棚橋弘至

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棚橋 弘至
棚橋 弘至の画像
2010年12月26日、秋田県立体育館で。
プロフィール
リングネーム 棚橋 弘至
マスクド・デビロック
本名 棚橋 弘至
ニックネーム 太陽の天才児
愛の戦士
ハイフライングスター
ミスターナルシスト
飛龍伝承
100年に1人の逸材
和製HBK
身長 181cm
体重 103kg
誕生日 (1976-11-13) 1976年11月13日(47歳)
出身地 岐阜県大垣市
所属 新日本プロレス
スポーツ歴 野球
学生プロレス
トレーナー 藤波辰爾
武藤敬司
佐々木健介
デビュー 1999年10月10日
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棚橋 弘至(たなはし ひろし、男性、1976年11月13日 - )は、日本プロレスラー岐阜県大垣市出身。新日本プロレス所属。現在マセキ芸能社と業務提携。

来歴

岐阜県立大垣西高等学校では野球を経験。1995年に卒業後、一般入試で立命館大学法学部に入学。弁護士角田龍平とは同級生であった。大学時代は学生プロレスサークルであるプロレス同好会に在籍する一方、部員不足に悩むレスリング部にも参加。当時の現場監督の長州力が学生プロレス嫌いを公言していたことから、棚橋自身は従来学生プロレス出身であることを認めてこなかったが、2006年4月に東京スポーツ紙上でレイザーラモンHGと対談した際、自らが学生プロレス出身であることを認めた(サークルの先輩にユリオカ超特QレイザーラモンRGがいる)。学生プロレス時代のリングネームは、メイ牛山、ハメ浩を経て、ターナー・ザ・インサート[1]

3度目の入門テストでようやく合格し、1999年、大学卒業後すぐに新日本プロレスに入門。入門後しばらく武藤敬司の付き人をつとめた。同年10月10日、真壁伸也(現:真壁刀義)戦でデビュー。 2001年5月18日、怪我から復帰した同期入門の鈴木健三(後に鈴木健想に改名)と、タッグチーム「キング・オブ・ザ・ヒルズ(略称:KOTH)」を結成。棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で「タナケン」コンビと呼ばれ、ヘビー級のタッグ戦線を盛り上げる(King Of The Hillsは日本語に意訳すれば「お山の大将」である)。

2002年3月14日、鈴木が病気によって再び欠場に入ると、佐々木健介とタッグを結成。5月2日には、東京ドームスタイナー・ブラザーズと対戦。

同年6月20日、自らに健介、復帰した鈴木とブルー・ウルフを加えた4人で新チーム「SWING-LOWS」を結成。健介がリーダーではあるが、KOTHの発展形と主張し、本隊と一線を画して新日本のトップ獲りを目指す。

しかし10月に健介に新日本退団問題が発生したため、11月3日、SWING-LOWSを解散して新生KOTHを結成。棚橋&鈴木のKOTHにウルフを迎える形での3人組ユニットとなった。このトリオで大会「トライアスロン・サバイバー」にエントリーしたが大会前の公開練習で鈴木が高山善廣とタッグを組みたい意向を示し年内での解散を宣言した。

大会公式戦消化中の11月28日、別れ話のもつれから交際相手であった当時テレビ番組ADの女性にナイフで背中を刺されて重傷を負う。緊急治療を受けて一命を取り留めたものの傷は深く、人体の総血液量(体重のおよそ 1/13(約8%))の約3分の1にあたる1.7リットルの血液を失い、一時は危篤状態に陥ったほどであった(なお、その女性とは示談が成立して棚橋が女性を宥恕していることなどが認められ、女性は執行猶予付きの判決となった[2])。刺傷事件からの復帰後の2003年4月23日に自ら提唱したU-30王座(後にU-30無差別級王座に改称)を、6月13日に吉江豊IWGPタッグ王座を、11月30日に永田裕志GHCタッグ王座を続けざまに獲得し、12月14日にIWGPタッグ王座から転落するまでの約半月間、3冠王となった。

