日本橋 (東京都中央区の橋)

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日本橋
Nihonbashi 12.jpg
基本情報
日本の旗 日本
所在地 東京都中央区
交差物件 日本橋川
用途 道路橋
路線名 国道1号標識 国道1号
管理者 国土交通省関東地方整備局東京国道事務所
設計者 米元晋一樺島正義
竣工 1911年明治42年)
開通 1911年(明治42年)4月3日
座標 北緯35度41分1.4秒 東経139度46分27.7秒 / 北緯35.683722度 東経139.774361度 / 35.683722; 139.774361 (日本橋)
構造諸元
形式 アーチ橋
材料
全長 49 m
27.3 m
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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日本橋(にほんばし)は、東京都中央区日本橋川に架かるアーチ橋

概要[編集]

日本橋は、東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋である。現在の橋梁は1911年に完成し、国の重要文化財である。また、日本道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。日本橋の名の由来について、江戸時代の『府内備考』で「此橋江戸の中央にして諸国よりの行程もここより定められるゝ故、日本橋の名あり」との記載が見られる[1]。「江戸日本橋」とも呼ばれる。

現在の橋は20代目に当たるとされる[2][3]。1903年(明治36年)の市区改正計画により、幅6間以上の橋梁は鉄橋もしくは石橋を架設することに定められたため、木造だった以前の橋(明治5年築)に替わり、大都市東京にふさわしい新たな橋として1908年(明治41年)に着工、1911年(明治44年)に完成した[4][5]。石造二連アーチ橋で、橋の長さ49メートル (m)、幅27.3 m、設計は東京市橋梁課長も樺島正義と主任技師の米本晋一による[6]。橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毫徳川慶喜のもの。大正天皇は、現在の石橋に架け替えられた2年後に当たる1913年(大正2年)の作とされる漢詩「日本橋」の中で、「日本橋」の名は日本の道路の起点として名に恥じぬふさわしい風格を備えているという意味の橋を賞賛する詩を詠んでいる[7]

路面電車(後の都電)を通すことが決まっていた路面はわずかにアーチを描き、橋脚と橋台は山口県産の名石、側面は真壁石、アーチ部分と道路の表面は稲田石を使っている。内部は、最も荷重の掛かる両端がコンクリートで、さほど荷重の掛からない中央部分が煉瓦[2]。推定寿命は1000年程度とされる[2]

装飾顧問は妻木頼黄、装飾制作は東京美術学校、青銅像の原型製作は渡辺長男が担当した。西洋的な基本デザインに、麒麟獅子の青銅像や一里塚を表す榎木を取り入れた柱模様など、日本的なモチーフを加えた和洋折衷の装飾になっている[4]。麒麟像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、奈良県手向山八幡宮狛犬やヨーロッパのライオン像などを参考にした獅子像は東京市の紋章を手にしている[4]

周辺の企業や住民が、名橋「日本橋」保存会 を組織して、橋の清掃などを行っている。

年表[編集]

江戸時代の日本橋 広重
1911年(明治44年)現在の橋の完成間もない頃
1933年(昭和8年)の日本橋
1946年(昭和21年)終戦直後

今後の予定[編集]

国土交通省は、日本橋上空を覆う首都高速道路の地下移設に向け、具体策の検討に入ることを決めた[11][12]。事業費は数千億円かかる見込みで、2020年東京オリンピックパラリンピック後の着工を目指している[13]。竣工は10〜20年かかる見通し。

道路元標[編集]

日本橋の中央に埋め込まれている日本国道路元標
日本橋 里程標(西日本方面)
日本橋 里程標(東日本方面)

戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていた。その場所は概して市役所県庁などとされていたが、首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標とした。道路元標の起源は、1604年(慶長9年)に徳川幕府が日本橋を五街道の起点と定め、全国の里程(りてい)の起点としたことによる[14][15]。明治以降も、1873年(明治6年)に、日本橋は諸街道の起点と定められ、橋の中央をもって国内諸街道の元標とされた[14]。1911年(明治44年)に現在の日本橋に架け替えられたときに、橋の中央に「東京市道路元標」が設置され、1972年(昭和47年)の道路改修が行われた際に、「東京市道路元標」が日本橋の北西側の袂(たもと)に移設され、その撤去跡に「日本国道路元標」が埋め込まれた[16]

現行の道路法では道路元標に関する規定はないが、50センチ四方のブロンズ製の日本国道路元標は、現在も橋の中央帯に埋め込まれている[16]。その裏側には当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれている。橋の北西側にある東京市道路元標の近くにレプリカが展示されており、そばに各都市への里程標が刻まれた黒御影石も設置されている[16]

現在、日本橋を始点としている一般国道は、以下の7本である[17]

