光明天皇
光明天皇 | |
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即位礼 | 1338年1月19日(建武4年12月28日) |
大嘗祭 | 1338年12月30日(暦応元年11月19日) |
元号 |
建武 暦応 康永 貞和 |
時代 | 室町時代・南北朝時代 |
征夷大将軍 | 足利尊氏 |
先代 |
後醍醐天皇[注釈 1] 光厳天皇[注釈 2] |
次代 | 崇光天皇 |
誕生 | 1322年1月11日(元亨元年12月23日) |
崩御 | 1380年7月26日(康暦2年6月24日) |
陵所 | 大光明寺陵 |
追号 |
光明院 (光明天皇) |
諱 | 豊仁 |
別称 |
真常恵(法名) 暦応皇帝 法安寺法皇 宇治殿 |
父親 | 後伏見天皇 |
母親 | 西園寺寧子 |
皇居 |
土御門東洞院殿 (現在の京都御所) |
親署 |
光明天皇(こうみょうてんのう、1322年1月11日〈元亨元年12月23日〉- 1380年7月26日〈康暦2年6月24日〉[2])は、日本の北朝第2代天皇[注釈 3](在位:1336年9月20日〈建武3年8月15日〉- 1348年11月18日〈貞和4年10月27日〉)[4]。諱は豊仁(ゆたひと、旧字体:豐仁)。
延元の乱の最中に、光厳上皇の譲国詔によって践祚。在位中は光厳上皇による院政が敷かれていたため、めぼしい業績はないが、天皇として、有職故実・芸術・学問の習得に励んだ。正平一統が破綻した際に、南朝によって拉致されている。
なお、その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、明治以降、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が北朝初代天皇として扱われているため、現在の皇統譜では光明は北朝第2代とされている。
生涯
[編集]後伏見上皇の第九皇子として、元亨元年(1322年)12月23日巳の刻に誕生[5]。場所は今小路殿[6]。元亨2年(1323年)2月13日に親王宣下され、「豊仁」(ゆたひと)と命名される[7]。
後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、持明院統の当主でかつ後醍醐に廃位されていた光厳上皇と手を組むことによって、湊川の戦いで後醍醐天皇軍に勝利した。1336年(建武3年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。そして9月20日(旧暦:8月15日)尊氏の要請により、治天の君である光厳上皇が院宣を用いて、豊仁を践祚させた(光明天皇)。この際、光明は兄の光厳の猶子として位置づけられ[2]、光厳は治天の君として院政を始めることになった。光明の即位時には三種の神器は後醍醐のもとにあったが、後醍醐は尊氏と和睦すると神器と称するものを光明側に引き渡し、光明が唯一の天皇であると認めさせられた格好で幽閉された。その後、1337年1月23日(建武3年12月21日)に吉野に逃れた後醍醐は自らの退位と光明の登位をともに否認し、南北朝体制が成立する。
1348年11月18日(貞和4年10月27日)に光明は、光厳上皇の第一皇子崇光天皇に譲位した。上皇になった後の1351年(観応2年)、足利氏の内紛である観応の擾乱を期に、足利尊氏が南朝に帰順、崇光天皇は廃され、南朝による正平一統が行われる。北朝の神器が接収され南朝に届くと、南朝はその神器に内侍所御神楽を行い、光明上皇と崇光天皇に尊号を贈った[8]。一見温情のある処置のように見えるが、光明上皇は3年前にすでに崇光天皇より尊号を賜っており、もう一度南朝が尊号を贈ることで、北朝においてなされたことは一切認めないという南朝の宣言であったとされる[9]。同日光明上皇は出家した。この時、光厳上皇は光明上皇の出家を「御迷惑」と非難したという[10]。
そして翌年閏2月、南朝の軍勢が足利義詮を排除して京都を奪回した際に、光厳上皇・崇光上皇・皇太子直仁親王とともに捕らえられる。以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。 3名の上皇と直仁は1354年4月(文和3年3月)に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。そして、11月になると後村上天皇自らも金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、1355年9月14日(文和4年8月8日)には一足早く光明のみ解放されて京都に返された。
京へ戻った以後は落髪して仏道に入ったとされる。伏見の保安寺、深草の金剛寿院、大光明寺、長谷寺など各地を遍歴して修行したという[11]。1380年7月26日(康暦2年6月24日)、長谷寺にて崩御した。宝算60。
即位と神器
[編集]三種の神器がない状況での光明の即位は、後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものである。
後醍醐天皇は、建武の乱敗北後、三種の神器を北朝に譲り渡した[注釈 4]。この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点は解消された。しかし、後醍醐天皇が逃亡して独自の朝廷を構築した際、北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した。この段階で三種の神器が2組存在したことになる。しかし、北朝初代光厳天皇の三種の神器は本物とされているが、それが後醍醐天皇から渡御した際に朝廷は検知をして宝剣の破損を把握していた。また神鏡は内侍所で厳重に管理される。これらのことから、状況的に偽物を渡してもそれがまかり通るとは考えにくいとされている[13]。実際に後の正平の一統で後村上天皇は北朝の神器を奪還し、その北朝の神器に対して南朝初となる内侍所御神楽を厳重殊勝に行い、同時に阿野廉子に院号宣下を行ったり関白任命を行ったりなど、まるで三種の神器の帰還を祝福するかのような素振りを見せていた[14]。(北朝 (日本)#北朝の三種の神器)
人物
[編集]- 民衆思いの天皇であり、自身の日記である『光明天皇宸記』には、民衆のために雨止みのお祈りをしたり、乱世において貴賤が八朔の進物の贈り合いをして散財している状況を「何を以て用足り民富むべけんや(民衆の生活を楽にするのに何の足しになろうか)」と批判する記事が見られる[15]。
- 有職故実、芸術、学問の習得に励んだ[16]。
- 恩師への報恩の念が強く、学問の師であった唐橋公時が死去した際には「私は幼少の昔より公時に学問の手ほどきを受けてきた。即位後も世話になり続け、その教えは一字たりとも忘れることができない。悲嘆に暮れて涙が止まらない」とその死を悼み、先例を破って宮中にて三日間の物音停止を強行し、「愁歎の志」を表した(唐橋家は、公家社会においてさほど家格が高くなく、今回の措置は破格である)[17]。
- 光厳院政が敷かれる中で、政局への判断に潔癖とも言えるほど関与しなかった[18]。
- 兄の光厳天皇と非常に仲がよく、一緒にいることを好んだ[19]。光厳法皇の葬儀にも出席したという[16]。
后妃・皇子女
[編集]- 宮人:藤原(正親町三条)実躬女(? - ?)