U-30無差別級王座長期防衛の最中の2004年初め頃から、棚橋・中邑真輔柴田勝頼の3人が「新・闘魂三銃士」と呼ばれるようになる。しかし、当の本人たちはこのことをあまりよく思っていなかった。しかしG1 CLIMAXでは、その全員が決勝トーナメント(ベスト6)へ進出する中、3人中最高の準優勝という成績を残す。12月11日、中邑とのコンビで再びIWGPタッグ王座を獲得。再改称されたIWGP・U-30無差別級王座と合わせて、IWGPの2冠王として君臨する。2005年1月4日、中邑とのU-30タイトル戦に敗戦。2年近く保持していた王座から転落する。しかし、後に中邑がU-30無差別級王座を封印するもののフロントの意向により返上と改められ空位に。この後、柴田の退団により新闘魂三銃士は消滅した。

2005年4月、新設されたトーナメント戦「春のG1」こと第1回NEW JAPAN CUPで優勝。さらに6月に行なわれた「U-30無差別級王座決定リーグ戦」を全勝優勝で突破し第3代U-30無差別級王者に返り咲く。7月18日、NOAH東京ドーム大会に参戦。力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも、ドラゴンロケットの三連続失敗などが原因で敗北した。「このままでは新日本に帰れない」と試合後述べるものの、継続してノアには参戦せず、新日本のシリーズにそのまま戻った。

2006年1月、アメリカのプロレス団体TNAに参戦。TNA参戦時は“ハイ・フライング・スター”を称され観客に脚光を浴びた。2月19日、第3世代最後の砦とされた永田裕志からドラゴン・スープレックス・ホールドで初のピンフォール勝ちを収める。

5月13日に行われた第1回WRESTLE LANDでは、黒のショートタイツで天性のナルシストぶりとチャラ男ぶりを発揮。いつしかリングの中心で決め台詞である「愛してま〜す」と叫ぶようになり、特異なキャラを確立し今に至っている。7月17日、札幌でIWGPヘビー級王者ブロック・レスナーとのタイトルマッチを行う予定だったが、契約上のトラブルにより来日不可能となった。それに伴いレスナーから剥奪された王座を競うトーナメントでジャイアント・バーナードに勝利し、優勝。第45代IWGPヘビー級王者となり悲願の初戴冠。8月のG1 CLIMAXでは王者ということもあったので優勝候補とされていたが小島聡ジャイアント・バーナードに敗れ屈辱の予選落ち。その後10月9日、G1を制覇した天山広吉と対戦。最後はハイフライフローで3カウントを奪い防衛に成功。

同年に行われたG1 TAG LEAGUEでは金本浩二と王者タッグを組み出場初めの2戦で1敗1分という成績で苦しい状況だったが残り2戦を見事勝利で飾る。そして最終日の2位決定戦も勝利を果たし2位で決勝トーナメントへ進出。その後Bブロック1位通過の永田裕志、飯塚高史組にも勝利を収めるが、決勝戦で蝶野正洋中邑真輔組に破れ準優勝。12月10日、2度目の王座防衛戦で中邑と激突。最後はドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、2度目の防衛成功した。

2007年1月4日、新日本プロレス全日本プロレスの両団体の誕生35周年を記念した共同開催のレッスルキングダム IN 東京ドームではダブルメインイベントに出場し、太陽ケアと対戦。最後は棚橋がハイフライフローで勝利し、3度目の防衛成功。

2月18日、金本浩二がIWGPに初挑戦。これに勝利し4度目の防衛成功したが、4月13日のタイトルマッチで永田に敗れ5度目の防衛に失敗し王座陥落。試合翌日長州から休養を勧告されたと明かした。(右膝内足靭帯損傷のため。その後欠場)

8月3日、初のオフィシャル本『オレはプロレスラー』(カンゼン刊)が発売。日々の生活を赤裸々に綴っている。同月行われたG1 CLIMAXにも参戦。2勝1敗2分という成績で2位通過。Aブロック1位で通過した真壁刀義をも退け決勝へ進出。そして王座を奪われた永田裕志を破り悲願の初制覇。約2か月後の10月8日、G1覇者としてIWGP王者永田と激突。30分を超える激闘を繰り広げ、王座を奪還。さらに後日の記者会見で結婚していたことを告白。

10月に2年連続で金本と組みG1 TAG LEAGUEへ出場。今度こそ優勝というファンの期待もあったが準優勝で終わる。11月11日、8月末にメキシコ遠征から帰国した後藤洋央紀が初挑戦。棚橋自身、「ターニングポイント」と語る激闘で、テキサスクローバーホールドで勝利を収め初防衛に成功した。

