門倉健

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。202.71.61.157 (会話) による 2012年5月25日 (金) 23:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎日本球界復帰への挑戦)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

門倉 健
伊達聖ヶ丘病院硬式野球部
SK時代の門倉健(2010年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県入間市
生年月日 (1973-07-29) 1973年7月29日(50歳)
身長
体重
193 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト2位[1]
初出場 NPB / 1996年7月26日
KBO / 2009年4月18日
最終出場 KBO / 2011年7月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

門倉 健(かどくら けん、1973年7月29日[1] - )は、埼玉県入間市出身の野球選手投手)。伊達聖ヶ丘病院硬式野球部に所属。

経歴

プロ入り前

入間市立藤沢中学校時代より、中学生にして190cmを超える長身投手として注目を浴びる存在であった。

高校は県内の聖望学園高校に進学し[1]、野球部のエースとして頭角を表す。1973年度生まれの世代では、埼玉県下最高のエースと謳われ、プロ野球界からも注目を集めた存在ではあったが、城石憲之が主将の春日部共栄高校に対して不思議な程に相性が悪く、高校3年生時の1991年には春季県大会、春季関東大会、全国高等学校野球選手権埼玉大会のいずれも、決勝戦で城石にも本塁打を打たれるなど1-3で春日部共栄に敗れ、甲子園の土を踏むことはなかった。

1992年東北福祉大学に進学(同級生に福本亜細亜)。全日本大学野球選手権大会でも準優勝の原動力となりプロ野球関係者の注目を大いに集め、1995年ドラフトの注目選手となる。

1995年のドラフト中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団[1]。同期に荒木雅博渡邉博幸益田大介らがいる(益田とは、後に大阪近鉄でも共にプレーしている)。

中日・近鉄時代

1996年7月28日の対ヤクルトスワローズ戦で初勝利。この年は7勝をマークした。翌1997年には初の2桁勝利を記録。

1998年も2桁勝利を記録するが、1999年は2勝に終わり、同年オフに、小池秀郎佐野重樹善村一仁との交換トレード古池拓一東瀬耕太郎と共に大阪近鉄バファローズへ移籍。

2001年、シーズンを通して先発ローテーションの一角を守り、8勝5敗の成績で近鉄のパ・リーグ優勝に貢献(防御率は6.49)。

なお、中日が出場した1999年の日本シリーズや近鉄が出場した2001年の日本シリーズで門倉の登板機会はなかった。2003年オフ、福盛和男矢野英司との交換トレードで宇高伸次と共に横浜ベイスターズへ移籍。

横浜時代

2004年6月23日の対ヤクルト戦で移籍後初勝利。同時にプロ入り初本塁打を放っている。シーズン当初は先発投手を任されていたが結果は出なかった。この年は抑え投手も経験。

2005年8月20日の対中日戦で勝利投手となり、史上4人目の「全球団勝利」を達成(ただし達成時点の全球団であり、自身が在籍した近鉄からは勝利を挙げていない)。自己最多となる11勝を挙げ、最終戦に中2日で登板させる牛島和彦監督の計らいもあり同僚の三浦大輔と同数でリーグ最多の177奪三振を記録して最多奪三振のタイトルを獲得した。

2006年、前年に比べると不安定な投球で防御率4.84、不調のため一時は中継ぎで調整するなど、満足のいく内容ではなかったものの、牛島が辛抱強く先発で起用し、前年に続き規定投球回数に到達し10勝を挙げ2年連続二桁勝利を記録。投球内容は今ひとつの年であったが、先発の一角としての二桁勝利、チーム最多勝、何よりFA権の行使を理由として複数年契約と年俸の微増を主張。しかし、これらの主張に対して球団側は「10勝10敗の投手はいらない」「もって後2年」などと強硬な態度で突き放す。これらの発言に立腹した門倉は移籍を視野に入れたFA宣言を行った。12月2日、横浜が門倉残留交渉を打ち切ると、横浜との決別宣言をしメジャーリーグからのオファーがあったことを明かす(横浜との契約に際して契約の駆け引きに使われていた可能性もあるが、報道では2〜3球団からオファーが入っていた模様)。「入団テストを受ける可能性もある。横浜より条件が悪くても他球団」とまで発言。その後読売ジャイアンツが獲得に興味を示していると報道が流れると、「すごく光栄」「原さんにあこがれていた」などと発言。 12月7日、巨人との入団交渉に臨み、2年契約総額2億円プラス出来高払いの提示を受け、「すごく高い評価をしてくれた。気持ちはほとんど固まっている。心は一つです」と話し、この時点で巨人への移籍が事実上決まった。

12月11日、巨人への入団が正式に決定。「来季開幕カードの横浜3連戦で投げたい」と意気込んだ。なお、この移籍に伴う人的補償で工藤公康が横浜に移籍した。

巨人時代

2007年、本人の「来季開幕カードの横浜3連戦で投げたい」との希望通り開幕第2戦に先発し、横浜ファンからブーイングを浴びながらも好投するが、援護に恵まれず最終的に古木克明に決勝本塁打を打たれ敗戦。8月にようやく初勝利しヒーローインタビューで涙を流すも、次の登板で7失点するなど先発では結果を残せなかった。リリーフ登板でも、9月18日の阪神との天王山といえる試合で敗戦投手となった。クライマックスシリーズでは中継ぎ投手として2試合に登板。