橋の中央部が上記7本の国道の起点であり、国道1・15・20号が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号が北方向へ伸びている。日本橋近辺ではそれぞれ重複しているので、地図や標識では上位路線である国道1・4号の2本だけが案内されている[16]。うち、国道6・14号以外の5路線が江戸時代の五街道を引き継いでいる(区間は完全一致するものではない)。

日本橋からの距離(国道)の項も参照」

江戸時代も古くから道路の始点であった日本橋の周辺には、早くから商店が軒を連ねていた。現在も、三越髙島屋などの百貨店が存在する。

首都高速道路の建設と日本橋の関係[編集]

道路元標の直上の首都高速にある道路元標地点碑

首都高速都心環状線は、1964年東京オリンピックに間に合わせるために日本橋の上空に道路高架橋を建設する計画がなされた」と言われることがあるが、実際の時系列は下記のとおりであり、オリンピック招致可決以前に日本橋川を首都高速が通ることは決まっていた[18]

  • 1953年(昭和28年)4月 : 慢性的な交通渋滞の緩和を目指し、「首都高速道路に関する計画」を首都建設委員会が勧告。路線網(5路線49km)は現在のように河川や公有地の上を通過するものではなかった。
  • 1957年(昭和32年)7月 : 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を発表。「路線の経過地の選定にあたっては市街地の土地利用を考慮し原則として家屋の密集地を避け、つとめて不利用地、治水利水上支障のない河川又は運河を使用する」とされた。
  • 1957年(昭和32年)11月 : 東京都都市計画高速道路調査特別委員会が首都高速道路網計画を策定、報告。首都高速の当初の路線網はこの段階で概ね決定された。ただし、日本橋の下を首都高速が通り、6号線は江戸橋ジャンクションから小船町、浜町を経由して両国に至るルートであった。
  • 1958年(昭和33年)4月 : 国会でオリンピック東京招致決議案を可決。
  • 1958年(昭和33年)7月 : 首都圏整備委員会が首都高速道路網計画を含んだ首都圏整備計画を決定、告示。
  • 1958年(昭和33年)12月 : 東京都市計画地方審議会が首都高速道路計画を一部保留して付議どおり議決し、建設大臣に答申。
  • 1959年(昭和34年)2月18日 :朝日新聞「都の高速道路計画反対へ 中央区議会」と報じる。
  • 1959年(昭和34年)4月8日 : 首都高速道路公団法が可決、成立。
  • 1959年(昭和34年)5月26日 : 東京オリンピック開催決定。
  • 1959年(昭和34年)6月17日 : 首都高速道路公団設立。
  • 1959年(昭和34年)8月7日 : 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

1957年(昭和32年)段階では、「外濠と日本橋川を利用する区間については神田川との治水上の関連を慎重に検討のうえ可能ならば河床を通すこととし、もし困難な場合は高架方式又はその他の方法を検討し採用する。」[19]とされたが、1958年(昭和33年)9月の狩野川台風による都市型水害が発生したことを踏まえ、日本橋川付近は河積を確保するために高架構造とした[20]。首都高速道路公団理事であった西畑正倫は「名橋日本橋の風致を阻害しないよう、地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望されたが、日本橋の河積を狭めることは殆ど不可能なので、現状で折り合って戴いた。」[21]と記している。

首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月に橋梁設計会社20社から広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした[22]。そのデザイン案では、アーチ型や梯型ラーメン橋等のものがあった。そのパースのうちのいくつかが「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」[23]に掲載されている。

上記「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」では、「日本橋には高い道路元標や街燈があり、地元の要望等により取壊しが不可能のため、高速道路は上り下り車線を分離せねばならなかった(元標等を高速道路がオーバーする為には縦断勾配がここで山になり交通上支障となり又車線を分離しないと既存街路の採光上問題となる)」としている。

完成した首都高速について、当時は「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」[24]等と評された。また1964年(昭和39年)7月に発行された首都高速道路開通記念切手の意匠には「日本橋付近の高速道路」が選ばれた。

名橋「日本橋」保存会副会長である細田安兵衛は、日本経済新聞のインタビューにおいて「建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか」との問いに対し「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ。」と答えている[25]。一方で細田は、対談「21世紀の日本橋を考える」において「日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かった」「この点は反省部分がありますね」[26]と地元では反対はあったが弱かった旨語っている。

当時の報道では、「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは絶対反対、すれすれでよいから日本橋の下を通るべきだ」[27]と地元の絶対反対との声を紹介している。