2008年 - 2009年

2008年1月4日東京ドーム大会で行われたIWGPヘビー級選手権試合で中邑真輔と6回目の一騎打ち。ランドスライドで敗れ、2度目の防衛に失敗。2月17日、2年前のTNA参戦時にも対戦し敗れたAJスタイルズを相手にハイフライフローでリベンジを果たした。

3月1日、全日本プロレスに参戦し元付き人だった武藤敬司とタッグを結成。川田利明、太陽ケア組に勝利。メインイベントの三冠ヘビー級選手権試合終了後チャンピオン・カーニバルに参戦を表明し出場が決定。新日本ではジャイアント・バーナードを下し、3年振り2度目のNEW JAPAN CUP優勝。後日30日に優勝者に与えられる権利で中邑の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するが、奪回に失敗。

4月に開催された全日本プロレス春の祭典、チャンピオン・カーニバルに出場。8日の後楽園大会の川田利明戦で、ハイフライフローを放った際、左ひざをマットで強打。その後は痛み止めの注射を打ちながら出場を続けていた。痛みに耐えながら優勝決定戦までコマを進めるも、諏訪魔にラストライドからピンフォールを奪われ優勝を逃す。さらに怪我が悪化し、「左膝前十字靭帯断裂」および「外側半月板断裂」という大怪我を負い欠場。

8月のG1 CLIMAXで復帰を果たすも、2勝4敗で予選落ち。10月26日に無期限TNA遠征のため、アメリカへ飛び立つ。公式サイトにて“【不定期連載】ハイフライング・スター、絶賛アメリカ遠征中!”というタイトルで遠征先での状況を掲載していった。

2009年1月4日、東京ドーム大会で3年連続メインイベントに抜擢。IWGPヘビー級選手権試合で武藤敬司を下し王座奪還。第50代IWGPヘビー級王者となり、武藤越えを果たした。2月15日には永遠のライバル中邑真輔と8度目の対戦。真のエース決定戦と称された戦いを制し初防衛に成功。4月5日にはカート・アングルを退け2度目の防衛に成功。

5月3日にNEW JAPAN CUP覇者の後藤洋央紀と対戦し3度目の防衛に成功したが、3日後に行われたタイトルマッチで中西学に敗れ王座歓陥落。6月20日、中西とリターンマッチ。30分以上の戦いを制し第52代IWGPヘビー級王者へと返り咲いた。7月20日、プロレスリング・ノア杉浦貴を相手に防衛成功するが、この日試合の観戦に来ていたTAJIRIが試合後に乱入。棚橋にグリーンミストを吹きかけると足早に退散。両者に遺恨が芽生えた。その後8月13日のG1 CLIMAX公式戦でTAJIRIと対戦するも最後はグリーンミストからのバズソーキックで轟沈。それでも、何とかAブロック同率1位で決勝トーナメントに進出。準決勝戦にて中邑と対戦。試合中、中邑が放ったハイキックで負傷し敗北。後日、眼窩内側壁骨折と診断され全治1か月とIWGPヘビー級王座を返上した(返上したベルトはG1優勝者真壁刀義と準優勝者中邑が王者決定戦で激突。これに中邑が勝利し第53代IWGPヘビー級王者となった)。

11月8日、欠場に送り出され王者となった中邑とベルトを賭け対決するも最後はボマイェで敗北を喫した。試合後にTAJIRIに「100年に1人のダメ人間」と吐き捨てられた上にグリーンミストを噴射されたことから両者の因縁が再び勃発。11月23日に後藤洋央紀と組み、TAJIRI、田中将斗組と対戦し、G1参戦以降ピンフォール負けを許さなかったTAJIRIから勝利。その後のシリーズでは立て続けにTAJIRIにフォール負けを喫するも12月5日、シングルマッチで再び激突し実況席にいた山崎一夫や社長の菅林を巻き込む形でハイフライフローで勝利を収めた。

2010年 - 現在

2010年1月4日、プロレスリング・ノアの対抗戦に出陣し、潮崎豪と対戦し勝利を収めた。1月22日に全試合終了後、矢野通が襲撃したことから、因縁が勃発。

3月のNEW JAPAN CUPには1回戦でCMLLストロングマンと激突。最後はスモールパッケージホールドで2回戦に進出。左膝を負傷しトーナメントでは内藤哲也に敗北を喫した。

5月5日よりCMLLからの熱烈なオファーに応じる形で遠征に出発。5月7日にタイチOKUMURAと組んで、ラ・マスカラ、イホ・デル・ファンタズマエクトール・ガルサ組とCMLL世界トリオ王座を賭けて対決。これに勝利し同王座に載冠を果たした。遠征先ではヒールキャラを演じている。