2008年の開幕は二軍で迎え、4月下旬にリリーフ投手として一軍昇格。11試合に登板し2ホールドを記録する。しかし最終回に3度登板し3度とも失点、そのうち2回は同点の場面で登板し、2敗を記録した。5月17日の対広島東洋カープ戦の延長10回、栗原健太に決勝本塁打を打たれ敗戦投手となり二軍降格。6月以降は二軍の先発投手として登板した。リーグ優勝の胴上げの輪には加わったが、クライマックスシリーズでの登板はなく、日本シリーズの出場資格者にも選出されなかった。シーズン終了後、巨人が減額制限の25%を超える大幅減の金額を提示し契約更改交渉が決裂。本人が出場機会を求めたこともあり、自由契約となる。結局巨人では2年間でわずか1勝しかできなかった。

12月23日に同じく巨人から自由契約となった野口茂樹と共にシカゴ・カブスのトライアウトを受けた。

アメリカ・韓国球界時代

2009年1月20日、カブスとマイナー契約を結んだことが発表され、春季キャンプの招待選手にも選ばれた。オープン戦では6試合で3失点と好投を見せるも、3月18日にマイナー行きを通告される。開幕直前の4月2日にはカブスから戦力外通告を受けて解雇された。

同年4月14日、韓国プロ野球(KBO)SKワイバーンズに移籍することが発表された。4月18日の対ハンファ戦で、2番手として初登板。その後、先発ローテーションの一角として28試合に登板し、8勝を挙げた。ポストシーズンでの好投もあり、再契約した。

2010年3月27日のハンファ戦で、近鉄時代の2001年以来9年ぶりとなる開幕投手として登板し、7回を8安打2失点に抑え勝利を挙げる。5月4日の対ネクセン戦で好投し、無傷の開幕7連勝。チーム16連勝の立役者となった。7月17日の対起亜戦で10勝目を挙げた。同年は日本プロ野球時代を通しても自己最多となる14勝(防御率は3位)を記録し、SKの公式戦優勝に大きく貢献した[2]。韓国シリーズ優勝後は11月5日の韓国・台湾クラブチャンピオンシップ第2戦で登板し7回無失点で勝利投手、11月13日の日韓クラブチャンピオンシップでは3回途中3失点で降板し敗戦投手になった。その後日本国内の病院で診察した結果、以前より傷めていた膝の手術が避けられないとされたため、球団側は再契約しないことを決定し、退団となった。

2011年1月25日、三星ライオンズと契約を結んだ。同年5月18日、大邱市民運動場野球場でのネクセン戦で完封勝利を収め、日韓プロ通算100勝を達成した。だが6月以降急激に成績を落とし、7月17日には二軍へ降格すると、7月21日にウェーバー公示され退団となった。

日本球界復帰への挑戦

2012年1月、日本プロ野球復帰を目指し楽天のテストを受験したが不合格だった[3]。2月には日本ハムの春季キャンプに参加し入団テストを受けたが、またも不合格となった[4]。同年4月、北海道伊達市のクラブチーム・伊達聖ヶ丘病院硬式野球部に入団し、北海道地区予選から都市対抗野球大会出場を目指している[5]。同年5月25日、岩見沢市営野球場で行われた都市対抗野球北海道1次予選1回戦・小樽協会戦で先発し、7回参考ながら完全試合を達成した。

プレースタイル

長身からの角度のある平均140km/h台後半の直球と落差のあるフォークボールスライダーを織り交ぜる。奪三振能力は高い。

人物

アゴの長い顔が特徴で、ニックネームは「アゴ倉」「モアイ」、近鉄時代にはチームメイトから「ショベルカー」と呼ばれ、「アゴの長さでは現役一」を自称。アゴに関するエピソードが多数ある。

アントニオ猪木のようにアゴが長いことから、テーマソングを「炎のファイター」にし、お立ち台で猪木の物真似で「1!2!3!ダァ~!」」をしていた。

中日時代、春季キャンプ地、沖縄北谷球場の壁に三日月に顔が書かれたような落書きがあり、横に「門倉」と書かれていた(野球バラエティー番組より)。

オフにテレビ番組に出演すると、自分より顔の長い野球選手がいると悔しがったり、「レントゲン写真を撮影した際、あごが全部入りきらなかった」などと自虐ネタを披露している。とある番組で清原和博と顔の長さを測定して競い、負けた際は本気で悔しそうな顔をしていた。

TBS系列の『うたばん』では、たびたび登場する山内あゆアナウンサーが司会の石橋貴明に「お前門倉に似てるじゃねぇか!」と言われ、その縁で門倉タオルをプレゼントしたこともある。

