ハンドブック アメリカ篇(原書房)ISBN 4-562-02928-5
- スティーヴン・E. アンブローズ(著), Stephen E. Ambrose(原著), 鈴木 主税(翻訳)『ワイルド・ブルー』アスペクト、2002年5月、 ISBN 978-4757209275