6月19日、ルーザー・ボールド・ルールで完全決着を果たすべく矢野と対戦。最後は回転十字架固めで矢野からピンフォールを奪い取り勝利を飾った。試合後、抵抗する矢野にTAJIRIが救援に駆けつけ、TAJIRIが矢野を羽交い絞めにする中、ようやく髪の毛を刈ることに成功。

8月のG1 CLIMAXでは、決勝戦まで勝ちあがるも小島聡に破れ準優勝で終わる。10月11日に下克上を叩きつけた内藤と対決。テキサスクローバーホールドでギブアップを奪い取りNJCのリベンジを果たす。10月下旬から11月までかけて行われたG1 TAG LEAGUEではTAJIRIとタッグを組み出場するが、予選落ちに終わる。

その後、G1を制しIWGP王座に就いた小島に対して挑戦をアピール。12月11日に同じく挑戦を表明してきた後藤洋央紀とシングルマッチで激突。ハイフライフローで後藤を制し、熱望していたIWGP戦線へ一歩近づき、翌日行われた興行の全試合終了後、改めて小島に挑戦を表明した。

2011年1月4日、小島の所持するIWGPヘビー級王座に挑戦。これに勝利し王座奪回に成功。自身5度目の戴冠となった。2月20日に挑戦者決定戦を制した小島と再戦。試合終盤で掟破りのラリアットで小島をなぎ倒し、最後はハイフライフローで初防衛を果たす。試合後のコメントでは「俺は、仙台のこの日を、生涯忘れません!」と涙ぐみながらファンのエールに答えた。

3月20日、後藤とタッグを組み、小島、MVP組と対戦。試合終盤、仲間割れを起こした後藤は退場、MVPにギブアップを奪われ敗北を喫した。

4月3日、NJCで優勝を果たした永田裕志と対戦し2度目の防衛に成功。5月3日の福岡大会で中邑真輔に勝利し、3度目の防衛に成功した。試合後、リング上に後藤が姿を現し次期挑戦者に名乗りを挙げ、離れ際に不意打ちでヘッドバッドを見舞った。

5月中旬に新日本プロレス初となるアメリカツアーに参加、チャーリー・ハースとIWGPヘビー級王座を賭けて対戦、勝利をおさめ防衛記録を4に伸ばす。

6月18日、後藤とタイトルマッチで激突し、5度目の防衛に成功。試合後ジャイアント・バーナードがタッグパートナーであるカール・アンダーソンを引き連れて姿を現し、IWGP王座の次期挑戦者に名乗りをあげる。一方で棚橋はこれを受諾した上でバーナード、アンダーソンが所持するIWGPタッグ王座に挑戦したいと要求。その場にいた後藤をパートナーに指名し、後藤は棚橋と握手を交わし遺恨を清算。

7月3日、後藤と組みBAD INTENTIONSのIWGPタッグ王座に挑戦するも後藤がアンダーソンのガン・スタンで沈み奪取失敗。7月18日の札幌大会でバーナードを相手にIWGPヘビー級王座を賭けて激突。ダルマ式ジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い、6度目の防衛に成功。

8月に行われたG1 CLIMAXでは、初戦こそ永田のバックドロップホールドで敗れるも、その後は勝ち星を積み重ねていく。しかし、9日目の矢野戦ではヒールであるはずの矢野が歓声を浴び、棚橋にブーイングが起こる事態が発生。これにペースを乱されたか、初戦以来の敗北を喫する。さらに最終日では内藤哲也のポルボ・デ・エストレージャに捕まり敗北、予選落ちとなった[3]

9月19日、G1覇者の中邑を相手にIWGPヘビー級選手権試合に挑む。試合中に前歯が折れるアクシデントが起きるも、新技ハイフライフロールでフォールを奪い7度目の防衛に成功。

10月10日、両国国技館で内藤と29分を超える激闘の末、ハイフライフローで勝利し8度目の防衛に成功した。しかし、試合後に現れた永田の挑戦を承諾する直前に、かつて髪切り抗争を展開した矢野の椅子による襲撃に遭い、ベルトを強奪されてしまう。

