ヴィム・ヴェンダース

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ヴィム・ヴェンダース
Wim Wenders
Wim Wenders
本名 エルンスト・ヴィルヘルム・ヴェンダース
Ernst Wilhelm Wenders
生年月日 (1945-08-14) 1945年8月14日(78歳)
出生地 連合国軍占領下のドイツ
ノルトライン州英語版
デュッセルドルフ
職業 映画監督脚本家プロデューサー
ジャンル 劇映画ドキュメンタリー
活動期間 1967年 -
配偶者 Edda Köchl (1968年 - 1974年
リサ・クロイツァー (1974年 - 1978年
ロニー・ブレイクリー1979年 - 1981年
Isabelle Weingarten (1981年 - 1982年
ドナータ・ヴェンダース (1993年 - )
公式サイト 公式ウェブサイト
主な作品
さすらい
パリ、テキサス
ベルリン・天使の詩
 
受賞
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール
1984年パリ、テキサス
審査員グランプリ
1993年時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!
監督賞
1987年ベルリン・天使の詩
「ある視点」部門 特別賞
2014年セバスチャン・サルガト/地球へのラブレター
国際映画批評家連盟賞
1976年さすらい
1984年 『パリ、テキサス』
エキュメニカル審査員賞
1984年 『パリ、テキサス』
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1982年ことの次第
国際映画批評家連盟賞
1972年ゴールキーパーの不安
1982年 『ことの次第』
1995年愛のめぐりあい
ユネスコ連盟賞
2004年ランド・オブ・プレンティ
ロベール・ブレッソン賞
2002年
ベルリン国際映画祭
銀熊賞(審査員賞)
2000年ミリオンダラー・ホテル
名誉金熊賞
2015年
ヨーロッパ映画賞
監督賞
1988年 『ベルリン・天使の詩』
ドキュメンタリー賞
1999年 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
2011年 『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち
全米映画批評家協会賞
ドキュメンタリー映画賞
1999年『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
ニューヨーク映画批評家協会賞
ドキュメンタリー映画賞
1999年『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
ロサンゼルス映画批評家協会賞
外国語映画賞
1988年 『ベルリン・天使の詩』
ドキュメンタリー賞
1999年 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
放送映画批評家協会賞
ドキュメンタリー賞
1999年『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
英国アカデミー賞
監督賞
1984年 『パリ、テキサス』
ゴヤ賞
長編ドキュメンタリー賞
2007年『Invisibles』
セザール賞
ドキュメンタリー賞
2014年『セバスチャン・サルガト/地球へのラブレター
ブルーリボン賞
外国語作品賞
1988年『ベルリン・天使の詩』
その他の賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
ドキュメンタリー映画賞

1999年『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
備考
第42回カンヌ国際映画祭 審査委員長(1989年)
第65回ヴェネツィア国際映画祭 審査委員長(2008年)
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ベルリンにあるヴェンダースのスター

ヴィム・ヴェンダースWim Wenders, 1945年8月14日 - ) は、ドイツ映画監督

経歴

1945年8月14日デュッセルドルフで医者の息子として生まれ、冷戦下の西ドイツで育った。米国に憧れ、子供時代はアメリカンコミックスに夢中だった。ギムナジウム卒業後、大学では1963年から1964年まで医学を、1964年から1965年まで哲学を専攻したが、いずれも断念した。1966年10月に画家を志してパリへ引っ越した。しかし、高等映画学院 (IDHEC) の入試に失敗。その後、モンパルナスにあるJohnny Friedlaenderのスタジオで彫刻を学んだ。この頃、1日5本以上もの映画を観る生活を送っていた。旧作を上映する「シネマテーク・フランセーズ」の常連になり黒澤明監督作品など1千本以上の名作を鑑賞した[1]1967年ユナイテッド・アーティスツのデュッセルドルフ・オフィスで働くためにドイツに帰国。同年秋にはミュンヘンテレビ・映画大学 (Hochschule für Fernsehen und Film München, HFF) に入学。1970年まで『FilmKritik』誌や『南ドイツ新聞』、『Twen magazine』誌、『デア・シュピーゲル』誌で映画批評を執筆した。また、1967年からは映画監督としての活動を開始し、1969年までの3年間で『警察映画』(1969年)や『アラバマ:2000光年』(1969年)、『3枚のアメリカのLP』(1969年)など8本の短編映画を製作した。

1970年、16ミリモノクロによる初の長編『都市の夏』を監督。1972年、友人でもあるペーター・ハントケの同名小説を映画化した『ゴールキーパーの不安』を発表し、第32回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけている。1974年アメリカからオランダへと旅する青年と少女を描いた『都会のアリス』を発表。翌1975年には戦後ドイツを表象した『まわり道』を発表。1976年の『さすらい』は即興演出によりロードムービーの頂点を極めた作品と評価され、カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞した。これら3作品は「ロードムービー三部作」と呼ばれる。また、これらの作品により、フォルカー・シュレンドルフヴェルナー・ヘルツォークライナー・ヴェルナー・ファスビンダーらとともにニュー・ジャーマン・シネマの旗手として一躍注目されるようになった。