- 皇女(長照院殿)(? - 1422年) - 長照院
- 皇女(? - ?) - 法華寺長老
- 宮人:某氏 - 一説に三河守某女、入道大納言某養女
- 皇子:周尊(? - ?) - 禅僧
系譜
[編集]光明天皇の系譜 |
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系図
[編集]88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康仁親王 〔木寺宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在位中の元号
[編集]- 建武 (1336年8月15日) - 1338年8月28日
- 暦応 1338年8月28日 - 1342年4月27日
- 康永 1342年4月27日 - 1345年10月21日
- 貞和 1345年10月21日 - (1348年10月27日)
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町泰長老にある大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。崇光天皇陵・治仁王墓と同兆域である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。肖像は京都市東山区の泉涌寺所蔵。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 光厳天皇・光明天皇の在位を認めつつ、隠岐から帰京した後醍醐天皇の在位も認め重祚とする場合(『続神皇正統記』など)(花園→後醍醐→光厳→後醍醐(重祚)→光明)。光明を践祚させた光厳上皇はこの立場に立っていたと見られる[1]。
- ^ 光厳天皇・光明天皇の在位を認めず、後醍醐天皇の在位を一貫したものとし、光厳天皇・光明天皇を北朝の天皇とする場合(『皇統譜』など)(花園→後醍醐→後村上〈北朝:光厳→光明〉)。または、光厳天皇・光明天皇の在位を認め、後醍醐天皇の重祚を便宜上一代とする場合(『本朝皇胤紹運録』など)(花園→後醍醐→光厳→光明)。
- ^ 明治時代まで一般的であった『本朝皇胤紹運録』による天皇代数では、光明天皇は97代天皇[3]。
- ^ 軍記物語『太平記』では、「後醍醐天皇が比叡山に立てこもった際、主戦派を宥めるため恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和解し京都に戻った」とされるが、これは『太平記』固有の描写であり、直ちに全てが真実とは認めがたい[12]。『神皇正統記』や『建武三年以来記』には受禅記事が見えない[12]。『白河証古文書』により、恒明自身は自分を新帝と認識し、綸旨の形式の文書を発給していたことはわかるため、ある期間まで何らかの皇位を認める手続きが行われたとも考えられるが、『太平記』の描写を全て肯定するものではない[12]。
出典
[編集]- ^ 深津 2014, p. 163.
- ^ a b 「コトバンク」所収『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)「光明天皇」より
- ^ 片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年』2021、p.197。
- ^ 「光明天皇」『朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 。コトバンクより2023年1月13日閲覧。
- ^ 宮内庁書陵部『天皇皇族実録172.光明天皇 巻1』1947、pp.1-2。
- ^ 宮内庁書陵部『天皇皇族実録172.光明天皇 巻1』1947、p.2。
- ^ 宮内庁書陵部『天皇皇族実録172.光明天皇 巻1』1947、p.3。
- ^ 『皇年代略記』光明院
- ^ 深津 2014, p. 194.
- ^ 『園太暦』観応2年12月28日条
- ^ 石原 2020, p. 135.
- ^ a b c 森 2013, §4.1.1 幻の北陸王朝.
- ^ 飯倉晴武 『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2015、p.124。
- ^ 林屋辰三郎『内乱のなかの貴族―園太暦の世界』
- ^ 辻 1944, pp. 113, 114.
- ^ a b 石原 2019, p. 121.
- ^ 石原 2020, p. 137.
- ^ 石原 2019, p. 115.
- ^ 石原 2019, p. 119.
関連作品
[編集]参考文献
[編集]- 森茂暁『太平記の群像 軍記物語の虚構と真実』角川書店〈角川選書〉、1991年10月24日。ISBN 978-4047032217。
- 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2013年12月25日。ISBN 978-4044092092。 - 上記の文庫化、改訂新版
- 石原比伊呂「光明天皇に関する基礎的考察」『聖心女子大学論叢』第134巻、聖心女子大学、2019年、99-125頁。
- 石原比伊呂「光明天皇―家長にならなかった「一代の主」」『久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝 後醍醐天皇から後陽成天皇まで』』、戎光祥出版、2020年。
- 辻善之助『皇室と日本精神』1944年。
- 深津睦夫『光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2014年。
関連項目
[編集]光明天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 後醍醐天皇 (尊治) 光厳天皇 (量仁) |
皇位 北朝2代天皇 1336年9月20日 - 1348年11月18日 建武3年8月15日 - 貞和4年10月27日 |
次代 崇光天皇 (興仁) |
- ^ 「大日本史料総合データベース、延文3年2月9日(13580020090) 2条」東京大学史料編纂所