同年のG1 TAG LEAGUEに後藤とタッグを組んで出場。Bブロック2位で準決勝に進出するも、BAD INTENTIONSに敗れる。

11月12日、大阪府立体育会館でベルト強奪者のYWGPヘビー級王者(非公認)矢野通と対戦、テキサスクローバーホールドで勝利し9度目の防衛に成功した。試合後、矢野はベルトを持ち逃げしようとするも永田がそれを阻止し、ベルトを奪還。晴れて永田との正式なIWGP戦が決まる。

12月4日愛知大会、IWGPヘビー級王座最多連続防衛記録を懸けて永田裕志と対戦。ハイフライフロー2連発で勝利し、永田の持つ最多連続防衛記録タイとなるV10に成功した。

12月14日、2009年以来2度目となるプロレス大賞最優秀選手賞を受賞した。試合内容のみならず、営業姿勢、ファンサービスも高く評価された。

12月20日、第16回日刊バトル大賞プロレス部門最優秀選手を受賞。

2012年1月4日東京ドーム大会、IWGPヘビー級王座最多連続防衛記録を懸けた鈴木みのるとの防衛戦。ハイフライフロー2連発で勝利し、同王座最多防衛記録V11を達成。

2月12日大阪府立体育会館、IWGPヘビー級王座を懸けてオカダ・カズチカと対戦するも、オカダのレインメーカーで沈み防衛に失敗。1年1ヶ月の長期政権から陥落する。また、オカダのレインメーカーを受けた際、昨年9月で中邑との対戦中に折れた前歯が再び折れてしまった。

4月1日尼崎大会で開幕した新日本プロレス春の祭典NEW JAPAN CUPに2年ぶりにエントリーされ、1回戦同会場で矢野通、2回戦4月5日後楽園大会で内藤哲也、準決勝4月8日後楽園大会でカール・アンダーソンを下し同日自身3度目の決勝戦の舞台にあがったが後藤洋央紀に敗れ準優勝となった。尚、後藤に敗北を喫したのは7戦目でこれが初となる。

得意技

藤波辰爾武藤敬司の影響を受けた技が多い、これら以外にもクイック技を好んで使う。

フィニッシュ・ホールド

ハイフライフロー
いわゆるフロッグスプラッシュ。2006年のG1から使用。現在のフィニッシュムーブ。このワザに移行する際はスリング・ブレイドで倒してから移行する場合が多い。最近ではうつ伏せになった相手の背中に放つバージョンや、あお向けの相手の膝めがけて放つバージョン(この後にテキサスクローバーホールドでギブアップを狙う)も使用する。タイトルマッチなどでは2連発で繰り出すこともある。IWGPの防衛戦で立っている状態のカート・アングルにも使用した。TNAでこの技を使ったときには、「エディ・ゲレロ以来の名手だ。」と、関係者から高い評価を得たこともある。
派生技
高高度ハイフライフロー(名称未決定)
2011年後半以降大一番で使用するようになった、トップロープからリング外にいる相手目掛けて敢行する高高度式。正調よりも落差が激しい為、自身へのダメージも大きい。
ハイフライフロール
うつ伏せの状態の相手目掛けてハイフライ・フローを放ち、そこから変形エビ固めに移行しフォールを奪う技。2011年9月、中邑真輔とのIWGPヘビー級選手権試合で初披露。
ドラゴン・スープレックス・ホールド
ハイフライフローと並ぶフィニッシュムーブ。ナルシストキャラ確立後は、ハイフライフローを習得したこともあり使用頻度は減ったが、いまだに説得力のある必殺技として大事な場面で用いられている。

打撃技

太陽ブロー
左のボディブロー。名城信男との合同トレーニングを経て使用。主に相手の打撃攻撃に合わせてカウンターで放つ。
ドラゴン式張り手
藤波式のモーションが小さい張り手。
フライング・フォーアーム
助走をつけて、体を横に流しつつジャンピングエルボーを繰り出す。
エルボー・スマッシュ
鍵型に曲げた腕の先端部もしくは少し前側の腕の部分を、斜め下方から上方へ向けてかち上げるように振り上げ、相手に叩きつけるエルボー。
ドロップキック
元々、若手のころから正面飛び式のを使っていたが、ここ最近はそれ以外に、足殺しの一貫として、低空式も使用している。
青天井エルボー・ドロップ
尊敬する武藤敬司のフラッシングエルボーに影響を受けた技。その場で高くジャンプし、両足をジタバタさせながら放つ。現在の武藤のものよりも、若手時代のフォームに近い。