東京都建設局において首都高速道路の計画にあたっていた 山田正男は、「昭和33年のたしか12月29日だな。34年度の予算を国会に間に合わすために首都高速道路計画を早く都市計画として決めないといかん。予算編成に間に合わないと首都高速道路公団法が提案できない。そこで12月の25、6日頃でしたか、計画を決めるため都市計画審議会を開いた。そして、中央区を通過する1号線の一部だけ保留して計画を決めたんですよ。そしたら御用納めの翌日に、石島さん(引用者注:石島三郎東京都会議員)から日本橋公会堂にお呼び出しを受けたわけです。そしてだいぶ反対派の罵詈雑言を浴びましたがね。」とオリンピック決定前における地元の反対状況を語っている[28]

なお、首都高速道路公団理事長(当時)神崎丈二は、対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」[29]において「高松宮様から東京都知事をとおして、日本橋はどうにかならないものだろうか-とお話がありました」と明かしている。

首都高速道路6号線は、当初の都市計画決定では江戸橋ジャンクションから小船町、浜町を経由して両国に至るルートであったが、「芳町-浜町間を道路にすれば人家約二百軒が整理が必要となる」「移転はまっぴら」[30]とオリンピック決定前から地元は反対していた。そのため「この大きな犠牲を極力回避するよう地元関係権利者の人達より叫ばれていた」「都の関係局が種々検討した結果、日本橋川、箱崎川等にルートを変更した」[31]として、1970年(昭和40年)3月6日に都市計画決定を変更する告示がなされた。江戸橋ジャンクション以東の首都高速道路は、東京オリンピック終了後に、地元の反対に基づき、日本橋川の上空を通るように変更された。

文化財としての日本橋[編集]

現在の日本橋(第20代)は1999年(平成11年)5月13日国の重要文化財(建造物)に指定されている。しかし首都高速道路(具体的には都心環状線江戸橋出入口呉服橋出入口の間)に覆われてしまっている現状から、都市景観の在り方を含めた多くの議論を抱える[注釈 9]2006年(平成18年)には奥田碩日本経団連会長らによる有識者会議である「日本橋川に空を取り戻す会(日本橋みち会議)」が、首都高速道路を地下に移設(江戸橋ジャンクションから竹橋ジャンクションまで[32])して周辺を親水公園などに造り変えるという再開発構想をまとめた。小泉純一郎首相(当時)もこの構想を後押しする発言をしている[33] が、試算5000億円といった莫大な費用が見込まれることもあり、石原慎太郎東京都知事(当時)は反対し、「日本橋の方を移転させるべし。橋さえあればいいんだから。これが小説家の発想」と発言している[34]

レプリカ[編集]

江戸時代の日本橋の北側部分を原寸で復元したものが江戸東京博物館に常設展示されている。東京国際空港(羽田空港)国際線ターミナル内には「はねだ日本橋」という半分のサイズの橋がある。東映太秦映画村日光江戸村にも小型の日本橋がある。

交通[編集]

隣の橋〈日本橋川〉
(上流)西河岸橋 ― 日本橋江戸橋(下流)

日本橋からの距離(国道)[編集]

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ギャラリー(日本橋)[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 日本橋の焼失が記録されているのは明暦3年(1657年)、天和2年(1682年)、元禄11年(1698年)、正徳元年(1711年)、享保元年(1716年)、安永元年(1772年)、文化3年(1806年)、文政12年(1829年)、弘化3年(1846年)、安政5年(1858年)である。そのうち正徳元年(1711年)と安政5年(1858年)が半焼で、残りの8回は全焼であった。 - 西山松之助「火災都市江戸の実体」『江戸町人の研究 第5巻』同編、吉川弘文館1978年、57頁
  2. ^ 東海道は国道1号途中の京都府京都市終点。
  3. ^ 日光街道は国道4号途中の栃木県宇都宮市から国道119号に切り替わる。
  4. ^ 奥州街道は国道4号途中の福島県白河市終点。
  5. ^ 水戸街道は国道6号途中の茨城県水戸市終点。
  6. ^ 中山道は国道17号途中の群馬県高崎市から国道18号へ切り替わり、その先も複数の国道・県道を通じて終点へ至る。
  7. ^ 甲州街道は国道20号途中の長野県諏訪郡下諏訪町が終点。
  8. ^ 国道20号は長野県諏訪郡下諏訪町から終点まで中山道の一部を担う。
  9. ^ 2005年(平成17年)12月に「美しい景観を創る会」(代表:伊藤滋早稲田大学教授〉)によって「悪い景観百景」の第1弾七十選の一つにも選定された。この一方、「日本橋よりも、日本の高度な土木技術史の象徴となった首都高速道路の方が歴史的価値が高い」との五十嵐太郎東北大学助教授)からの反論がある[2006年(平成18年)11月20日付 読売新聞]。

出典[編集]

