水戸街道

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水戸街道

水戸街道(みとかいどう)は、江戸時代に定められた日本の幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つである。

概要[編集]

水戸街道は、江戸側の千住宿水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。

現在、水戸街道は国道6号東京都墨田区向島茨城県水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。国道6号の呼称については国道6号#歴史も参照。

水戸以北は岩城街道(または磐城街道)や岩城相馬街道と呼ばれ[1]、岩沼宿で奥州街道と合流し、仙台まで続いていた。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではあったが、奥州街道ほどには栄えなかったとされる。明治時代以降は、水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道と呼称するよう明治政府から通達が出された[2]

水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため国許である水戸と当主が居住する江戸との間で緊密に連絡を取りあう必要があった。このため街道筋には水戸徳川家専用の施設が多数もうけられていた。 また幕末百話によると宿場人足も水戸様御用を笠に着て横暴な振る舞いが多かった。

呼称[編集]

正確な年代の記録は残されていないが、江戸・水戸・平を経て岩沼(宮城県)に至る海岸沿いの街道は古くは鎌倉時代から浜街道と呼称され、江戸時代には全般的呼称として普及した[3]。江戸時代の常陸国における呼称は、「浜街道」よりも藩領型呼称が一般化した時代であることから、浜街道の水戸以南について、水戸城下町の本四町目[注釈 1]を起点に江戸方面を「江戸道中」といい、江戸・千住を起点に水戸方面を「水戸道中」といった[1]。道中は「街道」とも記されるようになると江戸街道・水戸街道となり、人によっては「海道」と書いたり統一性はなかったが、当時の藩内の人々の愛称として用いられており、明治・大正・昭和時代に公道名である陸前浜街道国道6号[注釈 2]と定められたあとも、そのまま人々に呼称が受け継がれた愛着性がみられる[4]

明治以後、茨城県や千葉県では、水戸市上市(旧県庁所在地)から東京・日本橋方面を「東京街道」とも呼んでいるが[注釈 3]、現代の国道6号の東京 - 水戸間の通称として「水戸街道」と旧建設省(現・国土交通省)では名付けている[6]

道標と記名[編集]

水戸街道の道標は、千住宿の分岐点にあった天明元年(1781年)「水戸海道」との表記のあるもの、新宿の水戸道と佐倉道の分岐点にあった安永6年(1777年)「水戸海道」との表記との表記のあるもの、現松戸市八ケ崎にある文化3年(1806年)紀年銘、「水戸街道」との表記との表記のあるもの、3基が確認されている[7]。さらには小金宿の本土寺参道との分岐点の「水戸道中」という道標も現存している。

これらの道標は公的に設置されたものでなく、民間人の設置によるものである。政府により、街道名や発着点を規定している記名は、明治5年太政官の布告による「陸前浜街道」のみである[8]

宿場町[編集]

  1. 千住宿東京都足立区
  2. 新宿(東京都葛飾区
  3. 松戸宿千葉県松戸市
  4. 小金宿(千葉県松戸市)
  5. 我孫子宿(千葉県我孫子市
  6. 取手宿茨城県取手市
  7. 藤代宿(茨城県取手市)
  8. 若柴宿(茨城県龍ケ崎市
  9. 牛久宿(茨城県牛久市
  10. 荒川沖宿(茨城県土浦市
  11. 中村宿(茨城県土浦市)
  12. 土浦宿(茨城県土浦市)
  13. 中貫宿(茨城県土浦市)
  14. 稲吉宿(茨城県かすみがうら市
  15. 府中宿(茨城県石岡市
  16. 竹原宿(茨城県小美玉市
  17. 片倉宿(茨城県小美玉市)
  18. 小幡宿(茨城県東茨城郡茨城町
  19. 長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)
  20. 水戸宿(茨城県水戸市)

関所[編集]

金町松戸関所[編集]

江戸時代、新宿と松戸宿の間を南下していた江戸川は、現葛飾橋の北方500mのあたり(現在は河原)に「金町松戸関所」が設置された。江戸幕府江戸防衛のために江戸川に架橋しなかったので対岸に渡るには渡し舟を利用していた。

明治に入ってから葛飾橋がかけられた。関所跡の碑が、葛飾橋西詰の東北東に残されているが、この石碑のある場所は厳密には関所があったところとは異なる。

この愛称が指定される国道6号の区間[編集]

  • 言問橋東交差点(東京都墨田区向島)~茨城県水戸市内
千葉県道路愛称名では、松戸市上矢切新葛飾橋から、我孫子市北新田大利根橋までの愛称としている[9][10]
(国道6号の通過市町村はこちらを参照。)

旧水戸街道[編集]

現国道6号水戸街道は明治以降に作られた新道の部分があり、ここでは旧道について解説する。

Nuvola apps kview.svg 地図外部リンク
水戸街道・旧道地図-東京都内
Searchtool.svg 全体図 江戸時代末期の旧道筋の地図。明治初期に作成された陸軍迅速側図に基づいて作成。
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  • 陸前浜街道途中左手本法寺に会沢正志斎の墓がある。神道式の戒名のない質素な墓である。
  • 陸前浜街道の古い道筋は千波湖近くのボウリング場裏に残る。偕楽園駅前の道路も同様であるため下り線のみの臨時駅の前に広い道路がある。
  • 本来の水戸街道に2箇所あったクランクは、現在でも新たな道が付加された形で残存している。
  • 石岡市泉町と水戸市元吉田町字一里塚の旧街道の両側に、一里塚が残存している[11]
  • 吉田神社前から右に折れかつての湿地帯を抜け、水戸市街(下市と呼ばれる下町)を流れる備前掘にかかる魂銷橋を渡ると水戸街道の終着点である。正確には魂銷橋は街はずれの高札場で、宿場としての水戸街道終点はさらに通りを進んだ所で石碑がある。-->

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 現在の水戸市本町二丁目。
  2. ^ 明治時代の国道表では、第十四号国道「東京より茨城県に達する路線」である。
  3. ^ 当時の『茨城県管内区画略図』(明治7年刊)や『茨城県議会史 第一巻』(昭和37年刊)の県道改修案に記されている[5]

出典[編集]

  1. ^ a b 長久保光明 1981, p. 11.
  2. ^ 長久保光明 1981, pp. 16-17.
  3. ^ 長久保光明 1981, pp. 9-11.
  4. ^ 長久保光明 1981, p. 12.
  5. ^ 長久保光明 1981, p. 17.
  6. ^ 長久保光明 1981, p. 15.
  7. ^ 山本光正 2013, p. 8.
  8. ^ 山本光正 2013, p. 9.
  9. ^ 道路愛称名”. 千葉県 (2010年12月16日). 2013年4月8日閲覧。
  10. ^ 水戸街道 (PDF)”. 千葉県. 2013年4月8日閲覧。
  11. ^ 長久保光明 1981, p. 8.

参考文献[編集]

  • 山本光正「海道・街道と交通路の名称」、『逓信総合博物館 研究紀要』第4号、逓信総合博物館、2013年、 1-9頁。
  • 長久保光明 『陸前浜街道地誌』 暁印書館、1981年10月25日、初版。ASIN B000J7PEB4

外部リンク[編集]