投げ技

スリング・ブレイド
以前のフィニッシュムーブ。旋回式のフライング・ネックブリーカー・ドロップ。相手の前方から飛びつき、スリーパーホールドの様に相手の頭を抱えてリングに叩き付ける。完全なオリジナルではなく、棚橋が開発する前からDRAGON GATE吉野正人が繋ぎ技として使っていた。背後から仕掛け「フェース・クラッシャー」に持ち込む「リバース・スイング・ブレイド」も存在。
フライング・スリング・ブレイド
トップロープから相手に飛びついてのスリング・ブレイド。一度リングに足から着地した後に、再度その場で小さく飛び跳ねてから叩きつけることが特徴。2006年6月頃から使用していたが同じ年のG1でいずれもこの技を切り返されて2敗を喫している。それ以来ほとんど使用していない。
ドラゴンスイング
ドラゴン・スリーパーの体勢から相手の体を持ち上げ、ジャイアントスイングのような形で振り回した後にバスターやファイナルカットでリングに叩き付ける。
ドラゴンスクリュー
元々若手のころから使用していたが、2009年1月4日の武藤戦以降から、足攻めのために多用するようになった技。棚橋には相手がグラウンド状態で放つグラウンドドラゴンスクリューと張り手を見舞ったあとにする新型ドラゴンスクリューが存在する。
グラウンドドラゴンスクリュー
棚橋のオリジナル技。その名の通りグラウンドで行うドラゴンスクリュー。2007年4月13日の永田裕志戦で初公開。他にも相手の足をロープに挟んでからのドラゴンスクリュー、腕へのドラゴンスクリューなどバリエーションは多い。
ジャーマン・スープレックス
若手時代にはよく使っていたが、現在は稀に使用している技である。棚橋の出身地・岐阜県に引っ掛けて「金華山ジャーマン」とも呼ばれていた。
ダルマ式ジャーマン・スープレックス
通常のジャーマン・スープレックスとは異なり、クラッチ時に相手の両腕を取り、後方に投げる。両腕がロックされているため受身が取れなく、頭から突き刺さるしか無い危険な技。棚橋は基本的にフルネルソンの状態から相手が強引に解除した時に即座に両腕をとってから仕掛ける。また、この技はシングルマッチや大一番などで好んで使用している。
オールアウト
相手をブロックバスターの要領で抱えあげたあと上半身を右方向に軽く捻り、上半身を左方向へと振ると同時に股を抱えていた右腕を離す。そのあと抱えた首を支点にして相手の体を振り子のように左方向へと旋回させ、ロック・ボトムの形で相手をマットに叩きつける。
裏投げ
側面から相手の脇下へ頭を潜り込ませるようにして組み付き、片腕で首の付け根あたりを、もう片方の腕で腰を抱え、後方に体を捻りながら投げる技である。元々は柔道の投げ技の一つである。
ハーフハッチスープレックス
フロントヘッドロックの体勢で相手を捕らえ、空いた方の腕を相手の脇下を通した状態で、後方に反り投げる。若手時代によく用いられていたが、最近ではほとんど見られない。
12/6(トゥエルブ・シックス)
ブレーンバスターではなくキャプチュードの体勢で相手を抱え、ファルコンアロー(もしくはみちのくドライバーII)のように首から背中に掛けて相手を落とす。ハイフライフローへの繋ぎとしてよく使用される。2011年12月テレビ番組の企画にて命名(重盛さと美の案を採用。「12時から6時の方向へ急激に落とす」の意)。

関節技

テキサスクローバーホールド
2007年のIWGPヘビー級選手権試合後藤洋央紀戦でフィニッシュ・ホールドとして使用、その後AJスタイルズ戦でも使用し、頻度が増えている関節技。決して派手ではない部類の技ながら、説得力のある角度でフィニッシュムーブのひとつに昇華しつつあり、2011年における矢野通とのIWGP戦でもタップを奪っている。
ドラゴン・スリーパー
この体勢からの移行する技や、ドラゴン・スリーパー自体の変形verも色々開発している。
足4の字固め
この技も武藤敬司とのIWGP戦以降、足殺しの一貫として、時折使用している。

