集州
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巴中の集州
[編集]本節では、南北朝時代から宋代にかけて、現在の四川省巴中市一帯に設置された集州について述べる。
554年(廃帝3年)、西魏により東巴州が集州と改められた[1]。570年(天和5年)、北周により集州の州治は難江県に移された。
618年(武徳元年)、唐により隋の漢川郡難江県に集州が再び置かれた。巴州の符陽・長池・白石の3県が分離されて編入された。さらに平桑県が新設され、集州は5県を管轄した。742年(天宝元年)、集州は符陽郡と改称された。758年(乾元元年)、符陽郡は集州の称にもどされた。集州は山南西道に属し、難江・符陽・地平の3県を管轄した[3]。
1072年(熙寧5年)、北宋により集州は廃止され、その属県は巴州に編入された[4]。
遼東の集州
[編集]本節では、遼代から金代にかけて、現在の遼寧省瀋陽市一帯に設置された集州について述べる。
契丹により渤海国の人々が遼東に移され、集州懐衆軍が置かれた。集州は東京道に属し、奉集県1県を管轄した[5]。
金により集州は廃止され、属県の奉集県は貴徳州に編入された[6]。