2010年の韓国オールスター戦に出場した際に、アゴが特徴の他チームの選手2人と並んで「アゴ三兄弟」として多くのフラッシュを浴びた。ちなみに韓国では「亜蔵」というニックネームがつけられていた。

横浜在籍時、ノックアウトされた若手投手に報道陣が殺到した際は「今日はそっとしてやってくれないか」と懇請し報道陣を帰した事もある。

横浜のファン感謝デーに参加した際ファンに対し「チームへの愛着」をしきりにアピールしており、当時の監督である牛島和彦やエースの三浦大輔などからは多大な影響を受けている。しかし、2006年12月9日に行われた野球教室で少年たちに「みんな、プロになりたいんだろ。でも横浜は止めておけ」と、球団のフロントへの非難めいた発言をする。なお、これが横浜のユニフォームを着た最後の日となった。

中日、近鉄、巨人の3球団でリーグ優勝を経験しているが、日本シリーズでの登板機会は一度もない。なお2009年、SKで起亜との韓国シリーズ第1戦、第5戦に先発登板し、第7戦でもリリーフ登板したが、勝利投手にはなれなかった。2010年の三星との韓国シリーズは第2戦に先発するが、勝ち負けには関係なかった。

2008年から埼玉県八潮市で地元小学生チームによる「門倉健杯争奪少年野球大会」を主催。大会開催に併せて自ら投球を披露するなど、少年野球や選手の育成に寄与している。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1996 中日 14 11 3 1 1 7 3 0 -- .700 302 72.1 63 6 30 1 0 65 3 0 27 25 3.11 1.29
1997 34 26 2 0 0 10 12 0 -- .455 747 160.0 173 13 96 4 10 143 4 1 95 84 4.73 1.68
1998 26 25 3 2 0 10 9 0 -- .526 651 153.2 133 10 66 0 9 115 9 0 60 58 3.40 1.30
1999 15 8 0 0 0 2 4 0 -- .333 227 49.0 61 7 18 2 2 38 3 0 33 31 5.69 1.61
2000 近鉄 23 18 4 1 0 7 9 0 -- .438 501 117.1 108 13 46 0 4 109 2 0 54 51 3.91 1.31
2001 32 21 0 0 0 8 5 0 -- .615 552 123.1 136 27 51 1 0 122 4 0 92 89 6.49 1.52
2002 16 1 0 0 0 0 4 0 -- .000 124 29.1 25 4 12 3 0 32 0 0 12 12 3.68 1.26
2003 20 16 0 0 0 6 4 0 -- .600 432 98.1 102 12 44 3 5 103 5 0 47 46 4.21 1.48
2004 横浜 42 7 0 0 0 4 8 10 -- .333 336 76.1 84 16 26 3 3 86 7 0 42 39 4.60 1.44
2005 29 27 4 1 1 11 8 0 0 .579 832 197.2 175 19 76 1 6 177 6 0 80 74 3.37 1.27
2006 28 25 2 0 0 10 9 0 0 .526 691 154.1 187 19 51 0 3 114 1 0 90 83 4.84 1.54
2007 巨人 12 5 0 0 0 1 5 0 0 .167 144 31.2 36 7 14 2 0 26 2 1 21 21 5.97 1.58
2008 11 0 0 0 0 0 2 0 2 .000 56 12.2 13 2 6 0 0 16 0 0 5 5 3.55 1.50
2009 SK 28 23 0 0 0 8 4 0 1 .667 564 126.0 141 19 53 0 7 98 2 0 78 70 5.00 1.54
2010 30 27 0 0 0 14 7 0 0 .667 647 153.2 146 14 52 2 6 143 11 0 65 55 3.22 1.29
2011 三星 16 16 1 1 0 5 6 0 0 .455 376 86.1 92 9 31 0 5 62 5 0 55 39 4.07 1.42
NPB:13年 302 190 18 5 2 76 82 10 2 .481 5595 1276.0 1296 155 536 20 42 1146 46 2 658 618 4.36 1.44
KBO:3年 74 66 1 1 0 27 17 0 1 .614 1587 366.0 379 42 136 2 18 303 18 0 198 164 4.03 1.41
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB

記録

NPB投手記録
NPB節目の記録
NPB打撃記録

背番号

  • 25(1996年 - 1999年)
  • 23(2000年 - 2002年)
  • 17(2003年)
  • 24(2004年 - 2006年)
  • 27(2007年 - 2008年)
  • 54(2009年 - 2010年)
  • 16(2011年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、13頁。ISBN 978-4-583-61526-4 
  2. ^ 韓国プロ野球で蘇った門倉健、15年目の絶頂”. Number Web (2010年11月12日). 2012年4月17日閲覧。
  3. ^ 日本ハムが門倉を入団テスト、楽天は不合格”. サンケイスポーツ (2012年2月6日). 2012年2月6日閲覧。
  4. ^ 門倉は不合格=プロ野球・日本ハム”. 時事通信 (2012年2月9日). 2012年2月9日閲覧。
  5. ^ 元巨人の門倉が北海道のクラブチーム入り”. サンケイスポーツ (2012年4月17日). 2012年4月17日閲覧。

関連項目

外部リンク