飛び技

ドラゴン・ロケット
リング上からリング場外にいる相手に向かって助走し、頭部や肩口などの正面から突っ込んで体当たりする技。藤波がこの技を使用する際にドラゴン殺法の一環として「ドラゴン・ロケット」と呼ばれていた。棚橋も藤波への尊敬からその名称で使用している。下記の捨て身式トペコンヒーロを使うようになってからは使用しなくなった。
捨て身式トペ・コン・ヒーロ
ロープを挟んでのドラゴン・スクリューでリング外に落下した相手に向かってエプロン上で助走し、ジャンプした直後に前宙して体当たりする技。試合序盤に戦況を変える技として使用するが、助走をつける間に相手が復帰して回避することがあり、背中を打って自爆する事もある。
サマーソルトドロップ(サンセットフリップ)
前方回転し、背中から相手に体当たりする技。ダウンした相手にその場で、コーナーポスト上から、エプロンから助走をつけ場外へと、使用範囲が広い。その場のものは錐揉み式のフォームで、ムーンサルトのような形になることも多い。コーナーポスト上では両腕を広げるアピールをしてから放つ。
スカイツイスタープレス
デビューしてから2、3年の間だけ使用していた非常に難易度の高い空中技。その後は封印していたが、2004年マスクド・デビロックに変身する際には、この技を解禁すると示唆したが実際は使用していない。

丸め込み技

電光石火
ランニングしての首固め。現在はなかなか使用することがないが、時折、相手の打撃攻撃に合わせて、仕掛けることがある。
フォールインラブ
いわゆる高角度前方回転エビ固め。主に大型選手へのフィニッシュとなりやすい技である。この名称がつく前には高山善廣からフォールを奪っている(2004年2月のIWGP暫定王座決定トーナメント)。その他のビッグマッチでは、2008年のNJC決勝戦、対ジャイアント・バーナード戦でフィニッシュ技になっている。
スリングブレイドル
スリング・ブレイドからすばやく回転十字固めを決める技。

入場テーマ曲

  • HIGH ENERGY - 現在の入場テーマ曲。
  • DO IT MYSELF / SUPER STUPID(旧入場曲、現在はWRESTLE LANDで使用)
  • STRANGE(旧入場曲)

決め台詞

  • 「○○(新日本プロレスファン、開催地名など)の皆さん、愛してま〜す」
自分がピンフォール勝ちやギブアップなどを奪い勝利した際に言う台詞。当初はメインイベントやタイトルマッチのみ発言したが徐々に発言の機会を増やしていった。
近年ではマイク無しでポーズのみ決めるサイレントバージョンが存在する。
インディー界では大日本アブドーラ小林がオマージュでこの台詞を使っており、後のサムライTVでの対談にて公認している。
角田龍平のオールナイトニッポン(ニッポン放送)にてジングルのドナリに上記の肉声使用。
  • 「俺の進化が止まんねぇ〜」
  • 「100年に1人の逸材、棚橋弘至です!」
自己紹介の際。
  • 「まぁ俺のカッコ良さは反則だけど」
反則攻撃を喰らった後、文句を言ってからの捨て台詞。
  • 「俺はチャラいけど○○(自分への誉め言葉、果たす公約など)」
  • 「お前の罪を数えろ!」
など仮面ライダーWのセリフ。特に矢野通との抗争時に多用し、煽りPVでは棚橋のこの台詞に矢野が「テメェで数えろ!」と言い返すという編集が行われている。
  • 「○○にキター!!」
仮面ライダーフォーゼのセリフ。○には地名などが入る。
  • 「俺、生まれてから一回も疲れた事無いから」
主にハードな試合後に言う。

また、セリフではないが入場時、試合終了後にエアギター(音は仮面ライダー響鬼轟鬼雷電激震)をすることがある。

タイトル歴

新日本プロレス

全日本プロレス

プロレスリング・ノア

CMLL

プロレス大賞

  • 2007年度プロレス大賞 殊勲賞
  • 2009年度プロレス大賞 最優秀選手賞
  • 2011年度プロレス大賞 最優秀選手賞

脚注

  1. ^ ただし前述の東京スポーツの対談においては、学生時代のリングネームとされている「ターナー・ザ・インサート」と棚橋が同一人物かどうかについては明言を避けている。
  2. ^ 東京地方裁判所/平成14年(合わ)第620号平成15年6月11日判決文より
  3. ^ 最終的に棚橋、内藤ともに勝ち点が並んだが、『G1クライマックス』予選リーグの規定で、「勝ち点が並んだ場合は直接対決の勝者が上位となる」と決まっているため。
  4. ^ 日本人で獲得したのは初

関連項目

外部リンク