その後、一時は作風を変え、パトリシア・ハイスミスの小説を映画化した『アメリカの友人』(1977年)や死期近いニコラス・レイの姿を映した『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1980年)などを発表した。1982年にはフランシス・フォード・コッポラの依頼を受け、ゾエトロープ社が製作した『ハメット』の監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断され、ヴェンダースはこの期間にポルトガルにわたり、映画製作の現場を舞台にした『ことの次第』を製作。同作は第39回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。1984年サム・シェパードの脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『パリ、テキサス』を発表。第37回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した。翌1985年には敬愛する小津安二郎に捧げたドキュメンタリー東京画』を製作。1987年、10年ぶりにドイツで製作したファンタジーベルリン・天使の詩』を発表。第40回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。1989年にはファッションデザイナー山本耀司に関するドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』を発表した。

1991年、念願の企画だったSF大作『夢の涯てまでも』を発表。1993年には『ベルリン・天使の詩』の続編となった『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』を発表。第46回カンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞した。1995年ミケランジェロ・アントニオーニの指名を受け、彼の13年ぶりの長編『愛のめぐりあい』の一部を監督した。1997年には映画と暴力の関係を扱った『エンド・オブ・バイオレンス』を発表。1999年の音楽ドキュメンタリー『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』はヨーロッパ映画賞ロサンゼルス映画批評家協会賞のドキュメンタリー映画賞を受賞するなど高く評価された。

2000年U2ボノの原案を元にした『ミリオンダラー・ホテル』を発表。第50回ベルリン国際映画祭審査員賞を受賞した。2003年にはマーティン・スコセッシのプロジェクトの一環として音楽ドキュメンタリー『ソウル・オブ・マン』を製作した。2004年には9.11以降のアメリカを舞台にした『ランド・オブ・プレンティ』を発表した。翌2005年には『パリ、テキサス』以来およそ20年ぶりにサム・シェパードと組んだ『アメリカ、家族のいる風景』を発表した。同年にはロカルノ国際映画祭名誉豹賞を受賞した。2008年にはデニス・ホッパーが死神役で出演した『パレルモ・シューティング』を発表した。

2011年、20年にわたって企画を練っていたピナ・バウシュに関するドキュメンタリー『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を発表。翌2012年第84回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年ジュリアーノ・リベイロ・サルガドと共同製作したドキュメンタリー『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』を発表。第67回カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品され、特別賞を受賞した[2]2015年第65回ベルリン国際映画祭名誉金熊賞を授与された[3]。同年、自身初の3D映画誰のせいでもない』を発表。

2012年、「映画、写真などのライフワークをまとめ、一般の人がアクセスできるようにする」ため、写真家の妻、ドナータとともにヴィム・ヴェンダース財団を設立し、20本の映画を復元、デジタル化した[1]

2017年6月にはベルリン国立歌劇場の指揮者ダニエル・バレンボイムの依頼で、ジョルジュ・ビゼー作曲《真珠とり》(主演パトリツィア・チョーフィ)でオペラ演出家としてデビューした。

2022年9月15日、ロードムービーの第一人者として第33回高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した[1] [4]

写真展「尾道への旅」

2006年4月29日から5月7日にかけて、東京・表参道ヒルズ本館地下3階のオー「O」で開催された。

写真家である妻のドナータ・ヴェンダースと共に、京都から尾道鞆の浦直島へ旅をした道中の、古都や瀬戸内の原風景を収めた写真を展示した。作風としてはヴィムが風景を、ドナータがモノクロ写真での人物を表現した。日立造船向島西工場跡地の『男たちの大和』のロケ地での写真も展示された。

また、高橋栄樹によるドキュメンタリー作品も製作された。『東京物語』の第二の舞台となった尾道の風景とともにヴェンダースによる尾道へのオマージュを表現したもので、『東京物語』に登場する浄土寺の裏山を登るシーンも記録されている。

作品

長編

短編

製作

脚注

  1. ^ a b c 第33回世界文化賞に6氏 高松宮殿下記念 ヴェンダース氏ら『産経新聞』2022年9月16日。
  2. ^ THE SALT OF THE EARTH - Festival de Cannes 2014”. Cannes. 2014年11月1日閲覧。
  3. ^ BERLINALE 2015: HOMAGE AND HONORARY GOLDEN BEAR FOR WIM WENDERS”. Berlinale. 2014年11月1日閲覧。
  4. ^ ヴィム・ヴェンダースなど5部門6名の受賞者発表!第33回「高松宮殿下記念世界文化賞」”. スクリーンオンライン (2022年9月16日). 2022年9月17日閲覧。
  5. ^ “ベンダース7年ぶり劇映画「誰のせいでもない」11月公開 J・フランコら豪華キャスト共演”. 映画.com. (2016年8月23日). http://eiga.com/news/20160823/7/ 2016年8月23日閲覧。 

関連項目

外部リンク