藤沢宿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤沢宿(ふじさわしゅく、ふじさわじゅく)は、東海道五十三次の6番目の宿場である。 神奈川県藤沢市にあった。

藤沢宿(歌川広重『東海道五十三次』より)
清浄光寺門前の遊行寺橋(大鋸橋)

概要[編集]

慶長6年(1601年)に東海道の宿場となった。後に戸塚宿川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となる。東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城桜田門八王子城玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。

清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線藤沢本町駅を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。

境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町[注釈 1](後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属した[1]

右上の浮世絵の背景に見られるように清浄光寺(通称:遊行寺)が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから絵の手前右手へ江の島道が約1(約4km)の距離で江の島に通じていた。また八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている白旗神社がある。幕末には70軒以上の旅籠があった。

本陣[編集]

延享2年(1745年)までは堀内本陣、その後は蒔田本陣があった。

藤沢御殿[編集]

藤沢御殿徳川将軍家の宿泊施設であり、旧藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあった。慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられた。表御門は南側、裏御門は東側にあった。徳川家康、秀忠、家光と30回近く利用されている。天和2年(1682年)まで設置。現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋、鷹匠橋、御殿辺公園などの地名が残る。

ふじさわ宿交流館[編集]

ふじさわ宿交流館

藤沢宿にある遊行寺橋のそばに藤沢市観光協会の「ふじさわ宿交流館」が2016年4月に開館して、藤沢宿の案内を行なっている。[2]

館内には、当時の藤沢宿の街並みを再現した100分の1スケールのジオラマや3次元CG [3] [4] が展示されている[5]

名所・旧跡・観光スポット・祭事・その他[編集]

名物[編集]

サザエアワビ、ひしこなます(しらす干し)、弁慶餅[6]

代官[編集]

以下は藤沢宿支配の歴代代官の一覧であるが、藤沢宿には代官所は存在しなかった。

最寄り駅[編集]

小田急江ノ島線 藤沢本町駅

隣の宿場[編集]

戸塚宿 - 藤沢宿 - 平塚宿

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大鋸町は戦国時代に後北条氏の支配下の「オガ引衆」(ノコギリを扱う職人)の頭(かしら)がいたことによる名称。「大鋸」は普通は「おが」と訓じられたが、「だいきり」とも読まれ、「大鋸町」は「だいきりまち」。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『鶏肋温故』(平野道治編著、天保13年(1843年))
  • 『我がすむ里』(小川泰二著、文政13年(1830年))
  • 児玉幸多 編『藤沢-わがまちのあゆみ-』(増補版)藤沢市文書館、1984年10月1日。 
  • 日本地名研究所 編『藤沢の地名』(第3版)藤沢市自治文化部市民活動課、1997年3月31日。 
  • 荒井秀規 編『東海道と藤沢宿 東海道宿駅制度四〇〇年記念』藤沢市教育委員会 生涯学習課 博物館準備担当、2001年11月13日。 

関連文献[編集]

  • 大石三紗子「江戸幕府伝馬制度と地域金融構造 : 東海道藤沢宿の分析を中心に」『交通史研究』第71巻、交通史学会、2010年、25-45頁、doi:10.20712/kotsushi.71.0_25 
  • 「大庭庄 藤澤宿」『大日本地誌大系』 第38巻新編相模国風土記稿3巻之60村里部高座郡巻之2、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179219/141 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度20分51.9秒 東経139度28分58.6秒 / 北緯35.347750度 東経139.482944度 / 35.347750; 139.482944