鮫川大橋

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鮫川大橋(さめかわおおはし)は、福島県いわき市鮫川にかかる国道6号常磐バイパス。当項目では旧道にあたる鮫川橋も扱う。

鮫川大橋[編集]

国道6号標識
国道6号標識

1973年昭和48年)1月に暫定2車線で開通した全長471mの桁橋である。南岸はいわき市錦町、北岸はいわき市植田町。福島県内の国道6号ではもっとも長い橋である。この橋は鮫川で最も下流に位置する。

2007年平成19年)度から4車線への拡幅工事が着工された。橋脚建設工事中の2011年3月11日東日本大震災による津波で被災。その後懸命の復旧により予定通り2013年4月7日に橋桁のボルト締結式がIHIインフラシステムの主催により執り行われ、2015年9月8日に上り線が開通。従来の橋が下り線となり4車線供用された。

鮫川橋[編集]

福島県道56号標識

鮫川橋(さめかわはし)は、鮫川大橋の700m程上流側にある福島県道56号常磐勿来線の橋である。北緯36度54分45.0秒 東経140度47分33.7秒 / 北緯36.912500度 東経140.792694度 / 36.912500; 140.792694 (鮫川橋)。全長386.5mの8径間連続鋼鈑桁橋である。2011年2月18日に車道部が完成、3月に歩道部が完成供用された。当橋梁のすぐ西にJR常磐線の鉄橋があり、また、橋梁取付部のため高低差があることから北岸の福島県道20号いわき上三坂小野線とは、北側にある交差点で分岐した後に鮫川橋と常磐線鉄橋をくぐりぬけ西方に抜ける線形になっている。

歴史[編集]

江戸時代から当時には陸前浜街道が通っていたが鮫川に架橋はなく、両岸の大島宿と植田宿との間は渡し船で往来が行われていた。1881年明治14年)12月に、船10隻を鉄線で結び、その上に板を渡した舟橋が架けられ、十船橋(とふねばし)と呼ばれていた。その後1902年(明治35年)3月に木橋の鮫川橋へと架け替えられた。

しかし、すぐ西側に1897年(明治30年)2月に開通したJR常磐線(当時は日本鉄道磐城線)鉄橋の橋脚により発生する水流により度々破損したことから、水害復旧事業として築堤を建設した上で1913年大正2年)に再び木橋として架け替えられた。

しかしその後も度々損傷したことから永久橋を求める声が高まり、1937年(昭和12年)より国道6号の舗装改良工事の一環として木橋から100m上流側に建設が始まり、1939年(昭和14年)7月24日に開通した。全長400m、幅員7.5mの19径間鉄筋コンクリートゲルバー橋。総工費は当時の価格で36万5000円。当時の石城郡内ではの平神橋に次いで2例目のコンクリート橋であり、以後20年間東北地方で最も長いコンクリート橋でもあった。従来からの木橋は大倉橋と以後呼ばれるようになり、当時の錦村民が対岸に向かう生活道路として利用された。戦後、モータリゼーションが進行し国道6号の交通量増加により歩行者の往来に危険があったため、1971年(昭和46年)3月に鮫川橋に幅員2.5mの人道橋が設置された。大倉橋は1982年(昭和57年)9月の台風により流出したが前述の人道橋設置のために掛け直されることはなかった。

常磐バイパス鮫川大橋開通後は国道6号から福島県道56号常磐勿来線として福島県に移管された。その後、建設から半世紀以上を経て老朽化が進んだことから、取付道路を含む900mを下流側に隣接した場所に新設することとなり、現在の鮫川橋が2002年(平成14年)度より着工され2011年2月18日に開通した。

それまでの道路敷地はポケットパークとして整備され、1961年(昭和36年)11月に建立された、歴代の鮫川橋建設に尽力した福島県議会議員安島重三郎、貴族院議員金成通(錦町に現在の呉羽化学の工場を誘致した人物である)、植田町長古川傳一を顕彰する鮫川晩照の碑、浜街道と白河道(現在の福島県道20号いわき上三坂小野線の一部)を示す道標、吉田松陰来歴の碑、植田町道路元標、錦村道路元標、地域の歴史を記した標板などが両岸に設置されている。

周辺[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯36度54分44.0秒 東経140度48分2.8秒 / 北緯36.912222度 東経140.800778度 / 36.912222; 140.800778