  1. ^ 武部健一 2015, p. 165.
  2. ^ a b c 奇跡の地球物語 日本橋〜世界に誇る名橋の真実〜. テレビ朝日ネットワーク. テレビ朝日. 2011年3月20日放送.
  3. ^ 佐藤健太郎 2015, p. 74.
  4. ^ a b c 日本橋の麒麟像 東京都公文書館
  5. ^ a b c d 日本橋架橋百周年 竹内誠(東京都江戸東京博物館館長)、『まち日本橋』第6号、2011年04月
  6. ^ 松村博 1998, pp. 77.
  7. ^ 武部健一 2015, pp. 165–166.
  8. ^ 日本橋トポグラフィ事典編集委員会・武田勝彦『日本橋トポグラフィ事典』本編「日本橋の市電」、2007年、259頁。
  9. ^ 日本橋川・日本橋”. 日本橋川・亀島川・隅田川の徒歩と舟の旅. 2011年1月14日閲覧。
  10. ^ [けいざいフラッシュ:日本橋を洗って再生]毎日jp 2010年10月25日
  11. ^ “日本橋周辺のまちづくりと連携し、首都高速道路の地下化に向けて取り組みます。” (プレスリリース), 国土交通省道路局, (2017年7月21日), http://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000863.html 2017年7月22日閲覧。 
  12. ^ “日本橋周辺のまちづくりと連携し、首都高速道路の地下化に向けて取り組みます。” (プレスリリース), 東京都都市整備局, (2017年7月21日), http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/07/21/05.html 2017年7月22日閲覧。 
  13. ^ “日本橋の真上を走る首都高が地下に 費用は数千億円(17/07/21)”. ANNニュースYouTube ([[オールニッポン・ニュースネットワーク|]]). (2017年7月21日). https://www.youtube.com/watch?v=gShEbB8W1nw 2017年7月21日閲覧。 
  14. ^ a b ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 47.
  15. ^ 佐藤健太郎 2015, pp. 73–74.
  16. ^ a b c d ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 48.
  17. ^ 佐藤健太郎 2015, p. 73.
  18. ^ 東京都『東京都市高速道路の建設について』1959年(昭和34年)4月 などから作成
  19. ^ 1957年(昭和32年)11月 : 東京都都市計画高速道路調査特別委員会による首都高速道路網計画の報告「附帯意見」3
  20. ^ 古川公毅『首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究』東京大学博士論文p.45
  21. ^ 西畑正倫『首都高速1・4号線の開通に当って』「高速道路と自動車」1964年(昭和39年)9月号p.27
  22. ^ 西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫『江戸橋インターチェンジについて』「道路」1964年(昭和39年)7月号p.517
  23. ^ 西野 祐治郎・前田 邦夫『日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について』「道路」1961年(昭和36年)6月号p.427以降
  24. ^ 1964年(昭和39年)1月1日付朝日新聞「正月特集」1面
  25. ^ 「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く|オリパラ|NIKKEI STYLE”. 日本経済新聞 (2017年9月11日). 2020年8月22日閲覧。
  26. ^ 「日本橋架橋80周年記念誌」 明橋「日本橋」保存会pp.103-104
  27. ^ 1960年(昭和35年)4月13日付読売新聞「高速道路をめぐる地元の要望 中央の5地区」
  28. ^ 山田正男『明日は今日より豊か 都市よどこへ行く」政策時報社 1980年2月1日 p.238
  29. ^ 首都高速道路公団広報誌「首都高速」掲載
  30. ^ 1959年(昭和34年)2月23日付毎日新聞
  31. ^ 『6号線の変更と9号線の概要』首都高速道路公団広報誌「首都高速」掲載
  32. ^ http://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/15/s1.pdf
  33. ^ 日本橋の首都高を地下に 首相は具体化検討を指示”. 47NEWS (2006年9月15日). 2014年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月17日閲覧。
  34. ^ テリー伊藤 狸の皮算用「負の遺産として残せば? 日本橋の首都高、石原慎太郎さんは「日本橋をずらせばいい」だって(1/2)夕刊フジ2017年8月2日

参考文献[編集]

  • 佐藤健太郎『国道者』新潮社、2015年11月25日。ISBN 978-4-10-339731-1
  • 武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6
  • ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。ISBN 4-309-49566-4
  • 松村博『日本百名橋鹿島出版会、1998年8月20日、初版。ISBN 978-4-306-09355-3

関連項目[編集]

  • ケルヒャー - 2011年4月の日本橋架橋100周年に合わせ、2010年10月にクリーニングプロジェクトを施行した。

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度41分01秒 東経139度46分28秒 / 北緯35.683734度 東経139.774362度 / 35.683734; 139.774362